上記のような注意書きが出来て驚いているのですが、、、、
教えて!gooとしては、一質問一回答がふさわしいのは分かりますが、哲学カテゴリで行われる論争、議論などはその質問(議題)に対する回答を考えるうえで、様々な論理の展開を呼び、よりよい回答、質問者にとってよりよい結果に繋がる可能性をもっています。それは、タダの個人の意地の張り合いとは比べられない重要性があると思います。そのような理由からでは、教えて!gooにおいて、議論、論争は本当にふさわしくないのか?となると、そんなことはないと思います。論争、議論を禁止するべきかそうでないか?皆さんはそれぞれどうお考えですか?

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A 回答 (9件)

この<注意>が最初からあったものなのか、それとも後での追加なのかは知りませんが、


どうもこのままでは文脈も判然としませんね。

哲学について、折角いろいろな知識をお持ちの方がウォッチされている場ですし、
たとえばですが、
『○○について、○○という面(理解)から、私は○○と考えますが如何でしょうか?』
のような【質問】は別におかしくないと思いますし、それに対して、
『○○という面もありますから、私はそうは思いません。』
のような【回答】もあり得ると思います。
そうした場合に、質問側が「補足」欄を使って相手の回答内容に異議を伝えるような流れも考えられると思うんですが、
そういうやり取りも、「論争」という解釈になるんでしょうかね?
----
おっしゃるような”様々な論理の展開”を通じての ”質問者にとってよりよい結果”ということからは、
回答者同士のやり取りなども含めて、できればあまり縛りを設けない方がいいとは思いますが、
いずれにしても、もし管理者側の判断でそれが必要ということなら、少なくとも解釈がまちまちにならないように、
「趣旨」と「線引き(論争とかの解釈)」についてのもう少し分かりやすい記述は必要だと思います。
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この回答へのお礼

>「趣旨」と「線引き(論争とかの解釈)」についてのもう少し分かりやすい記述は必要だと思います。
 そうですね、難しい所ですが、問題の<注意>が教えて!gooの真価を損なっているように思います。ありがとうございました。

お礼日時:2001/09/14 19:40

教えて!gooというよりOKWebなんだけど...


ここは議論をする場所じゃないんですよ。OKWebの「OK」は「Oshiete&Kotaeru」なんです。ただ最初の一文が言いたくて...

では。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
OKwebにはあまり行った事が無いんです。だから、教えて!gooとの関係もあんまり知らなくて、、、。
哲学カテゴリでは、議論そのものが「答え」になる場合も少なからずあると思うのです。その場合、議論はOKwebの意向に反しているわけではないと僕は考えます。そう意味を考えると、注意書きは無差別的に議論そのものを出るものでなくしてしまっている。OKwebの能力が損なわれていると思います。もしよければもう一度お訪ねしていただける事願ってよろしいでしょうか?

お礼日時:2001/09/27 17:13

<注意>にかかれてある回答の仕方・・・わかりづらいなぁ-


回答がはっきりわかるものっていうのは、哲学カテでならなにがあるんだろう。
哲学者の名前、哲学の歴史的年代、、、、、他に何があるんだろう?
哲学の捉え方一つで、答えは幾通りもある。いや、答えという明確なものが果たしてあるんだろうか?

意見とアドバイスの違い?語尾をかえれば「私は~考える」(意見)、「~っていうのもあります」(アドバイス)でOK!っということなのかなぁ~?

教えて!gooで、なぜ?「哲学カテ」を設けたのかと疑問に思う。
ここ、教えて!gooでは哲学カテでどのようなものが生み出されることを
当初、考えておられたのだろうか?論争・議論を禁止するのはサイト主の
考えだと言うのなら致し方ないが、、、、、
サイト主は、正解回答をもっておられるのだろうか?お行儀のよいだけで、中身がついてくるのだろうかと・・・余計な心配をしてしまいました。

教えて!gooの哲学カテは好きでした。論争・議論していながらも相手をおもいやるあったかい場面もかんじさせていただきましたから・・・そういった意味では、サイト主に感謝しています。

議論・論争を通して新たな何かをみつけだすのはここではもう期待できませんね。
サイト主の意に反してしまうから・・・

哲学の話をもっと掘り下げて話し合うには、この場は向いていないのかもしれませんね。

探せば、話を続けれる場はたくさんあります。
参考までにこんなところものぞいてみられてはどうでしょうか?

http://members.tripod.co.jp/serpent_owl/

参考URL:http://members.tripod.co.jp/serpent_owl/

この回答への補足

まちがえた、、、
littlelissさんのおれいが補足らんになってしまってすみません、、、。
さんこうURLを見させて頂きました。あの方ですよね?どこいったのかなぁと思ってました。しかし、教えて!gooとは違ったものがあるのでしょうね。
>哲学の話をもっと掘り下げて話し合うには、この場は向いていないのかもしれませんね。
 難しい所ですね。僕は、このサイトは、時間に悩まされないことと、様々の展開が見込めるという点で哲学カテゴリとしては魅力があると考えます。議題を考える過程というものが、よほど大事なことと考えます。
>サイト主の意に反してしまうから・・・
 そういうわけでもないと思います。<注意>をよめばそうとってしまいますが、管理人さんも、その有益な点を尊重しておられると思います。回答者達の、展望のある議論をあえて控えるという態度は、教えて!gooとしても、質問者にしても、いいことはありません。ふっとでの議論が、思わぬ進化をみせるときもあります。
管理者の苦労も、どのほどかわかりませんが、大変なものだろうと思います。しかし、あの注意書きに問題ありと考えます。
ありがとうございました。

補足日時:2001/09/14 19:51
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この回答へのお礼

みなさんへの御礼を総じてここに書かさせて頂きたいと思います。このような形をとり申し訳ございません。じつは、この質問を出した後に、管理人さんからメールがきていることに気付きました、、、、、すいません。それによるとこうです。
 
>質問を解決するために議論をすることが必要な場合もありますので、私どもはそ
れを否定はしません。しかしながら、運営趣旨からはずれるようなやりとりが続
いた場合は、放置できない場合がありますことをご了承ください。
 
管理人さんは、否定しないとおっしゃってくれておられます。また、見逃せない場合もあると、。このような柔軟な姿勢をとってくれていることに大変うれしくおもいます。ですから、問題の<注意>によって、回答者内に、議論をあえてしないという態度が大きくなると、「教えて!goo」の真価が発揮されないと思います。大勢の様々な回答が出会う事で、質問者にとって、又、後にその質問を読まれた方にとっても、いいものが生まれるのではないかと思います。何故なら、教えて!gooの趣旨に沿わないと判断されたものは、管理人さんが管理してくれるからです。ですから回答者の方は議論を控えるという態度を出出しからとる事をしなくてもいいと思います。みなさんありがとうございました。

お礼日時:2001/09/14 19:19

 「教えてGoo!の哲学コーナー」は、特に、生まれからして「出会いサイト」と同じく<癒し>を目指していました。

質問者、回答者ともに、すでに、「出会えることだけ」を期待している、とも言えるのです。巡り会おうとしても巡り会えぬひとときの恋人を求めるように、「この渇望する孤独な精神を埋めてみよ」とある種、質問者は回答者に対して、恋愛を仕掛けてきているのです。また、回答者も質問を聞く前から、「我が思いたれか知る」と、どこかしら自分を孤独の人、と勘違いをしているかも知れません。所詮、「たったひととときのふれあい」しか感じられぬもの同士、「そのような回答では言葉の接触に満足できない」と言われたとしても、それは「出会いサイト」なのだから仕方がありません。
 哲学に答えたい、と考えるものは、その時点で、ある種決意を秘めているので、逆から言えば、「どうにでもなれ」式の決心を秘めて回答をすればよいのです。
 「哲学出会いサイト」に群がる私としては、一歩も二歩も踏み込んだのですから、「危険」に身を浸していることを自覚し、耐えていかねばならないでしょう。

 ただ、私は、幸いなことに、こちらが「してやられた」と舌打ちしたくなるようなりっぱな思索で返礼を受けることも多いことから、「哲学のプライド」はすでに両者ともに、自己規制を働かせ、しっかり守られている、と思っています。
 そういった意味では、それなりに、答えるべきものは、質問者を、すでに選んでいるのかも知れません。そこが、答える人が、男性でも女性でも一向に頓着しない中性的「哲学出会いサイト」の意味なのでしょうか?

 
 
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この回答へのお礼

非常に共感を覚えますね。
「やはりこのような回答(質問)をいう人もいたものか、」みたいに思うときがあります。その回答もさることながら、あの回答者ならどの様な事をいってくれるのかとか、
>中性的「哲学出会いサイト」、友達探しみたいなことかもしれません。先生や、生徒や、友達といったようなものから、チョッとお尋ねしますが的なものまで、様々があるのがこの教えて!gooのいい所だと思いますし、ちょくちょく検索が役立つほど情報量も増えているように思います。それに、リアルタイムの情報もえられますよね、<注意>が哲学カテゴリの真価?を損なっているように思ったのです。ありがとうございました

お礼日時:2001/09/14 19:51

要するに、価値観の尊重ということでしょう。


人の価値観を否定してしまっては、話が泥沼に陥るだけというおそれもありますし、否定されるのなら答えない、という人がでてきてはそれも困るからだと思います。

ですから、こういうのはよいと思います。

Aさんの意見は意見として一理あるのですが、私は違った考え方を持っています。

いいのだろうか・・・誰か教えてください。
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この回答へのお礼

>いいのだろうか・・・誰か教えてください。
 どうなんでしょう、、、、(~_=”
ありがとうございました。

お礼日時:2001/09/14 19:38

この手の文面(<注意>)ってカテゴリ毎に違う注意文が出ているのですね


ようするに・・・・
質問者と回答者の題材に対する掘り下げ(論争ではない)なら良いが
回答者間での「揚げ足取り」や「つっこみ」、「批判」はダメ
って事ですよね

ここのサイトの主旨を考えた場合・・・
やっぱり
哲学のカテゴリであっても議論・論争は他の所でやるべきでしょうね
たとえば・・・
落語のトメさんと和尚さんの「海の果てはどうなっている?」の場合でも
あれは一問一答の連続した問いかけで議論・論争ではないですよね

議題に対する「掘り下げ」と「議論・論争」の区別(分別)は注意しないといけないでしょうね
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この回答へのお礼

>議題に対する「掘り下げ」と「議論・論争」の区別(分別)は注意しないといけないでしょうね 。
 なるほど。ありがとうございます。

お礼日時:2001/09/14 19:36

サイトの趣旨から外れるので、議論はふさわしくない、とされてます。



趣旨については、参考URLの「教えて!gooからのお知らせ」から該当部分を
引用します。

> 教えて!gooは、利用者同士が“教えあう”ことで知識の交流の場としていただきたいと思います。「質問者は回答
> する側に配慮し、回答を得やすい形で質問する。」「回答者は自分の知識・経験の範囲で質問に答える」というこ
> とと考えます。

サイトの趣旨に沿った範囲で、議論・論争を通して質問の回答を導こうとする
のであれば、

・別の掲示板や netnews で議論をした後、その顛末をここの回答に書く
・議論や論争ができる掲示板などを紹介して、ここの回答とし、そこで議論を続ける

ということしかないのではないでしょうか。

参考URL:http://oshiete.goo.ne.jp/ask/guide02.html
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この回答へのお礼

>・・・ということしかないのではないでしょうか。
なるほど、教えて!gooの膨大な数の利用者が参加できないのは残念ですね。
ありがとうございました・

お礼日時:2001/09/14 19:33

原則として"論争禁止"だと思います。

OKWeb or 教えてgoo!の本質とズレます
ので。(No.1の方と同じ意見)

論争したければ、そういう応対が可能な掲示板サイトへいけばよいのでは
ないでしょうか。

但し、回答の補足を繰り返しているうちに論争のような形になってしまうこと
は多々ありますので、<注意>書きはそれを気をつけてほしいということを
強調していると思います。
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この回答へのお礼

>論争したければ、そういう応対が可能な掲示板サイトへいけばよいのでは
ないでしょうか。
 教えて!goo のように膨大な数の様々な回答を得るのは、他のタイプのサイトでは難しいと思います。教えて!gooのいい所を<注意>が殺してしまっているのではないかと思ったんです。CHATではないので好きな時間を選べるし、検索できるし、質問者の立場、回答者の立場は、議論、論争したいワケじゃないと思います。(人によりますが)論争、議論が、論理の展開、素晴らしいものを生み出す可能性があるということが重要であると思います。さらに、論争、議論そのものが回答になる場合もあると思うのです。
ありがとうございました。

お礼日時:2001/09/14 19:30

論争、議論を禁止しているのは、ふさわしいorふさわしくないでは無く、このサイトの主旨から外れるからだと思います。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2001/09/14 19:22

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こんにちは。この間から気にはなっていたのですが、いかんせん、フッサールは気になりつつもパスしたままの状態が続いているので、どうしたってまともな回答はできません。
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ご質問とお礼欄を拝見して、いまひとつよくわからなかったのは、質問者さんが、竹田さんの現象学を学ぶことを希望していらっしゃるのか、それともフッサールそのもののほうを学ぼうとしてらっしゃるのか、ということなんです。書き方のもんだいではなくて、立っていらっしゃるポジションがいまひとつ見えてこない。

つまりね、フッサールを勉強しようと思うんだったら、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』でも『イデーン』でも、ひたすら読んでいくしかない。つまるところ、そういうことなんです。
もちろん、最初っからそんなの読めません。
だからたとえばメチエの『フッサール 起源への哲学 』(いや、わたしが読んでわかりやすかったと思っただけなんですが)を読む。それから一次文献を読んでみる。それでもわからない。じゃ、ほかの二次文献を読んでみる。もういちど、一次文献に帰る。

もひとつ、哲学史的な目配りも当然必要になってくる。
最低、デカルトの『序説』は読んでおかなきゃならないだろうし、意識哲学の元祖、フィヒテはどうしたって押さえておくことが必要でしょう。フィヒテ読もうとおもったら、カントの一通りの知識は必要だし、ヒュームだって。あるいは、ハイデガーやメルロ=ポンティと対比させながら読む必要もあるでしょう。基礎タームの理解は不可欠だから、哲学事典だって必要だし、通史はなんでもいいから最低一冊は読んでおかなきゃ。

解釈についての論争がある部分って、ある程度、二次文献を読んでいけば、なんとなくわかってきます。二次文献のなかには、「ここは論争がある部分である」とか、「~系の研究者は、この部分をもとに××と言っている」とか、書いてあるものも多いし。

おそらく、ここで質問お聞きになりたかったのは、おそらくそういう箇所はどこかということなんでしょうね。
ごめんなさい、そうした箇所をわたしは指摘することはできません。

だけどね、それって、個人的な意見なんだけど、努力の方向がちがうと思う。
わたしはときどき、英会話を習うなら、イギリス英語か、アメリカ英語か、どちらを教えてくれる人がいいか、という質問を受けるんですが、初心者ならイギリス英語もアメリカ英語も関係ない。オーストラリア人だって、南アフリカ人だって、きちんと勉強した人なら、英語を母語としない人だってかまわない。初学者にとって問題なのは、そうした多少の発音の差ではないんです。
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基礎タームを身につけ、考え方の文法を身につけていく。いろんな哲学者の「定石」を学んでいく。そのために、一次文献、二次文献、どっさり読んでいくしかないんです。

論争の箇所なんて、一次文献と二次文献のジグザグを繰り返してたら、すぐ見つかります。
そうして、そんな解釈のぶれは、専門の研究者じゃなかったら、そこまで困る必要はないだろうと思います。こういうのもあれば、こういうのもあるんだな、ぐらいに思っておけばいいんじゃないでしょうか。あるいは、竹田さんがお好きなら、竹田さんに寄り添うように読んでいけばいいのだし。

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ただ、そういうもんだ、と覚悟を決めて(あるいは諦めて)、一生つきあっていく。フッサールは十分、その価値はあると思います。わたしだって、似たような立場です。一緒にがんばっていきましょう。

駄文をだらだら、ご容赦ください。

こんにちは。この間から気にはなっていたのですが、いかんせん、フッサールは気になりつつもパスしたままの状態が続いているので、どうしたってまともな回答はできません。
たぶんフッサールについては、質問者さんのほうが詳しいと思うので、ごく一般的なアドバイスぐらいに受け取っていただけたら、と思います。

ご質問とお礼欄を拝見して、いまひとつよくわからなかったのは、質問者さんが、竹田さんの現象学を学ぶことを希望していらっしゃるのか、それともフッサールそのもののほうを学ぼうとしてらっし...続きを読む

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1966年にサルトルとフーコーが論争したことはポストモダン思想の歴史上重要なポイントだった、

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内容は知りません。
未見ですが、『ミシェル・フーコー思考集成 3 』
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480790231/
の「フーコー、サルトルに答える」が該当するのではないでしょうか。

目次を見ると、「プルースト宛書簡」なんかもあって、ずいぶんおもしろそうですね。読んでみよう。

参考URL:http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480790231/


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