戦前戦中に東亜連盟という組織がありました。石原莞爾がつくった組織だと聞いていますが、どのような団体だったのでしょうか

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (1件)

1939年(確か?)に、石原が日本、満州、中国を一つにまとめ、来る世界最終戦争にそなえようと結成された国家主義団体です。


各出版社から手軽な石原関係の文庫本が沢山出ています。1~2日あれば読めます。
最近では福田和也氏の「花ひらく」とか・・・
各氏、色々な角度からの評価と解釈がありますので、なるべく多くの作品を読まれることをお奨めします。
    • good
    • 0

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q【不謹慎な事を聞いて申し訳ないですが】空港の滑走路の地盤改良工事で不正工事をしていた東亜建設工業は広

【不謹慎な事を聞いて申し訳ないですが】空港の滑走路の地盤改良工事で不正工事をしていた東亜建設工業は広域指定暴力団の東亜会の会社ですか?

それとも名前が一緒なだけで別の組織で全く関係がないフロント企業でもない赤の他人ですか?

あと東亜会の会長って完全にズラですけど、誰もそこには触れていないのでしょうか。

6代目山口組の会合のときにみな目線に困ってないですか?

そこは暴力団の習わしでスルーするのでしょうか?

それとも幹部クラスになると東亜会の会長のズラを笑って話しているのでしょうか?

話がズレましたが、東亜建設工業と東亜会は同じ会長の系列なのか教えてください。

あとまた話がズレますが、東亜会のズラ会長の金さんはキム会長って呼ばれているんですか?

それとも日本名で呼ぶんですか?

Aベストアンサー

名前は似てますがまったく別物です。

そもそも今の在特会と同じ立場で、鄭建永が東声会というのを設立しました。これが後の東亜会です。
一度解散し、その後再び再建した後は、沖縄で細々と興業していましたが解散しました。

東亜建築工業は、明治の頃の創業です。
C滑走路でデータ偽装して液状化させましたが、無関係です。

Q大東亜戦争前か戦中(最大領土)の地図

大東亜戦争前か戦中(最大領土)の地図を
売っているところを関東で教えてください

Aベストアンサー

神田の古本屋街なんかどうでしょうか。探せばあるかもしれません。
(戦中の新聞を買ったことがあります)

また、最近ではヤフーオークションで最大領土時の地図が出品されているのを見た記憶があります(でも東南アジアは除外されていました)。

あまり参考にならずにすみません。

Q大学の大東亜帝国って?

家庭教師派遣会社勤務です。こんな仕事についているんですが、社内でもよく「大東亜帝国」の解釈でもめます。何人か聞いて多い方を採用したいと思いますが、4つのどれなんですかね?

1.大東亜帝国=「大東」文化大学、「亜」細亜大学、「帝」京大学、「国」士舘大学の略称
2.大東亜帝国=「大」東文化大学、「東」海大学、「亜」細亜大学、「帝」京大学、「国」士舘大学
3.大東亜帝国=「大東」文化大学、「亜」細亜大学、「帝」京大学、「國」學院大学
4.大東亜帝国=「大」東文化大学、「東」海大学、「亜」細亜大学、「帝」京大学、「國」學院大學

ちなみに私は1だと思っています。

Aベストアンサー

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』というところで「大東亜帝国」と入れてみてください。
ここで答えは2番だという事がわかります。
参考URLにサイトを載せておくのでぜひやってみてください。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8

Q石原莞爾について

柳条湖事件の首謀者として有名な石原莞爾は、天才戦略家、天才思想家などと天才呼ばわりされていますが、私には天才と呼ばれる理由がわかりません。
当時の一般的な陸軍参謀と石原の違いなど、石原が天才たるゆえんを教えてください。

Aベストアンサー

***補足に対して***
手元の書籍(「昭和史の軍人たち」秦郁彦)を参考に回答致します。

当時参謀第一部長だった石原は1937年7月10日中国中央軍北上の情報を聞き、迷った末に三個師団の派兵案を決裁しましたが翌日、閣議に派兵案が提出される前に近衛の元へ行き、閣議で廃案にするよう頼みます。しかし派兵案は閣議を通過し、なおも石原は動員中止命令を出したりしたようですが、結局7月27日には派兵は確定されてしまいます。

(蛇足)こうしてみると、一見、平和主義者のように見えますが、彼の著作「世界最終戦論」などには、先ずソ連を叩き、その後、最終戦として米と戦う、などとしており、要するに中国に構う暇があるならソ連と戦え、と言っているだけに過ぎません。

Q韓国の東亜大学について

私は韓国の東亜大学に留学しようと思っています!!そこで東亜大学について知りたいです!!HPも韓国語なのでなかなかよく理解できません。東亜大学についてよくわかるサイトなどがあったら教えてください。あと、東亜大学で勉強する上でよいと思う点(図書館の設備が充実しているとか・・・)があったらぜひ知りたいです。よろしくお願いします!!

Aベストアンサー

ソウルナビ、プサンナビのサイトはチェックしましたか?
トウア大学はなぜ留学されるのですか?彼氏ですか?
楽しみですね~。
私はよくそこの図書館にもぐりこんで勉強してました。

Q石原莞爾について

東条英機が政権末期、、
石原に意見を聞いたそうですが、
石原は東条に対して
「君に政権運営は出来ない」と伝えたと聞いております。
もっと いろいろと 東条に 意見してあげれば良かったのに、と
残念に思えます。
石原には 本当の愛国心が無かったのでしょうか?

Aベストアンサー

urussako2009さん、こんばんわ。

僕にとっては彼らは愛国心などという高尚なものはかけらもないです。とてもそんな感じではないです。仲間割れみたいなものです。もともと東條と石原は同じ軍の派閥に入っていました。しかし、ある程度出世した彼らは同じ関東軍の参謀部時代の段階でお互いのことを批判しあっていたのです。もともと石原は上層部にとって扱いにくい人物でした。そのため作戦立案にに関しては優秀でしたが、陸軍では彼が中枢ポストに就けたのは参謀本部の第一部長どまりでした。もともと満州事変で功績をあげてその功績で作戦課長になったのですから、ちなみにこの当時流行した大陸で火のないところに煙を立てて功績を挙げるという手法を取ったのも彼が最初でした。ある意味とても派手な人物です。しかし、彼の活躍はここまでで、師団長どまりで予備役に入ってしまいます。そういえば、作戦部長時代に中国大陸で彼の派閥の後輩たちがいろんな策謀をを取った彼がそれを止めようとすると、後輩があなたがかつてやったことをまねているのですと言われて、何も言えなかったというようなことが起こりました。まあ、ソ連に対して、満州国を建国して、日本に対する防波堤を築いたと思っているのでしょうが、日本から大兵力をそこへ配置しなければならないので、よけい軍事費が必要でしょうに。太平洋戦争開戦反対と言っていたようですが、予備役だからあんまり影響力はないのです。
東條もはっきり言って、同じようなものです。石原と同じく派閥の中での出世競争のなかでポストを渡り歩いていました。彼は石原に比べて、地味でした。それは彼が尊敬していた永田鉄山が親玉で彼はそれまで影法師のような存在だったからです。しかし、永田が死後、中将以上になって陸軍の中枢ポストに座りました。そして、日米開戦間際に首相任命されます。
たぶん、石原は作戦家としての偏狭さから東條に何を言ってもわからない人物であるということから、彼が辞職し手新しい指導者にならない限り、進展は望めないという意味なのでしょう。だから、質問者様が記述したセリフ以外言わなかったのでしょう。
ある意味この太平洋戦争は彼らがあるいは彼らの後輩が所属した派閥の中の出世競争が発端となり、巻き起こした戦争でもあるのです。

urussako2009さん、こんばんわ。

僕にとっては彼らは愛国心などという高尚なものはかけらもないです。とてもそんな感じではないです。仲間割れみたいなものです。もともと東條と石原は同じ軍の派閥に入っていました。しかし、ある程度出世した彼らは同じ関東軍の参謀部時代の段階でお互いのことを批判しあっていたのです。もともと石原は上層部にとって扱いにくい人物でした。そのため作戦立案にに関しては優秀でしたが、陸軍では彼が中枢ポストに就けたのは参謀本部の第一部長どまりでした。もともと満州事変で...続きを読む

Q専修大学の二部と大東亜帝國

なぜ、専修大学の二部に行かずに大東亜帝國に行くのでしょうか?
少しがんばれば、専修の二部受かる力を付けられるのではないでしょうか?
大東亜帝國より専修大学二部のほうが学費も安く、世間的評価も高いと思います。
総合的に見て専修大学二部に行かず大東亜帝國に行く理由が分かりません。
ご意見をください、お願いします。

Aベストアンサー

日東駒専は大東亜帝国より一段上ということですね。
それはわかりますが、わずかの差だと思いますし、二部って夜間だよね。夜間となると世間的評価は同じくらいになると思う。

帝京大学って医学部があるよね。医学部ってすごく偏差値が高くて早稲田の理工学部と同じくらいの難易度だよ。あと国士舘というのは体育系の猛者が多く警視庁のエリート刑事に国士舘の人が多かったりする。
それと東洋大学とアジア大学は名前がいい。九州大学が九州で一番良い大学で北海道大学は北海道で一番良い大学で東北大学が東北で一番良い大学ならアジア大学はどうなる? 東洋大学はどうなる?
だから大学選びは所詮、人の好みだと思うよ。

Q石原莞爾がA級戦犯に問われなかったのはどうして?

ある本には、理論家の彼なら
「だったらこの法廷にペリーを呼べ」と、
論戦では連合国側を打ち負かしてしまう
恐れがあったからとありましたが、
本当のところはどうしてなのでしょうか?

Aベストアンサー

当の石原本人は覚悟はしていたようです。
昭和22年4月25日、極東裁判の酒田出張法廷に石原は証人として出廷していますが、この法廷の冒頭で石原は、
「不思議に堪えないことがある。満洲事変の中心は自分である。錦州爆撃にしても、滴洲建国立案も自分である。それなのに、この私を戦犯として連行しないのが腑に落ちない。」
と発言しています。(「石原莞爾」楠木誠一郎 PHP文庫)
石原本人にとっても不起訴は意外だったようですが、
石原は、反東條の代表格であることと、終戦時には余命幾ばくも無い末期癌に侵されていた、ということを考えれば不起訴も不思議な事ではないと思います。

Q大東亜帝国(大学)について

親戚の子から相談を受けているんですが
大東亜帝国を指定校推薦で狙っているそうです。
その親戚の子は文学部と法学部のどちらかに進みたいそうで
大東亜帝国の偏差値的どうなのかと聞いてきましたが
自分はあまり詳しくないんですよ。
一応、大東亜帝国の順なのではと回答しましたが・・・。

大東亜帝国というからには
偏差値的に大東文化、東海、亜細亜、帝京、国士舘の順
でよろしいんですよね?

それと、大学進学などに詳しい方や在学や卒業した方で
学校の様子とかどうなんでしょうか?
あと就職はどうなのでしょうか?

何分身内なので、フォローを少しでもしたいと思っています。
些細な話でも結構なので、お教えください。

Aベストアンサー

大学に行くのは高校生の半分未満です。
だから、普通に考えれば、真ん中程度の高校(つまり偏差値50の高校)では底辺大学に行けるかどうか、ということになります。
勿論学力がそうだ、ということです。
で、その子の高校は真ん中より上なんでしょうか下なんでしょうか?
そこが一つのポイントです。

どうも高校受験の形骸化が我々の頃よりずっと進んでいるようですし、大学全体が定員を拡大し、高校生の半分くらいを収容するようになっちゃいましたので(しかも定員割れが酷い)、
「高校受験すらまともに経験していない」「バカ」に大学という人参がぶら下がってしまっているのです。
高校はほぼ全入ですから、全く勉強しないような連中でもどこかの高校には行くわけです。これは何十年も前から同じです。
しかし、以前は上位1/3程度しか大学に行けなかったのではないかと思います。
上位1/4の高校なら、そこそこまともな高校受験をしていることが多いはずですし、1/4~1/3の層は、かつての底辺大学相当であったはずです。
更に、推薦制度や単願などの安全策が充実しまくっていて、真ん中近辺の高校入試は相当怪しくなっているはずです。
そもそも真ん中近辺の高校というのは中学の成績が真ん中程度ということで、あのノロノロとしか進まない中学の授業ができるかできないかという層のハズで、つまりは中学の学習内容が十分身に付いていないわけです。

だから、世の中全体が彼らを甘やかしすぎているんで、彼らも気の毒と言えば気の毒なんです。
その子がどうかは知りませんが、バカなのにバカだから自分が大学でなんてやっていけないということも判らない、入試ってあんなもんだ、学校ってこんなもんだという子は少なくないようです。
ダメな物はダメと言ってやる大人が居ないのです。

大東亜帝国はぼんくら大学ですが、それでも高校生の上位半分が行くところです。
おそらくもうちょっと上で、上位1/3くらいかも知れません。
当然このレベルに達していない高校生の方が多いんで。
しかしそれでも就職が楽ということは全くないという..。
簡単な中学の勉強がきちんと身に付いていなかったり、高校の勉強をおサボりしたり、という層であるのはまず間違いありませんから、そりゃ企業だって積極的には採りたくないでしょうし、特に大卒給を払いたくはないでしょう。
この辺りの全体状況をよく説明した方がよいでしょう。
ただし、「まともに卒業できるのなら」「底辺高校よりは良い」かもしれませんが。

文系の場合、行って地獄を見るというのは理系ほどではないはずです。
しかし、端的に英語の授業どうするの?というのもポイントでしょう。
通常英語は必修でしょうから。
そこの入試問題程度で合格点が取れる人が集まっているはずで、もしもそれすら全く手が付けられないようなら、4年経っても英語の授業で合格点が取れないことは十分考えられます。

というあたりが、具体的、客観的アドバイスかと思います。
その子がどうかは知りませんが、アホアホ高校で勉強しないのが当たり前で過ごしてきて、それがどこでも普通だと思っている子は実在するでしょう。
そういう子には、具体的なことを言わないとヤバさが理解できないと思います。

そうではなくて、学力がそこそこあり日大でも狙えそうなのに、今楽をするということなら、それは3年後4年後の大苦戦を意味するでしょう。
しかし、それが解らない子がそんなにいるとは思えませんので、たぶん違うんでしょう。

大学に行くのは高校生の半分未満です。
だから、普通に考えれば、真ん中程度の高校(つまり偏差値50の高校)では底辺大学に行けるかどうか、ということになります。
勿論学力がそうだ、ということです。
で、その子の高校は真ん中より上なんでしょうか下なんでしょうか?
そこが一つのポイントです。

どうも高校受験の形骸化が我々の頃よりずっと進んでいるようですし、大学全体が定員を拡大し、高校生の半分くらいを収容するようになっちゃいましたので(しかも定員割れが酷い)、
「高校受験すらまともに経...続きを読む

Q戦前戦中戦後。人々の暮らし

大日本帝国の人について興味あります。
司馬遼太郎の坂之上の雲は呼んだことある方いますかね?教科書にしてもいいくらいだという人もいるくらいで、どんなことが書かれていますか?当時の人の暮らしぶり、考え方など知りたいです。
戦前、戦争とは関係ない人々の普通の暮らしぶりはどんなでしたかね?何を考えどう生きていたのですかね?特に教育勅語を学んだ世代の人生観、今の若者をどう思うかを知りたいです。
戦後、メーデー、安保闘争など日本人は今のように去勢されておらず元気いっぱいでした。当時の人の考え方、暮らしぶり、将来への不安と期待など知りたいです。あ、米国の奴隷になったり、米ソ冷戦に巻き込まれて再び戦地となる不安はなかったのですかね?
各地に海外移住された方もいるときいてます。どのような思いで日本を離れたのですか?
よろしくお願いします

Aベストアンサー

戦前生まれの後期高齢者です。

まず、司馬遼太郎の著書は作者の思い込みや作り事、独特の推察などを網羅している一つの作文だとしてお読みになったほうが良いと思いますよ。

歴史は作られるって本当。

いつの間にか老舗になっていたり、何代も続いた家柄ですや、此処は勤皇の志士が隠れたところですだとか、まあ念入りに地図まで掲げて。現在はまやかしが多いけれど戦前はあくどい商売人と言えどもそう云う誇張はしなかったように思います。

戦前とは言え大正時代の人たちの生活は非常に楽天的なものだったと思います。(従兄弟大正生まれ90歳余曰く)

昭和の初期でも都会では幼稚園はスクールバス。映画もダンスホールも、フランス料理も今あるものは全て溢れ返ってました。

水洗はごく一部で近郊の百姓が肥を汲みに来て御礼の大根なりを置いていくのが都会でも普通の事でした。

また、戦前はそこそこ金を持っている連中でも借家が普通で、余程の事業家や成金、爵位のある家系以外は全て借家。

土地の有力者・・・例えば豪農や代々の庄屋などは家屋敷がありましたが。
家を買うという発想はほぼありませんでしたね。

腰弁(サラリーマン)の出社は歩くのが原則で交通費を貰って電車に乗るというような事は大正の初期までは無かったと従兄弟は申しております。

一家団欒、一家そろって食事と云うのも精々戦後の事です。
商家なら手の空いた人から食事をしますから。

一家の主のお膳は(おかずもご飯も)全て妻子とは別、同じ膳では食べません。主の食事が終わってから妻子の食事。(今ならよめはんに殺されるかも)

子供と大人の世界は完全に区別。

ネットは当然、普通の家に電話もありません。(うちの電話探ってみると最初に置かれたのは大正7年でした。)

戦後初めて白黒TVが発売された時TV一台の値段で当時40坪くらいの家が一軒買えました。

戦後宝くじは一等10万円。一枚10円。小さな家なら買えた。

終戦の年、すぐにアイスキャンデーを作って売ってました。一本1円。

不味いガムやチョコレートは昭和23年頃だったかに。

当時、バスやタクシーは電気自動車が多かった。充電はどうしていたのか??ですが。

従兄弟の戦前の中学校の教科書を見ると(電気技術書)きちんとテレビの写真と技術解説が載っています。

私たちがよく読んでいたのはヘッセ、Tマン、メリメ、シュトルム。

哲学をやっている連中はこんなの読みません。

明治の文学はほぼ濫読、南総里見八犬伝まで手を出した奴も居ます。

映画は手当たり次第。戦前の名画も戦後公開されましたから。
最初のアメリカ映画は確かユーコンの叫びだったかと。

普通の人にとっては戦前の、支那事変や日露戦争の結果に一喜一憂していたのは今と人たちの野次馬的な処と変わりはありませんし、人間の常として考えが楽なほうへと傾いていたのも事実です。

今と違って身分社会(出自によって社会的地位が決まる)ですから、例外はあるとしても(例えば爵位のある人や軍需産業などで大金を得て社会に還元したいと地方の優秀な男子や子女を養子として、或いは書生として住まわせて立身の道をつけてやるなど)、ほぼ人は生まれた時に取るべき道は決まっていた社会です。

で、各自それなりに、政治や軍事は・・・そんな難しい事は誰か偉い人がすることであって私たちには関係の無い事、其れよりも毎日の生活や楽しみが先決・・と云うのが本音だったでしょう。

メーデーや安保闘争など・・私の考えですが今の団塊の世代の初期の人たち(昭和22年生まれ以降)は肝心の小学校の教室も教員も足らず、抑留から引き上げてきた共産主義に洗脳されたような代用教員に習った結果が、戦前の身分社会の不条理に気づき労働者とブルジョワジーの対立と云う形で爆発したものだと思っています。

団塊の世代が愛用した歌声喫茶で歌われている歌って労働歌やロシア民謡などソ連に関係したものばかりですよね。

確かに農村部では(戦前は長男が後を取り、次男以下は出て行くか良くても他の農家の婿養子になるかで、軍隊が出来ると米の飯が腹いっぱい食えるとばかり召集どころか争って志願した人が多いのが現実で、後に赤紙で召集される頃は兵役忌避の脱走者も多かったようですね。

でもねぇ、戦時中食べるものが無かったとは云いますが金さえ出せば何でも買えたのです。(結局は金があるかどうかで決まるのかも)

徳川無声の戦時日記を読めば東京空襲時でも牛肉の配給(食糧は物価統制令で自由に売買が出来無い、主食の米などは各戸に割り当てで配るのを配給制と云います。違反者は投獄。外食は外食券が無いと出来なかったけれど、店は知り合いには出来る限り物を提供していた。)があったと記述されていて驚きます。

海外へ移住された方は明治以前から沢山居ますので戦前の暮らしのごく一部の現象に過ぎないと思っていてください。
これに関しては色々本が出版されているので図書館でお読み下さい。

明治中期生まれだった私の母親など若い頃毎晩ダンスホールで踊っていたと。(写真が残ってますわ)

慶応生まれの祖母なんか刺身が好きで良く無理難題を。でも結構手に入ったのですよ。

果物も、ケーキも、菓子も巷に溢れ返ってましたし戦争が始まっても暫くはまだフランス映画など上映してましたしね。

学童疎開はしてましたが食べ物に不自由だった事は有りません。
(場所によるのでしょうけれど)

戦争が始まっても一般の人の生活が急に変わる事は有りませんでした。

東京や大阪名古屋の空襲にあった人たちは大変だったでしょうけれどね。
一般の庶民にとって将来の事などは戦争の行方は心配しても身の振り方までは考えられなかったと思います。

進駐したアメリカ兵が抵抗されゲリラにでもやられるかると緊張していたのに拍子抜けと、戦後隣に住んでいた大佐が笑いながら話してくれました。

昭和20年代は内憂外憂が一般の人には全く感じられなかった時代。
20年代終わりにはアメリカ文化がど~~っと。

圧巻はジャズ。ベニーグッドマン、JATP、サッチモ、ハリージェームス、ライオネルハンプトンetc。飯を惜しんで東京へだら(普通)の夜行で14時間かけ学区をサボって聞きに行った。

新宿あたり焼け跡がまだ板囲いしてありまだ戦争浮浪児も居た時代。

昭和34年まだ国道一号線は舗装なし。トヨタのクラウンの前身トヨペットスーパーがこなれてきて試乗に行きました。

クッションは板バネ。遠出でしてバネが折れて挙母市(今の豊田市)で修理をするはめに。

閑話休題

今時ああだこうだと大げさに言われている面は何事に付けても大いにあると思います。

大正、昭和の話を書いた本は沢山出ていますが、その前に矢田捜雲の江戸から東京へや生方敏郎の明治大正見聞史の一読をお勧めします。
もう少し前の幕末の世人の暮らしや出来事などは鹿島萬兵衛の江戸の夕映をぜひお読み下さい。

教育勅語の内容は素晴らしいものですから私たちは否定しません。
まだ同級生は200人以上が健在ですし、何時もわいわい集まっていますが1年先、3年先の心配をする輩はいませんねぇ。
其れより100年先どうなっているかの議論に口角泡を飛ばすほうです。
戦前、戦中、戦後を冷ややかな目で見てきた世代ですのでなるようにしかならんと物事を割り切ってます・・が多い。(^^)/

取り留めの無い文、乱文で失礼しました。

戦前生まれの後期高齢者です。

まず、司馬遼太郎の著書は作者の思い込みや作り事、独特の推察などを網羅している一つの作文だとしてお読みになったほうが良いと思いますよ。

歴史は作られるって本当。

いつの間にか老舗になっていたり、何代も続いた家柄ですや、此処は勤皇の志士が隠れたところですだとか、まあ念入りに地図まで掲げて。現在はまやかしが多いけれど戦前はあくどい商売人と言えどもそう云う誇張はしなかったように思います。

戦前とは言え大正時代の人たちの生活は非常に楽天的なものだったと...続きを読む


人気Q&Aランキング

おすすめ情報