大村益次郎も九州から足利尊氏のごとき人物があらわれると案に明治政権にとって西郷を警戒してそのように表現しているとおもいますが、現代でこそ逆賊というイメージで尊氏は語られていませんがいつ時代から逆賊との汚名をうけていたのでしょうか?
室町政権が成立当時から人気はなかったのでしょうか?
ぜひ教えてください

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A 回答 (7件)

舌足らずですみません。



室町幕府3代将軍の足利義満の時代に南北朝は和解・統一してますので、以降の天皇はみんな「正統」です。
(南朝側は「騙された」と言ってその後も抵抗を続けたらしいですが。。。)

南北朝時代に南朝に敵対した尊氏は逆賊、南朝に味方した楠木正成は大忠臣。
二人ともそれぞれ忠臣だとは思いますが、幕末~明治~第2次世界大戦終了までは天皇中心の世の中でしたから、そういう歴史観も仕方ないのではないでしょう。

そして、後醍醐ビイキ(笑)ですが、幕末期に目指したものが天皇による親政ですから、後醍醐天皇の功績を1を10にしていても許してあげて下さい(笑)
当時(幕末)の求心力の一つとして、後醍醐天皇の建武の新政がちょうど良かったんでしょうね。

歴史の見方、捉え方って難しいですよね。
現在の世でも、中国や韓国の言う「歴史認識問題」も見方・捉え方の違いですから・・・。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。ご趣旨は大変勉強になりました。幕末は天皇の親政を目指したというか行きがかり上それ以外の選択肢がなかったからなのかなぁとも思ったりもしました。またよろしくお願いします。

お礼日時:2005/05/06 14:59

皇統というゴーストの束縛から踏み出さない限り足利尊氏の自由な評価は難しいと思います。


時の権力者による我田引水の歴史解釈では評価はクルクル変わってあたりまえです。

三種の神器も壇ノ浦合戦で海中に沈み、回収されたという事になっていますがこれとて疑えばきりのない話。

血統というのも万世一系という位ですから両朝というのも歴史上の存在でしかありません。
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この回答へのお礼

一時代の偉人ですので評価が時代とともに上下するものですね。今回は非常の時代的の背景で尊氏が利用されていたのではないとどうかに興味がありました。まことにありがとうございます。

お礼日時:2005/05/06 15:03

こんばんわ。

#3です。

私が挙げたキーワードで検索されました?

もし、されていないのでしたら一度やってみてください。
もし、された上でのコメントであったならば「幕末 尊氏 逆臣」をキーワードにして検索をかけてみてください。

孝明天皇は北朝です。
この問題は明治天皇が北朝か南朝かは問題なのではありません。
「南北朝時代に正統である南朝に敵対した・弓を引いた」から尊氏は逆賊なのです。

そして、尊氏=逆賊と言い出したのは、江戸時代の国学者たちです。
(正確には、南朝支持者達の間ではずっと「逆賊」でしたが。)

現代において尊氏が逆賊と言うイメージで語られていないのは、「偏った見方」がされていないからです。倒す人がいれば、当然倒される人がいるわけですから仕方ないですよ。

詳しくは検索結果をご覧下され。



以下、横レスで悪いのですが。
幕末(江戸末期)の「尊皇」思想ですが、根っこは同じです。
江戸中期ごろから、国学者と言われる人たちが台頭してきます。
初めは江戸幕府を倒すための論理ではなく、純粋に日本の「歴史」を研究していました。
それが幕末になって、討幕運動に利用されたのではないでしょうか。
「武家政権を倒して、天皇を中心とした政治に戻す」って。

またその過程で、天皇を中心とした政治(後醍醐天皇の建武の新政)を倒した人=尊氏と言うことで、尊氏は逆賊とされていったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご丁寧にありがとうございました。もう一度検索して良くわかりました。出所は水戸学なのですね。ただ一点南北の問題を抜きに尊氏を逆賊にするのは純粋に不思議な気もしています。(しつこいかもしれません笑)時の朝廷が北系であったわけだし曹操のように自分が朕さんになろうとしたわけではなく、ある程度の筋のある天皇を立てたわけですからそこまで責める必要があるのかが変な思惑抜きに不思議な気もしています。判官贔屓ならぬ後醍醐ビイキっていうのが世にあるのでしょうか???

お礼日時:2005/05/03 01:09

補足です。


南朝、北朝の区別を論じ始めたのは江戸時代中期以降で、それまでは両朝の区別も曖昧か知らなかったのではないでしょうか?

朝廷自体それほど重視されていませんでしたから。
尊皇思想が重視され始めて皇室に対する逆臣という思想や価値観が生まれてきたのです。
尊皇思想は結局徳川幕府にとっては危険思想でした。

この回答への補足

回答ありがとうございます。尊氏にすれば勝てば官軍であり三種の神器も移動したのだから、南朝が執拗に文句をいうのは判るとして明治の世論として国民レベルで尊氏を逆賊扱いするのは合点がいきません。おそらく明治天皇にまつわるいろいろな曰くで南北の理論武装をする必要が生じて、明治維新後に一部の公家が考えた理論のような気がしてなりません。 かばうつもりはありませんが高名な尊氏が利用させたのではないでしょうか? またどうしてもいわゆる幕末の尊王とは関係がないような気がします。

補足日時:2005/05/02 21:43
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こんにちわ。



「汚名」とか「人気がない」という次元での話ではなく、
後醍醐天皇を祖とする南朝側からみたときに、足利尊氏は「逆賊」と表現されます。

(いつからかは正確には覚えていないのですが、少なくとも)明治~第2次世界対戦終了までの歴史では、後醍醐天皇の南朝の方が正統であると教えられていました。

南朝正統説については、「南朝 正統 国学者」をwebで検索してみてください。わかりやすい解説がたくさんありますから。

この回答への補足

回答ありがとうございます。 孝明帝などは北朝筋とおもわれますがならばなぜ明治になってから取り立てて南北をわざわざいいだすのかがナゾです。江戸期に尊氏が逆賊といわれていた史実はあるのでしょうか?

補足日時:2005/05/02 14:45
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足利尊氏が逆賊の汚名を受けたのは、後世の反対派の捏造です。


彼の実像はNo1のご回答にあるように情に厚い人柄のため乱世に合わず、ドライな弟と考えが異なり衝突を繰り返す内造反を招き南北朝を往復するような複雑な行動の末遂に弟を毒殺せざるを得ませんでした。

南北両朝は尊氏以前に存在しましたが両者が戦いを交える事態を招いた原因を尊氏にかぶせて非難するのが後世の逆賊説の始まりです。

尊氏の元にはせ参じた人々は色々な思惑があったにせよ、九州から大軍を組織して京都に攻め上り後醍醐帝の乱脈な政治を粉砕したのは尊氏の人徳があればこそでしょう。

しかし室町幕府はその成立の経緯から北朝を擁護せざるを得ず京都を都とし、鎌倉幕府の諸政を踏襲しながら純粋な武家政治にも徹しきれないジレンマがあり、有力部将の内紛などで混乱期を招きました。

戦国期の下克上の萌芽は既に始まっていたのです。
家康の徳川幕府が長く続いたのはこれらの教訓を学び政治力学を利用する事に徹したからです。
徳川幕府が秩序維持の為尊氏を逆賊に仕立て上げた事も影響しているでしょう。

この回答への補足

ありがとうございます。江戸期の朝廷は行きがかり上、北朝筋なのではないでしょうか?? 徳川幕府がわざわざ自ら立てている朝廷に対して南が正当と秩序維持の為にワザワザいったのでしょうか?? 江戸期には言っていないのではないでしょうか?

補足日時:2005/05/02 14:50
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足利尊氏ですが、家族を大切にし、部下を慈しんで物欲に薄いので、得たものは気前よく分配します。


戦になれば勇敢に先頭に立って戦い、敵にも慈悲と尊敬の心を忘れない、将に男の中の男です。
その結果、弟の直義や息子の直冬(直義の養子)は造反し尊氏を打とうとし、部下の佐々木導誉などは増長し、敵の南朝はゾンビのように生き延び、足利幕府は非常に不安定な政権となります。
同じ幕府の創始者の源頼朝は弟の義経始め自分の一族も殺して禍根を断ち、徳川家康も長男信康と妻の築山を殺し、次男の秀康は豊臣の人質にしたり冷たく扱い、6男忠輝も追放、豊臣家とそれと関係の深い加藤、福島なども滅亡させと、冷酷無情な扱いをしたので、敵がいなくなり、政権基盤が安定して、恒久的な平和が招来されました。
皮肉なものですが、人の上に立つものは他人を信用しない猜疑心と冷酷さ、子供や妻でも怪しいと思えば殺してしまう用心深さが必要です。
足利尊氏はその点「快男児」なので、敵である後醍醐天皇が生き延びてしまい、その子孫の南朝により悪く言われるようになってしまいました。
殺さぬまでも、隠岐とか佐渡に流して、足利氏が立てた天皇家の北朝が唯一無二の天皇家であれば、あれほど評判は悪くならなかったかと。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2005/05/02 14:58

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Q足利尊氏は

足利尊氏は何故鎌倉じゃなく
京都に幕府をおいたのですか??

教えてください。

Aベストアンサー

幕府って何かと、政権の正統性はどこからくるのか?時代が南北朝であるってのがポイントかと。

そもそも幕府とは、将軍が戦場にいるときの臨時行政組織といえます。将軍がいてその部下がいれば、そこが幕府。

将軍を任命するのは天皇ですので、天皇を管理下におく必要があります。遠くにいても管理できれば、あるいは、ちゃんと将軍に任命してくれる慣習になっていれば遠くにいてもなんの問題もない。
遠くで管理したのが江戸幕府。
遠くても、源氏の統領を将軍にするのが道理だよねというのが鎌倉幕府。

ところが時代が南北朝で、常に北朝を正統として、武力で守らなければならなかったのが、足利幕府成立の時代背景です。

北朝を守るのに一番都合が良いのはどこにいるべきか?それは京都ということになります。

それで 京都に将軍が常駐=京都に幕府となります。

Q 大村益次郎について、ご質問2つ

 昨日、「笑っていいとも!増刊号」を見ていましたら、幕末の傑物、大村益次郎の子孫の方が出演されて、

「この人が誰の子孫か?」

を、当てるというクイズをやっていました。

 子供の頃に見た、大河ドラマ「花神」の影響や、理系人間であることもあり、幕末の人物の中では、大村益次郎が一番好きなので、すぐに答えがわかりましたが、龍馬や、桂にくらべて知名度が低いことは私にもわかりましたので

「たぶん当たらないだろうナ!」

と思っておりましたが、やはり正答は少ないものでした。

 しかし、「大村益次郎の子孫を出して、面白味がある」と、民放バラエティ番組の人間が判断したところを見ると、それほど知名度が低いわけではないのかもしれない?・・・という疑問がわきました。

 で、ご質問は以下の2つです。

1)大村益次郎の知名度は、世代別、戦前・戦後、理系・文系?等、各階層でどのような傾向があると想像されますか?

2)番組中、プロフィールを説明するテロップで「・・・一時『村田蔵六』と名乗る・・・」(表記はウロ覚えです)と流れたのですが、実は私は、本名が「村田蔵六」だと思っておりました。これは、どう考えるのが正しいのでしょうか?

 以上です。よろしくお願いいたします。

 昨日、「笑っていいとも!増刊号」を見ていましたら、幕末の傑物、大村益次郎の子孫の方が出演されて、

「この人が誰の子孫か?」

を、当てるというクイズをやっていました。

 子供の頃に見た、大河ドラマ「花神」の影響や、理系人間であることもあり、幕末の人物の中では、大村益次郎が一番好きなので、すぐに答えがわかりましたが、龍馬や、桂にくらべて知名度が低いことは私にもわかりましたので

「たぶん当たらないだろうナ!」

と思っておりましたが、やはり正答は少ないものでした。

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Aベストアンサー

見ましたよ。この前のいいとも。(ちょっとだけど・・・)僕も数ヶ月前に司馬遼太郎の「花神」を読みました。幕末にこんな人物がいたんだとちょっとした衝撃を受けました。小説の方はやっぱり、司馬テイストに仕上がっている分も差し引いて考えないといけないと思うんですが、幕末という、人間の感情がいろんなレベルで噴きあがった時代にああいう存在はやはり、強い魅力を感じます。
さて、

1)大村益次郎の知名度は、世代別、戦前・戦後、理系・文系?等、各階層でどのような傾向があると想像されますか?

知名度に関しては、「革命軍の総大将であり、全軍の指揮を受け持ち、連戦連勝した人」ということで、教科書にでてきたような気がする・・・というのが一般的な理解ではないでしょうか?竜馬、西郷、近藤などといった人は理解しやすく共感したり、憧れたりといった感情移入がしやすいですが、大村益次郎のような人物はどうしても多くの人は理解できにくいと思います。(自分なんかは共感しちゃいますが・・・)ちなみに自分は26歳、文系です。これは、世代をとうして幾分の違いはあっても同じようなかんじじゃないでしょうか?

2)番組中、プロフィールを説明するテロップで「・・・一時『村田蔵六』と名乗る・・・」(表記はウロ覚えです)と流れたのですが、実は私は、本名が「村田蔵六」だと思っておりました。これは、どう考えるのが正しいのでしょうか

自分もどうだったかハッキリ覚えてないんですが、確か、本名だったと思います。
ちなみにご存知かもしれませんが、「蔵六」とは両手、両足、頭、しっぽを蔵する・・・亀、の意味があるそうです。意味深い名前だなあと思います。

見ましたよ。この前のいいとも。(ちょっとだけど・・・)僕も数ヶ月前に司馬遼太郎の「花神」を読みました。幕末にこんな人物がいたんだとちょっとした衝撃を受けました。小説の方はやっぱり、司馬テイストに仕上がっている分も差し引いて考えないといけないと思うんですが、幕末という、人間の感情がいろんなレベルで噴きあがった時代にああいう存在はやはり、強い魅力を感じます。
さて、

1)大村益次郎の知名度は、世代別、戦前・戦後、理系・文系?等、各階層でどのような傾向があると想像されますか? ...続きを読む

Q足利尊氏の性格

足利尊氏は優柔不断な性格だったのでしょうか?
それともただ信心深いだけだったのでしょうか(天竜寺の建立)?
それとも頼朝のように辛抱強く待てる性格だったのでしょうか?

Aベストアンサー

足利尊氏は男らしい性格で、物惜しみせずに部下に恩賞を気前良く分け与え、戦には命を惜しまずに勇敢に戦い、家族を大切にして慈悲深い性格です。
こういった性格は権力者としては失格で、頼朝や家康のように、身内にも冷淡で部下にも冷たくあたり、けちで臆病なくらい用心深く、粘液質な性格でないといけません。
その為、弟や養子に出した実子に裏切られて辛いことになり、部下が増長して幕府の権威が落ち、子孫も苦労することになります。
天竜寺も彼の性格からすれば、やむ得なくやったことなので、心を痛めており、夢窓疎石の勧めに乗ったということで、信心深いというより、自分が天皇に逆らったことを、一人の人間として悔いていたと考えるのが素直ではないかな。

Q足利尊氏・直義の不和兄弟争い、南朝北朝との関係は?

権力移行の過程の混乱だと思いますが、南北朝や直冬や高師直を巻き込んでの離合集散や離反変節が際立つのは、時代背景、権力争い、バックアップ勢力の意向、儒教等の倫理&価値観が希薄etcどの様な要因が大きく影響しているのでしょうか?

Aベストアンサー

当時の最大かつ唯一の政治課題は土地政策です。土地政策は、土地に関する武将の複雑極まる利害対立の解決ということです。土地に関する権利、既得権益をどう守るかが武士の最大かつ唯一の関心事だったということです。
足利尊氏は裁判といった面倒なものはわしの性に合わん、戦のほうがよほど楽じゃ、裁判に関してはお前に任せた、直義お前やってくれ、といったかどうかはわかりませんが、裁判に関する権限を直義に与えたわけです。大雑把にいえば軍事権を尊氏が握り、行政権を直義が握るという分掌です。これを二頭政治といいます。
皆が皆、裁判の結果に納得してくれたら、何も問題ないわけです。これにて一件落着めでたしめでたし。ところがそうはならなかった。敗訴した側が不当判決と叫んで、直義の失脚をたくらみ、尊氏に泣き付く。
そう泣き付かれると尊氏も無視できないわけです。支持基盤を失えば、自分の地位さえ安泰ではない。おい直義、これじゃ丸く収まらんよ、もちっとなんとかしてくれい、といったかどうかはわかりませんが、尊氏なりに解決しようとした。しかし直義は折れるつもりはなかった。直義にだって支持基盤はありました。支持者を裏切ったら直義の立場も安泰ではない。
観応の擾乱の本質は、兄弟争いではありません。裁判で土地争いが決着できずに、対立する両者がそれぞれ尊氏側と直義側に分かれて、武力闘争に訴えたといったことです。本当は私闘なんだけど、それでは大義名分が立たないので、尊氏と直義を担ぎ出して、私闘を正当化しようとしただけです。それぞれの武将が関心があるのは自分の利益だけなので、便宜的に尊氏側と直義側に分かれているだけで全然一枚岩ではないのです。ある時点までは直義側だった武将がころっと尊氏側に寝返ってしまう。負け組につくと元も子もなくしてしまうので非常に日和見的です。自分の権益を守る為に尊氏・直義をかんばんに利用しているだけなのです。

これに南北朝がどう絡むのか。室町幕府は元々北朝を支持基盤とした政権です。尊氏は北朝から直義を討てという命令を引き出します。要は合戦の大義名分にするための政治工作です。そうなれば直義は朝敵となるわけですから、たまらない。そこで直義は南朝につくのです。南朝の支持を得られれば、朝敵の汚名は解除できるからです。そうなると尊氏は困る。南朝を敵に回すわけにはいかない。尊氏だって朝敵にはなりたくない。そうなれば支持基盤を失って、自分が討たれる側になってしまう。そこで今度は尊氏も南朝についてしまうのです。南朝にすれば尊氏の軍事力は願っても無い魅力でした。そこで今度は南朝が直義を討てと命令するのです。そうなるともう直義は御仕舞いです。誰も味方がいない。というよりは直義を担いでいた武将が朝敵になるのは嫌だと怖気づいて離反してしまう。そんな流れで観応の擾乱は決着する。

南北朝の本質は、武将がそれぞれ自分の権益を守る為に、私闘の大義名分を得る為に北朝と南朝にそれぞれついて争ったということです。より多くの武将がついた方が優勢になる。武将が離反してしまえばたちいかなくなる。それぞれの武将は自分が担いだ方の朝廷が正当なのだと主張するわけです。

元をたどれば、全部土地をめぐる利害対立です。自分の権益を守る為だけに謀略、暗殺、戦闘、寝返り、裏切り、取引、駆け引きを繰り広げた時代です。
次の選挙に勝つためなら自民党でも民主党でもどちらでも良いというようなもので、現代は暗殺と戦闘がないことと争いの動機が違うだけです。

当時の最大かつ唯一の政治課題は土地政策です。土地政策は、土地に関する武将の複雑極まる利害対立の解決ということです。土地に関する権利、既得権益をどう守るかが武士の最大かつ唯一の関心事だったということです。
足利尊氏は裁判といった面倒なものはわしの性に合わん、戦のほうがよほど楽じゃ、裁判に関してはお前に任せた、直義お前やってくれ、といったかどうかはわかりませんが、裁判に関する権限を直義に与えたわけです。大雑把にいえば軍事権を尊氏が握り、行政権を直義が握るという分掌です。これを二...続きを読む

Q足利尊氏と源頼朝の人気がないのは何故ですか?

 私は、歴史上の人物の中でも、特に足利尊氏と源頼朝が好きなのですが、それぞれ室町幕府、鎌倉幕府を開いた人物であるにもかかわらず、世間一般からの人気が全くないような気がするのはなぜでしょうか?
初の武家による政権を開いたという点で、徳川家康より源頼朝の方が実績が上だと思いますし、武士としての能力や政治力において、足利尊氏は織田信長を上回ると思います。
 両者とも後世の歴史家から非難されている部分もありますが、それは信長・秀吉・家康にもあてはまることですし、幕末の志士も多々やっています。でも、戦乱を終わらせて政権を開いたということはそれにも遥かに勝る功績ですし、もっと人気が出てもいいように思います。
 あと、私以外にも尊氏か頼朝が好きな人は結構いるのでしょうか?

Aベストアンサー

No.2の回答者です。

>戦前に足利尊氏が好きといったら、大逆罪とは言えなくとも非国民扱いされたのでしょうか?

「土を喰う日々」(水上 勉 著)[新潮社版]
と言う本に、著者の水上 勉さん本人が書かれてます。
水上さんは、戦時中、足利尊氏の菩提寺で、住職さんの世話役のような仕事をされていたそうなのです。

以下は、本からの抜粋です。

>等持院は、当時大変な貧乏寺だった。
>足利尊氏の菩提寺だし、室町時代の宝物も有ったが、戦争中のこととて、国賊の菩提寺などへ観光に来る人は一人もいなかった
(中略)
>国家も、尊氏の事を逆臣と言っていた。

蛇足ながら、戦前の教育を受けている私の母親も、NHKの大河ドラマ「太平記」を見る時は、
「足利尊氏は、悪い奴だと教えられたけど、どうして悪い奴が主役なんだろ???」
と、言ってましたっけ・・・。
(^^;
いや、「教育」ってモノは、ある面、恐ろしいですネ。

Q足利尊氏・直義兄弟の争いの原因は?

足利兄弟の争いの原因と直義殺害の経緯、そして主な守護・国人の両陣営への帰趨は?
また、直冬(兄・尊氏の子⇒弟・直義の養子と成る)の立場や動向は?

室町幕府の確立への初期混乱の一事だと思いますが、ぜひお教え願いたく存じます。

Aベストアンサー

半済令の発布は観応3年(1352)に足利義詮によるものが最初とされていますが、足利尊氏は、六波羅を陥落させた前後から、京都周辺・畿内の荘官層に対して、荘官名を半済にし、名田の半分を荘官の一円所領とし、荘官を御家人に取り立て、自軍に組み入れる政策をとっていました。尊氏のもとで執事・侍所頭人であった高師直・師泰兄弟も同じような方法を用いて組織を拡大させ、強力な戦力を構築していった経緯があります。また、楠木正行との戦いに河内に出陣した時には独断で所領を与えることすらしています。さらに、恩賞が少ないならば、近辺の寺社本所所領の境を越えて知行せよと下知したなど、所領の横領を是認し、重層的な土地支配の形態であり、職務権限であり、得分権であった職(しき)の体系の破壊でした。職の体系は、荘園公領制の中で朝廷と幕府の共同の国家秩序の体系であるため、重層的な権利者が実力で確保しなくても機能し、問題が起これば裁判によって決着をつけるようになっていました。このような職の体系は鎌倉時代でも地頭請や下地中分などによって徐々に侵略されてはいたわけですが、鎌倉時代には基本的な社会構造として維持されていたわけです。
建武新政が破れ、室町幕府が成立すると、「尊氏は弓矢、直義は政道」として将軍権力を二分して、軍事・御家人統制は尊氏、行政・訴訟などを直義が扱うようになります。また、尊氏には執事として高師直、直義には執事として上杉重能が付き、二分された権力のもと各々に人脈が形成され、好むと好まざるとにかかわらず自然に派閥が形成されていきます。さらに直義は裁判関係の評定衆・引付・内談方を中心に人脈ができていったようです。直義は動乱の中で行政・訴訟を中心に扱う過程で、先に挙げた職の体系の維持の方向性で動いているわけで、建武4年の建武式目追加には、戦乱で武士が臨時に預かっている(正確には横領)状態になっている寺社国衙領家職を、荘官に返すように指示されています。このような状況下で直義側と、尊氏・高兄弟を中心とするグループに分かれ派閥抗争が発生し、尊氏・直義個人の感情を押し流し、両派閥の人間模様(高兄弟との感情問題等)も含め、抜き差しならない状況に至っています。
両グループ関係悪化は暦応年間から顕在化し、高師直が貞和4年四条畷に楠木正行を破り、余勢をかって吉野の南朝の本拠を陥れたことにより高兄弟の権威が最高潮に達し、両派のバランスが崩れ、貞和5年(1349)閏6月ごろには直義派、高兄弟派共に京都に軍勢を集め、一触即発状況になっています。この中で、直義派は高兄弟の暗殺を計画したとの話もあります。確実なことは直義派の上杉重能(直義執事)と畠山直宗が僧侶の妙吉を使って師直・師泰を尊氏に讒言したこと。同年の4月に中国探題として備後に下向していた直冬を呼び戻すために同じく妙吉を使者としたことです。8月になると師直が実力行使に出て、直義を討つために兵を動かします。直義は尊氏邸に逃れ、それを包囲した師直は、讒言した上杉重能)と畠山直宗の引き渡しを要求します。結局、上杉重能と畠山直宗は越前に流罪(流罪直後に高一派に暗殺されます)、直義は失脚ということでこの場は決着します。この結末には尊氏と師直の間の密約説があります。これは10月に義詮を鎌倉から呼び戻して(基氏が代わりに鎌倉に下向)政務を担当させたことからも、計画的であったのではないかと思われています。その前には尊氏は直冬討伐軍を派遣し、直冬を破り、九州に走らせます。ここまで追い詰められて直義は12月には出家するようになります。
しかし、翌年観応元年(1350)になると九州に落ち延びた直冬が在地の武士を集め、強力な勢力となり、九州のみならず中国地方にも勢力を伸ばし始めます。10月になると尊氏自身が追討に赴かなければならない状況となります。そのような状況のもと直義は京都を脱失し、奈良で南朝側と交渉しながら挙兵し、募兵に成功して京都を目指します。この間、北朝は直義追討の綸旨を出していますが、これが決定的な契機となって直義は南朝に降ります。この間尊氏は直冬討伐のために備前に下向しており、義詮は翌観応2年(1351)1月には京都を守りきれず、京都を直義に明け渡して、尊氏のもとに逃げ込みます。この時直義側には斯波高経・山名時氏・畠山国清・細川顕氏・石堂頼房・吉良貞氏・桃井直常らが加わり、上杉憲顕は関東から上京します。これらの勢力を率いて直義軍は播磨に進出して尊氏軍を破り、2月には尊氏、直義の間で和議が結ばれ、師直・師泰は出家することとなりましたが、帰京途上の摂津で上杉・畠山軍に一族もろとも殺されてしまいます。この結果、殺害の首謀者の上杉能憲の流罪で片付き、直義の義詮の補佐の形で政務復帰。また、直冬と尊氏の和平ということになり、表面的には直義派の勝利の形態と一応なりました。
しかし、7月となると直義と義詮の仲が決裂し、直義は補佐・政務から降り、近江の京極道誉と播磨の赤松則祐が南朝に走り、8月になると尊氏は近江、義詮は播磨に出兵して京都を留守にします(どう見ても出来レースですが)。直義はこの状況を見て斯波高経・桃井直常・上杉朝定・山名時氏・吉良満貞ほか所領裁判に関係した評定衆などを伴って北陸に下向します。9月には直義は近江に進出しますが、鎌倉に下向します。10月には今度は尊氏が南朝に降伏し、直義追討の綸旨を受け、11月に関東に向け発向します。
この時点では畿内を中心に尊氏が、北陸から関東にかけて直義派が、そして九州を中心に中国地方の西部を直冬が抑えている構図です。直冬は質問にあるように直義の養子で、一応直義派ですが、直義のために行動する姿勢は弱く、東西挟撃の好機にもかかわらず、それを実施していません。どちらかというと、独自の勢力を築くことに主が置かれている感じです。
尊氏は駿河の薩埵峠、相模の早川の合戦で直義軍を撃破して、観応3年(1352)1月に鎌倉に入り、直義は降伏します。2月26日に直義は急死しますが、毒殺とされています。この間に南朝勢力は京都に侵攻し、義詮は近江に走ります。また、鎌倉は新田の残存兵力により攻略され、南朝により征夷大将軍を解任された尊氏は武蔵に逃れます。南(正平の一統)。しかし、3月になると尊氏、義詮側も反攻に転じ、5月には南朝の拠点である男山が陥落して、南朝勢力は本拠地の賀名生に退却します。この間に北朝の天皇・上皇・皇太子が賀名生に連れ去られ、後光厳天皇が、広義門院(女院-西園寺寧子)を治天の君とする異例の措置の中で即位します。
観応の擾乱は全国規模で一族がわかれ、戦った争乱で、惣領制から単独相続へと移る中、惣領が一族内部での権限強化を目指す動きと、有力庶子が独立・反抗しようとする動きの中で、足利一門も有力庶子家である斯波・吉良・畠山・石堂などが直義を担いで、惣領の尊氏に対抗したり、独立を画策した側面もあります。高師直と感情的な対立、疎外受けた足利一門もありますが、高師直は惣領の執事として、惣領権の拡大を目指し、一門を疎外した面もあるように思います。実否は定かではありませんが、太平記によると、斯波高経が新田義貞を打ち取った際、源氏の重宝である鬼切丸を獲得しますが、尊氏からは、末の源氏の持つ物に非ずとして、献納を命じられたとあります。また、子の義将の代には足利の名字の使用を禁じられるなど、惣領権の圧迫を受ける庶子家の姿が明らかになっています。高経自身は観応2年の直義の北陸脱出時には直義に同行しますが、その後尊氏派に転向しています。このように向背常ならざる姿が多くの武将にみられ、それが全国的に展開された時期ともいえます。

長々と書きましたが、いろいろな勢力が入り交じり、その上向背常ならざる時代ですので、書き落としも多いと思います。

半済令の発布は観応3年(1352)に足利義詮によるものが最初とされていますが、足利尊氏は、六波羅を陥落させた前後から、京都周辺・畿内の荘官層に対して、荘官名を半済にし、名田の半分を荘官の一円所領とし、荘官を御家人に取り立て、自軍に組み入れる政策をとっていました。尊氏のもとで執事・侍所頭人であった高師直・師泰兄弟も同じような方法を用いて組織を拡大させ、強力な戦力を構築していった経緯があります。また、楠木正行との戦いに河内に出陣した時には独断で所領を与えることすらしています。...続きを読む

Q逆賊 足利尊氏

大村益次郎も九州から足利尊氏のごとき人物があらわれると案に明治政権にとって西郷を警戒してそのように表現しているとおもいますが、現代でこそ逆賊というイメージで尊氏は語られていませんがいつ時代から逆賊との汚名をうけていたのでしょうか?
室町政権が成立当時から人気はなかったのでしょうか?
ぜひ教えてください

Aベストアンサー

舌足らずですみません。

室町幕府3代将軍の足利義満の時代に南北朝は和解・統一してますので、以降の天皇はみんな「正統」です。
(南朝側は「騙された」と言ってその後も抵抗を続けたらしいですが。。。)

南北朝時代に南朝に敵対した尊氏は逆賊、南朝に味方した楠木正成は大忠臣。
二人ともそれぞれ忠臣だとは思いますが、幕末~明治~第2次世界大戦終了までは天皇中心の世の中でしたから、そういう歴史観も仕方ないのではないでしょう。

そして、後醍醐ビイキ(笑)ですが、幕末期に目指したものが天皇による親政ですから、後醍醐天皇の功績を1を10にしていても許してあげて下さい(笑)
当時(幕末)の求心力の一つとして、後醍醐天皇の建武の新政がちょうど良かったんでしょうね。

歴史の見方、捉え方って難しいですよね。
現在の世でも、中国や韓国の言う「歴史認識問題」も見方・捉え方の違いですから・・・。

Q西郷の欧州視察 明治維新で明治政府は大久保や木戸やその下の山県や西郷従道ら多くの志士を欧州視察に行か

西郷の欧州視察




明治維新で明治政府は大久保や木戸やその下の山県や西郷従道ら多くの志士を欧州視察に行かせているのに、なぜ西郷隆盛に欧州視察を勧めなかったのでしょうか?西郷が征韓論を持ち出した時に欧州帰りの政府要人は「おまえも欧州を見てくれば征韓論なんて到底無理だと分かる。」と西郷を(たとえ本人が嫌がったとしても)無理やりにでも欧州視察に行かせれば、そのあとの不平志族に担がれて西南戦争も起きなかったと思うのですが?

Aベストアンサー

なぜ西郷隆盛に欧州視察を勧めなかったのでしょうか?
   ↑
政権がまだ不安定で、国内を沈静化させる
ために、西郷を日本に置いておきたかったからです。
首脳の皆が皆、外国などへ出かけたら、反対分子が
暴れます。

現代でも、クーデターは国王なり、独裁者なりが
外国へ出かけた隙に発生している場合が多いです。




「おまえも欧州を見てくれば征韓論なんて到底無理だと分かる。」
    ↑
朝鮮半島は日本防衛の要です。
元寇だって、半島経由で日本を侵略しています。
半島が列強の植民地になったら、特にロシアですね。

ロシアの植民地になったら、日本の安全保障上
非常にまずいわけです。
だから、征韓論なのです。
ロシアに占拠される前に、占拠してしまえ、ということです。

日清日露戦争はまさに半島を巡る戦だったのです。

Q楠正成と後醍醐天皇と足利尊氏について。

楠正成と後醍醐天皇と足利尊氏ってどんな関係だったのですか?
その時代の情勢を知りたいんですが、なかなか的確なサイトが見つかりません。どなたか歴史の知識がない私にもわかるように簡単に説明していただけないでしょうか?よろしくお願いします。

Aベストアンサー

この時代ですが、鎌倉幕府もそろそろ末期になり、武士たちの不満も高まってきました。
ご承知のように鎌倉幕府は別名「北条幕府」とも言われ、北条氏が実験を握っており、その中で源氏の正統とされるのが足利家です。
後醍醐天皇は鎌倉幕府の衰退を見て、政権奪取のチャンスと見て、動き出しますが、天皇に早くから結びついたのが河内の豪族楠正成で、赤坂城などに立てこもって幕府に反旗を翻します。
後醍醐天皇も各地の武士に味方するように呼びかけ、それに応じた足利尊氏は当初は北条氏の命令で京都に進軍してきましたが、翻意して幕府の京都の拠点、六波羅探題を攻め落とし、これに呼応する形で、新田義貞が鎌倉をせめて、ここに鎌倉幕府は終焉し、後醍醐天皇の親政が始まります。
天皇は公家中心の政治を考えて、公家の荘園などを保護したため、武士たちの不満が高まり、足利尊氏を中心に不満が爆発、あくまで天皇に従う、楠正成や新田義貞と戦争になります。
一時は足利尊氏を九州に追い払った朝廷ですが、やがて勢力を挽回した足利軍が、後醍醐天皇とは別の系統の持明院統の光厳上皇を擁して京都を目指して攻め上ってくると、もはやなんともならず、楠正成も湊川の合戦で破れ、自刃して果てます。
やがて新田義貞、北畠顕家などの朝廷側の有力武将も破れ、後醍醐天皇は吉野に逃れ、足利氏の立てた持明院統の光厳上皇に対抗して「南朝」を立てます。
これ以降は、吉野の朝廷を南朝、京都の朝廷を北朝と言って、南朝には楠正行(正成の息子)などが応援に加わり、足利幕府の内紛に乗じて京都を奪還したりしますが、3代将軍足利義満の時代に、一応南朝は消滅します。
分かりやすいのは横山光輝の「太平記」という漫画などを読みますとよいですよ。
漫画喫茶などで読んでみてください。

この時代ですが、鎌倉幕府もそろそろ末期になり、武士たちの不満も高まってきました。
ご承知のように鎌倉幕府は別名「北条幕府」とも言われ、北条氏が実験を握っており、その中で源氏の正統とされるのが足利家です。
後醍醐天皇は鎌倉幕府の衰退を見て、政権奪取のチャンスと見て、動き出しますが、天皇に早くから結びついたのが河内の豪族楠正成で、赤坂城などに立てこもって幕府に反旗を翻します。
後醍醐天皇も各地の武士に味方するように呼びかけ、それに応じた足利尊氏は当初は北条氏の命令で京都に進軍...続きを読む

Q徳川政権下の足利家

徳川政権下の足利家はどういう扱いをされていたのでしょうか?
義昭は、秀吉から1万石をもらって朝鮮出兵に参加し、
1597年死亡までは調べられたのですが、
その後の足利家です。

Aベストアンサー

すでに回答がありますが、将軍家の方は義昭で断絶しています。一方鎌倉
公方は鎌倉公方→古河公方→喜連川氏となって、明治維新を迎えています。

喜連川氏は、外様大名ですが徳川氏によって厚遇されています。これは
徳川氏に系図を貸したからだ、と言われています。


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