
No.5ベストアンサー
- 回答日時:
とても良い質問です。
平安時代末期に中国の宋の貨幣が大量に輸入されると、荘園の年貢は銭で納めることがあっという間に一般化しました。室町時代になると、税自体も銭で納めるようになっています。
しかし、長年使ってきた宋の銭は損耗してしまい、さらに大量の贋金も作られて信用を失ったのです。室町幕府は明から大量の貨幣を輸入して流通させましたが、あまりにもピカピカで立派だったので、「これも贋金じゃね?」とあまり信用度が無かったのです。
そのため、室町幕府が衰えてくるとまた税は現物納が主になったのです。特に西日本でそれが顕著で、織豊政権が現物納を基準としたことから全国標準になったのです。検地ってありますよね。中世にも検田という似たようなことをやっていますが、中世は耕作地を銭ナンボと貨幣価値で格付けしていました。だから年貢も銭納できたのです。太閤検地で耕作地は収穫量で価値付けしました。だから現物納なんです。
「途中で検地しなおして銭納にすれば?」と思うかもしれませんが、検地はおいそれとできません。農民にとっては大増税になるので、大反対にあい一揆すら発生する可能性が高い。
こうして前例主義で現物納のままでいるのが農民にとってもお得だったのです。
No.10
- 回答日時:
江戸や大坂の町の人々も食糧として米などが必要ですね。
だから農民が年貢を金貨や銀貨で納めても米などを輸送する必要があったのです。もちろんそのようにしても構わないのですが、殿様としては輸送業者を手配するのも大変ですから農民に江戸まで運ばせたのです。一般に年貢米は近くの港まで運べば良いのですが幕府領の年貢は江戸に届けるまでが農民の責任でした。江戸などの町場では集まって来る年貢米だけでは足りません。年貢以外にも大量の米や麦が送られていました。おかず(副食)も必要ですね。近郊の農家は野菜なども売っていました。落語や芝居に棒手振りの大根売りなどが登場するでしょ。
江戸時代も末期になると年貢の一部(1/3程度)は現金で納めるところが出て来ます。毎年藩役所や代官所から提示される米価で換算して納めました。
また藩によっては米切手での納米が可能で、余裕のある農家は市場の米価を見て有利な時に切手に変えていました。これが可能になったのは江戸周辺での米生産が増え、必ずしも地方から送らなくても食糧事情が良くなったのでしょう。
早納できる藩もありました。いくらか割引になったとか。
No.8
- 回答日時:
当時は、貨幣に対する信用が
あまり進んでいなかったのです。
都会ならともかく、田舎に行けば
貨幣が使えない、なんて処もありました。
その点、米なら、主食ですから
何処でも信用があり、使えます。
これを「米本位制」といいました。
しかし、米ではかさばるし、腐ったり
するので不便なので
経済が発達しません。
そこで、田沼意次、というお人が出て
貨幣本位制を敷こうとしたのですが
時期尚早で、失敗しました。
No.6
- 回答日時:
元々、どこの国でも年貢(税金)は食料や衣料などの生産物で納めるものでした。
貨幣経済が発達する前、つまり小さな村が集まって中央に王様や藩主が住むような地域経済なら「食料をぶつぶつ交換すれば貨幣の代わりになる」ものだったからです。それは実に当たり前のことで、特に近代で機械化が進む前は「人間の力だけが資本」だったからです。
人間が居て、ご飯を食べさせてあげれば「木を切って家を建ててくれる職人」「反物を織って服を作ってくれる職人」などを養うことができたからです。
だからどこの世界でも「人間一人が1年間に食べる食料の量」が最初の通貨単位になっています。
日本だと1石=俵2.5俵が「成人男性一人が食べる1年間の米の量」で、50万石の大名ということは「その大名の領地では50万人の人口を養える米がとれる」という意味であったわけです。
なので、どこの世界でも「最初の税は農作物」だったわけです。
で、世界ではこれがだんだんに貨幣に代わっていきます。なんで貨幣の変わったかというと「貿易している地域で生産している穀物の種類の差が大きいから」です。
世界的に貨幣が最も早く普及したのは中国だとされていますが、中国は広いので南の米文化と北の小麦文化では、物々交換が成り立たなかったからでしょう。
逆に日本は貨幣経済が割と早く浸透したものの、武家社会は「農地=米」を基本とした社会構造だったので、米をそのまま通貨にしたのでしょう。
逆説的ですが、世界で一番最初に先物取引所が大阪堂島にできたのも「為政者の武士が米経済から離れないので、毎年の収穫量の変化で損をしないようにするためだった」と言っていいです。
No.4
- 回答日時:
私は社会科で以下の様に習いました。
明治前まで、財産は米で有った。
だから、〇〇藩は□石の領地と言いました。
石はどれだけの米が採れる土地であるかの目安です。
石が多いほど多くの人が養える。
国力の強さを表している。
庄屋は田を農民に貸して収穫し、庄屋が年貢を殿様に納める。
殿様はそれを売却して貨幣に替えて日常の買い物をする。
町民も貨幣で賃金を貰い、生活の支払いをしていた。
貨幣が無かった半島のように物物交換ですと、支払いのため誰もが米俵を担いで買い物はとても不便です。
だから、米俵に替わりに貨幣で持ち歩いた。
財産としては米が主ですが、合理的な貨幣を使用していた。
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