大事な試合のときに良く「天王山」という言葉を使いますが、なぜ「天王山」なのでしょうか?例えば「関ヶ原」でも良いのではと思うのですが・・・。

A 回答 (5件)

全体からみれば小さな一部分の攻防の結果が、


全体の勝敗に大きく影響する、という意味で、
天王山の方がふさわしいのではないかと思います。

「関が原」は、関が原の戦全体を表しますが、
「天王山」は、山崎の戦の、ごく一部(局地戦)ですよね。
勿論、そこを占領した方が断然有利になる、という、重要な場所ですが。

ですから、130試合で行われるペナントレースの、ごくごく一部分である、とある3連戦が優勝の行方を左右する、
という場合などは、「天王山」と言う表現の方がしっくり繰るのではないでしょうか。

私は、そんな風に理解して納得していますが。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2001/09/16 21:03

直接の回答でもなんでもないのですが、知人に大山崎町在住のものが居ます。

その彼がある日大発見をしたというような口調で言いました。「うちの裏の天王山な、あの有名な天王山らしいわ。知らんかった。」地元の人すべてではもちろんないでしょうが、「うちの裏山の天王山」があの有名な「天王山」であるということを知らない人も結構居るようです。
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この回答へのお礼

なんだか、微笑ましい話ですね。
あまりに身近だと結構見落としてしまうのでしょうかね。

お礼日時:2001/09/16 21:05

天王山は、山そのものの取り合いが勝敗の帰趨を決するという重要性があったようです。


203高地のようなものだったのでしょうか。
関が原は、西方が先に峠を背にした有利な地を占め、東方は、史実で明らかなように相手方を裏切り等でかく乱できるので、
当初は地勢的には不利な場所に陣したと思います。
というように、天王山ではその場所そのものに天下分け目という意味があったのに対し、関が原は場所よりも両者の権謀術策の差が
勝敗を決めたようです。
「天王山を取ったほうが、リーグ優勝に近づく」ということでしょう。
「関が原」は戦いの場であって、取り合うものではないということだと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2001/09/16 21:01

天下分け目の天王山


秀吉と光秀の合戦の舞台となった天王山(大山崎町)

「本能寺の変」から「中国大返し」、そして、ついに世に名高い「山崎の合戦」と
信長の死後の天下取りの戦いですからね。

参考URL:http://www.joho-kyoto.or.jp/~oyamazak/hideyos2.htm
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
参考になりました。

お礼日時:2001/09/16 21:00

いや、それはやっぱり秀吉と光秀の山崎の戦(1582)がそれだけ重大だったからじゃないでしょうか?


後の秀吉の覇権は事実上ここで決したわけだし…。

「関ヶ原」も慣用句的に使いますよね。「天下分け目の関ヶ原」ってな言いまわしで。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2001/09/16 20:55

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奥州にこわーい伊達政宗が居ますからね。
関ヶ原前後でも不穏な動きを見せているので江戸をがら空きには出来なかったと思います。


何よりも薩摩の統治者候補が居なかったのでは?
島津家は鎌倉以来の土着の家柄。軍の団結力が半端ではない。
関ヶ原で参加したのがたった兵力1500。
精鋭の島津本隊は薩摩で無傷であること。
更に毛利も関ヶ原で戦っておらず無傷の大兵力を持っていること。

何よりも薩摩の正確な国力が不明だった事。
検知も中央から遠いことを良いコトにかなりの改ざんと南方貿易による経済力は秀吉時代から誤魔化していたようです。
薩摩は異色な土地なので間者が送りにくかったとか。
基本石高ですが、薩摩は米以外の産地ですので国力は掴めなかった。

やはり薩摩までの補給路の確保が難しいし、
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関ヶ原後の論功を見てもわかる通りに関西には外様ばかり。
こんな時にその最西端でどっしり構えるわけには行きません。

関ヶ原を終えて戦略的に立ち返って考えれば、豊臣に的を絞って島津はこちらにと言う方を選んだではないでしょうか。
家康自身の余命と秀忠の戦闘指揮能力を考えれば、ここで当代の名将島津義弘と戦うことはやはり選択できなかったと思います。

奥州にこわーい伊達政宗が居ますからね。
関ヶ原前後でも不穏な動きを見せているので江戸をがら空きには出来なかったと思います。


何よりも薩摩の統治者候補が居なかったのでは?
島津家は鎌倉以来の土着の家柄。軍の団結力が半端ではない。
関ヶ原で参加したのがたった兵力1500。
精鋭の島津本隊は薩摩で無傷であること。
更に毛利も関ヶ原で戦っておらず無傷の大兵力を持っていること。

何よりも薩摩の正確な国力が不明だった事。
検知も中央から遠いことを良いコトにかなりの改ざんと南方貿...続きを読む

Q「だじぇい」「でそ」という言葉遣いについて

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最近、友人などがメールやチャットで
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どっちか1つでもいいので知っている方おられたら教えてください

Aベストアンサー

基本的にはインターネットが原因だと私は感じています。
2chと呼ばれる書き込みサイトや
オンラインゲームでの会話・チャットなどでは
所謂、オタクと言われる人やアニメオタクなども多く
アニメキャラが使う言葉使いを真似る人や
業界用語の様にネット独自の言葉を使う人も居ますし
ネットというのは感情を伝え難い文字だけの世界なので
「だぜ・だろ」などという言葉使いでは状況によって
横柄な態度、と取られてしまったり
喧嘩口調だ、と受け取られてしまったりして
誤解を与えてしまう事も度々ありますし
そういう誤解から喧嘩に発展するなども良くある事なので
絵文字で感情を伝えたり、悪意と取られない表現方法として
「行ったよ=行ったじぇい」、「でしょ=でそ」
というような使われ方をするようになってきたように思います。

私も以前ネットゲームをやってた事があり
その際に幼児言葉のようなしゃべり方をする人とかが居て
初めはキモ~イ!と思ったものですが
そういうしゃべり方の人からは悪意を感じ難い
というメリットもあると把握したのでネットなどの
文字だけの世界では、そういうおかしな言葉使いも
ある意味重要な自己表現の一つだな・・・と思ったものです。

リアル社会でそのまま変な言葉使いを使う人はどうかと思いますけどね

基本的にはインターネットが原因だと私は感じています。
2chと呼ばれる書き込みサイトや
オンラインゲームでの会話・チャットなどでは
所謂、オタクと言われる人やアニメオタクなども多く
アニメキャラが使う言葉使いを真似る人や
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ネットというのは感情を伝え難い文字だけの世界なので
「だぜ・だろ」などという言葉使いでは状況によって
横柄な態度、と取られてしまったり
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Q東軍は、敗戦時に退却路として中山道を使うつもりであったので、秀忠軍は関ヶ原へ進行する意図を最初から持

先日,ラジオで加来耕三氏の話を聞きました。

関ヶ原の戦いで、東軍の徳川秀忠軍は中山道において手間取り、関ヶ原の戦いに間に合いませんでした。秀忠軍は、信州の真田軍との戦いで、不覚を取ったから、と言われていますね。

加来氏の説明は以下の通りでした、実は、家康と秀忠の間で、暗黙の了解がなされていたそうです。それは、もし、関ヶ原の戦いで東軍が敗退した場合、関東方面に退却しなければなりません。そのル―トには、中山道を使う。このために、秀忠軍は、中山道に駐留していなければなりません。従って、秀忠軍は関ヶ原へ進行する意図を、当初から持っていなかぅた、という説明でした。

賢者の皆様に論評をお願いします。

Aベストアンサー

まず、秀忠軍は徳川家の主力部隊でした。
徳川家実質的NO2であり、総理大臣的立場であった、本多正信が軍監として配されていた事からでも、あきらかでしょう。 
徳川家康がもっとも信頼していた、本多正信をつけたのは、家康の戦略を熟知していた存在だからと、容易に推測できます。
小山の陣より、西軍に対する為、上杉攻めの軍を西に返すわけですが、秀忠軍は江戸には戻らず、そのまま東山道に向かっています。
江戸に戻った家康は、諸大名に対して50通近い書状を送り、懐柔の策を施し、一月後に東海道を登って行きます。
この間、秀忠軍の工程を並列すると、秀忠軍の方が先に美濃に着いてしまう事になります。そこで、時間的帳尻を合わす為、真田昌幸の上田城を攻めたわけです。これももちろん家康と正信の示し合わせた作戦でしょう。
もし、美濃で合流するつもりであれば、上田には後詰を残して無視してと東山道を登り、木曽を抜けた中津川辺りで駐屯して連絡を取り合えばいい事ですから、主力の徳川軍は温存させるという意図がありありです。
小山では、上杉軍に対応する為、次男結城秀康を残してます。

では、何でそんな作戦を立てたのか。
私の推測では、この際豊臣恩顧の有力大名は共倒れ、殲滅させるという意図があったのではないでしょうか。
関が原で戦ったのは、西軍宇喜田秀家、小西行長、大谷行部、それに実質的総大将(当事者、発案者という方が打倒と思いますが)、石田三成のたった4家大名です。それに対し、東軍は福島正則以下、お歴々歴戦の有力大名が揃っています。対して、家康の率いている徳川軍は、本多忠勝、徳川家の執政役井伊直政の有力2武将以外は、かなり老齢(40代前後ですが)の兵卒が多かったようです。3万5千も掻き集めたのですから、関東領地の農民も相当数駆り出されたようです。
これでは、徳川軍はまともに戦えませんので、ほとんど戦っていません。家康の代わりに4男忠吉が井伊直政治の後見で奮戦した程度です。
尚井伊直政は、この時の鉄砲傷がもとで、戦後まもなく亡くなっています。忠吉も矢疵をおっています。この疵が疵が原因で、のちのち、早い時期に亡くなっています。
従って、もし旗色が悪くなれば、一端戦線を引いて岐阜城あたりまで下げ、秀忠軍と合流して、次戦に備えたのではないでしょうか。
そうなれば、味方していた東軍の豊臣の諸将からも裏切るものが出た事でしょうが、戦力は当然疲弊していると計算していたと思います。
そこに、35000の無傷の兵と、秀忠軍の40000の主力が加われば、徳川家の兵力だけで、十分に再戦できる、撃破できると想定したと思います。豊臣恩顧の大名なんて、じゃまなだけですから。

家康の本当の敵は、大阪城に篭る毛利輝元なわけです。

ですから、この一戦に徳川の運命をかけた家康としては、負けられない戦いの作戦計画を正信と、十分練り上げた結果ではないかと思います。
秀忠軍が背走の為の温存なんて、有り得ないという事です。

最後に勝つ為の戦略という事だと、私は確信しています。

まず、秀忠軍は徳川家の主力部隊でした。
徳川家実質的NO2であり、総理大臣的立場であった、本多正信が軍監として配されていた事からでも、あきらかでしょう。 
徳川家康がもっとも信頼していた、本多正信をつけたのは、家康の戦略を熟知していた存在だからと、容易に推測できます。
小山の陣より、西軍に対する為、上杉攻めの軍を西に返すわけですが、秀忠軍は江戸には戻らず、そのまま東山道に向かっています。
江戸に戻った家康は、諸大名に対して50通近い書状を送り、懐柔の策を施し、一月後に東海道を...続きを読む

Q急ぎではありませんが、例えば、眺めのいい展望台(山・海とわず)とかに、円い羅針盤?円卓みたいな?のよ

急ぎではありませんが、例えば、眺めのいい展望台(山・海とわず)とかに、円い羅針盤?円卓みたいな?のようなもので、現在地を中心に、東西南北、〇〇まで△△km、って表示があるものがありますが、それの名前が思い出せません。
この説明で、ピンッ!ときた方はよろしくお願いします。

Aベストアンサー

旅番組のテレビで聞いたことがあるのですが、方位盤と呼ばれているようですよ!


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