大村益次郎も九州から足利尊氏のごとき人物があらわれると案に明治政権にとって西郷を警戒してそのように表現しているとおもいますが、現代でこそ逆賊というイメージで尊氏は語られていませんがいつ時代から逆賊との汚名をうけていたのでしょうか?
室町政権が成立当時から人気はなかったのでしょうか?
ぜひ教えてください

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A 回答 (7件)

舌足らずですみません。



室町幕府3代将軍の足利義満の時代に南北朝は和解・統一してますので、以降の天皇はみんな「正統」です。
(南朝側は「騙された」と言ってその後も抵抗を続けたらしいですが。。。)

南北朝時代に南朝に敵対した尊氏は逆賊、南朝に味方した楠木正成は大忠臣。
二人ともそれぞれ忠臣だとは思いますが、幕末~明治~第2次世界大戦終了までは天皇中心の世の中でしたから、そういう歴史観も仕方ないのではないでしょう。

そして、後醍醐ビイキ(笑)ですが、幕末期に目指したものが天皇による親政ですから、後醍醐天皇の功績を1を10にしていても許してあげて下さい(笑)
当時(幕末)の求心力の一つとして、後醍醐天皇の建武の新政がちょうど良かったんでしょうね。

歴史の見方、捉え方って難しいですよね。
現在の世でも、中国や韓国の言う「歴史認識問題」も見方・捉え方の違いですから・・・。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。ご趣旨は大変勉強になりました。幕末は天皇の親政を目指したというか行きがかり上それ以外の選択肢がなかったからなのかなぁとも思ったりもしました。またよろしくお願いします。

お礼日時:2005/05/06 14:59

皇統というゴーストの束縛から踏み出さない限り足利尊氏の自由な評価は難しいと思います。


時の権力者による我田引水の歴史解釈では評価はクルクル変わってあたりまえです。

三種の神器も壇ノ浦合戦で海中に沈み、回収されたという事になっていますがこれとて疑えばきりのない話。

血統というのも万世一系という位ですから両朝というのも歴史上の存在でしかありません。
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この回答へのお礼

一時代の偉人ですので評価が時代とともに上下するものですね。今回は非常の時代的の背景で尊氏が利用されていたのではないとどうかに興味がありました。まことにありがとうございます。

お礼日時:2005/05/06 15:03

こんばんわ。

#3です。

私が挙げたキーワードで検索されました?

もし、されていないのでしたら一度やってみてください。
もし、された上でのコメントであったならば「幕末 尊氏 逆臣」をキーワードにして検索をかけてみてください。

孝明天皇は北朝です。
この問題は明治天皇が北朝か南朝かは問題なのではありません。
「南北朝時代に正統である南朝に敵対した・弓を引いた」から尊氏は逆賊なのです。

そして、尊氏=逆賊と言い出したのは、江戸時代の国学者たちです。
(正確には、南朝支持者達の間ではずっと「逆賊」でしたが。)

現代において尊氏が逆賊と言うイメージで語られていないのは、「偏った見方」がされていないからです。倒す人がいれば、当然倒される人がいるわけですから仕方ないですよ。

詳しくは検索結果をご覧下され。



以下、横レスで悪いのですが。
幕末(江戸末期)の「尊皇」思想ですが、根っこは同じです。
江戸中期ごろから、国学者と言われる人たちが台頭してきます。
初めは江戸幕府を倒すための論理ではなく、純粋に日本の「歴史」を研究していました。
それが幕末になって、討幕運動に利用されたのではないでしょうか。
「武家政権を倒して、天皇を中心とした政治に戻す」って。

またその過程で、天皇を中心とした政治(後醍醐天皇の建武の新政)を倒した人=尊氏と言うことで、尊氏は逆賊とされていったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご丁寧にありがとうございました。もう一度検索して良くわかりました。出所は水戸学なのですね。ただ一点南北の問題を抜きに尊氏を逆賊にするのは純粋に不思議な気もしています。(しつこいかもしれません笑)時の朝廷が北系であったわけだし曹操のように自分が朕さんになろうとしたわけではなく、ある程度の筋のある天皇を立てたわけですからそこまで責める必要があるのかが変な思惑抜きに不思議な気もしています。判官贔屓ならぬ後醍醐ビイキっていうのが世にあるのでしょうか???

お礼日時:2005/05/03 01:09

補足です。


南朝、北朝の区別を論じ始めたのは江戸時代中期以降で、それまでは両朝の区別も曖昧か知らなかったのではないでしょうか?

朝廷自体それほど重視されていませんでしたから。
尊皇思想が重視され始めて皇室に対する逆臣という思想や価値観が生まれてきたのです。
尊皇思想は結局徳川幕府にとっては危険思想でした。

この回答への補足

回答ありがとうございます。尊氏にすれば勝てば官軍であり三種の神器も移動したのだから、南朝が執拗に文句をいうのは判るとして明治の世論として国民レベルで尊氏を逆賊扱いするのは合点がいきません。おそらく明治天皇にまつわるいろいろな曰くで南北の理論武装をする必要が生じて、明治維新後に一部の公家が考えた理論のような気がしてなりません。 かばうつもりはありませんが高名な尊氏が利用させたのではないでしょうか? またどうしてもいわゆる幕末の尊王とは関係がないような気がします。

補足日時:2005/05/02 21:43
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こんにちわ。



「汚名」とか「人気がない」という次元での話ではなく、
後醍醐天皇を祖とする南朝側からみたときに、足利尊氏は「逆賊」と表現されます。

(いつからかは正確には覚えていないのですが、少なくとも)明治~第2次世界対戦終了までの歴史では、後醍醐天皇の南朝の方が正統であると教えられていました。

南朝正統説については、「南朝 正統 国学者」をwebで検索してみてください。わかりやすい解説がたくさんありますから。

この回答への補足

回答ありがとうございます。 孝明帝などは北朝筋とおもわれますがならばなぜ明治になってから取り立てて南北をわざわざいいだすのかがナゾです。江戸期に尊氏が逆賊といわれていた史実はあるのでしょうか?

補足日時:2005/05/02 14:45
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足利尊氏が逆賊の汚名を受けたのは、後世の反対派の捏造です。


彼の実像はNo1のご回答にあるように情に厚い人柄のため乱世に合わず、ドライな弟と考えが異なり衝突を繰り返す内造反を招き南北朝を往復するような複雑な行動の末遂に弟を毒殺せざるを得ませんでした。

南北両朝は尊氏以前に存在しましたが両者が戦いを交える事態を招いた原因を尊氏にかぶせて非難するのが後世の逆賊説の始まりです。

尊氏の元にはせ参じた人々は色々な思惑があったにせよ、九州から大軍を組織して京都に攻め上り後醍醐帝の乱脈な政治を粉砕したのは尊氏の人徳があればこそでしょう。

しかし室町幕府はその成立の経緯から北朝を擁護せざるを得ず京都を都とし、鎌倉幕府の諸政を踏襲しながら純粋な武家政治にも徹しきれないジレンマがあり、有力部将の内紛などで混乱期を招きました。

戦国期の下克上の萌芽は既に始まっていたのです。
家康の徳川幕府が長く続いたのはこれらの教訓を学び政治力学を利用する事に徹したからです。
徳川幕府が秩序維持の為尊氏を逆賊に仕立て上げた事も影響しているでしょう。

この回答への補足

ありがとうございます。江戸期の朝廷は行きがかり上、北朝筋なのではないでしょうか?? 徳川幕府がわざわざ自ら立てている朝廷に対して南が正当と秩序維持の為にワザワザいったのでしょうか?? 江戸期には言っていないのではないでしょうか?

補足日時:2005/05/02 14:50
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足利尊氏ですが、家族を大切にし、部下を慈しんで物欲に薄いので、得たものは気前よく分配します。


戦になれば勇敢に先頭に立って戦い、敵にも慈悲と尊敬の心を忘れない、将に男の中の男です。
その結果、弟の直義や息子の直冬(直義の養子)は造反し尊氏を打とうとし、部下の佐々木導誉などは増長し、敵の南朝はゾンビのように生き延び、足利幕府は非常に不安定な政権となります。
同じ幕府の創始者の源頼朝は弟の義経始め自分の一族も殺して禍根を断ち、徳川家康も長男信康と妻の築山を殺し、次男の秀康は豊臣の人質にしたり冷たく扱い、6男忠輝も追放、豊臣家とそれと関係の深い加藤、福島なども滅亡させと、冷酷無情な扱いをしたので、敵がいなくなり、政権基盤が安定して、恒久的な平和が招来されました。
皮肉なものですが、人の上に立つものは他人を信用しない猜疑心と冷酷さ、子供や妻でも怪しいと思えば殺してしまう用心深さが必要です。
足利尊氏はその点「快男児」なので、敵である後醍醐天皇が生き延びてしまい、その子孫の南朝により悪く言われるようになってしまいました。
殺さぬまでも、隠岐とか佐渡に流して、足利氏が立てた天皇家の北朝が唯一無二の天皇家であれば、あれほど評判は悪くならなかったかと。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2005/05/02 14:58

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Q足利尊氏は

足利尊氏は何故鎌倉じゃなく
京都に幕府をおいたのですか??

教えてください。

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幕府って何かと、政権の正統性はどこからくるのか?時代が南北朝であるってのがポイントかと。

そもそも幕府とは、将軍が戦場にいるときの臨時行政組織といえます。将軍がいてその部下がいれば、そこが幕府。

将軍を任命するのは天皇ですので、天皇を管理下におく必要があります。遠くにいても管理できれば、あるいは、ちゃんと将軍に任命してくれる慣習になっていれば遠くにいてもなんの問題もない。
遠くで管理したのが江戸幕府。
遠くても、源氏の統領を将軍にするのが道理だよねというのが鎌倉幕府。

ところが時代が南北朝で、常に北朝を正統として、武力で守らなければならなかったのが、足利幕府成立の時代背景です。

北朝を守るのに一番都合が良いのはどこにいるべきか?それは京都ということになります。

それで 京都に将軍が常駐=京都に幕府となります。

Q 大村益次郎について、ご質問2つ

 昨日、「笑っていいとも!増刊号」を見ていましたら、幕末の傑物、大村益次郎の子孫の方が出演されて、

「この人が誰の子孫か?」

を、当てるというクイズをやっていました。

 子供の頃に見た、大河ドラマ「花神」の影響や、理系人間であることもあり、幕末の人物の中では、大村益次郎が一番好きなので、すぐに答えがわかりましたが、龍馬や、桂にくらべて知名度が低いことは私にもわかりましたので

「たぶん当たらないだろうナ!」

と思っておりましたが、やはり正答は少ないものでした。

 しかし、「大村益次郎の子孫を出して、面白味がある」と、民放バラエティ番組の人間が判断したところを見ると、それほど知名度が低いわけではないのかもしれない?・・・という疑問がわきました。

 で、ご質問は以下の2つです。

1)大村益次郎の知名度は、世代別、戦前・戦後、理系・文系?等、各階層でどのような傾向があると想像されますか?

2)番組中、プロフィールを説明するテロップで「・・・一時『村田蔵六』と名乗る・・・」(表記はウロ覚えです)と流れたのですが、実は私は、本名が「村田蔵六」だと思っておりました。これは、どう考えるのが正しいのでしょうか?

 以上です。よろしくお願いいたします。

 昨日、「笑っていいとも!増刊号」を見ていましたら、幕末の傑物、大村益次郎の子孫の方が出演されて、

「この人が誰の子孫か?」

を、当てるというクイズをやっていました。

 子供の頃に見た、大河ドラマ「花神」の影響や、理系人間であることもあり、幕末の人物の中では、大村益次郎が一番好きなので、すぐに答えがわかりましたが、龍馬や、桂にくらべて知名度が低いことは私にもわかりましたので

「たぶん当たらないだろうナ!」

と思っておりましたが、やはり正答は少ないものでした。

...続きを読む

Aベストアンサー

見ましたよ。この前のいいとも。(ちょっとだけど・・・)僕も数ヶ月前に司馬遼太郎の「花神」を読みました。幕末にこんな人物がいたんだとちょっとした衝撃を受けました。小説の方はやっぱり、司馬テイストに仕上がっている分も差し引いて考えないといけないと思うんですが、幕末という、人間の感情がいろんなレベルで噴きあがった時代にああいう存在はやはり、強い魅力を感じます。
さて、

1)大村益次郎の知名度は、世代別、戦前・戦後、理系・文系?等、各階層でどのような傾向があると想像されますか?

知名度に関しては、「革命軍の総大将であり、全軍の指揮を受け持ち、連戦連勝した人」ということで、教科書にでてきたような気がする・・・というのが一般的な理解ではないでしょうか?竜馬、西郷、近藤などといった人は理解しやすく共感したり、憧れたりといった感情移入がしやすいですが、大村益次郎のような人物はどうしても多くの人は理解できにくいと思います。(自分なんかは共感しちゃいますが・・・)ちなみに自分は26歳、文系です。これは、世代をとうして幾分の違いはあっても同じようなかんじじゃないでしょうか?

2)番組中、プロフィールを説明するテロップで「・・・一時『村田蔵六』と名乗る・・・」(表記はウロ覚えです)と流れたのですが、実は私は、本名が「村田蔵六」だと思っておりました。これは、どう考えるのが正しいのでしょうか

自分もどうだったかハッキリ覚えてないんですが、確か、本名だったと思います。
ちなみにご存知かもしれませんが、「蔵六」とは両手、両足、頭、しっぽを蔵する・・・亀、の意味があるそうです。意味深い名前だなあと思います。

見ましたよ。この前のいいとも。(ちょっとだけど・・・)僕も数ヶ月前に司馬遼太郎の「花神」を読みました。幕末にこんな人物がいたんだとちょっとした衝撃を受けました。小説の方はやっぱり、司馬テイストに仕上がっている分も差し引いて考えないといけないと思うんですが、幕末という、人間の感情がいろんなレベルで噴きあがった時代にああいう存在はやはり、強い魅力を感じます。
さて、

1)大村益次郎の知名度は、世代別、戦前・戦後、理系・文系?等、各階層でどのような傾向があると想像されますか? ...続きを読む

Q足利尊氏と源頼朝の人気がないのは何故ですか?

 私は、歴史上の人物の中でも、特に足利尊氏と源頼朝が好きなのですが、それぞれ室町幕府、鎌倉幕府を開いた人物であるにもかかわらず、世間一般からの人気が全くないような気がするのはなぜでしょうか?
初の武家による政権を開いたという点で、徳川家康より源頼朝の方が実績が上だと思いますし、武士としての能力や政治力において、足利尊氏は織田信長を上回ると思います。
 両者とも後世の歴史家から非難されている部分もありますが、それは信長・秀吉・家康にもあてはまることですし、幕末の志士も多々やっています。でも、戦乱を終わらせて政権を開いたということはそれにも遥かに勝る功績ですし、もっと人気が出てもいいように思います。
 あと、私以外にも尊氏か頼朝が好きな人は結構いるのでしょうか?

Aベストアンサー

No.2の回答者です。

>戦前に足利尊氏が好きといったら、大逆罪とは言えなくとも非国民扱いされたのでしょうか?

「土を喰う日々」(水上 勉 著)[新潮社版]
と言う本に、著者の水上 勉さん本人が書かれてます。
水上さんは、戦時中、足利尊氏の菩提寺で、住職さんの世話役のような仕事をされていたそうなのです。

以下は、本からの抜粋です。

>等持院は、当時大変な貧乏寺だった。
>足利尊氏の菩提寺だし、室町時代の宝物も有ったが、戦争中のこととて、国賊の菩提寺などへ観光に来る人は一人もいなかった
(中略)
>国家も、尊氏の事を逆臣と言っていた。

蛇足ながら、戦前の教育を受けている私の母親も、NHKの大河ドラマ「太平記」を見る時は、
「足利尊氏は、悪い奴だと教えられたけど、どうして悪い奴が主役なんだろ???」
と、言ってましたっけ・・・。
(^^;
いや、「教育」ってモノは、ある面、恐ろしいですネ。

Q足利尊氏・直義の不和兄弟争い、南朝北朝との関係は?

権力移行の過程の混乱だと思いますが、南北朝や直冬や高師直を巻き込んでの離合集散や離反変節が際立つのは、時代背景、権力争い、バックアップ勢力の意向、儒教等の倫理&価値観が希薄etcどの様な要因が大きく影響しているのでしょうか?

Aベストアンサー

当時の最大かつ唯一の政治課題は土地政策です。土地政策は、土地に関する武将の複雑極まる利害対立の解決ということです。土地に関する権利、既得権益をどう守るかが武士の最大かつ唯一の関心事だったということです。
足利尊氏は裁判といった面倒なものはわしの性に合わん、戦のほうがよほど楽じゃ、裁判に関してはお前に任せた、直義お前やってくれ、といったかどうかはわかりませんが、裁判に関する権限を直義に与えたわけです。大雑把にいえば軍事権を尊氏が握り、行政権を直義が握るという分掌です。これを二頭政治といいます。
皆が皆、裁判の結果に納得してくれたら、何も問題ないわけです。これにて一件落着めでたしめでたし。ところがそうはならなかった。敗訴した側が不当判決と叫んで、直義の失脚をたくらみ、尊氏に泣き付く。
そう泣き付かれると尊氏も無視できないわけです。支持基盤を失えば、自分の地位さえ安泰ではない。おい直義、これじゃ丸く収まらんよ、もちっとなんとかしてくれい、といったかどうかはわかりませんが、尊氏なりに解決しようとした。しかし直義は折れるつもりはなかった。直義にだって支持基盤はありました。支持者を裏切ったら直義の立場も安泰ではない。
観応の擾乱の本質は、兄弟争いではありません。裁判で土地争いが決着できずに、対立する両者がそれぞれ尊氏側と直義側に分かれて、武力闘争に訴えたといったことです。本当は私闘なんだけど、それでは大義名分が立たないので、尊氏と直義を担ぎ出して、私闘を正当化しようとしただけです。それぞれの武将が関心があるのは自分の利益だけなので、便宜的に尊氏側と直義側に分かれているだけで全然一枚岩ではないのです。ある時点までは直義側だった武将がころっと尊氏側に寝返ってしまう。負け組につくと元も子もなくしてしまうので非常に日和見的です。自分の権益を守る為に尊氏・直義をかんばんに利用しているだけなのです。

これに南北朝がどう絡むのか。室町幕府は元々北朝を支持基盤とした政権です。尊氏は北朝から直義を討てという命令を引き出します。要は合戦の大義名分にするための政治工作です。そうなれば直義は朝敵となるわけですから、たまらない。そこで直義は南朝につくのです。南朝の支持を得られれば、朝敵の汚名は解除できるからです。そうなると尊氏は困る。南朝を敵に回すわけにはいかない。尊氏だって朝敵にはなりたくない。そうなれば支持基盤を失って、自分が討たれる側になってしまう。そこで今度は尊氏も南朝についてしまうのです。南朝にすれば尊氏の軍事力は願っても無い魅力でした。そこで今度は南朝が直義を討てと命令するのです。そうなるともう直義は御仕舞いです。誰も味方がいない。というよりは直義を担いでいた武将が朝敵になるのは嫌だと怖気づいて離反してしまう。そんな流れで観応の擾乱は決着する。

南北朝の本質は、武将がそれぞれ自分の権益を守る為に、私闘の大義名分を得る為に北朝と南朝にそれぞれついて争ったということです。より多くの武将がついた方が優勢になる。武将が離反してしまえばたちいかなくなる。それぞれの武将は自分が担いだ方の朝廷が正当なのだと主張するわけです。

元をたどれば、全部土地をめぐる利害対立です。自分の権益を守る為だけに謀略、暗殺、戦闘、寝返り、裏切り、取引、駆け引きを繰り広げた時代です。
次の選挙に勝つためなら自民党でも民主党でもどちらでも良いというようなもので、現代は暗殺と戦闘がないことと争いの動機が違うだけです。

当時の最大かつ唯一の政治課題は土地政策です。土地政策は、土地に関する武将の複雑極まる利害対立の解決ということです。土地に関する権利、既得権益をどう守るかが武士の最大かつ唯一の関心事だったということです。
足利尊氏は裁判といった面倒なものはわしの性に合わん、戦のほうがよほど楽じゃ、裁判に関してはお前に任せた、直義お前やってくれ、といったかどうかはわかりませんが、裁判に関する権限を直義に与えたわけです。大雑把にいえば軍事権を尊氏が握り、行政権を直義が握るという分掌です。これを二...続きを読む

Q足利尊氏の性格

足利尊氏は優柔不断な性格だったのでしょうか?
それともただ信心深いだけだったのでしょうか(天竜寺の建立)?
それとも頼朝のように辛抱強く待てる性格だったのでしょうか?

Aベストアンサー

足利尊氏は男らしい性格で、物惜しみせずに部下に恩賞を気前良く分け与え、戦には命を惜しまずに勇敢に戦い、家族を大切にして慈悲深い性格です。
こういった性格は権力者としては失格で、頼朝や家康のように、身内にも冷淡で部下にも冷たくあたり、けちで臆病なくらい用心深く、粘液質な性格でないといけません。
その為、弟や養子に出した実子に裏切られて辛いことになり、部下が増長して幕府の権威が落ち、子孫も苦労することになります。
天竜寺も彼の性格からすれば、やむ得なくやったことなので、心を痛めており、夢窓疎石の勧めに乗ったということで、信心深いというより、自分が天皇に逆らったことを、一人の人間として悔いていたと考えるのが素直ではないかな。


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