これまでで一番「情けなかったとき」はいつですか?

もしも秀吉が子供に恵まれず秀次へ政権が移っていたら徳川の天下は無かったでしょうか?
今頃関西弁が標準語で首都は大阪だったでしょうか?

A 回答 (5件)

それでも、秀吉と家康の天寿が史実通りなら、秀次政権に移行しても、家康が事実上の№2であり続けるでしょう。



そうなると、秀次と家康の人間力勝負、政治力勝負、陰謀力勝負という話になります。秀次の背後には秀吉の妻で辣腕を振るった高台院が居るには居ますが、家康を抑えきるのは簡単ではないでしょう。

三成の問題もありますし、それには朝鮮出兵の顛末も同じかどうかが大きくその後の展開に関係してきます。

その辺も史実通りなら、豊臣政権の末路も結局は同じだったかもしれません。
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歴史的な可能性としては豊臣政権が続いていた可能性も否定できません。


最近では「徳川が天下への野心を持っていなかったが、豊臣政権での平和維持が厳しいので、徳川が後を襲った」説もあるので、秀頼が生まれるまでは秀次の権威付けをさせていたので、徳川がそこまで無理をしなくて済んだ…という可能性も否定できません。

ただ、首都は京都のままだったでしょうね。なんだかんだで秀吉も死ぬまでは伏見城(桃山城)で政務をとっていたので。

異論は認めますw
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頼朝が開いた鎌倉幕府の主権がいつのまにか執権の北条家に移ったように、徳川が実質ナンバー2から、気がついたら徳川が実質的な天下人にって流れでしょう。

政治の中心が大阪や京都のままは、可能性が大きいです。
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いえ。



それでも、結局は家康が
天下を取ったと思います。


秀吉の弱点は、短期間に成り上がったので
本当の、つまり情で結ばれた家臣が
いなかったことです。

だから、秀吉という巨星がいなくなれば
あっけなく瓦解します。

これに対し、家康は
先祖代々、情で結ばれた家臣群が
おりました。

この違いは大きかったと
思います。
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徳川政権でも、家康の死後に側近だった本多正純が粛清されていますね



豊臣政権でも仮に秀次への権力移行が行えたとしても
秀吉側近の筆頭で有る石田さんとの主導権争いは避けられませんね

となると、その争いを利用しないという選択肢は徳川さんには無いのでは?
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