これが怖いの自分だけ?というものありますか?

太平洋戦争で東京が焼け野原と言って、空爆で何も残ってない東京の写真が出ますけど、あれはアメリカが成果を大きく見せるために、1番焼け尽くせたところだけを写真に残しただけじゃないでしょうか?80年前のアメリカの軍事技術ですし、東京は人も建物も多いですし、ほんとに何も残ってなかったら、戦後の復興もこんなにもすぐには出来なかったと思いますが?

A 回答 (11件中1~10件)

東京大空襲被災後の写真を


撮影していらっしゃる方は日本人です。
3月10日の東京大空襲の時は、
アメリカの戦時カメラマンが、
日本に上陸して被災状況を撮影する
ということは当然できませんでした。
そのため、この時の被災状況を
撮影した写真を、アメリカ側は
入手できていなかったために、
のちにGHQはこの日本人カメラマンに対して、
ネガの提出を求めていたようです。

さて、もう一つ別の見方をしましょう。
アメリカとしては、この被災状況の写真を撮影し、
爆撃成果を誇大評価するように撮影し、
世界に公表すると思いますか?
これは原爆の被害状況を撮影した写真や、
映像資料もGHQは回収できる限り回収し、
一時隠ぺいしています。
このことからもわかるように、
アメリカとしては、これらの被害状況を、
当時は公にしたくなかったというのが本心です。
理由は簡単で、被災者がどう見ても民間人だからです。
軍事施設を焼け野原にしたのではなく、
どう見ても住宅街を灰燼に帰しています。
こんな成果を堂々と公表するのは、
戦後裁判をこの後に控えているアメリカとしては、
絶対に避けなければならない事態だったはずです。
つまり、せめて裁判が終わるまでは、
この被害状況は黙っていてね…
というのが、アメリカの本音です。
そんなアメリカには、被災状況を大きく見せる写真を
撮りたがる動機がありません。
一部の馬鹿な兵士が、誇大表示するような
写真を撮るかもしれませんが、
当時のアメリカの立場なら、
それらはすべて没収でしょうね。
だとすると、戦争の被害状況を大きく見せたい
という意図を持っているのは、むしろ日本です。
人道に反しているという状況証拠を提示して、
裁判で判断してもらえる材料になるからです。

もしも大げさに撮影したのでは…
ということが事実だとしても、
そうすることで得をするかもしれないのは、
日本ですので、アメリカの意図とは考えにくいんですね。
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お礼日時:2024/10/09 20:39

大本営発表は日本のだよ

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お礼日時:2024/10/09 19:52

逆に、焼野原になったからこそ、迅速な復興が可能だったかと。


広島もそうですし、名古屋なんか、何もない所に、まず幅の広い道路を通したと伝わってます。
日本家屋は、ほとんどが木造でしたから、燃えます。
 空襲の規模からすると、写真はその一部で、それ以上の被害だったでしょう。
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お礼日時:2024/10/09 20:37

家々の庭が広い田舎のかたでしょうか?


東京は(江戸も含めて)何度も大火に見舞われた。家が建て込んでるし庭も狭いから、猛烈に延焼したのである。消火体制も貧弱だったし。
米軍はそこへ焼夷弾をまき散らした。たとえは悪いが、青葉被告のようなものですよ。

資料によると、東京大空襲による焼失面積は約140平方キロで、区部の市街地の約50%、区部面積の約25%に当たる。これを知っても、質問者さんの場合「50%、75%は焼失しなかったんだ」と悦に入るかも知れません。しかし寝言をおっしゃる前に、下記のサイトなどをごらんください。

焼け野原にならなかった東京めぐり - デイリーポータルZ
https://dailyportalz.jp/kiji/120405154724
〔引用開始〕
東京の町を歩いていて、ここの町並みちょっと雰囲気あるなーと感じることがある。
後で調べると戦災を逃れた町だったことが分かったりする。そう感じるほどに、逆にほとんどの場所が焼けてしまったということだろう。〔中略〕
そんな折、先日行った地図展で、「戦災消失区域表示 帝都近傍図」という地図を見かけてしまったのです!
このとき受けた衝撃はすごかった。まず、実際こんなに焼けたのか!という驚き。
〔引用終り〕

戦災焼失区域表示帝都近傍図 - 日文研
https://lapis.nichibun.ac.jp/chizu/map_detail.ph …
(画像をクリックすると拡大画像が見られます)
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お礼日時:2024/10/09 20:37

戦前から昭和中期までに警察官だった石川光陽氏は初のB25による日本空襲直後に当時の警視総監から命ぜられて空襲の惨状を撮影しました。


 1945/03/10未明の東京大空襲で焼け野が原になった東京の惨状や焼夷弾で黒こげに焼けた赤ちゃんを抱いた母親など数百枚の写真を残しました。
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お礼日時:2024/10/09 20:38

>戦後の復興もこんなにもすぐには出来なかった


それが日本の奇跡と言われる所以ですよ。
戦後のこういう状態から、世界第二位の経済大国(当時)になったことに、発展途上国や開発途上国は驚愕して、中でもマレーシアで24年首相を務めたマハティール氏は、日本の技術や勤労精神などに学ぶ「ルックイースト政策」を掲げてマレーシアの経済成長を実現させましたよね?
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お礼日時:2024/10/09 20:39

皇居や政府関係の庁舎などが密集している場所は、敢えて爆撃から外しています。

ドイツのように政府要人まで殺しまくってしまうと、降伏交渉の相手が誰なのか分からなくなって、戦争を必要以上に継続しなければならなくなって大変だからです。

戦後の復興が早かったのは、何も残らなかったので、更地にするのが簡単ですぐに新しい建物や工場を建てられたからです。
戦後に経済成長が著しかったのは、徹底的に破壊されつくした日本とドイツという2大敗戦国だったのは、それも大きな理由のひとつでしょう。

主要国の中で工場が全く破壊されなかったのは米国だけで、戦争終結後の経済は米国の独り勝ち状態でしたが、しばらくすると工場設備の老朽化とスペックが最新式よりかなり落ち始めたことから、最新式の設備でフル稼働できる日独の工業生産力と品質に対抗できずに、一気に没落を始めてしまいました。米国産業が持ち直したのは、新分野であるPC、スマホ等の情報産業などが急成長し始めてからのことです。
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お礼日時:2024/10/09 20:40

報道ってのはいつもどれもそうですよね。


とにかく大袈裟にしたがるもの。
ロシアとウクライナの紛争も
最近はたまにしか観ませんけど
破壊され尽くしたような街並みの映像ももあるけど
市民が普通に買い物に出ているような街の映像もあります。
映像は切り取り方次第でどんなふうにでも世界を作れるんです。
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お礼日時:2024/10/09 20:40

復興もそんなにすぐに出来たわけでは無いですよ。


青空教室とか知りませんか?
掘建て小屋で生活している人の写真なんかも残っています。

崩したレゴブロックを組み立てるのとはわけが違いますよ。
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お礼日時:2024/10/09 20:40

アメリカが成果を大きく見せるため?


そんなことになんの意味があるのです?

体験したおばあさんは一面焼け野原ではるか遠くまで見えたと言ってました。
アメリカが計算したのは、皇居を残すこと。
それだけ。
宣戦布告なしに真珠湾でアメリカ人を殺したジャップを憎悪してたので、ほんとは皆殺しにしたかったのです。
当時の日本はまだまだ遅れた国だったから、焼き尽くすのは簡単なことです。

でも、その後で統治するのに天皇を利用した方がいいと考えてたので、皇居は焼かなかったのです。
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お礼日時:2024/10/09 20:41

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