西南戦争の歴史、本を何冊か読み、巷で言われる「田原坂」が決定的な戦いでも転機でもないことがわかりました。
田原坂戦は、熊本篭城軍の後詰を薩州軍が押さえるというのが大局的な状況です。そして、そのために熊本に向かう道に幅広く防衛線(30km位?)を敷きます。で、この防衛線は4月15日に薩州軍が自発的に退却するまで、漸次後退しますが、突破はされません。大きな戦線の移動が3月20日の田原坂七本付近の小突破によってあるが、その日のうちに戦線を整理し、政府軍の動きはまた封じられています。熊本城までの道程を考えると、たいした意味のある動きではないわけです。このままのペースで戦ったところで、篭城軍が兵糧攻めで降伏するまでに、つけるような見込みはまったく立たないという状況です。
なぜ、自発的な退却があったのかというと、熊本の南八代に上陸した政府軍が城との連絡に成功したから、攻城を解いた。その動きによって、北部の戦線は意味を失い、総退却に移ったものです。
田原坂は非常な消耗戦でしたが、決定的な戦いではないのです。あえて決定的な瞬間といえば、八代上陸軍が熊本城に到着した瞬間でしょう。なぜこれがメインテーマにならないのか?
不思議です。
No.5ベストアンサー
- 回答日時:
明確な作戦図や地形図を見ているわけではないので、明快な回答はできないかもしれませんが、ちょっと考えてみましょう。
薩摩軍は熊本を攻囲しつつ、田原坂で、政府軍と戦闘をしているわけです。もちろん幕府軍の戦線を突破、あるいは迂回してしまえば決定的な戦闘となるでしょうが、それはできなかったのですよね。(あくまでも政府軍の目標は熊本城攻囲軍でしょう。田原坂の薩摩軍は主目標ではないと思います。)
しかし、これができなかったとしても、政府軍は薩摩軍を田原坂戦線に拘束しているわけです。もし田原坂を圧迫しなければ、薩摩軍は全部隊を熊本城攻城に振り向けることができるのです。熊本城は政府軍にとっては、軍事戦略上以上に、政治戦略的な意味をもちますから、開城を許すわけには行きません。結局、田原坂戦線を崩壊させなくても、薩摩軍は戦力を分散させることになり、戦略的に不利になります。だからこそ決定的なのではないでしょうか。
八代上陸作戦は、第2戦線を築いたという点では決定的でしょうが、田原坂戦線がなければ意味はなかったかもしれません。いずれにせよ薩摩軍は同時に3つの作戦を同時進行しなくてはならなくなります。だからこそ攻囲を解いたのでしょう。
これは朝鮮動乱の時の、釜山橋頭堡(洛東江コリメーション)と仁川上陸の関係に似ているかもしれません。釜山橋頭堡が維持されているからこそ、仁川上陸の意味が大きくなるのです。これによって北鮮軍は兵力を二分され、戦線の崩壊を招きました。
決定的とは、華々しさだけで論ずるものではありません。敵戦力の拘束は、殲滅などに比べ華々しさではおとりますが、戦術・戦略上では重要な意味を持つのです。
しかし30kmの前線というのは、よく守れたものです。常識的に考えれば3個師団以上は必要です。まあ田原坂が長い隘路の役割をして、政府軍の戦力を各個撃破できたのかもしれません。それにしても突破口を押し返したのですから大したものです。観測点射撃や鉄条網と機関銃火網陣地出現以前の時代ですから感心しますよ。
熊本城が開城を許すわけに行かないということ、大変同感です。私が調べた範囲では、攻囲軍はとりあえず(水攻めという交えて)篭城を強いることには成功していたようです。無理攻めが無理という時点で、城北に戦力が分散されても、攻囲だけならこれで十分なのではと思われました。しかし、やはり分散が無いほうが開城を早められるというのが真相なのかもしれません。
そう考えると、確かに田原坂に薩兵を誘致した、そして八代上陸軍への対応も不十分にしか許さなかった田原坂の消耗戦が決定的ということがいえるのかもしれないですね。
大変勉強になりました。
前に回答いただいた方に、反対してしまったかもしれないのですが、なるほど、田原坂の決定要因が見えた気がします。訂正します。
城北の戦線は、熊本にいたる道すべてに張られていたということで、長大になっていたようですが、山岳地帯ですので、行軍可能地点は限られています。それでともかくも守りきれたのでしょう。
No.4
- 回答日時:
ご質問者ほど詳しくないのですが、
熊本城戦は、少数の守備部隊が近代兵器を使って、
多勢の士族部隊を退けた戦いですが、援軍が到着した
時には、戦闘はほぼ終わっており、篭城兵による
薩州軍負傷者への報復、虐殺もあったようで、
戦場は凄惨を極め堀が死体で埋まる程だったそうです。
等等、双方にとって良くないイメージがあります。
それに対して、田原坂戦では、圧倒的に白兵戦に自信を
持つ薩州軍、対、元会津藩士を多く含む警視庁抜刀隊
との白刃戦闘など、双方意地のぶつかり合いで、
まるで戊辰の箱根戦を彷彿させるような戦いであり
結果相打ちで、双方、腕自慢の猛者の大多数を失い、
後は、遅かれ早かれ火力と物量にまさる政府軍に
押し切られるのは、間違いなかったでしょう。
つまり、確かに戦いの趨勢を決したのは熊本城戦です
熊本城攻略に失敗した時点で、終わっても良かった
でしょう、死傷者の数もその方が少なかったでしょうが
薩州軍の意地を見せた、”見せ場”が、田原坂だった
のだと思います。同じような思想は後の大東亜戦争でも
関東軍は、本格的な戦闘をしていないと比島戦を強行し
、連合艦隊旗艦”大和”が、ろくに海戦らしい海戦を
しないまま、呉で終戦を迎える訳にはいかないと、
菊水一号作戦で、沖縄に水上特攻を行ったのと同じで
武士(時代)の最後に相応しい場所が田原坂だった
と言う事ではないでしょうか。
私も以前はそのようなイメージで田原坂を捉えていたのですが、実は薩軍は非常にいい手を打っているように思われました。熊本城戦を支えていたのが田原坂で、それは成功していました。熊本城戦の終了により自動的に田原坂戦線も崩壊しました。結局南からの援軍に打つ手が無かったようです。物量です。
田原坂は、戦艦大和の例とは違って、最良の手は打ったが、自力にはかなわなかった、という歴史だったように思われます。
No.3
- 回答日時:
詳しく調べておられるのですね。
私も田原坂に行き戦いの経緯を確認したことがあります。
熊本でも戦いはありましたが銃器のウェイトが高くなっています。田原坂は切込みが加わって壮烈さが際立っているので、決定的と表現するケースもあるのでしょう。
日米の戦いと同じで、どのような過程を辿っても物量・組織・運輸などから薩摩に勝ち目は無い戦いでした。
あえて戦略で言えば、熊本城にこだわったことで
城山までの期間が短くなったと愚考します。
私も現地に行ったことがあります。それまで漠然と狭い坂を巡る攻防だと思っていた(そういうイメージを持たされていた)ものが、まったく違う、とても広大な戦闘地域を持つ戦いだとわかりました。そして、これは伝説にはなるだろうが、歴史的には決定的でないと感じました。田原坂は遅々とした塹壕戦です。
しかし、熊本城陥落は成せたように思いました。それは巷で言うような、無理押しでなく、田原坂(に代表される城北一帯)で粘れれば達成できたものです。4月15日総退却時まだ政府軍は熊本城のはるか北(10キロ程度?)に釘付けでした。
唯一の勝利があるなら、一時的にも熊本城を陥落させるということが最良だと思われます(各地の反乱を誘発できる)その一番現実性のある手を薩軍は打っていたと思われますが、いかんせん物量のまえに(八代上陸軍)敗れました。
No.2
- 回答日時:
戦術・戦略的な意味の重要性と、歴史的な重要性の違い
といったころでしょうか。
詳しくはNo.1の方の回答にありますが、幕末で最強と
うたわれていた薩摩武士と、農民を徴兵して作られた
政府軍が戦い、自発的な退却とはいえ政府軍の勝ちと
なった戦いでした。
それまでの武士優位の価値観が覆された戦いであるので、
歴史的な意味があるのではないでしょうか。
戦略的な視点では、早期に熊本城を落城できなかった
ことが、デメリットとしては大きかったと私は考えて
います。
はい。象徴的な意味合いはあると思います。ただ、海軍さえなければ、薩軍は予定通り一時的な落城は果たせたと思うので、決定的な意味合いはないかと思います。早期に陥落させるのはやはり無理で、でも時間さえかければできたように思われます。
No.1
- 回答日時:
私の解釈は
1.薩摩軍は農民を召集してきた政府軍をバカにしており容易く落とせると思っていた熊本城攻略に失敗。
2.やむなく田原坂に防衛線を敷いたがこれは熊本城救援の政府軍を阻止すると共に、野戦において勝利を収め、味方の実力を見せたいという狙いもあった。
3.しかし政府軍の火力にかなり悩まされ戦力の消耗が激しく、特に弾薬の不足に苦しんだ。
4.戦線の膠着と共に戦意の低下を招き、勝利の望みを失うに至った。 この後薩摩は防衛一方となる。
薩摩軍の勝利への幻影をうち砕いた戦いとして決定的であり政府軍としては恐れられた薩摩軍に勝てるという実感を得た戦いでもあるといえましょう。
確かに経過はそのようなものでした。ただ、海軍が無かったら(もちろん無いはずは無いのですが)薩軍の戦意低下はあったにしろ、熊本城は一時的に陥落したと思われます。それが勝利につながるとはいえないですが。
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