4~6世紀の頃の南朝鮮にあった馬韓、辰韓、弁韓の三韓のうち、韓国では
伽[イ耶]と言われる弁韓には、任那日本府があったという事になっています。

私の子供の頃には、学校で朝鮮半島の南側に大和朝廷が任那日本府と言う、
植民地を創った習いました。

これについては、いろいろな学説が議論され、韓国では日本府は九州に有っ
たと言う学説もあるようです。これについては、ともすれば、話が政治的に
なってきますが、そのことは抜きにして、今の学校教育では、任那日本府は
どういうふうに教えているか、先ずはそれだけ、回答願えないでしょうか。

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A 回答 (5件)

現在の教科書で任那日本府を前面に出して説明しているものはないようです。

加羅や伽耶諸国という説明でふれています。

せっかく手元に教科書があるので少し引用すると、

・「~はやくからかつての弁韓の地の伽耶諸国(加羅)*と密接な関係を持っていた倭国(ヤマト政権)も~」(山川出版社p22)
 *脚注として、統一国家ではなかったこと、『日本書紀』の「任那」の表現に言及。

・「大和政権は、そのころにも小国分立の状態が続いていた弁韓の地に勢力をのばし、これを任那*と称した。」(実教出版p43)
*脚注として、「加羅・伽耶」の表現の存在に言及。

・「弁韓はいぜん伽耶(加羅)*とよばれる小国連合体がつづいていた~伽耶や百済を足がかりにして、鉄などの資源や農業・土木・建築、各種の手工業の技術を手に入れようとするヤマト政権(倭)にとって~」(三省堂p19)
*脚注として、『日本書紀』の「任那」の表現に言及。

 実教の場合、この前の文脈として高句麗好太王碑文に見られる大和政権の半島進出が述べられているので、そのことも考慮すべきでしょうが、支配・植民地的な書き方はしていませんね。現在の研究段階でも交流レベルで指摘されているようですし。なかなかすっきりとしない難しい問題ですね。

この回答への補足

回答、有り難うございます。
以前に学校で社会科の先生をしていた人とその事について話し合った事がありました。
当時の大和朝廷に、本当に外国に植民地を経営するだけの軍事力や経済力があったのか。
ただ、当時、対馬海峡をさかんに人が行き来し、影響を与えあった事は確かだった。
辰韓が新羅に、馬韓が百済に統一されて行く中、弁韓は小国に分立したままで、新羅・
百済双方に遅れを取る不安があった。その弁韓が、自分達の統一を意味づけるバックボ
ーンとして倭の国があったのでは。そういうことを言ってました。

最近の考古学の研究では、伽[イ耶]と言われる弁韓は、元々、騎馬民族らしく馬韓、辰
韓とは別の文化圏をつくっていたようです。参考↓
<pre>
伽[イ耶]六国
魏志弁辰伝 |日本書紀        |現在比定地
弥烏邪馬  |[北]加羅(大伽[イ耶])  |高霊
半路    |伴跛          |星州
不斯    |比自休         |昌寧
安邪    |安羅          |咸安
古資弥凍  |古嵯(小伽[イ耶])    |固城
駕洛=狗耶 |南加羅(金官大伽[イ耶]) |金海
</pre>

補足日時:2005/04/19 22:48
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はじめまして!


私は知人に聞いてみましたが,おおよそNo.2の
le_marcheさんがいわれたような回答でした.
直接に教えてはいないが,注などで任那に言及する
ことがあるということです.

No.2への補足について
>当時の大和朝廷に、本当に外国に植民地を経営する
>だけの軍事力や経済力があったのか。

この点については,それだけの力があったのだろう
という意見でした.
その根拠は475年に今のソウル付近にあった百済の
都が高句麗に攻略されて百済が一時的に滅亡します
が,その後倭の力によって熊津で再興していること
から,その南に軍事基地をもったと推定されるそう
です.ちょうどこの時代に全羅南道に前方後円墳が
10基あまり建設されますが,百済はまだ弱体ですから
倭の貴族(将軍)のものと考えられるそうです.

この回答への補足

回答有り難うございます。
この問題は、どんな学説を唱えるにせよ、政治的に無色の立場だと、なかなか見なして
くれないのが難しい所です。
最近は、弁韓の伽[イ耶]の考古学研究も少しは進んできたようで、これについての発掘
物を展示した国立金海博物館も創設されたみたいです。

補足日時:2005/04/24 05:48
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任那日本府は今の学校教育では教えてないと思います。


理由は韓国に都合が悪いからでしょう。
あの国の歴史教科書はファンタジー小説ですし
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この回答へのお礼

回答、有り難うございます。
補足は"No.3"を見て下さい。

お礼日時:2005/04/19 23:02

現在進行形生徒です。



そういうものがあるというのを、今始めて知りました。
習いませんよ、そんなの。
例え教科書に書いてあっても習いませんね(苦笑)
考えてみてくださいよ、文化科学賞の御意向により授業時間削減と授業内容の倍増があったんで、細かいところまでやってられないんです。
「触ったことの無い教科書」なんて稀じゃありませんしね。小学校・中学校の経験では。

小学校ではかすりもしない。
中学校では仏教伝来・渡来人だけしか習ってないです。
ちなみに進学塾では「仏サンは百済から着ました」だけですな。
バリバリ(って言う表現でいいのかな)な進学塾だと(半端な気持ちだと死にますな、この塾で)「中国等の外交が緊迫したので九州に防人が派遣されました」くらいですかね。

どちらにせよ、義務教育課程では絶対知らない。
高校でも日本史は選択教科(だったはず)なので、習う人と習わない人といるのかもしれない。

この回答への補足

回答、有り難うございます。
任那日本府に対するとらえ方も、世代によって違ってくるようです。
最近は、「ゆとりの教育」とかで中学あたりまでは、「任那日本府」と言う言葉自体
、出てこないのでしょうかね。

補足日時:2005/04/19 22:53
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塾で教えています。



学校では、そこまでは教えていません。
以前にも習っていませんね。

ぼくも司馬遼太郎のエッセイなどから、大人になって知っただけですので、学校教育では、ほとんど教えていないのでは?
と思います。
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この回答へのお礼

回答、有り難うございます。
補足は"No.3"を見て下さい。

お礼日時:2005/04/19 22:59

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Q任那日本府は、現在は学校教育ではどういうふうに教えられていますか?

4~6世紀の頃の南朝鮮にあった馬韓、辰韓、弁韓の三韓のうち、韓国では
伽[イ耶]と言われる弁韓には、任那日本府があったという事になっています。

私の子供の頃には、学校で朝鮮半島の南側に大和朝廷が任那日本府と言う、
植民地を創った習いました。

これについては、いろいろな学説が議論され、韓国では日本府は九州に有っ
たと言う学説もあるようです。これについては、ともすれば、話が政治的に
なってきますが、そのことは抜きにして、今の学校教育では、任那日本府は
どういうふうに教えているか、先ずはそれだけ、回答願えないでしょうか。

Aベストアンサー

現在の教科書で任那日本府を前面に出して説明しているものはないようです。加羅や伽耶諸国という説明でふれています。

せっかく手元に教科書があるので少し引用すると、

・「~はやくからかつての弁韓の地の伽耶諸国(加羅)*と密接な関係を持っていた倭国(ヤマト政権)も~」(山川出版社p22)
 *脚注として、統一国家ではなかったこと、『日本書紀』の「任那」の表現に言及。

・「大和政権は、そのころにも小国分立の状態が続いていた弁韓の地に勢力をのばし、これを任那*と称した。」(実教出版p43)
*脚注として、「加羅・伽耶」の表現の存在に言及。

・「弁韓はいぜん伽耶(加羅)*とよばれる小国連合体がつづいていた~伽耶や百済を足がかりにして、鉄などの資源や農業・土木・建築、各種の手工業の技術を手に入れようとするヤマト政権(倭)にとって~」(三省堂p19)
*脚注として、『日本書紀』の「任那」の表現に言及。

 実教の場合、この前の文脈として高句麗好太王碑文に見られる大和政権の半島進出が述べられているので、そのことも考慮すべきでしょうが、支配・植民地的な書き方はしていませんね。現在の研究段階でも交流レベルで指摘されているようですし。なかなかすっきりとしない難しい問題ですね。

現在の教科書で任那日本府を前面に出して説明しているものはないようです。加羅や伽耶諸国という説明でふれています。

せっかく手元に教科書があるので少し引用すると、

・「~はやくからかつての弁韓の地の伽耶諸国(加羅)*と密接な関係を持っていた倭国(ヤマト政権)も~」(山川出版社p22)
 *脚注として、統一国家ではなかったこと、『日本書紀』の「任那」の表現に言及。

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Q任那は存在した???                       (日本側の任那存在説VS韓国側の任那非存在説)

日本側の主張
「宋書」「広開土王碑」「日本書紀」が証明する任那』


1、「宋書」
次の中国南北朝時代の「宋書」から倭の五王についての官位・爵位の記録を見て下さい。

421年 讃 叙爵
438年 珍 安東将軍・倭国王
443年 済 安東将軍・倭国王
451年 済 安東将軍・使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓6国諸軍事
462年 興 安東将軍
478年 武 安東大将軍・倭国王・使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓6国諸軍事

451年の倭王済及び478年の倭王武の記述に「任那」の文字があります。
当時、任那という地域が存在し、その「軍事」(当時の中国の官職)に「倭王」が任命されていたことを証明しています。

2、「広開土王碑」
広開土王碑には次のような記述も見られる。
曰く「大軍をもって新羅城を奪還すると、撤退する倭兵の背後から任那加羅まで急追していった」

3、「日本書紀」
日本書紀には、当時の倭国は朝鮮半島に大規模な軍事力を駐屯させており、任那日本府というのはその駐屯地などを兼ねた日本の朝鮮半島における拠点であった。
その後、百済・新羅などによって任那は軍事的圧力を受け続け、紀元562年に任那は新羅に滅ぼされています。(日本書紀、欽明天皇二十三年)


韓国側の主張

1、日本書紀の記述に関して「任那日本府を通じて、日本へ朝鮮半島からの文化が伝わった(要約)」ことが書かれているが、この中の「日本へ朝鮮半島から文化が伝わった」と言う部分だけを引用し、その前提となる「任那日本府」については虚偽であるとしている。

2、また、広開土王碑についても、旧日本軍の改竄説を主張して、論拠を否定している。

3、韓国では「宋書」から倭の五王についての官位・爵位の記録を認めていない。



任那は存在したと思いますか?

日本側の主張
「宋書」「広開土王碑」「日本書紀」が証明する任那』


1、「宋書」
次の中国南北朝時代の「宋書」から倭の五王についての官位・爵位の記録を見て下さい。

421年 讃 叙爵
438年 珍 安東将軍・倭国王
443年 済 安東将軍・倭国王
451年 済 安東将軍・使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓6国諸軍事
462年 興 安東将軍
478年 武 安東大将軍・倭国王・使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓6国諸軍事

451年の倭王済及び478年の倭王武の記...続きを読む

Aベストアンサー

宋書を見ても、任那が存在したのは確実です。いかに実態を伴わない称号とは言え、ありもしない国名を付けるわけはないですからね。

また任那がどこだったのかも、宋書を見ればわかります。倭王珍は、自ら「使持節都督・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東太将軍倭国王」と称していました。それに対して、百済からも朝貢を受けていた宋は、次の倭王済に対して「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東将軍」の称号を与えます。百済をはずすが、加羅を加えて同じ六国の王にするから我慢しろ、という訳です。

珍は既に実態の存在しなかった秦韓・慕韓を加えてまで国の数を水増ししていましたから、任那と加羅が全く別物なら、当然加羅も加えて「七国諸軍事安東将軍」を自称したはずです(実際、済の次の武はそうしています)。

これは、珍が任那=加羅と考えていたからに他なりません。任那は、加羅諸国連合の中心部分(おそらくは大伽耶+金官伽耶)を指す言葉だったのです。

ただ、任那「日本府」が実在したとは考えられません。宋書に書かれている通り、当時の正式な国名は「倭」であり「日本」ではなかったからです(日本という国名が正式に用いられるのは、天武天皇の時代以降です)。

宋書を見ても、任那が存在したのは確実です。いかに実態を伴わない称号とは言え、ありもしない国名を付けるわけはないですからね。

また任那がどこだったのかも、宋書を見ればわかります。倭王珍は、自ら「使持節都督・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東太将軍倭国王」と称していました。それに対して、百済からも朝貢を受けていた宋は、次の倭王済に対して「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東将軍」の称号を与えます。百済をはずすが、加羅を加えて同じ六国の王にするから我...続きを読む

Q「北条早雲」「聖徳太子」「任那日本府」は存在しなかった???

1)「北条早雲」と呼ばれている人物
名字は伊勢、名は長氏、あるいは盛時、通称は新九郎。
号は早雲庵宗瑞。または伊勢宗瑞。
正式な名のりは、平長氏、あるいは平盛時。
北条氏を称したのは子の氏綱の時であるので
従って、「北条早雲」は存在しなかった。


2)「聖徳太子」とは呼ばれている人物
本名は厩戸皇子。
別名、豊聡耳・上宮王とも呼ばれた。
『古事記』では上宮之厩戸豊聡耳命と表記される。
『日本書紀』では厩戸皇子のほかに豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王と表記されている。
聖徳太子という名は生前に用いられた名称ではなく、没後100年以上を経て成立した『懐風藻』にて初めて見られるものである。
従って、「聖徳太子」は存在しなかった。


3)「任那日本府」
『肥前風土記』(713年成立)松浦郡条に「任那日本府」が見え、
『日本書紀』(720年成立)崇神天皇条~天武天皇条に「任那日本府」が多く登場し、
『新撰姓氏録』(815年成立)に「任那」と見えている。
しかし、6世紀の正式な国名は「倭」であり「日本」ではなかった。
日本という国名が正式に用いられるのは、天武天皇の時代以降。
従って、「任那日本府」は存在しなかった。


以上の理屈により、現在は「北条早雲」「聖徳太子」「任那日本府」は歴史上存在しなかったという者がいます。
「北条早雲」と呼ばれている人物は歴史上存在しなかったのだから、伊勢宗瑞、あるいは平盛時と呼ぼうということです。
(韓国では「任那」の存在すら認めていませんが・・・)

あなたは以上の理屈は正しいと思いますか?
つまり「北条早雲」「聖徳太子」「任那日本府」は歴史上存在しなかったと思いますか?

1)「北条早雲」と呼ばれている人物
名字は伊勢、名は長氏、あるいは盛時、通称は新九郎。
号は早雲庵宗瑞。または伊勢宗瑞。
正式な名のりは、平長氏、あるいは平盛時。
北条氏を称したのは子の氏綱の時であるので
従って、「北条早雲」は存在しなかった。


2)「聖徳太子」とは呼ばれている人物
本名は厩戸皇子。
別名、豊聡耳・上宮王とも呼ばれた。
『古事記』では上宮之厩戸豊聡耳命と表記される。
『日本書紀』では厩戸皇子のほかに豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王と表記されている。
聖...続きを読む

Aベストアンサー

以前任那日本府について回答したものですが、主旨が伝わらなかったようですので補足します。

「日本という国名が正式に用いられるのは、天武天皇の時代以降。従って、任那日本府は存在しなかった。」というのは、単に言葉の遊びで言っているのではありません。

「日本(にほん、やまと)」という言葉は、天皇という唯一の主権の存在を前提とした国家」を表す言葉です。一方「倭(わ)」は単一政権の支配力が及ぶ範囲を示す言葉ではなく、「倭人の居留する区域」を意味します。ですから、狗奴国さえ支配できなかった卑弥呼にも「倭王」の称号が与えられたのです。倭人の中の有力者には違いないですからね。

「日本府(やまとのみこともち)」は「日本」という統一国家の「主権の及ぶ範囲」を意味します。しかし6世紀以前の倭は、倭王の下に有力部族が集結した共同体のようなもので、当時の「やまと」はその中心勢力ではあっても、倭人全体を示す言葉ではなかったのです。このことはヤマトタケルの「やまとは国のまほろば・・・」の国偲び歌をみても明らかです。

当時の朝鮮半島に倭人が多数居住し、また倭王に従った国や小邑があったことは十分に想定されることであり、だれも否定していません。ただ、それを統一国家という概念が形成された7世紀以降の判断基準でとらえてはいけない、ということです。

以前任那日本府について回答したものですが、主旨が伝わらなかったようですので補足します。

「日本という国名が正式に用いられるのは、天武天皇の時代以降。従って、任那日本府は存在しなかった。」というのは、単に言葉の遊びで言っているのではありません。

「日本(にほん、やまと)」という言葉は、天皇という唯一の主権の存在を前提とした国家」を表す言葉です。一方「倭(わ)」は単一政権の支配力が及ぶ範囲を示す言葉ではなく、「倭人の居留する区域」を意味します。ですから、狗奴国さえ支配でき...続きを読む

Q任那と加耶は同義語?

最近は,任那と加耶が同義語といわれることが多いようですが,そうなのでしょうか?加耶はほぼ今の慶尚道の洛東江以西を指していると思われます.任那4県はほぼ今の全羅南道(前方後円墳が認められる地域)にあたると聞いています.そうすると任那は慶尚道の洛東江以西から全羅南道までを含む地域名のように思えるのですがいかがでしょうか?できれば,この区別をはっきり述べた書籍か,論文を教えてください.

Aベストアンサー

微妙に違うとは思います。下記のURLに詳しく出ています。
また、私の大学時代の恩師、鈴木靖民氏が任那日本府に関する論文をかなり書いていますので、検索で拾って参照していただけるとうれしいです。

参考URL:http://www.yo.rim.or.jp/~eizo10/eizo-kodai/mimana-1.htm

Q任那日本府について

任那日本府について書かれたお薦めの書籍を教えて下さい。

日本書紀 現代語訳は読んでおります。

宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

大平裕 著
韓国が決して教えない歴史「知っていますか任那日本府」
PHP研究所発行

朝鮮の古文献三国史記と日本書紀と支那の三国志魏書弁辰伝、後漢書倭伝など多くの文献を対比させ解説、図と写真とをもって懇切丁寧に。

特に半島に残る12基だったかの前方後円墳については、韓国学者の自己流事実否定説を突っ込んで否定し詳しく解説がなされています。

是非ご一読を。

Q三韓の「韓」と、大韓の「大」

ウィキペディアによれば、汗と同じで「王」を意味するだとか、ほんの少しまえだと中国人の氏の一つである「韓」から採ったなどと記載されておりました。
三韓の韓とは、いったいどのような意味、歴史があるのでしょうか。大韓の大は、嘗て三韓が存在した地域を統べる国なので「大」をつけたと、聞いたことがありますが、大韓の大の由来はなんなのでしょうか。

Aベストアンサー

>三韓の韓とは、いったいどのような意味、歴史があるのでしょうか。

wiki見たらポロっと載ってるかと思ったのだけど見つかりませんでした。なので以下は私の想像でしかないので間違っているかも知れません。

中国人が他民族に名前をつけるときには、その民族の一人称を用いることが多かったことが知られています。日本も一人称を『わ』と称したと思われるために倭国と呼ばれています。三韓は馬韓・辰韓・弁韓のことですが、いづれも韓の字が付くことから一人称が韓(ハン)だったのかも知れません。ちなみにハンは読まれたwiki同様ですが、当時の中国の『漢』も、読みがハンです。(これが日本だけハンではなくカンと読まれるようになったのかという経緯は、面白いので調べてみることをおすすめ)
もしくは当時の漢(ハン)にあやかって自らの国も韓(ハン)とつけたのかも知れません。
ちなみに当時は今のソウルあたりまで漢の支配地域で、三韓はその南に位置していました。また半島の東側(日本海側)は別の国だったので、今と比べて非常に狭い地域だったようです。

ちなみに弁韓は辰韓と合併吸収されるような感じで消滅し、辰韓は後に辰の字を新に変え、新羅と呼ばれる国になります。馬韓は後の百済です。
この2国に北方に興った高麗(高句麗)を加えて三韓と称することが日本では一般的ですので、馬韓・辰韓・弁韓の三韓と(百済・新羅・高句麗の三韓とを)混同しないようにしてください。

大の字については、日本も同様のことをしていて、倭国が一つの大きな倭になったとして大倭とし、倭の字を好字の和に変えて大和としています。大和は今でも日本の別称として使われていますよね。

>三韓の韓とは、いったいどのような意味、歴史があるのでしょうか。

wiki見たらポロっと載ってるかと思ったのだけど見つかりませんでした。なので以下は私の想像でしかないので間違っているかも知れません。

中国人が他民族に名前をつけるときには、その民族の一人称を用いることが多かったことが知られています。日本も一人称を『わ』と称したと思われるために倭国と呼ばれています。三韓は馬韓・辰韓・弁韓のことですが、いづれも韓の字が付くことから一人称が韓(ハン)だったのかも知れません。ちなみにハ...続きを読む

Q任那日本府ってあったのですか?

そうであれば、ウクライナと同様に大枚をはたいて餌をつけ
住民投票で日本の領土としての良いのでは?

Aベストアンサー

現在の釜山辺りがそうだといわれています。
450年頃に百済や高句麗などと一緒に新羅に滅ぼされました。
この時が、朝鮮が始めて日本に戦争仕掛けた始めの時期です。
それまでは、邪馬台国の枢軸国でした。

その頃の朝鮮にいた日本人は奴隷とされて、秀吉の慶長の役の頃には、同化していたので、日本人でなくなっていいました。

日本固有だと言うのも手ですが、それを言い出すとまた狂いだしますよ?

Q狗邪韓国と弁辰狗邪国

魏志倭人伝を読んでいて気になったのですが、「其の北岸狗邪韓国に至る」の記述の狗邪韓国は、魏志弁辰伝の弁辰狗邪国のことだから倭地には含まれない、という解説を多数見かけました。

しかしその説が正しいとして対海国までが倭だと考えると、最も倭に近いのは弁辰狗邪国になりますが、魏志弁辰伝には「倭と界を接するのは弁辰toku廬國」と書かれていて、矛盾が生じてしまうと思います。

狗邪韓国と弁辰狗邪国が同一だと考える理由、もしくは国名の重複は無いと考える根拠はどこから来ているのでしょうか?

Aベストアンサー

矛盾だと声高に叫ぶ人がいることは確かですが、本当に矛盾でしょうか?
国というのは一列に並んでいるわけではなく、国境線は広がっているのですから、『界を接する』国が1対1でなければならないという理屈はどこにも存在しません。倭側は対馬が突出していますからこれは一意に決まりますが、相手側は複数でもかまいません。これが一点。

次に、一つの例として、今はなき青函連絡船を考えて見ます。これは青森港と函館港をつなぐ航路です。仮想的にここに古代の国があるとし、青森国と函館国をつなぐ航路としましょう。すると、本州から北海道にわたるには、まずはその航路の南岸である青森国につき、そこから青函連絡船で一海を渡ることになります。

ところが、北海道に一番近いのは恐山のある下北半島です。ですから、下北半島が青森国とは別の恐山国である場合には、界を接しているのは青森国ではなく恐山国となります。また、津軽半島も別の国だったとすると、津軽国もまた界を接しています。したがってこの場合には、航路の南岸は青森国ですが、界を接しているのは恐山国と津軽国です。これで矛盾はどこにもありません。

狗邪韓国と考えられている金海は(現在では)内陸に入り込んだところに位置していますので、そこより対馬に近いところにトク廬國があったとして何の問題もないことになります。

矛盾だと声高に叫ぶ人がいることは確かですが、本当に矛盾でしょうか?
国というのは一列に並んでいるわけではなく、国境線は広がっているのですから、『界を接する』国が1対1でなければならないという理屈はどこにも存在しません。倭側は対馬が突出していますからこれは一意に決まりますが、相手側は複数でもかまいません。これが一点。

次に、一つの例として、今はなき青函連絡船を考えて見ます。これは青森港と函館港をつなぐ航路です。仮想的にここに古代の国があるとし、青森国と函館国をつなぐ航路とし...続きを読む

Q古代朝鮮には「任那(みまな)」があった

日本の文科省文化庁がホームページで朝鮮半島由来の文化財について「任那(みまな)時代」と表記したり、検定合格した中学校教科書に「任那日本府」が記載されたりしているとして、韓国の李完九首相は「 事実に基づかない歴史歪曲をしてはならない。真実を隠すことはできず、厳しい歴史の評価を受けるだろう 」と日本政府を批判したという。

  しかし、ご批判をそっくり、そちらへお返ししようではないか。韓国政府こそ、”事実”に基づかない歴史歪曲をするな。歴史上の”真実”を隠蔽することはできないのだ。後世において韓国は厳しい歴史評価を受けるだろう。

  「任那(みまな)」という地域は、間違いなく古代朝鮮半島の南部に存在しました。その客観的証拠として、
1、日本の正史「日本書紀」の記述〔日本書紀:西暦720年に完成〕
2.高句麗が建立した好太王碑(広開土王碑とも)の碑文〔好太王碑:西暦391年に建立〕
3.中国の正史「宋書」の記述〔宋書:西暦488年に完成〕
などがあります。

Aベストアンサー

賛否はありますが、日本書紀の記述の全てが間違っているということは
難しいと考えます。
日本書紀を否定する韓国側は、この時代の文献が1145年に完成した
「三国史記」が最古であり、「当時は日本より朝鮮の国力が上」と
考えているようです。



日本書紀の記述での「日本府」の初見は、雄略紀8年(464年)2月条で
新羅が高句麗に攻められて任那王に使者を送り日本府の救援を要請したもので、
「当時は日本という国号が無かった」という意見があります。
私見では、当時の「日本」の読みは「やまと」であり、編纂時に
「日本」の字を用いたと考えます。

「日本府」の記載は欽明朝(539~571)に集中していますが、
「三国史記」には一切記載がありません。
ところで、伽耶滅亡についてみると、
日本書紀では欽明紀23年(562)年正月、「新羅が任那の宮家を滅ぼした」
とされています。(別本では欽明21年の記述あり)
「三国史記」では、9月条に「伽耶が叛いたので討伐した」の記述があります。
(マナー違反ですが、応神天皇は15代で欽明天皇は29代です)

中国の記述にも「倭の五王」である「珍」が宋に朝貢して
任那等の王と称して任命するよう求めた記述などがあり、
地域としての「任那」が存在することは否定できないはずです。



当時の資料が少ないので諸説ありますが、現在の考えとして
「日本が任那を支配した」という考えは疑問が多く、
「任那に日本の外部機関があった」
「任那・伽耶連合が日本の影響下にあった」
「任那・伽耶連合が日本と同盟関係にあった」
「百済の任那経営担当であった木羅斤資の子孫が日本に渡り、
 それを根拠として経営を担当したことにした」
などの説があり、当時の資料における記述が自国中心に記載されていると
考えられる点などから、日本の影響力は限定的であったと考えます。
しかし、まともな研究者が「任那が存在しなかった」と主張することはありません。
「日本府」をはじめとする日本の影響力についての議論は、
いまだに結論が出ていません。



さて、近年「日本軍が広開土王碑を改竄した」という説がありましたが、
その根拠とされる「酒匂拓本」より古い拓本が見つかり、
現在では日本軍の改竄説は間違いであるとされています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%BD%E5%A4%AA%E7%8E%8B%E7%A2%91#.E5.A4.A7.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.B8.9D.E5.9B.BD.E9.99.B8.E8.BB.8D.E3.81.AB.E3.82.88.E3.82.8B.E7.A2.91.E6.96.87.E6.94.B9.E7.AB.84.E8.AA.AC.E3.81.A8.E3.81.9D.E3.81.AE.E7.A0.B4.E7.B6.BB
韓国では、いまだに改竄説が幅を利かせていますが、
現在も「日本の改竄前の碑文はこうだった」と改竄した碑文を広めるのは
学者としてはずかしくないのでしょうか。
「日本に歪曲された碑文を(自分達に都合よく改竄して)修正しました」
の理由が、「大王の功徳碑に倭(日本)が百済などを臣民にした、という内容を
書く理由が常識的にはない。」とは恐れ入ります。
http://www.munhwa.com/news/view.html?no=2008052001032330039005
(文化日報 2008.5.20 韓国語)


広開土王碑自体は、広開土王を称えるために建立されたため
その偉業を誇張していると考えられますが、
「気に入らないから間違っている」はどうかと思います。
これでも韓国は自分達が正しいというのでしょうか。

賛否はありますが、日本書紀の記述の全てが間違っているということは
難しいと考えます。
日本書紀を否定する韓国側は、この時代の文献が1145年に完成した
「三国史記」が最古であり、「当時は日本より朝鮮の国力が上」と
考えているようです。



日本書紀の記述での「日本府」の初見は、雄略紀8年(464年)2月条で
新羅が高句麗に攻められて任那王に使者を送り日本府の救援を要請したもので、
「当時は日本という国号が無かった」という意見があります。
私見では、当時の「日本」の読みは「やまと...続きを読む

Q平安時代の伽について

最近、源平時代の小説を何冊か読んだのですが、貴族・武士を問わず、そこそこの地位があるなら、都であれ戦地であれ、すぐに女性とセックスしてしまいます。女性も仕えるのが当然といった感じなのですが、やはりこの時代の女性というのは身分に関係なく、求められればどんな嫌な男であれ、要求に応じなければならない風習だったのでしょうか?それとも女性側の身分制度があったのでしょうか?また、そういった風習があるとしたなら、いつ頃の時代まで続いたのでしょうか?

Aベストアンサー

 理由としては、二つ考えられます。

 一つは、遺伝的問題です。
 人の行き来の少ない閉鎖社会においては、婚姻が集落内で行われ、遺伝的病気が目立つようになってきます。
 山などを境とした隣接した集落とは、経済問題(集落の生活圏の維持・拡大)で、交流がないような閉鎖集落では、このような傾向は大きいと思われます。

 イヌイット(エスキモー)には、旅行者に対して、自分の妻を提供する習慣があったということを聞いたことがあります。
 極めて過疎の土地に、少人数の集落で住む場合、どのようなチャンスであろうと、外部の遺伝子を迎えることが、生物学的には有利であることは、否定できません。

 このようなことを背景に、外部からの優秀な人材と思われる人間の血統を迎え入れようとする地域社会が成立していたケースがあります。

 また、鎌倉中期以前には、日本の貴族・上流武家の生活自体の中に、妻問婚の風習も残っていました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%BB%E5%95%8F%E5%A9%9A


 二つ目は、政治的な要素の強いケースです。

 都から有力な貴族が荘園や領地に行き来したり、有力守護大名などが領地を見回ったりした場合、宿屋などはありませんから、その通りがかった村の有力者=土豪の家に泊まることになります。
 その時、土豪の家に年頃の娘が居れば「チャンス!」とばかりに、夜の伽に出されます。
 上手くいって子供ができれば、手紙を出し子供が出来た旨を報告し、生まれれば認知してもらいます。
 生まれた子供が男であれば、貴族・大名の血を引く貴種として、その土豪の家の格を上げ有力なものとすべく当主として育てられます。

 この場合は認知しても、父親にはほとんど新たな義務は生じません。(祝いの品と自分の子供である旨の書付を送る程度。子供の家の方では、忘れ去られてしまうと困るので、毎年収穫の一部を上納するようになり、父親である貴族や大名にとって、利益の方が大きいかもしれません。)
 逆に貴族や大名にとって、騒乱などで地方に逃げたり兵を集めるときなど、協力が期待できます。(実際は貴族・大名の子でない場合もあったでしょうが、どちらにもメリットのある話なので、割合簡単に認知したようです。)

 以上のような、社会背景が崩れてくる鎌倉末期から室町時代にかけて、段々と廃れていったと考えて良いのではないかと思います。

 理由としては、二つ考えられます。

 一つは、遺伝的問題です。
 人の行き来の少ない閉鎖社会においては、婚姻が集落内で行われ、遺伝的病気が目立つようになってきます。
 山などを境とした隣接した集落とは、経済問題(集落の生活圏の維持・拡大)で、交流がないような閉鎖集落では、このような傾向は大きいと思われます。

 イヌイット(エスキモー)には、旅行者に対して、自分の妻を提供する習慣があったということを聞いたことがあります。
 極めて過疎の土地に、少人数の集落で住む場合、どのような...続きを読む


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