これまでで一番「情けなかったとき」はいつですか?

戦国時代は同一の農民が貴族や皇室の田んぼ--荘園など--と今後大名となる領主の田んぼ(農地)の両方の耕作を担当していたのでしょうか? それとも両農地はそれぞれ別の人びとが耕していたのでしょうか? 封建領主とそれまでの皇家構造との関係が、よくわかりません。

A 回答 (5件)

領地はなくても権威はありますから



各地の領主からの献金・資金援助などはありました
まぁ催促するようなこともあったでしょうけど

その資金援助に対して謝礼として官職名を授けるとか
あるいは有職故実に関してアドバイスするとか
あるいは近隣との争乱に関して仲裁を依頼するとか
そういった権威を見返りとして生活の糧とするということも有っただろうと
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この回答へのお礼

trajaa、春閑、のっぺり三名様をベストアンサーに指定したいのですが、複数の指定はできないようですので、このお礼を複数ベストアンサーの代わりとさせていただきます。なるほど、武家の頭目が装飾的官位をもらう場合、相当な額の礼金のようなものが動いているんですね!。皇家皇族を殺戮してしまう西欧的な全面的政権交代にならないのは、とても平和的な名案ですね。このたびは、ありがとうございました。

お礼日時:2023/02/05 07:34

お礼について



バイト収入と云っても現代の時給ナンボの話じゃない。お客は超の付く大金持ちばかりで、お客からはVIP扱いされたうえに礼金も滅茶苦茶ハンパないわけですよ。
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戦国時代初期の元関白九条政基が残した日記『政基公旅引付』が参考になります。


朝廷で失脚して京に居られなくなった九条政基が、九条家の支配が残って日根野荘に下向して直接支配をしていた時の日記です。
守護代や近隣国人の軍勢が押し寄せてくると自分の支配の正当性を主張して退けさせたりしています。
荘園の開発領主の子孫と思われる日根野氏は守護代の手下となり政基と対立していて政基を追い出そうとあの手この手を使います。
農民たちも狡猾で、強権的な武士による支配を嫌って政基を立てながらも守護代と通じていたりします。

戦国時代、まだ建前上は旧来の荘園公領制が形骸化しながらも残ってはいました。さらに「職の体系」は近世まで残っていましたから、一つの土地に権利をする者が何重にも重なっており下の権利者は上の権利者へ上納する義務がありました。遠隔地にいる公家への上納は途絶えて、現地の大名で止まることが多く、九条政基みたいに下向して直接徴収するか、官職の推奨などで朝廷の心象を良くしたい時に納められるものでした。
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この回答へのお礼

早々に、御三名様のとても充実したお返事をいただき、感動しています。九条さんなどが少数の例外とすると、子どものように単純に考えて、ローカル勢力に農地を奪われてしまった皇族貴族側は、財政的にも食糧入手でも、たいへん困るのではないでしょうか? そのへん、彼ら旧勢力は、どう解決できたのでしょう?
(御三名をまとめてお返事している失礼を、お詫び申し上げます!!!)

お礼日時:2023/02/04 20:12

戦国時代は、天皇貴族の領地荘園なんてとっくに武士たちに横領されている。



その動きは鎌倉時代からで、幕府に任命された地頭によって荘園が侵食され始めている。
鎌倉幕府が滅亡し、一時的には建武の新政で王政が復古して元に戻ると思われたが、それが倒幕に協力した多くの武士たちに強い不満をもたらした。
その反朝廷勢力というか、反後醍醐天皇勢力に担がれて決起したのが足利尊氏であり、以後、後醍醐天皇vs足利将軍家の奇妙な南北朝動乱時代を迎え、それが終息したと思ったら、今度は応仁の大乱だ。

このような南北朝動乱から応仁の乱が終息したころには、天皇貴族の領地荘園は完全に武士に奪い取られ、消滅している。

だから、天皇家も公家も領地荘園からの収入が途絶え、天皇さえもバイトをしてその日暮らしをしていた頃もあった。朝廷も土地からの収入が途絶え、有力大名の支援や守護職その他の冠位と引き換えに礼金を受け取るなどしてその日を凌ぐような状態だった。
公家たちの中には、貴族文化だった和歌や漢詩、茶道や華道などの芸事、囲碁将棋双六蹴鞠などの遊びを武士や豪商たちに教えることで生計を立てるものも多く、それで室町時代は現代に続く多くの日本文化を花開かせた時代ともなった。

天皇朝廷が一息つけるようになったのは、きちんと経済支援をしてくれた織豊政権が誕生した安土桃山時代、つまり戦国末期になってからだろう。

率直な感想として、天皇制は政治的にも経済的には完全に崩壊していたにも関わらず、権威だけで、よくこの悲惨な時代を生き延びたと感動すら覚える。
江戸時代には「武士は食わねど高楊枝」という言葉が残されたが、この時代の天皇はまさに「天皇は食わねど高楊枝」の姿勢を貫いてまで必死に天皇制を護っていたということになる。
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この回答へのお礼

早々のお返事ありがとうございます。でも、そんなハンパなバイト収入で、生活が成り立ったとすると、非常に珍な日本史現象ですね!。

お礼日時:2023/02/04 20:18

戦国大名になると領国に対する完全な支配権を持っていたので


貴族(公家)や皇室所有の荘園は無いです
大和や山城といった近在の僅かなものは残っていたのかもしれないが

それ以前ならば、〇〇親王領という感じでは存在していていわゆる地頭と呼ばれる人たちが実効支配しており
取り立てた税の一部を領主(本家)へ納め、大部分を自らの領地支配の為に使用していた
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この回答へのお礼

早々のお返事、ありがとうございます。「貴族(公家)や皇室所有の荘園は無いです」なら、彼らの財政や食糧入手はどうなったのか、再度質問させていただきました。

お礼日時:2023/02/04 20:18

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