戦国時代を調べていたところ、いろいろと虐殺事件があったと書いてありました。比叡攻めとか、特に伊勢長島にあった願証寺では織田信長によって1万~2万人近くが虐殺されたとか・・・。
 長島の大虐殺はどうしても行わなければならなかった行為なのでしょうか?
皆さんの回答お持ちしております。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (3件)

戦国時代の対一向一揆は単に宗教弾圧の様に捉える本質がよく見えてこないかもしれません。

(信長に限らず)

一揆というと江戸時代の農民一揆とダブってしまいあたかもか弱い農民が鋤や鍬、竹槍などの乏しい武器でも力を合わせ圧制者と戦うように思えますが一向一揆はそんなものではありません。
一向一揆は戦闘集団です。
もちろん一向一揆の主戦力は農民です。
ですが戦国時代の主戦力であった足軽の大半も農民です。
信長は農民と足軽とを分離して職業軍人である足軽集団を作り上げたわけですが、もとを正せば平時は農民で戦となれば徴収され戦うわけですから農民は皆戦闘経験を持っている集団と言えます。
豊臣秀吉だって百姓出の足軽でしたからね。
そしてここに職業軍人たる武士も大量に加わります。
後、徳川家康の片腕となる本多正信も一向一揆に加担していた一人です。
つまり一向一揆はプロの戦闘集団と言っても過言ではないと思います。

その戦闘集団が領内に立て籠もり領内を脅かしては領主はこれを叩くより他に道はありません。
加賀の一向一揆では領主まで追い払う力をもつ程、強大な勢力でしたから領内に一向一揆勢力を持つ領主たちは相当怯えていたに違いまりません。

比叡山はもっと古くから横暴を繰り返してきた事は歴史でも習われたかと思います。だいたい殺生をすべきでない僧侶が僧兵をもつ事からが不思議です。

さて、一向一揆を叩いて追い払う事に成功したら次にどうすればいいか?
一度叩いた一向一揆は時を変え場所を変え復活します。
たとえ赦して開放してもその翌日からまた改めて戦闘集団に返り咲きます。
ならば赦して開放してもまた領内が荒らされ多くの兵を失いこととなります。
だったら、再び戦闘集団とならぬよう全部潰してしまえばいいではないか。

これが信長の考えです。

ちなみに長島には女子供もいましたが女とて戦闘集団です。
か弱いお姫様なら槍も刀も握れなかったかもしれませんが、農民の女性はもっと逞しく男勝りです。男どもと白兵戦等はしないでしょうが支援部隊であり、時には前線にも出たでしょう。
子供も戦闘集団予備軍です。
武士とて10歳ともなれば元服して立派な武士として扱われます。
今日の小学生と同じ目で見るべきではないでしょう。

また一般に信長は宗教嫌いと言われていますが決してそうではありませんでした。
一向一揆を宗教と判断できなかったのでしょう。
これはあくまでも信長にたてつく戦闘集団だと。
一向一揆の母体たる浄土真宗も当時から一枚岩ではありません。
 (のちに東西分かれる以前から派閥はありました)
一向一揆に加担しない浄土真宗の派もあり、信長はその寺に寄進すらしています。
また多くの僧侶も従えていましたし安土城にも宗教観が色濃く出ています。

平成の目で長島の大虐殺を見てしまうと単なる宗教弾圧による大虐殺ですが、戦国時代という時代背景を加えて眺めると決してそうではない。
一向一揆という宗教的戦闘集団と信長をはじめとする軍事政権との「戦争」でる。

捕虜虐殺は近代においては国際法違反ですが、当時は当たり前の事でした。
一向一揆の参加者は戦争捕虜として殺された。
私はそう思っています。

一向一揆を悪者の様に書いてしまいましたが決して事実無根ではないと思いますし
個人的に悪意を持ているわけではありません。
私の家は代々浄土真宗ですし古くから尾張に住んでいましたから、私のご先祖様も立て籠もっていたのかもしれません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

確かに一向一揆は戦闘集団で、名のある武将もこれに加担していたという話はよく聞きます。
>一向一揆の母体たる浄土真宗も当時から一枚岩ではありません。
 1465年に本願寺第8世蓮如は、比叡山衆徒の反感を買い、京都大谷の本願寺を焼き払われていますね。そのあと加賀にて、一向宗高田派と対立して石山御坊に移っています。蓮如は暴走する衆徒を押さえていたようですが・・・
 同じ一向宗でも対立が数々あったようですね。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2001/09/12 20:24

この前テレビ番組で言っていたことから、私のフィルターを通した記憶に残っていることだけ書きます。



信長の宗教に関する意識には、一種独特なものがあったそうです。

幼少時に見た、戦いに次ぐ戦い。その中で苦しむ人々や、身内。信仰など何の役にも立たず、何一つ救ってくれないくせに、やたらと力を持っている。特に都や政治、軍事に長じている。

戦乱を救うのは宗教ではない。弱い将軍でも、天皇でもない。この私が制圧することでのみ、戦いに荒れた世の中を終わらせることができるのだ。

これを、本気で考え、実行してしまったそうです。考えてみれば信長は、宣教師を招き、宗教についても学びはしたが、教義に心服し、改宗したという話はありません。

そのためには、邪魔なもの、今後邪魔になりそうなものは、徹底的につぶしていくべし。
他の人(武将含む)は、多少なりとも信仰心を持っていたし、いわゆる人間らしい哀れみの心もあったし、何より、比叡山のようなところは総本山として、誰にとっても聖域だったわけです。だから誰も攻撃しませんでした。それをいいことに、僧侶が我が物顔で振舞っていたことも事実だったようです。

特に京都を目指す信長には、これは大きな障害でした。しかし他の武将のように、彼には躊躇する理由が全く存在しませんでした。例え戦で、情勢的に勝ったとしても、信長は、戦に勝つことで目的が達成されたなどとは思わなかったのではないでしょうか。目的は、その宗教と勢力をつぶすこと。だから、懐柔策など持ちません。徹底的につぶして、やっと目的達成、なのです。

普通の人間らしさなど、持ち合わせていなかったからです。自分が頂点に立つことによってのみ、世の中は安定に向かうと信じて(笑、がつくほど)疑っていなかったからです。

とんでもない奇人、薄情者、人格破壊。しかし、それらは全て、今よりましな世の中を願って、わき目もふらず直進したがゆえ。本人に、虐殺、という意識は皆無であったと思われます。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

 確かに織田信長は周りの情勢を気にせず「天下武布」のために突き走った。三国志でいえば曹操の意志が強くなったバージョン、といったところですか。
 それゆえに邪魔なものは徹底的に潰す。という思想を持っていたから、戦国時代で領土を広げ続けることができたのでしょうか。
 回答ありがとうございました。

お礼日時:2001/09/12 20:35

寺社勢力を嫌い、それと激しく対立した信長にとって、一向一揆はどうしても潰しておかなければならない勢力でした(あと、一向宗の総本山、石山寺は室町幕府将軍足利義昭から反信長勢力の結集による信長打倒をもちかけられていました)。

相手が打たれ強い宗教勢力でもあったため、反撃できる力すら残さないための虐殺も致し方なかったのではないでしょうか。
    • good
    • 0

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q信長を中心にした戦国時代の勢力図

信長の生誕から本能寺でたおれるまでの勢力範囲のわかる図をさがしています。
できれば、桶狭間、岐阜攻略時など転換点となった時期ごとの情勢が解かるもので、図は名称だけでなく、地図上で色分されているとたすかります。
ソースはHPもしくは書籍です。

Aベストアンサー

http://www5a.biglobe.ne.jp/~fnao/sengoku/kennsin2.htm

こういうやつ?

Q【日本史・織田信長の死際の行動の謎】織田信長は本能寺に滞在中に家臣の明智光秀が攻めて来たという一報を

【日本史・織田信長の死際の行動の謎】織田信長は本能寺に滞在中に家臣の明智光秀が攻めて来たという一報を受けて、自分が普段座る鎮座に影武者の家臣を置いてその影武者に短い手槍を渡した。

織田信長本人は奥の間に移動して、明智光秀が攻め込む前に自害することを決意してすぐに自害用に家臣を連れて奥の間に行き介錯(かいしゃく)=自ら切腹した織田信長の首を跳ねる役の家臣を同行させて奥の間で自害した。

明智光秀がまだ攻め込こんでいないのになぜ明智光秀が攻め込むという一報を聞いて、明智光秀が攻め込む前に奥の間で自害したのか。

自害する必要がどこにあった?

なぜ織田信長は明智光秀と戦うという選択ではなく、最初から自害の道を選んでいたのか不思議じゃないですか?

おかしな話ですよね。

何かひっかかりませんか?

Aベストアンサー

光秀が攻めるときは、理詰めの確実な方法を取るはず。信長が前に出て戦闘状態になったら光秀の注文通り。
信長自身がしばらく生死不明という状況にするのが、あの夜の最善手だったからでしょう。
 事実、秀吉が引き返して山崎の合戦になったとき、秀吉側は、信長は脱出に成功、自分は信長の指示で指揮を取るという噂を流して、精神的動揺を誘ってます。

Q戦国時代の勢力図

 安土桃山時代の全国の勢力の変遷が知りたいのですが、何かいいものはあるでしょうか?
 特に、領地が変わっていく時に、その周りの地域の領主はどうなっているのかなあと疑問に思っています。年代ごとに領主名を書いているような地図が見たいので、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

samRAI web!の中のcartogramから見る「日本戦国勢力」をご覧あれ。
これで5年毎と移り変わりが確認できます。

http://www5.airnet.ne.jp/samrai/war_jp16c/carto/crt1540h.htm

Q中学の歴史について質問です。 戦国時代に織田信長が、1568年にほかの戦国大名よりも早く京都を抑え、

中学の歴史について質問です。
戦国時代に織田信長が、1568年にほかの戦国大名よりも早く京都を抑え、足利義昭を将軍としたのに、1573年に足利義昭を追放して、室町幕府を滅ぼしたのですか?

Aベストアンサー

元々、室町幕府はあまり他の大名を統制できるような力を持っていませんでした。
そして、応仁の乱を抑えられなかったことにより、完全に幕府、将軍の権力はなくなり、その時々の実力者が、自分の意向を世に広めるために、将軍の名前を使って命令をする、というような状態でした。
そのため、都合が悪くなると、将軍を退位させ、別の将軍を立てる、なんていうことも珍しくない状態でした。実際、足利義昭が将軍になる3年前には、義昭の兄である13代将軍・足利義輝が、近畿地方で一大勢力を持っていた三好氏によって殺害され、替わりに義栄が14代将軍として擁立される、ということまで起きています。

信長が義昭を将軍に添えたのも、理由としては同じです。
世の中に色々と命令などを出したいが、自分の名前で出すと周囲の大名たちの反発を生んでしまう。義輝を殺害して、義栄を擁立した三好氏と同じように信長も、義栄を追放して、義昭を擁立することで、義昭の名前を利用しようとしたわけです。
実際、足利義昭を将軍に添えてから数年で近畿地方における勢力を確立しました。
しかし、信長の力が伸びることに反発した義昭は、周囲の大名に対して信長を討って自分を助けよ、というような書状を出すなどしました。
信長としては、近畿地方をほぼ制した上に、自分の敵ばかりを作る義昭、室町幕府はもはや用無し。なので、追放し、幕府を滅ぼした、ということになると思います。

元々、室町幕府はあまり他の大名を統制できるような力を持っていませんでした。
そして、応仁の乱を抑えられなかったことにより、完全に幕府、将軍の権力はなくなり、その時々の実力者が、自分の意向を世に広めるために、将軍の名前を使って命令をする、というような状態でした。
そのため、都合が悪くなると、将軍を退位させ、別の将軍を立てる、なんていうことも珍しくない状態でした。実際、足利義昭が将軍になる3年前には、義昭の兄である13代将軍・足利義輝が、近畿地方で一大勢力を持っていた三好氏によ...続きを読む

Q米ヒップホップ界の勢力図

アメリカのヒップホップ界の勢力図が分かる書籍やHPを教えてください。

Aベストアンサー

米ヒップホップ界の勢力図

ラップとヒップ・ホップの正確な違いを、各ジャンルのアーティストやファン、その他さまざまな関係者に説明してもらったとしても、てんでんばらばらな答えが返ってくるに違いない。しかしながら、ヒップ・ホップは音楽という以上に、アート/ブレイクダンス/ファッションなど文化的な現象を示すものであり、一方、ラップは音楽のひとつのタイプである――という定義には、ほとんどの人が賛成するだろう。また、ラッパー兼社会理論家であるKRS-Oneは「ラップは行動、ヒップ・ホップは信条」と語っているが、これもまた頷ける発言ではないだろうか。

勢力図はありません。

参考URL:http://www.listen.co.jp/xtpsub494.jsp

Q織田信長以外の戦国大名はなぜ同じことができなかった?

織田信長が、今日の基準からみて、軍事政策でも、経済政策でも、人事政策でも、合理的な体制をつくったことは、よくわかるのですが、
戦国時代には、織田信長以外にも、優秀な戦国大名も多かったと思います。
武田信玄も上杉謙信も優秀でしたし、朝倉家も昔は優秀な人が多かったと思います。
織田信長が、革新的で合理的な体制をとったので成功したとすれば
他の優秀な戦国大名は、なぜ、信長と同じように、革新的で合理的な体制をとれなかったのでしょうか。

Aベストアンサー

信長は圧倒的に天才的な人物です。単なる優秀な人とは全く異なると思います。
父親が亡くなり家督を継いだ段階では尾張の弱小勢力という段階でしたが、
桶狭間で今川義元を倒した頃から尾張全体を手中に収め、その後は美濃を攻め
京へと進んで行った訳ですが、この時代の戦国大名は京に上り天下人になろう
などと誰も思っていなかったと思われます。

落ちぶれたとはいえ当時は足利将軍家の末裔が健在であり、各地の大名は
あくまでも将軍家の部下という立場になっていて、その足利将軍家を倒して
自分が天下人になろうなどと誰も考えておらず、戦国大名が考えているのは
隣国と戦って少しでも領土を広げようと考えているだけです。
武田も上杉も朝倉も毛利も天下人になろうなどと考えていなかったのが実際でしょう。

それに比べて信長は早くから「天下布武」という印を使うようになったことから
天下統一を念頭に置いて行動し始めた人です。
信玄や謙信とは志が全く異なるのが分かるのではないでしょうか。

またこの時代は農業が根本であり商人は軽く見られていた時代ですが、楽市楽座政策
でも分かるように信長は早くから商業を大切にしていた人です。
岐阜など信長の支配する城下では商業が盛んになり、他の地方に比べてかなり
賑わっていたようです。
こうした好調な経済を背景にして鉄砲を爆買いすることができたといわれています。

また、いつまでも信長に反抗していた為に比叡山や本願寺を焼き討ちにしたので
あって、その後の日本では政教分離が為されることになり信長の功績は計り知れません

信長のことは当時の常識では理解されなかったでしょうが、現在では理解できるような
政策が多いのです。日本史上もっとも天才的な人物だったことは間違いないか思います。

信長は圧倒的に天才的な人物です。単なる優秀な人とは全く異なると思います。
父親が亡くなり家督を継いだ段階では尾張の弱小勢力という段階でしたが、
桶狭間で今川義元を倒した頃から尾張全体を手中に収め、その後は美濃を攻め
京へと進んで行った訳ですが、この時代の戦国大名は京に上り天下人になろう
などと誰も思っていなかったと思われます。

落ちぶれたとはいえ当時は足利将軍家の末裔が健在であり、各地の大名は
あくまでも将軍家の部下という立場になっていて、その足利将軍家を倒して
自分が天下人に...続きを読む

Q東洋史「しゅんじゅう戦国時代」?

東洋史「しゅんじゅう戦国時代」?

大学生です。
東洋史でしゅんじゅう戦国時代というのを勉強するらしいのですが、
字は「春秋戦国時代」であっていますでしょうか?
他に勘違いしそうな時代の名前はありますか?

おそらく東洋史の一番最初の段階だと思われます。

Aベストアンサー

字はあってます。

中国史ですね。夏・殷(商)・周・春秋・戦国・秦・前漢・新・後漢・三国・・・と続きますが、「秦」「新」「晋」「清」と「シン」と読む時代が4つありますので混同しやすいです。

Q織田信長は

父親の遺影に灰をかけたんですか??

Aベストアンサー

No.1の方に座布団を3枚くらい差し上げたい。

こういう話は後世の作り話であることが多いのですが、
この話に関しては信長公記という信憑性がかない高い
文献に記載があります。
灰をかけたというより、焼香の抹香を投げつけたようです。
戦国の世で争議をしている場合ではないという意味でしょう。
http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shincho1.html

Q戦国時代の女性で虫垂れぎぬ姿の人はいたのか

戦国時代の女性の服装について教えてください。

平安から鎌倉に主流だった笠に布が覆われている、
顔を隠すor虫除けの役割ににもなった、いわゆる虫の垂れ衣をつけた姿は、
戦国時代の女性でもみられたのでしょうか?
http://www.e-tohoku.jp/mapimages/komati.jpg

色々検索してみたのですが、やはり基本的に平安時代の名前しか出てこなくて
戦国時代の女性がこれをかぶっていた情報をみつけられませんでした。
ただの笠をかぶるのは雨や雪よけを考えると、戦国時代にもあったと思うのですが、
いわゆるそこに布をつける垂れ衣は、やはり戦国時代には主流ではなかったということでしょうか。

たまに画像検索で戦国武将の鎧をまとったそばに、
虫垂れぎぬ姿をした女性がセットでいる写真を見たこともあり
主流ではなかったにしろ、戦国時代でもかぶっていた人はいたかもしれないと思ったのですが・・・

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

まず、URLの写真は「市女笠」(いちめがさ)と呼ばれるもので、
菅や藺(い)で編んだ笠を被り、笠には「苧(お=真麻)」で作られた布を垂れる。
これは顔を隠すためであるが、虫除けや日焼け止めにもなるという利点がある。

これは、平安時代の公家文化から来ており、公家は男女を問わず、あまり人前には顔を見せないことが高貴だとかんがえられており、市中を出歩く時に被りました。

では、戦国時代は・・・と言うと、やはり、公家を中心に用いられていましたが、武家では余り用いられませんでした。
ただ、虫除けや日焼け止めと言う観点から、城主婦人などは被っていました。

また、武士が公家の娘を嫁にもらうような時には、その文化が地方にも伝播しましたが、女性が優雅に出歩くような時代ではありませんでした。従って、一般庶民には流行はしませんでした。

http://www.iz2.or.jp/mushinotare/index.html

Q織田信長、羽柴秀吉、徳川家康のガチシーン

ガチでヤバかった戦のベスト3を教えてください。

※当人が参戦したものに限る
タイムリーな説明あれば嬉しいです

ちなみに・・・・・・

織田信長
1位 本能寺の変 (というか死んでいる) 
2位 金ケ崎の逃げ (雑賀孫一により足に銃弾浴びたとか?)
3位 姉川の戦い (13段構えなのに恐ろしい)

羽柴秀吉
1位 金ケ崎のシンガリ、大逃げ(死を覚悟してたらしい)
2位 山崎の合戦 (戦場に着くまでのハラハラ感)
3位 小牧・長久手の戦い (家康やっぱりつおい)

徳川家康
1位 武田信玄チームと戦いクソ漏らした時のやつ (絵とか書いてもらった)
2位 関ヶ原の戦い(秀忠がまだこないと知った瞬間)
3位 大阪・夏の陣(真田が突っ込んできた時間帯)

当ってます??

回答、宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

では補足を
この辺は私の一番の得意分野でして


実は家康は大阪夏の陣で死亡していた
という説が最近は通説になりつつあります
実は大阪の南宗寺という寺に家康の墓があるのです
大阪夏の陣で決死の攻撃を仕掛けた後藤又兵衛から逃れるために
家康は葬儀の棺に入って逃げるのですが 怪しんだ又兵衛に棺を槍で突かれ
南宗寺にたどり着いて絶命したそうです

ただ 真田幸村の壮絶な戦いぶりが徳川家で語り草となったので
幸村に追い詰められた と現代に伝わっているようです

実際家康は大阪の陣後消えました
影武者が現れたんですね
小笠原秀政という人物が替え玉だと言われています

秀忠と家光も南宗寺に参拝しているし
歴代将軍が何故か後藤又兵衛の墓にも参っているのです


人気Q&Aランキング

おすすめ情報