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ある歴史小説で、天海は明智光秀の子供だと書いてありました。
調べてみると、それは珍説で、明智光秀=天海説が有名だそうです。
両者ともその出自ははっきりしないようですね。

明智光秀と天海の間でわかっている関りがあれば教えてください。
全くの他人なのか、それとも血縁関係があるのでしょうか?

よろしくお願いします。

A 回答 (5件)

100%無関係と断言します。

天海と光秀は別人です。

天正十年六月に様々な同時代史料で光秀の死を確認できます。

観修寺晴豊の「天正十年夏記」六月十五日条に「本能寺ニむくろト一所首おかれ候。見物衆数しらぬ也。首共を信長はてられ候跡ニならへ候。」とあります。光秀の首とむくろ(首から下)が本能寺跡に置かれ、多くの群衆がこれを見たということです。光秀死後2日後です。

このほか諸史料で光秀の死は確認できます。光秀=天海説は妄言としか言いようがありません。
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そもそも、出自がはっきりしている人なんて、あの時代少ないです。



超有名人、織田信長の兄弟の名前でさえはっきりしなかったり、徳川家康の子供も、公式以外にいるとかいないとかですから。

会津の芦名氏の一族だったらしい天海の前半生がはっきりしないのも当たり前です。

光秀=天海説
家康晩年に急激に腹心になったことから、光秀=家康の密約があり、密約を守らせるために天海となって家康の周りにいたとか、春日局をはじめとして光秀関係者が妙に多い(天下の大罪人なのに)という理由付けです。

しかし、将軍になってからの家康の側近は、それまでの側近とは、本多正信、大久保長安、イギリス人三浦按針など、全く違っています。
将軍になってからの家康の必要なスタッフとして、それまで知られていなかったものが集められた、その中に、知識人の雄として僧侶の天海もいたというのが、妥当な考えかと考えます。
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「義経=ジンギスカン説」とか、この手の説は「可能性だけならいくらでも言える」のです。

ですから、「光秀=天海説」も他人ではないという証明は難しいのです(これを「悪魔の証明」といいます)。
 ですから、「光秀=天海説」を挙げる側がその確たる証拠・証明を提示する義務があるのです。そして、その「証拠・証明」に対して、第三者が証拠たり得るかを判断するわけですね。
 よって「光秀=天海説」の証拠・証明とされるものは、“証拠・証明ではない(それすらになっていない)”と判断されるため、「光秀=天海説」は珍説・妄説の域を出ないわけです。

 以前、TV番組で「光秀=天海説」の証拠の一つとして、東照宮に明智家の「桔梗紋」があることを挙げていましたが、「桔梗紋」は源氏の紋であり、徳川家も源氏です。つまりこの程度の証拠でしかないわけです。
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『天海=明智光秀』説の根拠として、光秀の木像と位牌のある慈眼寺の寺号と、天海の諡名が同じ「慈眼」であるとされています。


 ほかには、東照宮近くに天海が「明知平」と命名したとされる中禅寺湖や華厳の滝が見える平らな場所があります。
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 「慈眼」とか「明智平」とかは逆に言うと、光秀=天海でない根拠にもなり得ますね。

本当に出自を隠すのであれば、そんなだれでも気付くようなことをしないでしょうね。

 それ以前に55才の光秀が、天海として人生を再スタートするのは余りにも無理があるでしょう。光秀なら顔が売れすぎてますから。第一、天台宗の中枢に立つには、どこで修行したのでしょうね。
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