No.19ベストアンサー
- 回答日時:
マズローによる? 1生存、2安全、3社会参加、4承認、5自己実現 のアイデアを踏まえてみます。
他者から期待され、それに応えることは嬉しく、満足を伴います。2と3と4に属するかもです。
5自己実現は、自らへの期待に自ら応えることによる個性化と良化かもです。
他己実現(他者実現・自他実現)は、1~5の充足を集団で行うこと(すでに人々や生物がそれを行なっていることを客観視すること)かもです。
自他実現は相補的なので利他を伴います。
互いの自己実現を差異的に模倣することもあります。それは各自が個性を持つRAIDのような関係を構築し、維持・発展するようなことかもです。
かなり遠望していただいたみたいでうれしいです。
客観視する、利他を伴う、それぞれの個性を内包するRAIDなど、具体的な象が少し垣間見えた気がいたしました。
ありがとうございます。
No.22
- 回答日時:
★ (№21お礼欄)
風の生まれる場所と、風の行き着く場所、双方ともに大切だし、重要で、対等で、平等なのでしょう。
☆ 《思いのままに吹く》という風。非常にやっかいなわれわれの相手ですが そのややこしい吹き方にしても あんがい辻褄が合っているということかも分かりません。
(えらそうに言ったので バチがあたるかも)。
☆ なお 間主観性は 相互主観性とも言います。
ひとりたる独立主観とともに 二角関係たる相互主観性も 重要になってくるように思われます。
☆ わたしからは このあたりまででしょうか。ありがとうございました。
この度は重なるご回答ありがとうございました。
引用:あんがい辻褄が合っているということかも分かりません。
きっとそうであることを願います。
この一連の皆様との会話で、わたしも常不軽菩薩であろうと、思うことが出来ました。
それは即ち他者の胸に火を灯すことであり、あるいはその灯を励ますことに他ならないと知りました。
ある人々は石を投げるかもしれませんが、巧く躱しながらそれ(不軽)を行じていきたいと思います。
No.21
- 回答日時:
☆☆ 引用:そして 善智識となって他者の自己実現に ささやかながら 力添え出来たとした場合 私見では こちらは別に満足するというわけではない。
何ものかナゾの心霊体によってすでに満たされているからです。善智識となれたことは うれしいですが。
★ (№20お礼欄》大体同意ですね。
☆ おお。そうですか。
★ その人、ないし「私」自身が風の生まれる場所になっているということが、他己実現のための善知識足り得る状態だと思います。
というのも、あからさまな能動性では、善知識になるのは難しいと思うからです。
☆ なるほど。おしつけがましいのは 避ける。
★ なので、善知識となれたことが嬉しいと言うよりは、善知識足り得ることは、その空に満たされていると言う事で満足の下地があり、無住処涅槃によって願を達成するのだとおもわれます。
☆ ええ。あとは そういう実存の過程をあゆみきるんだと思います。
★ しかし無住処涅槃には、また救われる側と救う側がいるので、完全に対等、平等と言うと言うよりは、むしろ開きが生まれてしまっています。凡人と菩薩との間の開きがある。それだと菩薩は善知識になれない。
☆ それはですね。早いか遅いかです。それだけです。
あとの者が先になり 先の者があとになる――こともあるわけです。
★ ~~~
相手を善知識たらしめることこそが他己実現なのではないか?
と、新視点を提出してみたいと思います。
~~~
☆ 成功するかは 絶対他力によるかと思うので 無住処涅槃に入ることへみちびくかたちとなったこと これが そのつどのこちらの自己実現ですし また他己実現になる。――と思います。
引用:あとの者が先になり 先の者があとになる――こともあるわけです。
これはそういう事かも知りません。
風の生まれる場所と、風の行き着く場所、双方ともに大切だし、重要で、対等で、平等なのでしょう。
No.20
- 回答日時:
★ (№18お礼欄)
御釈迦さんの善知識はスジャータであった、スジャータの善知識は御釈迦さんではないまた別の人であるだろうと言う事です。二角関係ではなく、全人類的な多角関係による全体としての縁起が形成されているのではないかと思います。だから、人の数だけ道と門があり得るのだと思います。
☆ ま 実際問題としてそういった成り行きじょうの・一方の側に限った善知識の存在ということは あるかも。
★ しかしこれらは口頭で述べ挙げた実りのない会話に陥っていることも考えられます。
☆ 成り行きといった現象を重んじるわけです。
修行仲間たちは 苦行を放棄したゴータマを 堕落した者と見なし棄てて行きました。ゴータマは 深追いはしない。二角関係の自由度。
★ 既に成仏していると言うのであるならば、何故その事に気がついていない人と気がついている人がいるのかという問題こそ、この他者による自己実現、自己による他者実現の範疇と思われます。
☆ ですから 《無住処涅槃》が出て来ます。
▲ ( WikiArc:無住処涅槃) ~~~~~~~
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%84%A1%E …
――とは、
智慧によって煩悩障と所知障とを離れているから
生死(迷いの世界)にも停滞せず、
しかも大悲をもって衆生を救済するために
迷いの世界の中で活動するから
涅槃の境地にもとどまらないことをいう。
▼ (『岩波 仏教辞典』1989年版:無住処涅槃) ~~~
・・・生死の世界にとどまることなく かといって涅槃の世界にも入らない状態 すなわち生死煩悩の迷いの世界にもさとりの世界にもとどまらない涅槃のことをいう。
〔・・・この〕思想の背景には あらゆる人びとを救うためには 自らがさとりの境地に入っていては救うことができない といって煩悩に捉われていても救うことができない 自らはさとりの境地を体験しつつもその世界にとどまらず 悩み多い人びとの住む生死界にあって活動することこそ菩薩の行である という大乗仏教思想の展開が見られる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★ 阿弥陀の誓願は
☆ けっきょく 無住処涅槃に通じるのだと思われます。直観ですが。
☆ 例によってわたしのひと言多い悪癖に堕するとしますと 他己実現は まさしく無住処涅槃の問題だとなります。
そして 善智識となって他者の自己実現に ささやかながら 力添え出来たとした場合 私見では こちらは別に満足するというわけではない。
何ものかナゾの心霊体によってすでに満たされているからです。善智識となれたことは うれしいですが。
引用:そして 善智識となって他者の自己実現に ささやかながら 力添え出来たとした場合 私見では こちらは別に満足するというわけではない。
何ものかナゾの心霊体によってすでに満たされているからです。善智識となれたことは うれしいですが。
大体同意ですね。
その人、ないし「私」自身が風の生まれる場所になっているということが、他己実現のための善知識足り得る状態だと思います。
というのも、あからさまな能動性では、善知識になるのは難しいと思うからです。
なので、善知識となれたことが嬉しいと言うよりは、善知識足り得ることは、その空に満たされていると言う事で満足の下地があり、無住処涅槃によって願を達成するのだとおもわれます。
しかし無住処涅槃には、また救われる側と救う側がいるので、完全に対等、平等と言うと言うよりは、むしろ開きが生まれてしまっています。凡人と菩薩との間の開きがある。それだと菩薩は善知識になれない。
相手を善知識たらしめることこそが他己実現なのではないか?
と、新視点を提出してみたいと思います。
No.18
- 回答日時:
★ (№15 お礼欄)
スジャータ(善知識)・・・がいなければ御釈迦さんは解脱できなかったと思うと、他者と自己の平等で対等な、互い関係は間違いではないような気がしています。
☆ いえ。問題の筋が違うと思います。
この二角関係で言えば 相手であるスジャータがさとりを得ないうちは ゴータマ氏も 成道に到らないという問題です。
もしスジャータはさとりを得たのだと言うとすれば ゴータマ氏にとっての二角関係は ほかにいくらでもあります。
修行のときの師匠たちやまた仲間たちそれぞれです。これら一人ひとりに向き合って:
★ あなたが悲しいと私もすっきりしない、私がスッキリしていたらあなたも落ち着いてくる、とか、相互作用、と言いますか。
☆ を互いにブッダとなるまで 実践しなければいけない。
★ 自分では届かない自分の欠点や傷というものがあると思います。背中側とか死角とか、自分の身体や意識が邪魔になって届かない、或いは見えない部分です。それが常に苦悩として付きまとっているのではないか?そして他者ならそれが見え、またそれに届くのではないか?という風に思っています。
◆ ( bonbonnier さん:共業) ~~~~
共業については・・・
アーラヤ識と他のすべての衆生のアーラヤ識との相依相即性の縁起
を説きます(竹村牧男著『唯識の構造』)。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ つまり 苦からの解脱をともに目指しともに実践するというとき その二角関係における共業は 《アーラヤ識どうしの――肝胆相照らす(?)――相依相即性》なわけです。
必ずしも意識にのぼった事態ではないかも知れない。
《無住処涅槃》の実践も 具体的な間主観性として話し合うことは 他愛ないことやあるいは思想としての議論であって その縁起共生の姿は ふつうの日常生活を基礎としている。
ぎゃくに雲をつかむようなお話にのがれて 仮りにアミタ―バ・ブッダの本願を取り上げるなら こうです。:
▲ (WikiArc:第十八願) ~~~~~~~~~~~
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%AC%AC%E …
設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念。若不生者 不取正覚。
意 訳
たとえ私が、仏陀(真実に目覚めたもの)となりえたとしても、
もし生きとし生ける全てのものが、
ほんとうに(至心)疑いなく(信楽)
私の国に生まれる事が出来るとおもうて(欲生我国)、
たとえわずか十遍でも私の名を称えながら(乃至十念)生きているものを、もし私の世界に生まれさせる事が出来ない様なら(若不生者)、
私は本当に目覚めたものと呼ばれる資格がない(不取正覚)のだ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 理論に徹すれば こういった論点整理になるかと思うんですが。
御釈迦さんの善知識はスジャータであった、スジャータの善知識は御釈迦さんではないまた別の人であるだろうと言う事です。二角関係ではなく、全人類的な多角関係による全体としての縁起が形成されているのではないかと思います。だから、人の数だけ道と門があり得るのだと思います。
しかしこれらは口頭で述べ挙げた実りのない会話に陥っていることも考えられます。既に成仏していると言うのであるならば、何故その事に気がついていない人と気がついている人がいるのかという問題こそ、この他者による自己実現、自己による他者実現の範疇と思われます。
阿頼耶識の事についてはよく分かりませんが、無意識下で行われると言う点は、大いにあり得ると思いますし、むしろ意識的であからさまだとならないのかもしれません。
阿弥陀の誓願はなんか分かるような分からないような、しかしやっぱりわかる気がします。
この手の誓願は他にも聞いたことがあります。
仏になると言う事はそういう事なのかもしれません。
まぁ、雲で絵を描くような話ですが(笑)
No.15
- 回答日時:
★ (№13お礼欄)
だからよくある、自分のことは自分でやれよ節、自己責任論は、根本的に誤っている部分があるのではないか?とも思ったりしました。
☆ いわゆる自己責任論は――自己責任という命題じたいは ふつう一般の《人間の自由》の問題だと思いますが―― 権限を有する側の者が しばしば自分たちの責任をまぬかれるために打(ぶ)つ議論のようですね。
★ ~~~~~~~~~~~~~
☆☆ 《おまえがすくわれるのでなければ おれもすくわれ
ない》といった運命共同体であるのかどうか。
まさしく早い話ですね。そう言うことになるかと思います。そして実際それはそうなのではないか?と思うのと同時に、自己の問題は他者が、他者の問題は自己が、解決可能なようになっているのではないか?
とさえ思うわけです。
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ いや ここは 見解が分かれますね。
だって 運命共同体説に立つなら ゴータマ・シッダールタくんは 自分ひとりだけ勝手に抜け駆けした・・・ってことになりますまいか?
わたしの考えでは:
★ 自己の問題は他者が、他者の問題は自己が、解決可能なようになっている
☆ という事態について 基本は おのおの一人ひとりの主観内部において展開することではないかです。円満な二角関係の道にとって まづは基礎として 思考による整理であり思考としての解決といったかたちです。
間主観性の問題は やはり当事者双方の《あいだ》にある。つまりは その二角関係が ぞれぞれの自由意志を互いに拘束したり制約したりするといった意味で一体であるのではない。
《独立》という言葉は精確ではないとは思うのですが 言ってみれば二角関係は それぞれ一個の独立主観として成り立っていると。
(連れ合いどうしのツイ(対)関係は 人格として互いに一体(一心同体)であってよいかと)。
(トリヴィアとしては 運命共同体という言い方は しばしば心や思考の自由を束縛しがちになる・・・のではないかと思うところがあります)。
自由な共業という見方によって 互いに助け合いやユヅリ愛が成り立ってくるかと。
御釈迦さんについては、スジャータ(善知識)の話が有名ですが、スジャータがいなければ御釈迦さんは解脱できなかったと思うと、他者と自己の平等で対等な、互い関係は間違いではないような気がしています。
自分では届かない自分の欠点や傷というものがあると思います。背中側とか死角とか、自分の身体や意識が邪魔になって届かない、或いは見えない部分です。それが常に苦悩として付きまとっているのではないか?そして他者ならそれが見え、またそれに届くのではないか?という風に思っています。
運命共同体と言うよりも、あなたが悲しいと私もすっきりしない、私がスッキリしていたらあなたも落ち着いてくる、とか、相互作用、と言いますか。
曖昧な表現で申し訳ないですが、そんな感じです。人格はそれぞれ独立している方が良いとは思います。
No.14
- 回答日時:
人間は、自身が“応援する”他者・或いはチームが、目標を実現する事によって“満足”するのではないか?と云うのが質問の意図でしょうか。
「自分の中に他者がいる」と云う言葉が気に入ってるようですが、これは単に思いやりの心の事、のように思うのです。
それとも、ニャンポコさんのように、社会性を帯びた具体的な答えを通して、疑問の解消を狙っているのでしょうか。
私の先の回答は自己の利益よりも、それを他者に譲る事が出来たときの方が、なぜか自身の心に満たされ感が生じる、と云う事への疑問かな?と思っての事でした。
沢山の回答が寄せられましたが、今はどのような心持でしょうね。
そうです。思いやりの心です。基本は。その回答が、構造や仕組みを見たものなのか心情を見たものなのか、その他の切り口か、それはいずれでも歓迎です。
利益という観点では、他者の利益が自分の利益になると言う両得という感じの状況を問うています。
今はお陰様でいい感じの心境ですね。ただ、質問者の立場は回答者の立場よりも多岐に渡った観点を持たないと応答できないので、そこは難しいですね。どうしても力不足にはなります。
No.13
- 回答日時:
★ (№6お礼欄) なぜ他己実現かと言いますと、自己だけでは自己実現が難しいと思ったからです。
☆ 志向の内容あるいはその理論的に捉えようとする内容 として受け留めるなら 問題なしと受け容れていました。いま 再読吟味して いくらか違った角度から別様の見解も 成り立つかも知れないと思い始めました。
問題としては:
[a] 《間主観性》が 双方の《間》にあるのか? (そしてそのときには 双方のそれぞれ半ば独立した主体性〔としての自己実現〕が 主題になると思います)。
または
[b] 相依相即性と言いますか 主観とその主体性が 二角関係にあってけっきょくのところ言わば一体であるのか?
つまり:
★ 自己だけでは自己実現が難しい
☆ と見るべきか? です。
その前に たとえば:
★ つまり、他己実現が自己実現にもなるのではないか?というところまで話はいくのではないかと思っています。
☆ と考えた場合には ほう ほう そうだと思うよといった応答になるかと思うのです。
つまりはただし では 果たして:
★ 信条審理〔☆ 心理?〕の問題として、まさしく人の生きる姿における構造として、つまり人間関係の基本的な形として、そうなっているのではないかと思う次第です。
☆ と言えるか? という問いに帰着するかと思います。
かんたんな・例の構造主義における《関係主義――関係性の絶対(?)――》なる議論に対してなら いや それは 違うと言えると思います。
ネットワークの網の目を成してつながるその関係性は しかしながら 必ずそこに節目がある。関係性は あくまで結節点どうしをむすんでいるんだと。
結び目は 個人としておのおの自由意志の主体であることを形成しており ネットワークそのものの中に埋没してしまうわけではない。
では 自己実現と他己実現との関係は どうか?
任意のふたりの人の《二角関係》は すでに互いの自然本性として一つの《構造》を成しており この二角関係構造が 人間関係論にとって――個々の人間のとうとさと共に・それと同時に――哲学の問い求めにとって主役を成すと見るべきかどうか。
早い話が 間主観性を成す構造というのは 《おまえがすくわれるのでなければ おれもすくわれない》といった運命共同体であるのかどうか。
ゴータマくん一人だけが――さいわいにも 人びとに先駆けて――ブッダのさとりを得た。といった単独成仏は ありやなしや?
どうでしょう? どうぢゃろう?
おあとがよろしいようで。
引用:早い話が 間主観性を成す構造というのは 《おまえがすくわれるのでなければ おれもすくわれない》といった運命共同体であるのかどうか。
まさしく早い話ですね。そう言うことになるかと思います。そして実際それはそうなのではないか?と思うのと同時に、自己の問題は他者が、他者の問題は自己が、解決可能なようになっているのではないか?
とさえ思うわけです。
だからよくある、自分のことは自分でやれよ節、自己責任論は、根本的に誤っている部分があるのではないか?とも思ったりしました。
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