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刀伊の入寇は、なぜ元寇ほど有名ではないのですか?藤原摂関政治という国家体制が全く揺るがなかったからですか?教えて下さい。

A 回答 (5件)

大河ドラマで「刀伊の入寇」が出て、ちょっとびっくりしました。



当時としては、「新羅の入寇」(811~935年)や「南蛮の入寇」
(997年、Wikiだと南蛮賊)などたびたび侵攻があったもので、
「刀伊の入寇」はその中でも比較的大規模です。
しかし、ご指摘のように「攻めてきたけど撃退した」で
当時の社会情勢にはほとんど影響を与えていません。

一部で有名な「応永の外寇」(1419年)というものがあって、
当時の朝鮮が国を挙げて二万弱の戦力で攻めてきたのに
対馬で寡兵に完敗して追い返されてしまいました。
国家による行為でも、その後の歴史にある程度影響を与えないと
(日本での)一般の認知度は非常に低くなっています。
(ただし、韓国ではそれなりに有名で、なぜか撃退されたのに
 対馬が韓国領だとして応永の外寇の日を対馬の日にしています)

日本史が好きな人は「刀伊の入寇」をある程度知っているのですが、
日本史教科書にちょこっと出てくるだけで無名ですよね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。目からウロコが落ちました。

お礼日時:2024/12/06 04:12

影響が、日本全体か九州の局地だったか、


国家体制や社会全体に
大きな変化をもたらしたか否か
の違いでしょう。

また、文化的な記憶としても元寇に比べて
後世に語り継がれる機会が少なかったことも要因
と思われます。

ちなみに、秀吉の朝鮮出兵は
第三の元寇を阻止するためだった
という説があります。
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東国の武士団の成長として前九年の役と後三年の役は有名ですが、西国武士団成長として刀伊の入寇も重要です。


さほど一般には取り上げられないのは、鎌倉幕府の成立により、西国武士団は潰されて、「二級御家人」となるか東国御家人の家人になって没落し、その後も超ローカルな存在でしか無かったからです。後世の西国の有力大名も、ほとんどが鎌倉御家人の系譜で、西国武士団の子孫はその家臣となっています。
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蝦夷征伐成功後、基本的に国としての常備軍が廃止されていた平安時代ですが、北九州だけは大宰府を拠点に防衛軍が、大陸からの侵攻に備えて常備されていました。

実際に、朝鮮半島の海賊が九州を襲撃することはしばしばありました。

その中で刀伊の入寇が特記されるのは、朝鮮人海賊ではなく満州方面の女真族の海賊だったことと軍勢の数が数千人と、海賊としてはかなり大規模で被害も大きかったからです。
ただ、海賊としては規模が大きかったとはいえ、大宰府周辺の朝廷の備えを打ち破れるほどではなく、大宰府軍が撃退に成功したので、国家体制が揺らぐようなことは無かったわけです。

元寇は、元国の正規軍の襲来であり、2回目の襲来は兵力も武人だけで約15万人でしたから、規模がまるで違います。
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「刀伊の入寇(以下『入寇』と略記)って何?」と思ってウィキペディアを見てみました。

その限りと言うだけですが、入冠は元寇と違って国家による行為でも侵略行為でもなかった事、また元寇が鎌倉幕府滅亡の遠因になったのに対して入寇の方は日本の国家体制にほとんど影響を与えなかった事から学校教育ではほとんど取り上げないのではと思います。
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