1.
ふつう一般に人は ひとが元気でいることについて よいことだと言うと思います。
もし人生やこの世界によしあしがあるとしたら
《生きること》をよしとしており
《よく生きること》もよいことだとなるようであり
《われも生きる なれも生きる かれも生きる 共に生きること》についても よいことぢゃないかと言うであろうと考えられます。
(論証抜きにです)。
2.
ところが いかんせん・かなしいかな この《よいこと》は 限りのあることであり移ろいゆかざるを得ないものです。
そもそも 《生きること・その生き物としての存在》じたいが かなしいかな 朽ちざるを得ないものです。
3.
ところで――生命性そのものは 永遠かも知れないですが―― 個別の生物も・無生物も モノは互いに相対的であって有限であって 時にふと曲がる(クリナメン)。
《よいこと――善としましょうか――》が ふと曲がる。果ては腐るまでになる。
登校の途中で道草を喰う。むしろ余裕である。道草の味をおぼえる。そのひとつのことの中に入ってゆく。善があそびを知って 浮遊する。
むしろよきことの過剰によって 善が自分の善を下に見る。何とかしたくなる。傷つけてやろうかと。学校に遅刻してやろうか・・・から始まって。
善のへそ曲がり これが 悪である。善が悪を起こす。善がみづからを傷つける。
・・・
A 回答 (15件中1~10件)
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No.14
- 回答日時:
No.13です。
>〇 四悪趣が顕在化するのは 一方で 間接的な原因としての縁からであり 他方では 四悪趣そのものからである。
☆ 納得できません。
Q1:縁が四悪趣をふくむとすれば その悪は どこから生まれたのか?
A1:善からではないのですか?
Q2:四悪趣から四悪趣が起きて来るとは どういうことか?
A2a:???
A2b:善が落ち入った悪として 四悪趣がある。としか考えられない。
★ 何度か前の質問にも書きましたが、生命状態に置いてそこに最初から十界が具わっている事を、『十界具足』と書いたと思います。はじめから、我々生命の内に具わっているのです。
>☆ 十界互具ゆえにこそ A1やA2bといった答えが出て来るのでは?
★それは出てこないです。
善から出るわけではないですから。
また、縁が四悪趣をふくむ、、、のではなくて、四悪趣だけではないですが、『生命状態というものは、縁に触れ瞬間瞬間変化するもの』、、、です。
>★ 人界の中にも、十界を具す。
これが、『十界互具』。
☆ 《これが、『十界互具』》ゆえにこそ 人界は 善であり 人界が具足する地獄界は 悪である。善からその悪へ移ってゆく。
★その現象を『縁』という。
しかし、それは『善』から生み出されているのではない。
縁に触れ、元々擁していた『悪』が出たに過ぎない。
>★ それは、仰る通り。その『絶対の善』を『仏界』とも『仏性』とも言います。
☆ これを じつは 《神――霊性・生命性――》とよぶのです。
★『神』、、、とは呼ばない。
そう呼んでいるのは、あなただけ。これは、あなたの論理だ。
>☆ その悪は どこから出てくるのか? です。
★だから、ここでさっきから言っている様に、悪は悪として存在しているのです。
頭が悪いなぁ~。
☆☆ その悪は どこから出てくるのか?
★ だから、ここでさっきから言っている様に、悪は悪として存在しているのです。
頭が悪いなぁ~。
☆ この答えを見越して 応答となるようにあたらしい説問をしました。
【Q:十界論をめぐって 悪の起源を問う】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13310623.html
次も 同じお答えです。ぜんぶ同じ趣旨です。上の質問の趣旨説明欄にこちらからのお応えを書き込んでいます。
★ 生命状態に置いてそこに最初から十界が具わっている事を、『十界具足』と書いたと思います。はじめから、我々生命の内に具わっているのです。
★ 〔悪は〕善から出るわけではないですから。
★ また、縁が四悪趣をふくむ、、、のではなくて、四悪趣だけではないですが、『生命状態というものは、縁に触れ瞬間瞬間変化するもの』、、、です。
★ その現象を『縁』という。
しかし、それは『善』から生み出されているのではない。
縁に触れ、元々擁していた『悪』が出たに過ぎない。
☆ 善→善 および 善→悪 そして 悪→善 および 悪→悪 といった生命状態の変化・移行が それぞれ互いに他からは独立に起こり得るのだと。
新質問で 反論しました。
*
★★ それは、仰る通り。その『絶対の善』を『仏界』とも『仏性』とも言います。
☆☆ これを じつは 《神――霊性・生命性――》とよぶのです。
★ 『神』、、、とは呼ばない。
そう呼んでいるのは、あなただけ。これは、あなたの論理だ。
☆ 『絶対の善』あるいは ただ単に《絶対性》 これを《神》の内実としての概念だというのが 普遍的な認識なのです。
ですが この問題は これだけにとどめます。
疑問や質問は いつでも・どこまでもお受けしますが。
No.13
- 回答日時:
No.12です。
>☆☆ >すなわち そもそも悪は――最初の悪は―― どうやって生じたのか?
この問いであり問い求めです。
善からしか出て来ないであろうというのが 仮説の結論です。
★ 生命状態における、四悪趣から起きてきます。
☆ 異議があります。
善が寝てしまって寝ぼけた考えで起こす悪なる現象として 地獄・餓鬼・畜生・修羅なる状態があり これらを捉え 四悪趣と呼ぶんだと思います。
それとも 人間は まづ初めに四悪趣といった状態から成る存在として生まれてくる・・・のでしょうか?
総じて言って人界なる存在として生まれてきて 人界なる善が 酔っぱらってしまって 落ち入った先が 四悪趣とよぶ状態であった・・・こういうことではないですか?
★何度か前の質問にも書きましたが、生命状態に置いてそこに最初から十界が具わっている事を、『十界具足』と書いたと思います。はじめから、我々生命の内に具わっているのです。
十界・・・地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚(辟支仏)、菩薩、仏。
>★ 人界といっても、人界が人界だけの境涯(生命状態)ではない。
☆ ぢゃあ 人界は 悪ですか?
★人界の中にも、十界を具す。
これが、『十界互具』。
>★ 生命というのは、全てが『善』ではない。
☆ 生命体のみなもとの生命(生命性)は むしろ永遠であり 善悪を超えていると見られ しかももし言うとすれば 至高の善であると考えられているのだと思います。
★それは、仰る通り。その『絶対の善』を『仏界』とも『仏性』とも言います。これは、以前にお話ししていると思います。
天台仏教では、その『仏界』とも『仏性』を指して『九識論』となっているのです。通常では、『八識』までなのです。
>生命体である人間のその時々にしめす状態は いろいろです。
>人界を取り出してみたばあい ふつうに素朴に善であると言ってよいのではないでしょうか。
>しかも 人界だけを取り上げてみてもこの人界の根底には 仏界が控えている。
>このありようは 善であると見られるのではないでしょうか。
★善もあり、悪もあると見るべきでしょう。
また、前回からも触れている通り、それらの生命状態は何らかの『縁』を受けて、瞬間瞬間に変化して行きます。
人界のについては、『法』に縁していない状態も含めますので、絶対的な善とは成りません。
>この善なる状態から 善も出れば悪も出てくる。
悪に落ち入りかけて 善に立ち戻ることもあれば あるいは
善から出た悪が その人の状態をあたかも支配したなら ――あくまでそれでも根底に仏界を擁していつつ――地獄界や餓鬼界の様相を呈する。
すなわち:
★ 善が悪を制する事も出来れば、悪が善を制する事も出来る。
☆ と言うことができる。
しかしながら ここから どうして:
★ よって、悪が善から生まれるというのは、『間違い』である。
☆ といった結論がみちびかれるのでしょうか?
もしおっしゃるとおりに間違いだとしたら 悪は どこから出てくるのでしょうか?
悪からでしょうか? どこの悪から どうやって悪が出て来ますか?
★★ 生命状態における、四悪趣から起きてきます。
四悪趣とは、、、地獄、餓鬼、畜生、修羅、、、です。
それも。『縁』によって起こります。
☆☆ 悪は どこから出てくるのでしょうか?
悪からでしょうか? どこの悪から どうやって悪が出て来ますか?
★★ 生命状態における、四悪趣から起きてきます。
★ 四悪趣とは、、、地獄、餓鬼、畜生、修羅、、、です。
それも。『縁』によって起こります。
☆ 次のようなことでしょうか?
〇 四悪趣が顕在化するのは 一方で 間接的な原因としての縁からであり 他方では 四悪趣そのものからである。
☆ 納得できません。
Q1:縁が四悪趣をふくむとすれば その悪は どこから生まれたのか?
A1:善からではないのですか?
Q2:四悪趣から四悪趣が起きて来るとは どういうことか?
A2a:???
A2b:善が落ち入った悪として 四悪趣がある。としか考えられない。
★ 何度か前の質問にも書きましたが、生命状態に置いてそこに最初から十界が具わっている事を、『十界具足』と書いたと思います。はじめから、我々生命の内に具わっているのです。
☆ 十界互具ゆえにこそ A1やA2bといった答えが出て来るのでは?
★★ 人界といっても、人界が人界だけの境涯(生命状態)ではない。
☆☆ ぢゃあ 人界は 悪ですか?
★ 人界の中にも、十界を具す。
これが、『十界互具』。
☆ 《これが、『十界互具』》ゆえにこそ 人界は 善であり 人界が具足する地獄界は 悪である。善からその悪へ移ってゆく。
★ それは、仰る通り。その『絶対の善』を『仏界』とも『仏性』とも言います。
☆ これを じつは 《神――霊性・生命性――》とよぶのです。
★ 人界のについては、『法』に縁していない状態も含めますので、絶対的な善とは成りません。
☆ あたりまえです。
☆☆ 生命体である人間のその時々にしめす状態は いろいろです。
★ 善もあり、悪もあると見るべきでしょう。
また、それらの生命状態は何らかの『縁』を受けて、瞬間瞬間に変化して行きます。
☆ その悪は どこから出てくるのか? です。
No.12
- 回答日時:
No.9です。
>すなわち そもそも悪は――最初の悪は―― どうやって生じたのか?
この問いであり問い求めです。
善からしか出て来ないであろうというのが 仮説の結論です。
★生命状態における、四悪趣から起きてきます。
人界といっても、人界が人界だけの境涯(生命状態)ではない。
生命というのは、全てが『善』ではない。
善が悪を制する事も出来れば、悪が善を制する事も出来る。
よって、悪が善から生まれるというのは、『間違い』である。
☆☆ >すなわち そもそも悪は――最初の悪は―― どうやって生じたのか?
この問いであり問い求めです。
善からしか出て来ないであろうというのが 仮説の結論です。
★ 生命状態における、四悪趣から起きてきます。
☆ 異議があります。
善が寝てしまって寝ぼけた考えで起こす悪なる現象として 地獄・餓鬼・畜生・修羅なる状態があり これらを捉え 四悪趣と呼ぶんだと思います。
それとも 人間は まづ初めに四悪趣といった状態から成る存在として生まれてくる・・・のでしょうか?
総じて言って人界なる存在として生まれてきて 人界なる善が 酔っぱらってしまって 落ち入った先が 四悪趣とよぶ状態であった・・・こういうことではないですか?
★ 人界といっても、人界が人界だけの境涯(生命状態)ではない。
☆ ぢゃあ 人界は 悪ですか?
★ 生命というのは、全てが『善』ではない。
☆ 生命体のみなもとの生命(生命性)は むしろ永遠であり 善悪を超えていると見られ しかももし言うとすれば 至高の善であると考えられているのだと思います。
生命体である人間のその時々にしめす状態は いろいろです。
人界を取り出してみたばあい ふつうに素朴に善であると言ってよいのではないでしょうか。
しかも 人界だけを取り上げてみてもこの人界の根底には 仏界が控えている。
このありようは 善であると見られるのではないでしょうか。
この善なる状態から 善も出れば悪も出てくる。
悪に落ち入りかけて 善に立ち戻ることもあれば あるいは
善から出た悪が その人の状態をあたかも支配したなら ――あくまでそれでも根底に仏界を擁していつつ――地獄界や餓鬼界の様相を呈する。
すなわち:
★ 善が悪を制する事も出来れば、悪が善を制する事も出来る。
☆ と言うことができる。
しかしながら ここから どうして:
★ よって、悪が善から生まれるというのは、『間違い』である。
☆ といった結論がみちびかれるのでしょうか?
もしおっしゃるとおりに間違いだとしたら 悪は どこから出てくるのでしょうか?
悪からでしょうか? どこの悪から どうやって悪が出て来ますか?
No.11
- 回答日時:
善は実体の無い概念である、と云うのは理性の産物。
感性が捉える善は、実体有り。
※ 我(われ)と思う心を実体とした場合、の意見です。
ええ。
★ 感性が捉える善は、実体有り。
☆☆
1.
ふつう一般に人は ひとが元気でいることについて よいことだと言うと思います。
☆ 神の実体ではむろんありませんが 現象として実在する概念だとわたしも思います。
★ 善は実体の無い概念である、と云うのは理性の産物。
☆ であり ただの形式論理でしょうね。
サンキュー!
No.10
- 回答日時:
ブラジュロンヌさんの云いたいことは、この世に生まれ出たと云う事自体が善である、という立場での主張ですね。
でも、その善は完成された、或いは完璧な善ではないと。
それ故に、ゆとり?ではなくて、歪みが生じる、と云う訳ですね。
☆ そう、云いたいんでしょ?
★ ブラジュロンヌさんの云いたいことは、この世に生まれ出たと云う事自体が善である、という立場での主張ですね。
★ でも、その善は完成された、或いは完璧な善ではないと。
☆ はい。そしてここは ややこしいんです。仮説の上に仮説です。
限りある身と心なる生き物として生まれ出たという条件でありつつその自然本性は その相対的な存在としては:
★☆ 完成された〔あり方であり その意味で完成された〕善
☆ であると想定されます。
善と悪を知る木から採って食べるという自由意志を発揮するまでは そうだったわけです。エデンの園の話ですね。
つまりは 相対的な存在としては完成された自然本性のそなわったヒトが ヒトとして思いや振る舞いを自由に選択することが出来るようになったとき その善は やがてゆとりを持ちあそびを知り冒険をやらかすようにまでなった と。
それでも なお想定として言えると思うことは ものごとについての意志による自由な選択において 良心のハタラキとしてのヤマシサ反応にすべてすなおに従っていたなら――ウソ・イツハリから自由であったなら―― 自由の止みとしての心身の病みや闇を知らなかった・・・と推理されます。
すこやかな善でありつづけ得た と。
善がウソをついた・すなわちヤマシサ反応〔なる自然本性としての心〕にさからった・・・ここで 負の善すなわち悪が生じた。
善と悪を知る木から採って食べるという思いをいだいたとき ヤマシサ反応が起きたはずなんです。つまり 善にさからう意志の自由度を知り その片向き(ヱクトル)としての悪を知った。
★ それ故に、ゆとり?ではなくて、歪みが生じる、と云う訳ですね。
☆ 意志の自由ないし選択の幅としてマイナスをえらぶという自由度 これは 初めはゆとりとして感じられたのではないかと思われます。
と言いますか 善と悪を知る木から採って食べるという思いをいだいたとき――そういった思いがはたらくという思いを持ったとき―― ゆとりを感じていたかも。そのゆとりから ヤマシサ反応にさえ逆らった。・・・
★ そう、云いたいんでしょ?
☆ はい。
★ 歪みが生じる
☆ つまりは 良心のハタラキにさからうという自由な選択をおこなったとき 神経線維にズレを生じ この一事から 心身における自然本性としての自由に止みを生じた。→ヤマヒ。
No.9
- 回答日時:
No.8です。
>☆ 《思いとその実行》→《結果として 善にもなれば 悪にもなる》:この過程は 一般的です。間違いなく。
>わたしがそこに口をはさむのは 結果を見る以前に もしよからぬ思いであれば すでにヤマシサ反応によって悪だと分かっている場合がある ということです。
>《思いとその実行》→〔ヤマシサ反応が起きれば 悪だと分かる〕→《結果として 善あるいは悪がもたらされる》 です。
★問うて曰く、、、『ヤマシサ反応』は、悪に変わる前に出てくるのですか??
そして、それを感じて行動にブレーキがかかるという事なのでしょうか??
>★★ それとも、冷静に捉えられずに、善にでも、悪にでもなってしまうのか??
☆ 《冷静に捉えられずに》というのは すでに悪だと知ったそのあと それを実行すべきかよすべきかについて 心が決まらないことを言っています。
★それはおかしい。
《冷静に捉えられずに》というのは、錯乱して判断すらつかない状態だと思います。
>因果の過程について 〔ヤマシサ反応が起きれば 悪だと分かる〕という途中の要素は 間違いなく起きると言えるでしょう。
★起ったとしても、それを自制できなければ意味が無い。
>★ ・それが分からないから、むしろ、その悪を意図として行動を起こしてしまう。
☆ それは一概に決まっていません。
>拒めば社会生活を続けられないほどの実害を受けると分かっている場合 悪をやむを得ずえらんで実行に移すことは あり得ます。
★分かっていたとしても、やむを得ずえらんで実行に移すということは、既に生命状態が自制不能となっている状態だと考えます。
>★ その根底には、十界の生命状態が強く現れるのだと思います。併せて、そこには『縁』何かの作用が働くわけです。
☆ 人界は ふつうに自然に素朴な生活の持続として善です。
そこで 求道心をおこして菩薩界をめざす場合もあれば そのいまの善なる日常性に何となく嫌気がさしてその人界を否定し地獄界や餓鬼畜生界に落ちてゆくこともあります。
つまり 善→善。あるいは 善→悪。こういった縁起の過程があり得ます。
★いや、そうではなくて、人の生命状態の変化の際に、何らかの縁に寄る作用が因となる事を言っています。
その何らかの縁がもたらす作用が生命状態を変え、結果となるのです。
それを言っています。
★ 問うて曰く、、、『ヤマシサ反応』は、悪に変わる前に出てくるのですか??
☆ 登校の途中で オニヤンマを見つけて追って行った。遅刻してもいいやと思い どこまでも追って行った。
このとき 遅刻してもいいやといった思いには おそらく胸が高鳴り顔が赤らみ恥ぢる感覚が生じる――つまり ヤマシサ反応が起こる――と思われるのです。
この反応が出たら ふつう 善ではないでしょう。悪に片向く思いだと知るはずです。
★ そして、それを感じて行動にブレーキがかかるという事なのでしょうか??
☆ 恥ぢる感覚といった反応が出た場合 そのあとどうするかは 人それぞれです。情況によっても違ってくるでしょう。
むろん ブレーキがかかる場合もあれば 強行突破する場合もあります。
☆☆ 《冷静に捉えられずに》というのは すでに悪だと知ったそのあと それを実行すべきかよすべきかについて 心が決まらないことを言っています。
★ それはおかしい。
《冷静に捉えられずに》というのは、錯乱して判断すらつかない状態だと思います。
☆ それはおかしい。
① ヤマシサ反応が起きてその思いは悪だとすでに知っている。
② そう知ったあと どうするか? これは 決まっていない。ひとにはその意志による選択に自由がある。へんなコト(悪)をもえらぶ自由度がそなわっている。
☆ これら二点が はっきりしています。
☆☆ >因果の過程について 〔ヤマシサ反応が起きれば 悪だと分かる〕という途中の要素は 間違いなく起きると言えるでしょう。
★ 起ったとしても、それを自制できなければ意味が無い。
☆ その倫理問題は いままったく別のことです。
悪は 善から出る。つまり善の変身したすがたが 悪である。そのほかに 悪は 存在しない。――この命題をめぐって 当否を考えています。
☆☆ 拒めば社会生活を続けられないほどの実害を受けると分かっている場合 悪をやむを得ずえらんで実行に移すことは あり得ます。
★ 分かっていたとしても、やむを得ずえらんで実行に移すということは、既に生命状態が自制不能となっている状態だと考えます。
☆ その段階での倫理問題は 触れましたように ここでは扱っていません。
ひと言で言えば 《人はそれぞれの責任において自由意志を発揮して道をえらぶ》となると考えます。
つづく
No.8
- 回答日時:
>★ 冷静に捉えられるのか?? そして踏みとどまれるのか??
☆ たしかに ヤマシサ反応によってやばい(つまり悪だ)と分かっても だから必ず避けるかと言えば それは 分かりません。
>冷静に捉えて やっぱりやましさを感じさせる悪だと知り そのまま控える場合もあれば 悪だと知りつつ行動に移してしまう場合もある。
>ですが・けれども それならばすでに《悪だと分かっている》。つまり あとで結果としてのおこないが 善になったり悪になったりする・・・のではなく そうではなく すでに行動する前に悪なら悪だと分かることになっている。
・それが分からないから、その場で判断が付かないから、事が起きて、その結果それが善であり、悪にもなる、、、と考えます。
さらに、前回からも出している『縁』というものも併せて思考してください。
★ それとも、冷静に捉えられずに、善にでも、悪にでもなってしまうのか??
☆ つまり 悪はすでに思いや行動に先立って悪だと分かっています。結果としても 悪として現われるはずです。
・それが分からないから、むしろ、その悪を意図として行動を起こしてしまう。その根底には、十界の生命状態が強く現れるのだと思います。併せて、そこには『縁』何かの作用が働くわけです。
☆☆ >あとで結果としてのおこないが 善になったり悪になったりする・・・のではなく そうではなく すでに行動する前に悪なら悪だと分かることになっている。
★ ・それが分からないから、その場で判断が付かないから、事が起きて、その結果それが善であり、悪にもなる、、、と考えます。
さらに、前回からも出している『縁』というものも併せて思考してください。
☆ 《思いとその実行》→《結果として 善にもなれば 悪にもなる》:この過程は 一般的です。間違いなく。
わたしがそこに口をはさむのは 結果を見る以前に もしよからぬ思いであれば すでにヤマシサ反応によって悪だと分かっている場合がある ということです。
《思いとその実行》→〔ヤマシサ反応が起きれば 悪だと分かる〕→《結果として 善あるいは悪がもたらされる》 です。
★★ それとも、冷静に捉えられずに、善にでも、悪にでもなってしまうのか??
☆ 《冷静に捉えられずに》というのは すでに悪だと知ったそのあと それを実行すべきかよすべきかについて 心が決まらないことを言っています。
因果の過程について 〔ヤマシサ反応が起きれば 悪だと分かる〕という途中の要素は 間違いなく起きると言えるでしょう。
★ ・それが分からないから、むしろ、その悪を意図として行動を起こしてしまう。
☆ それは一概に決まっていません。
拒めば社会生活を続けられないほどの実害を受けると分かっている場合 悪をやむを得ずえらんで実行に移すことは あり得ます。
★ その根底には、十界の生命状態が強く現れるのだと思います。併せて、そこには『縁』何かの作用が働くわけです。
☆ 人界は ふつうに自然に素朴な生活の持続として善です。
そこで 求道心をおこして菩薩界をめざす場合もあれば そのいまの善なる日常性に何となく嫌気がさしてその人界を否定し地獄界や餓鬼畜生界に落ちてゆくこともあります。
つまり 善→善。あるいは 善→悪。こういった縁起の過程があり得ます。
No.7
- 回答日時:
善のゆとり、って何なの?
悪、の温床?
そうですね。
幼年で言えば 小学校にあがり学習と仲間とのマジハリなど学校生活も 安定して来たとき その生活に多少ともゆとりが出てくれば 自分のことを・あるいはまわりのことを眺め見渡すことも出来てきて 自信がついて来たというような状態だと捉えます。
青年で言えば 社会人と成って毎日の仕事をひととおりおぼえるようになり やはり自己やまわりを見渡すことができるようになった状態。
そういったとき 安定した日常性――それは 大過なく過ごせているという意味で 善なる日常性――を下に見るかも知れないし 飽きがくるかも知れない。
善のゆとりが 善を低く見る。
そうして ふと曲がる。道草を喰う。寄り道をする。日常のとうとい安定性をちょっとみだしてやろうかと思う。
善を持て余す。・・・のではないでしょうかねぇ。
善にマイナスの状態をすらのぞむ・・・かも知れない。
だとしたら マイナスはあくまで プラスがあってこそあらわれる・・・と思うのです。
プラスとは違った根から マイナスが生えてくるとは思えないんです。
*
十界説の人界を例にとると 分かりやすいのでは?
ふつうに人とまじわって生活しているとき ヤマシサ反応は起こりません。その安定した生活を 広義に善と呼んでいいはずです。
一方で 菩薩界といったイデアを聞いて 人界から求道心をおこし なおよき善をもとめる。
他方で いまの生活日常について安定しているけれど刺激がないなどと言って その人界の善をけなし否定しようとする。この場合だと 地獄界やら餓鬼畜生界なるマイナスの世界に落ちてゆく。
つまり 人界をベースにとると その日常性としてのふつうに自然で素朴な善の状態から よりよき善へもそしてあしき負の善へも どちらへもおもむくことになる。
といったタトヘですが。
No.6
- 回答日時:
生きる事が善く思えるのは死ぬ事がネガティブで悪いと思っているからです
死そのものは”刹那い”でしょうが決して悪くありません。
これから今すぐ死ぬ人に失礼ですからね
共に生きるのは喜びですね、バッタとか白鳥とかも皆一緒
迷い込んだクジラどうしたでしょうね、友達になろうにも図体デカ過ぎる
そうそう善と悪ですね
誰でもお腹の中には800兆匹(1000種類)ほどの細菌達が住み着いていて共に仕事をしています
そして自分が死ぬまではお腹の中で個性が違う民族達の”善と悪との戦い”が繰り広げられています
その800兆匹の細菌のうち70%以上が優柔不断でどっちの味方をするかは解りません、時にふと曲がります(クリナメン)ですね
さらに元々の悪玉菌も善になるし、善玉菌も悪になることがあります
善者・悪者どっちも裏切り者です、お腹の中には裏切り者がうじゃうじゃいる事実
つまり
善の中には悪が内包してるし、悪の中にも善が内包している
両者はずっと同時進行していて電車のレールのような
おっしゃる通り
神様のへそが曲がった場合、悪魔たちはその日パーティーです
ご回答をありがとうございます。
★ 生きる事が善く思えるのは死ぬ事がネガティブで悪いと思っているからです
死そのものは”刹那い”でしょうが決して悪くありません。
これから今すぐ死ぬ人に失礼ですからね
☆ そうですね。いわゆる――或る意味その時その場だけの――心理的な現われについては いろいろあるでしょう。これは 心理学が 実地に調べたりして整理し紹介してくれます。
ですが 哲学は 形而上学たる存在論から人間や社会についての――出来るだけの――理論を探求します。うつろいゆかざるを得ない心の現象についても つねに当てはまるような基礎理論を問い求めます。
そうすると そういった基礎として 死に関しては《危険を察知し死を避ける――本能的なと言えるような――傾向》が見られるのではないでしょうか。
これにより:
★ 死ぬ事がネガティブで悪い
☆ という共通の理解が得られているのではないかと。
★ 共に生きるのは喜びですね、バッタとか白鳥とかも皆一緒
迷い込んだクジラどうしたでしょうね、友達になろうにも図体デカ過ぎる
☆ 共生は よいことでしょうね。
★ そうそう善と悪ですね
誰でもお腹の中には800兆匹(1000種類)ほどの細菌達が住み着いていて共に仕事をしています
そして自分が死ぬまではお腹の中で個性が違う民族達の”善と悪との戦い”が繰り広げられています
その800兆匹の細菌のうち70%以上が優柔不断でどっちの味方をするかは解りません、時にふと曲がります(クリナメン)ですね
☆ なるほど。中立と言いますか 全方向に親和性があるのですかね。
★ さらに元々の悪玉菌も善になるし、善玉菌も悪になることがあります
善者・悪者どっちも裏切り者です、お腹の中には裏切り者がうじゃうじゃいる事実
つまり
善の中には悪が内包してるし、悪の中にも善が内包している
両者はずっと同時進行していて電車のレールのような
☆ ううーん。ここらへんはよく分からないのですが たしかに毒が薬になったりする。
ううーん。でもこのタトヘは ちょっと倫理の問題からはズレるかも知れないですね。ひとの意志行為としてのモノゴトについてのよしあしですからね。
★ おっしゃる通り
神様のへそが曲がった場合、悪魔たちはその日パーティーです
☆ うむ。そうですね。悪魔はつねに監視されていますよ。
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№9 つづき
☆☆ ~~~
人界は ふつうに自然に素朴な生活の持続として善です。
そこで 求道心をおこして菩薩界をめざす場合もあれば そのいまの善なる日常性に何となく嫌気がさしてその人界を否定し地獄界や餓鬼畜生界に落ちてゆくこともあります。
つまり 善→善。あるいは 善→悪。こういった縁起の過程があり得ます。
~~~
★ いや、そうではなくて、人の生命状態の変化の際に、何らかの縁に寄る作用が因となる事を言っています。
☆ その問題も ここでは別です。
★ その何らかの縁がもたらす作用が生命状態を変え、結果となるのです。
それを言っています。
☆ 間接的な原因に接して人は生命状態が影響を受けますが 自由意志によって主体的な行動を取り 別のヘンな状態へと《変えられる》ことのない場合があり得ます。ゆえに問題が別であると言えると思います。
★ (№9) 人の生命状態の変化の際に、何らかの縁に寄る作用が因となる
☆ 朱に交われば赤くなるというごとく 悪なる縁に出会うと悪に染まることがある。
よって 善→善や善→悪といったケースのほかに 悪→悪という因果関係が 見出だされるではないか?
この問いに対しては こうです。
その出会ったという縁についてその悪は どこから来たのか? です。
やっぱり 善→悪 という経路ではないか。こういう仮説になっています。
すなわち そもそも悪は――最初の悪は―― どうやって生じたのか?
この問いであり問い求めです。
善からしか出て来ないであろうというのが 仮説の結論です。
★★ (№9) ~~~
その根底には、十界の生命状態が強く現れるのだと思います。併せて、そこには『縁』何かの作用が働くわけです。
・・・
人の生命状態の変化の際に、何らかの縁に寄る作用が因となる事を言っています。
その何らかの縁がもたらす作用が生命状態を変え、結果となるのです。
~~~
☆ この《縁》による影響について いまこの質問の延長として次の質問を考えました。
【Q:ウソをともなう悪に片向くことは 煮詰めて言えば 善であり愛である――悪の共同自治へ向けて――】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/13307794.html
☆ どうぞご参加ください。
音色さん №2にかける言葉はありますか?
いまのところ わたしには むりです。