カント以降は経験論と合理論の論争はなくなったのでしょうか?もし、なくなっていないとしたら、カント以降から現在までどのような状況で存在しているのでしょうか?
私は哲学の初心者で、一応自分なりに調べたのですが分かりませんでした。どうか返答をお願いします。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (1件)

大雑把に言って3つの方向に分かれたように思います。


経験論の系譜は主としてヒュームなどの不可知論の流れに続きます。新カント主義主義あたりもこのへん。現象学もどちらかというとこっち。
一方合理論の系譜は論理主義的傾向に行き着きます。
ラッセル、ヴィトゲンシュタインらの論理実証主義あたりがその継承者だと思います。
そしてヘーゲル、マルクスなど弁証法の系譜。経験論と合理論を統合した、と称しています。
    • good
    • 0

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Qカントでの、理性と理念の関係

 カントでの、「理念」の、「理性」との関係がよく分かりません。 感性→悟性→理性の展開に対応して、その先験的形式面として、時空→カテゴリー→理念という展開を考えてよいのでしょうか?
 よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

長たらしい割には内容のない回答を丁寧に読んでくださって、ありがとうございます。
哲学カテで回答する際は、質問を機に、読み直し、整理し直し、独りよがりな考え方をしている部分がないかどうか見直す機会にしているので、補足をくださるのは大変ありがたいです。
ちょっと曖昧なところもあったので、久し振りに『純粋理性批判』を引っ張り出してみました。

まず(1)に関して。
理解の道筋として、正しいと思います。

先に(3)に関して。
まず、この「制約」とは、辞書で見る
「(1)制限や条件をつけて、自由に活動させないこと。
(2)物事の成立に必要な条件や規定」(「大辞林 第二版」)
の(2)にあたります。

だから、前の回答で
>(ここからここまで、という制約がないと、体系づけることは不可能です)。
と書いたのは、間違っていますね。
ごめんなさい。
誤りの訂正も含めて、もう少し「制約」について、詳しく見ていきます。

理性の推理とは、具体的には三段論法です。

「各三段論法においてわたくしはまず悟性によって、ひとつの規則(大前提)を考える。
次に判断力を媒介として、ひとつの認識(小概念)をその規則の制約(媒概念)のもとに包摂する(小前提)。
最後にわたくしはその規則(大前提)の述語(大概念)によって、わたくしの認識を規定する(結論)」(B361)

具体的に考えてみましょう。
いわゆる定言的推理というやつです。
すべての人間は死ぬ。…大前提
ソクラテスは人間である。…小前提
ソクラテスは死ぬものである。…結論
このとき、「人間であること」にあたるものが「制約」です。

あるいは、諸判断が与えられて(タレスは死んだ、ソロンは死んだ…)、ここから結論的な判断(ソクラテスは死ぬものだ)が導き出せないかどうか見るときは(帰納)、結論の含む客観(ソクラテス)が制約(人間であること)のもとに包摂されるならば、普遍的な規則(人間は死ぬものである)にしたがって、結論を見出すことができる。
このように、理性は、演繹を帰納に導入することによって、きわめて多様な悟性の認識を、最小限の原理に帰着させ、最高の統一を与えようとする。

つまり制約ということに関していうなら、理性は、ソクラテスを、より一般的な「制約」である「人間というもの」のもとに包摂していき、さらに人間を、より一般的なものに包摂せしめるような「制約」を求めていく。

その一切の概念の根幹にあるのが「無制約者」です。
ただ、この無制約者は、現実に見出し得るものではありません。
それでも人間の理性は、求めることを止めることはない。
そのために理性には、先験的理念という形で「無制約者」の表象、つまり無制約者の概念はあるんです。
この先験的理念は与えられてはいないけれど、求めていくことが人間には課せられている。

与えられていると誤解すると、先験的仮象という誤りに陥ってしまう。

たとえば思惟する主観の無制約者は霊魂です。
思惟する主観、の一番根幹というと、通常は、「われ思う」の「われ」と思いがちですが、この「われ」は実体として認識されないんです。なぜかというと、「われ」は論理的な判断主体ではあっても、私たちは「われ」の直観を持っていない。
霊魂について考えること(心は単一な実体であるとか、非物質であるとか)は、「実体」としての「われ」を基礎にして初めて成り立つものであるから、誤謬を犯している(先験的誤謬)。

同様に、世界についての先験的仮象は二律背反として、神の理念の先験的仮象は純粋理性の理想として、これまでの形而上学のあり方を批判していきます(ここらへんは岩崎武雄の『カント』がかなりよくまとまっています)。


最後に(2)に関して
>悟性と感性の間を仲立ちする「図式」のように、理性と悟性の間を仲立ちする。

「制約」は、理性が多様な悟性認識を統一しようとする時に、媒介となる条件である、とまとめることはできないでしょうか。

わかりにくい部分があったら、ご指摘お願いします。

長たらしい割には内容のない回答を丁寧に読んでくださって、ありがとうございます。
哲学カテで回答する際は、質問を機に、読み直し、整理し直し、独りよがりな考え方をしている部分がないかどうか見直す機会にしているので、補足をくださるのは大変ありがたいです。
ちょっと曖昧なところもあったので、久し振りに『純粋理性批判』を引っ張り出してみました。

まず(1)に関して。
理解の道筋として、正しいと思います。

先に(3)に関して。
まず、この「制約」とは、辞書で見る
「(1)制限や条件をつけて...続きを読む

Q実存主義・イギリス経験論・大陸合理論・批判哲学・ドイツ観念論

哲学のテストが今月にありまして、誰にしようかなと思いながら何冊か著作を読みましたがいざ書くとなると何と絡めて書けばいいのかわからず・・・(つまり理解できてない・・・)別のにしようかと思ったのですが、正直時間がありません。

実存主義・イギリス経験論・大陸合理論・批判哲学・ドイツ観念論(マルクス・キルケゴール・マルティン・サルトル・ニーチェ・ヘーゲル・ルソー・ロック・ヒューム・スピノザ・ライプニッツ・カント・パスカルなど等)
の中の哲学者から選ぶのですが、レポートの書きやすい人はいませんか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

ヒューム

Qカントの純粋理性批判で文字が読みやすいもの

カントの純粋理性批判で文字が大きめで読みやすい翻訳本はどこの出版社でしょうか?

Aベストアンサー

本の大きさは、作品社が大き目(A5)のようですが
ページ数を考えると文字が大きいとも思えません。

図書館で、昔のカント翻訳をさがされてはいかがでしょうか。
閉架まで探した方がいいと思います。

純粋理性批判は、元々が長編ですから
文字を大きくすると、膨大なページ数になります。
ですから、大きい文字の本を探すのはかなり難しいと思います。

ベターなのは、文字が大きく見える拡大鏡を買うことだと思います。
最近は、本を楽に拡大するものやメガネタイプでも軽いものとか出ているようです。
それだと、好きな訳者を選べるので便利かと思います。

Qカントの認識論についてまとめなければならないのですが、頭がついていきません!汗 カントの認識論って

カントの認識論についてまとめなければならないのですが、頭がついていきません!汗

カントの認識論っていうものは、感性→悟性のこの過程のことを表すのですか?
それとも、対象が認識に従うという内容のことを表すのでしょうか?

また、「理性」から純粋理性、実践理性が生まれたと考えていいのでしょうか?

ごちゃごちゃですみません。
お力添え、お願い致します。

Aベストアンサー

認識論だけなら、「純粋理性批判」を元に展開すれば良いと思います。
純粋理性とは、純粋な理性自体を示し、実践理性とは、理性による実践を意味します。
つまり、「純粋理性批判」とは、純粋な理性の機能を批判的に分析する事を目的として書かれた本です。(理性による認識の構造を分析しています)
「実践理性批判」とは、理性を実践的に利用する事を批判的に分析する事を目的とします。(実際は、理性の倫理学もしくは、道徳的実践のありかたを分析しています)
カントは、形而上学を、理性の論理的構造が、感覚と悟性による実体の表象を認識する事と分析し、実体そのものが、認識されるのではなく、表象を実体と見なす過程が認識だと言う事を主張しています。
つまり、実体→認識では無く、認識→実体と言う発想の転換を行ったわけです。
理性の認識は、実体そのものを意味するのでは無く、理性によりカテゴライズされた表象でしかあり得ないと言う事です。
これを、対象(実体)が認識に従うと表現します。
細かい内容については、「純粋理性批判」もしくは、カントの解説書などを参照してください。

Qカントの「理性」

カントは「理性」をどう捉えていたのでしょうか?

『純粋理性批判』を紐解いてみても、今一つすっきりしないのです。

「自分の『理性』のレベルでは、人間は過ちを犯す可能性が十二分にある」あるいは「自らの『理性』を過信してはいかん」

という感じで捉えているのですが、どうも自信持つことができないので。

ひょっとしたら、全く的外れなのかもしれないですが、どうか教えて下さいませ。

Aベストアンサー

 カントを読んだのは、随分昔になりますが、私見として・・・。

 人間に備わっている「ものを思考する能力」は、「絶対」を対象とすると、二律背反に陥る、これは、例えば、神の存在について、「存在する」と思考しても、「存在しない」と思考しても、同じように、理論的な提示が出来る、という例を示しています。

 カントは、人間理性のこのような限界を示すと同時に、それが、先天的に人間には備わっている、という2点を強調します。

 ここから、カントは、判断力批判において、格率、という考え方を導き出します。
 すなわち、ある一定の所与のドグマではなく、「その行為が全人類にとって、普遍妥当的であるかどうか」という観点から、自らの行動の規範を知れ、と言うわけです。

 「絶対」の前に於いての無限の無力、しかしながら、それゆえに、普遍妥当性を認識することの出来るアプリオリ(先天的)な人間理性の存在を指示することによって、彼は、最後の「人間存在の尊厳」を、証ししようと、揚言するわけです。

 因みに、カントの理性は、ヘーゲルでは、歴史的なガイストという概念によって捉えなおされ、「理性の狡知」による、歴史自体の発展の予定調和として、その先天性を保証されていくわけですが、考えようによっては、ヘーゲルのなかに既に、後年の「実存主義」の芽があるともいえるでしょう。
 

 いずれにしても、カントによって持ち出された「先天的に存在している」(アプリオリ)、という観点ですが、これは、当時の時代の一つの特徴であった、経験主義、カントの用語法によると「ア・ポステリオリ」(後天的)なもの、それのみで、神や人間理性、尊厳、真の意味での倫理規範、といったものを狭く限定的に規定することの誤りを、強く批判したかったのだと、私は、思います。

 分かりにくい言い方かもしれませんが、カントの理性批判は、上の意味で、存在論なのだ、という見方も出来るでしょう。

 
 ・・・・先天的に存在している人間理性の不可思議、について、深く相通底すると思われる、一人の天才的な思索者のことばを、引いておきます。

「しらるる際の知るからざるは、この知ることの仏法の究尽と同生し、同参するがゆえに、しかあるなり。」(道元・正法眼蔵)

 道元は、カントより500年以上前に生まれた日本人ですが、仏教には、もともと、唯識論などのような、認識論や存在論が含まれています。
 仏法、という宗教的なことばの背後に、後年付託された「宗教」という概念を被せてはいけませんよね。


 ・・・・以上ですが、カントについての詳細な解説としては、今、日本とドイツで共同出版されている、ハイデガー全集のなかに、彼のカントの講義録もあるはずです。


 

 カントを読んだのは、随分昔になりますが、私見として・・・。

 人間に備わっている「ものを思考する能力」は、「絶対」を対象とすると、二律背反に陥る、これは、例えば、神の存在について、「存在する」と思考しても、「存在しない」と思考しても、同じように、理論的な提示が出来る、という例を示しています。

 カントは、人間理性のこのような限界を示すと同時に、それが、先天的に人間には備わっている、という2点を強調します。

 ここから、カントは、判断力批判において、格率、という考え...続きを読む

Qカント実践哲学、要請論を含む全体の妥当性(道徳法則って本当に実在するの?)

カントの実践哲学の全体に関して、好みではあるのですが、今ひとつその論の中に納得の行かないところがあり、今のところカントの実践哲学全体への賛否を保留しています。
理性の事実としての道徳法則の実在から要請論へと展開していく中には問題がないように思えるのですが、肝心の道徳法則の実在を示すことはできていないように感じます。
『実践理性批判』第一編第一章第一節 定義の注の出だしに「我々が、純粋理性は実践的に…換言すれば、意志を規定するに、…十分な根拠を自らのうちに含みうることを認めるならば、実践的法則が存在する。しかしそうでない場合には、実践的諸原則は単なる格律でしかないだろう」とあり、純粋理性が実践的に十分な根拠を自らの内に含むことを示し、更にこの命題自体が正しいことを示すことができれば道徳法則が実在する、ということになるのでしょうが肝心のその点に関する言及が実践理性批判にはないようです。
この一点が否定されれば実践哲学としての体系全体が損なわれてしまう問題でもありますし、気を付けて読んでみたのですが、もしかしたら見落としてしまったかもしれません。まだ他の著作にはあたっていないので、もし、どこかでこの点に関する言及があることをご存じでしたらお教え下さい。

カントの実践哲学の全体に関して、好みではあるのですが、今ひとつその論の中に納得の行かないところがあり、今のところカントの実践哲学全体への賛否を保留しています。
理性の事実としての道徳法則の実在から要請論へと展開していく中には問題がないように思えるのですが、肝心の道徳法則の実在を示すことはできていないように感じます。
『実践理性批判』第一編第一章第一節 定義の注の出だしに「我々が、純粋理性は実践的に…換言すれば、意志を規定するに、…十分な根拠を自らのうちに含みうることを認めるな...続きを読む

Aベストアンサー

もんだいになさっているところがやっとわかりました(と思うんだけど、まだずれているかもしれない)。
おそらくそれは、昔から議論され続けている「理性の事実」問題ということになるかと思うのですが。

『実践理性批判』一の「純粋実践理性の原則の演繹について」の81-82に

「道徳律はいわば、われわれがア・プリオリに意識しているところの、必然的に確実であるところの純粋理性の事実として与えられている。……それゆえ道徳律の客観的実在は、いかなる演繹によっても、理論的で思弁的な、もしくは経験的に与えられた理性のいかなる努力によっても証明されえない。それゆえ、必然的な確実性を断念しようとしても、その実在が経験によって保証されるわけではないし、したがってア・ポステリオリに証明されうるわけでもない、それにも拘らず、道徳律はそれ自身で確実である」

という部分があります。
この部分は一般に「理性の事実」と称され、道徳律は演繹されない、というカントのこの主張をめぐってさまざまな批判や解釈がなされてきました。
本や紀要論文も数多く出ています。
あるいは、ヘーゲルは直接この部分ではないのですが、カントの「普遍立法」や「自由」「理念」をめぐって批判しています。

そうした本が参考になるかと思いますし、あと、学部生の方であれば、こういうところで質問しないで、先生に聞いてください(笑)。
答えているわたしの方は畑違いの文学屋です。パンキョーで興味を引かれ、『判断力批判』の講読ほか、いくつか授業を取った経験はありますが(『純粋』と『実践』は岩崎の『カント』と併せて講読についていくために読んだ)、基本的にシロートです。
そういうことで、院試がんばってね♪

もんだいになさっているところがやっとわかりました(と思うんだけど、まだずれているかもしれない)。
おそらくそれは、昔から議論され続けている「理性の事実」問題ということになるかと思うのですが。

『実践理性批判』一の「純粋実践理性の原則の演繹について」の81-82に

「道徳律はいわば、われわれがア・プリオリに意識しているところの、必然的に確実であるところの純粋理性の事実として与えられている。……それゆえ道徳律の客観的実在は、いかなる演繹によっても、理論的で思弁的な、もしくは経験的...続きを読む

Qカントの理性とはなんですか? 感性が情報を集めて=イギリス経験論 悟性がそれをカテゴライズする=デカ

カントの理性とはなんですか?
感性が情報を集めて=イギリス経験論
悟性がそれをカテゴライズする=デカルト思想合理主義
そして判断する
では理性はなんですか?

Aベストアンサー

質問文の中に答えがありますよ、感性→悟性だけでは判断できない事項、つまり感性で捉えられず、悟性でカテゴライズ出来ない概念は、理性でしか認識出来ないと言う事です。
理性的な検討でしか認識できない、思索的事項が該当します。
ただし、アンチノミーとなる、純粋な形而上の概念に関しては、理性も認識が出来ません。
また、理性は理性そのものの存在の根源は認識できません。

Q論理哲学論考は超越論的哲学でしょうか?

論理哲学論考は超越論的哲学でしょうか?

Aベストアンサー

カントの使う「超越論的」という言葉には、幅があります。

まず、人間が、理性のうちにある「経験を可能にする条件」にもとづいて、空想や夢から「客観的な実在世界」を抽出する手続きが「超越論的統覚」や「超越論的構想力」として、「超越論的」と呼ばれます。

一方で、別の使い方をされている場合もあります。
カントが『純粋理性批判』でやろうとしたことは、人間の認識の限界を設定することでした。限界を設定することにおいて、可能なことを保証しようとしたのです。

ところがその限界を設定しようと思えば、その外側に位置する「超越的なもの」に対して、認識できなくても、何らかのかたちで関与することが必要になってきます。そうして、人間は、「超越的なもの」の仮象をもつ。この仮象を通じて「超越的なもの」をとらえようとします。
これらもまた「超越論的仮象」として「超越論的弁証論」の中で批判的にとらえられています。

従って、カントのいう「超越論的」には、つねに二重の意味がこめられています。
人間の認識の限界のこちらがわで、客観的な実在世界が構成される、ということ。
認識の限界の向こうがわをとらえようとすると、仮象に陥ってしまうこと。

このことを頭においておけば、『論考』の6.4以下が超越論的哲学に踏み込んでいることがよくわかります。
ここらへんのことは、野矢茂樹さんの『『論理哲学論考』を読む』で展開されていますから、ぜひご一読を(というか、読まれた上で出された質問のような気がしないではないのですが)。

『草稿1914-1916』を読むと、もっとそのことがはっきりと実感されます。この時期のウィトゲンシュタインは一貫して「幸福」ということを考えています。そうして、「幸福」の問題を解決するための論理哲学が模索されている。これを「超越論的」と呼ばずして、いったい何を「超越論的」と呼ぶことができるか、と、個人的には思います。

以上、参考まで。

カントの使う「超越論的」という言葉には、幅があります。

まず、人間が、理性のうちにある「経験を可能にする条件」にもとづいて、空想や夢から「客観的な実在世界」を抽出する手続きが「超越論的統覚」や「超越論的構想力」として、「超越論的」と呼ばれます。

一方で、別の使い方をされている場合もあります。
カントが『純粋理性批判』でやろうとしたことは、人間の認識の限界を設定することでした。限界を設定することにおいて、可能なことを保証しようとしたのです。

ところがその限界を設定しようと思え...続きを読む

Qカントの純粋理性批判でいい訳

カント純粋理性批判で良い訳はどれなんでしょう?

Aベストアンサー

図書館で借りて読んでみたらいいと思います。
自分に合うものが、自分にとってのいい訳です。

アマゾンで批評を読んで参考にされるのもOK。

私は訳者の意向ができるだけ入らない方が好きですから原さんの訳を買いました。

「良い」というのは主観が入りますので、自分で目にされるのが一番だと思います。

Q大学の哲学科では、カントという哲学者についての勉強が大部分なのですか

大学の哲学科では、イマヌエル・カントという哲学者についての勉強が大部分なのですか。
大学の4年間の大半が、カントという哲学者についての勉強なのですか。

Aベストアンサー

カントが重要な人物であることは間違いないですし、カント好きな教授もいるでしょうから、どのような講義でもいつもカント話しかでないということもありうるでしょうが。
ただ西洋哲学でカント周辺の人をあげると、デカルト、ホッブズ、ロック、ルソー、スピノザ、ヘーゲル、ショーペンハウアー、キルケゴール、ニーチェぐらいは簡単にでてきますし、古典哲学だとギリシアは外せませんし、倫理学や宗教学も範疇にはいりますし。逆にカントだけをやろうとする方が難しいかと思います。まぁゼミぐらいになれば出来るかもしれません。


人気Q&Aランキング

おすすめ情報