初めて自分の家と他人の家が違う、と意識した時

鎌倉殿の13人やジパング 深蒼海流など、治承・寿永の乱(源平合戦)を基にした作品をいくつか見てきました。

疑問なのが、表題にあるように木曽義仲は後白河法皇(と京都の人々)にさんざん翻弄されてきたのではと思っています(自業自得もありますが、ひどい裏切りもあった)。
法住寺合戦で襲撃し、後白河法皇を拘束したものの、処断するようなことはしませんでした。
結局、後白河法皇は生き延びて策謀を続けるのですが、範頼・義経軍が迫ってきて勝ち目がない中、せめてもの腹いせに後白河法皇に危害を与えらえる可能性はなかったのでしょうか?

この時代、「天皇(や天皇経験者の上皇・法皇)」は間違っても危害は加えられないが、その実子(以仁王など)はあっさり殺害されるなど、その差がよく分かりません。
(その後の承久の乱の後鳥羽上皇の流罪がもっとも重かったと思います)
また、天皇(元天皇)がめったなことで処断されないのであれば、安徳天皇は入水しなくても良かったと思うのですが、いかがでしょうか?

よろしくお願いします。

A 回答 (4件)

天皇は現人神であり、上皇法皇も現人神だった人々で「治天の君」でもありました。

木曽義仲は、武力はあっても権力も権限も曖昧な唯の人でしかなかった時代です。
義仲にも、頼朝の側近だった大江広元のような学のある知恵者の参謀が入れば違った展開になったかもしれません。しかし、彼の側近も彼と同じ木曽の山猿ばかりでしたから神様を処断するといった罰当たりなことは不可能です。

以仁王など皇子たちは、貴人中の貴人とはいえ、神様じゃありません。義仲と同じヒトだから殺せます。

安徳天皇は、祖母の二位尼に無理やり入水させられて死んだわけで、源氏に捕えられていれば、殺されることは無かったでしょう。ただ生き延びても強制的に退位させられて流刑になることは間違いなかったわけで、同じく入水自殺を図った母親の建礼門院など平家一族としては、安徳天皇に辱めを受け続ける人生を送らせることは出来なかったのでしょう。
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軍事力で天皇の首を据え替えただけでは、日本を支配した事になりません、


天下を取るには行政力が無ければ、不満が噴出して、立ち処に政権は
崩壊します。
木曾義仲は勢いで平家を京都から追い出しましたが行政の経験が全く
無かったので後白河法皇に翻弄され、付き従った兵達に金銭を与えられ
無かったので、乱妨取をした後、義仲から多くが去りました。
武士は名誉を重んじます、後白河法皇を殺せば歴史に汚名が残ります。
平家物語を読めば、この辺の事柄が見えて来ます。

平家物語の前半のハイライトは「木曾殿最期」です、巴御前との別れの
場面は、涙涙のシーンです。

平家物語の後半は那須与一の活躍がハイライトの一族、滅亡への道です。
壇ノ浦に至っては、平家の恩恵に与かっていた、地方の国衆が裏切り
平家一族のみとなり、更に最期に賭けた作戦も裏切りの国衆から義経
にもたらされ、万事休す、になりました。
後ろ盾のいない安徳天皇が生き残っても、殺されはしないけれど譲位は
必須でしょう、平徳子(建礼門院)と平時子が死への道を選ぶのは
必然の流れと思いますが。

「祇園精舎の鐘の音・・・」の名文で始まる平家物語は作者不詳で
庶民の中に伝わり現在まで続いています、勝者が書いた吾妻鑑とは
面向きを異にします、こちらの方が史実に近い様に思えます。
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平家物語は琵琶法師の語りで伝わりましたが、筑前琵琶、薩摩琵琶を
使用した派手な演出になったのは江戸時代になってからだそうです。
それまでは、平曲と言って、静かな語りの調子なのです、娯楽の無い
時代に村の集会所で聴くと聴衆は涙を流していたのでしょうね。
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やはり天皇や上皇などは宗教的権威があるからでしょうね。


天皇家の血を引いているから尊いのではなく、天皇になったから尊いのですよ。

なにしろ子だくさんな天皇ってたくさんいますから、後に天皇になれなかった人たちは天皇の臣下になっています。

安徳天皇のことでいえば、源氏が捕縛したとしても処断はできなかったでしょう。もちろん譲位はさせられたでしょうけれども。
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そうだと思いますッ!

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