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人間の絶対かつ普遍的な 幸福の条件は「①哲学②希望③充実」だと思います
健康 ・お金 ・社会は見かけですね、外面的な「相対的幸福」ですね。
 少々不健康 でも・お金がなくても ・社会に受け入れられなくても、自己を確立した人は、絶対的な幸福者だと思います。
 それは、有為転変する周りの条件に支配されるのではなく、自分が心に決めた使命、目的に向かって実践していくなかで生ずる、生命自体の充実感、満足感だと思うのです。
「絶対的幸福」とは、他にありますか。

A 回答 (16件中1~10件)

「絶対的幸福」を言葉にするなら、条件なしの幸福と置き換える事が出来ると思います。

条件なしの幸福は『全てを無条件に受容する。』という意味です。

自分の意思とは関係なしに、という程の意味があります。

他の言葉にするなら、今までの見方とは違う我々の霊的要求を満たすものを満たすものが貴方の中からは見えて来ていないと感じているからです。

言葉にするなら『精神的な自由』を満たすものが「絶対的幸福」云えると思います。

自分自身の内側からほとばしり出るところの生命活動という程の意味を云っています。

禅の言葉には『疑問を感じている場合では、その原点に立ち帰るなら、その答えはその疑問が湧き上る時、既にその中に用意されている。』と書いています。
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この回答へのお礼

条件なしの幸福と言えるかもしれませんが、分かりずらいです。
「絶対的幸福」を表す言葉は信じがたいので、最も近い言葉で表すならば「①哲学②希望③充実」と言う事です

哲学にも浅い深いがあり、希望にも理性の無い欲望があり、充実にも挑戦しない小さな満足があります。ゆえに相対的なのです。

絶対とは普遍的で永遠な存在を信じ、獲得(自覚)する事が第一歩だと思います。
普遍的な愛とか、慈悲を獲得した人かもしれません
・共に苦しむことができる・己に勝てる・一歩踏み出せる(行動する)人かもしれません

私は、経典を否定し、行動の伴わない自己満足の「禅」は否定します
禅宗は不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏の義を立てている
まさに「天魔」の哲学ですね。

お礼日時:2024/12/15 07:53

no13です。


「①哲学②希望③充実」についてですが
哲学は理想追求型の人にとって
希望は現実重視型の人にとって
充実は役割遂行型の人にとって
優先順位の高い要素になるのではないかと思います。
つまりそういう意味で多様性として尊重しあうべきものだと。

絶対条件としては
まず健康であることがベースとなって
最低限の生活費、
それから社会的には
「偏見・差別・迫害」の人間性否定の的にされない
ということが深い部分に来るという考え方に
素直に同意できます。
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この回答へのお礼

健康で長生きは幸福ではあるが、絶対的幸福ではないと思います。
 大事なのは健康なうちに、生あるうちに「①哲学②希望③充実」です。

誰でも病気になるし寿命にも限りがあります、愛別離苦も避けられません。
それらを受け入れての幸福論です。

お礼日時:2024/12/14 15:53

>希望を見失った人生は、早々と挫折していくに違いありません


>希望を見いだせない人は、人生の敗残者です。これを不幸と言うのです。

そういう決めつけをしているところが、あなたの哲学の欠陥です。
つまり、あなたは「希望」という「欲」に囚われているわけで、健康やお金、社会的な充足を見たそうとする「相対的幸福」に過ぎず、あなたは欲にまみれた生き方を求めていることに何ら変わりはありません。

何かしらの行動をしても、それに希望や期待をせず、吉報が来ればそれでよし、そうでなくても安定した生活を送れるよう備え、失望せずに「仕方ない」と片付けて次に進むことこそ、安寧な人生を送れるのです。

あなたは「幸せになりたい」と望んでいるようですが、それもまた「欲」です。
本当の幸福というのは、そういう欲望すらも捨て、不幸な状態にもならない精神を得ることだと言えます。それがあなたの言う「絶対的幸福」ではないでしょうか。
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「健康 ・お金 ・社会」は必要条件で


「①哲学②希望③充実」はそのうえでの
多様性の範疇なのではないかと思います。
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この回答へのお礼

哲学のない健康、希望のないお金、充実しない社会、
これ皆不幸だと思います。

お礼日時:2024/12/08 07:41

人間の絶対かつ普遍的な 幸福の条件は


「①哲学②希望③充実」だと思います
 ↑
1,反出生主義哲学でも幸福なんですかね。

2,米国や日本の調査によると
80歳過ぎが、人生で最も幸福
という結果が出ていますが
こういう年寄に希望があるんでしょうか。
エリクソンの老年的超越理論
は、どう説明されるのでしょか。

3,心理学では、幸福とは人生における
満足を意味する、という説が強いです。
満足は充実かもしれません。



健康 ・お金 ・社会は見かけですね、
外面的な「相対的幸福」ですね。
 ↑
健康、お金、社会は、幸福になる
ための条件でしょう。
幸福そのものとは別。



少々不健康 でも・お金がなくても ・社会に受け入れられなくても、
自己を確立した人は、絶対的な幸福者だと思います。
 ↑
自己の確立とは、何でしょう。
自己を確立した人は、どうして
幸福なのですか。
自己を確立しても、充実が無ければ
幸福とは言えないのではないですか。



それは、有為転変する周りの条件に支配されるのではなく、
自分が心に決めた使命、目的に向かって実践していくなかで
生ずる、生命自体の充実感、満足感だと思うのです。
 ↑
これが「自己の確立」ということ
ですね。
マズローの欲求段階説に似ています。



「絶対的幸福」とは、他にありますか。
 ↑
希望は、幸福の為の条件でしょう。
その意味で、お金と同じ。
幸福そのものとは違うと思います。

それに、希望がなくても、自己が確立
されていれば、幸福ではないのですか。
それは哲学も同じ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
・反出生主義に希望があるとは思えません
・幸福というお年寄は、たいてい小さな幸福なんですね。
・希望は、お金とはその性格自体が違います、天と地に違いがあすると思います。
「希望」について今度質問したいと思います。
私には「希望」は「魔法の力」に見えるのです

お礼日時:2024/12/08 07:39

結局あなたは、充実や希望という「欲」を持っている以上、その空しさに苛まれているのではないですか?



「自己欲」を断ち切れない時点で、貴方の求める絶対的で普遍的な幸福など訪れません。

何より充実した生命活動を求めるには、衣食住という原始的な欲望が不可欠ですからね。

それに希望と失望は表裏一体です。
希望が膨らむほど、かなえられない失望感は大きくなります。

生き続けることを望まない、希望を捨てあるがままを受け入れなければ、欲望からの脱却など無理です。
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この回答へのお礼

エ?希望を捨てあるがままを--エ?
 どんな財宝を持ち、どんな権勢を持ち、どんな名声を持とうが
希望を見失った人生は、早々と挫折していくに違いありません
希望を見いだせない人は、人生の敗残者です。これを不幸と言うのです。・

お礼日時:2024/12/08 07:16

#7



>「魂の健康」を育む哲学こそ幸福の条件の第一だと思います。

それはちょっと的外れですね
「あなたにとっては」というすごく限定的な話であって、ここは哲学板なので確かにそういう視点が重要かもしれませんが、科学者には「科学」が、文学者には「文学」が代替可能でしょう。哲学を絶対的なものと考えるのは説得力がありません。

ちなみに健康の定義は「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます。(日本WHO協会訳)」とWHOが1948年にもう世界に発信していますので、単純に幸せの条件を「健康」としてしまえばその手段でしかない哲学はあってもなくてもどうでもいいものになります
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この回答へのお礼

近代哲学というものは、「自我の自覚から始まる」
と言われております
 いわゆる自己知は、単に哲学の根源であるばかりでなく、
人間が人間らしく生きるための根本でもあるのです

哲学とは、ある特別な領域を形成している
学問の一分野ではなく、人間が善く生きるためには
誰しももたねばならぬものなのです

「魂の健康」を育む哲学こそ民主制を支える柱なのです。
ソクラテスは、このことを、文字通り死をもって
後世に示したのです

科学、文学に限らず、すべての学問に必要なものは哲学です
経済、政治、社会にも哲学は必要なのです。

だから哲学が絶対的なのです。

お礼日時:2024/12/08 07:09

「絶対的幸福」はatoitiさんが云うように、周りの条件に支配されるものでは無く、自身の精神にあると彼の山崎弁栄(べんねい)上人が云っています。


弁栄上人は明治から大正にかけて活動された浄土宗系のお坊さんです。
その弁栄上人の言葉を贈ります。

『人生の幸福と不幸福。人この世に生まれ、この生をして幸福ならしむると、また不幸ならしむるものは其の精神いかんにあり。人生の光明快活(こうみょうかいかつ)の方面なると、他は暗澹憂悩の方面とを取るあり。
真の幸不幸は外界の周囲の境遇よりは、寧ろ各人の精神に在って存せり。教祖釈尊王宮栄華の夢は、還って憂鬱の動機にして、三衣一鉢樹下石上にして初めて真の幸福を発見したる如きは、凡人の得て学ぶべからざるものと云うべからず(※学ぶべきものだ)。
釈尊王宮に在って深く憂鬱に耐えざりしは“五欲の豊穣そのもの”に非ずして、未だ精神にこの光明を発見せざるが故なり。樹下石上に於いて真の幸福を感じたるもまた然り。
樹下石上必ずしも人生の幸福と云うべからず。真の幸福を得たるは外界に得たるに非ずして精神に於いて発得したるなり。人も釈尊の如く無限の光と永遠の生命との中に妙楽世界を発見し、無限の幸福はこの永遠の泉源より感ずることを得。』
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この回答へのお礼

釈尊は王宮での安楽を否定しました、外道による苦行も否定しました、それは確かです。しかし、山崎弁栄は所詮念仏、厭世主義、他力本願。

お礼日時:2024/12/06 13:51

相対的な幸福とは、財力、社会的地位、名声などのことで、何故相対的かと言えば、自分より上の存在の認識により幸福感が消えてしまうからです。



絶対的幸福とは、他のいかなる存在にも揺るがないものと言えるでしょう。
子供の時のことを思えば、全員ではないにせよ、親に守られている絶対的とも言える安心感、世の中がキラキラしている希望感、日々新しい発見がある充実感があり、本物でないけれど絶対的な幸福があると思います。

しかし、大人になるとこれらのものが大抵消えてしまうので、相対的幸福に人は向かうのでしょう。
中には、これらを求めて奮闘する人達がいて、幸福を掴んでいる人たちがいると思います。

仰る三条件は間違っていないと思います。あえて言えば、希望をつくり出す精神の若さ、素直な情熱の涵養、充実をつくり出す日々の努力、を挙げたいと思います。
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この回答へのお礼

子どものころ、・・なるほど。
ありがとうございます。

お礼日時:2024/12/06 13:56

哲学はタダの過程・手段にすぎませんので、幸せの条件にはなりえません。

むしろ哲学は不幸を追求することもあるので幸せとは別次元だと思います。希望と充実に含まれるのであえて言う必要はないでしょう。また希望や充実はリソースではないのでむしろ幸せを言い換えているだけでは?幸せに必要なものは幸福であるみたいな意味のない言葉遊びに聞こえます
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この回答へのお礼

よりよく生きるための知恵が哲学だと思います。
「魂の健康」を育む哲学こそ幸福の条件の第一だと思います。
ただし、浅い低い狭い哲学だと、かえって不応を招きますね。

お礼日時:2024/12/06 14:06

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