電子書籍の厳選無料作品が豊富!

総理大臣が大臣と言う名前なのは、臣民を代表しているからですよね?
_____________
ChatGPT先生の御高説
その通りです。「大臣」という言葉には、歴史的な背景があります。「臣」という漢字は、「臣下」や「臣民」というように、君主や国に仕える者を指します。そして、「大臣」とは、君主や国のために最も重要な役割を果たす「大きな臣」という意味です。

日本の「総理大臣」も、国民を代表し、国のために働く「臣」の立場を示しており、謙虚さや奉仕の精神が込められています。歴史的に見ても、リーダーが自分を「王」や「支配者」と位置づけるのではなく、「国に仕える者」として表現するのは、責任感や役割を強調する意味があると言えるでしょう。

質問者からの補足コメント

  • プンプン

    ChatGPT先生の御高説
    「大臣」という言葉には、歴史的な背景があります。「臣」という漢字は、「臣下」や「臣民」というように、君主や国に仕える者を指します。

    つまり、臣民が存在する事は、憲法によって定義されています。それが気に入らないなら、憲法を変えるしか有りません。

    日教組の教師のように、臣民は存在しないなどと、アホな事を言って子供たちに教えてはいけません。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2024/12/20 01:19
  • HAPPY

    国民は臣民と臣民でない者に分かれます。

    総理大臣は臣民でなければ成りません。何故なら、日本国の象徴である、天皇陛下にお仕えするのが総理大臣だからです。つまり、天皇陛下の為に働くことが、日本国と、日本国民の為に働く事に成ると言う事です。

    ですから、「自分は臣民ではない。天皇なんぞに仕える気は毛頭もない」などと言う者に、総理大臣が務まるはずがないのです。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2024/12/20 14:52
  • HAPPY

    第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

    第六条 天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。

    第七条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。

    一 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。


    上記により、日本国の象徴たる、天皇陛下にお仕えする事、砂八、天皇陛下が、法律を公布するのをお手伝いする事が、総理大臣の仕事に成ります。

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2024/12/20 15:31
  • HAPPY

    >天皇陛下は内閣総理大臣よりも上の身分


    そんなの当たり前田のクラッカーですよ。大臣は「公務員」です。英語で言えば、public servant(公僕)です。天皇が公僕、砂八、「しもべ」なんぞであるはずがないでしょう。

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2024/12/20 16:46
  • >すべての法律は天皇の希望の基、制定されているのでしょうか?


    そんな分け無いだろう。もしそうなら、天皇の責任が問われる事に成る。だから憲法では「国政に関する権能を有しない」としているのだ。

    だから、第二次大戦の「配線責任」を天皇は負わずに済んでいるのだ。そうでなければ、昭和天皇は東条英機と共に、死刑に成ってしまう。

    昭和天皇を死刑にしたら、大混乱だ。だからマッカーサーは天皇を死刑にしなかった。そして、天皇に責任が及ばない事は、旧帝国憲法にも明記されている。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2024/12/20 21:30
  • HAPPY

    現在の日本国憲法も、大日本帝国憲法も、天皇の責任が問われないように成っているのは同じだよ

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2024/12/21 06:47
  • HAPPY

    日本国憲法には内閣総理大臣と言う言葉が出てくる。大臣が居るからには、臣民が居ない事には筋が通らない。何故なら、大臣は臣民の代表であるからだ。

    国民全てが臣民と言うわけでは無い。何故なら、憲法19条によって、臣民に成らない自由を認めているからだ。

    No.7の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2024/12/21 15:39
  • HAPPY

    臣民でない者が大臣に成れるわけないだろう?

    大臣は臣民である事が前提なんだよ。

    従って、憲法に大臣と言う言葉が出て来た以上、自動的に臣民は存在する。

    これが分からん者は大馬鹿垂れだ。

    No.8の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2024/12/22 13:00

A 回答 (20件中1~10件)

高山彦九郎は奇人なんでしょ?そして尊皇の思想家。


つまり、一般人とはかけ離れた知見の持ち主。
そういう人もいただろうけど、一般大衆の代表と見るには無理がある。

上洛するのに土下座するのが当たり前だとしたら
なんで銅像になるんだ?一般大衆とはかけ離れているから
銅像になったのでは?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>一般大衆とはかけ離れているから銅像になったのでは?


一般民衆とかけ離れた人間は掃いて捨てる程、居る。もしかしたら、あなたもその一人だろう。しかし、銅像に成れるわけではない。銅像に成れるのは、国民の範と成れる人物に限られる。

高山彦九郎先生は、「草莽の臣」と呼ばれている。要するに臣とは言っても、公式に臣に成ったわけではない。

草莽の臣とは、官に仕えずに在野にいる人のこと。 また、草深いところに住む臣下という意味で、自分を謙遜(けんそん)していう場合にも使う。 「草莽」は、草のおいしげったところ、くさむらをいう。 〔例〕「われわれのような草莽之臣にまで心が行き届いてこそ、りっぱな経営者といえる」などと使う。

ChatGPT先生の御高説
高山彦九郎(たかやま ひこくろう)が銅像になるほど尊敬されている理由は、彼が幕末から明治維新にかけての日本の歴史において重要な思想家であり、勤王(天皇を敬う)思想を広めた人物として評価されているからです。以下に詳しく説明します。

1. 勤王思想の普及
高山彦九郎は、天皇を尊ぶ「勤王思想」を強く信じ、それを全国に広めるための旅をしました。当時、幕府の権威が揺らぎ、日本の行く末が不安定な時代において、彼の思想は多くの人々に影響を与えました。彦九郎の活動は、後の明治維新の精神的な土台となったといわれています。

2. 三条大橋での「謁見」エピソード
京都の三条大橋に立ち、東を向いて皇居(当時は江戸にあった天皇の仮の居場所)に向かって敬礼する姿が有名です。この行動は彼の天皇への忠誠心を象徴しており、後世の人々に強い印象を与えました。

3. 志士たちへの影響
彼の思想と行動は、吉田松陰や西郷隆盛をはじめとする明治維新を導いた志士たちに多大な影響を与えました。彼らが維新を成し遂げる上で、高山彦九郎の存在は精神的な支えとなりました。

4. 後世の評価
彼の死後、明治維新を経て天皇制が再構築されると、高山彦九郎の功績が再評価され、勤王思想の象徴的な人物として称えられました。その結果、各地に銅像が建てられ、歴史的な英雄として記憶されるようになったのです。

銅像の例として、京都の三条大橋近くにあるものが有名です。この銅像は、彼の敬礼する姿を再現しており、彼の勤王精神を伝え続けています。

お礼日時:2024/12/23 12:46

戦時中の話をしているのになんで日本国憲法の話をするの?

    • good
    • 0
この回答へのお礼

戦時中も現在も、天皇陛下は天皇陛下です。

お礼日時:2024/12/25 16:16

> 第二次大戦の死者は日本国民だけで310万人。


> 310万人を殺しておいて、死を逃れる事ができるのなら、
> 死刑に成る者は居なくなります。

つまり、あなたの主張では、日本人310万人を天皇が殺した、
でも天皇に責任を負わさないために周りが代わりに死んだ、
ということでしょうかね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

違いますよ。

第三条 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。

お礼日時:2024/12/24 20:11

> 要するに、あなたは、昭和天皇は東条英機と共に死刑に


> 成るべきだったと。

誰がそんなことを言った?
自分が言ったことは、上に立つ立場の人は何か間違いがあれば
その責任を取らなければならない、ということ。
「東条英機と共に死刑に成るべきだった」なんて自分が一言も
言っていないような考えが出てくるってことは、あなたの心の奥底に
そんな考えがあったということでしょうかね。

> この動画によって、あなたの考えが「バカ丸出し」の考えだと
> 証明されます。

責任の取り方って死ぬだけなのでしょうか?
自分の考えでは死ぬことって一番無責任なことだと思います。
自分がやってきたことに対して何もせず、尻拭いを他人に任せて
いなくなるのですから。

昭和天皇がどう思ったかは分かりませんが、戦争をもう二度と
しないような日本を作る、戦争によって破壊された街を
復興するための元気をつける、それこそが責任を取る行動では
ありませんか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>責任の取り方って死ぬだけなのでしょうか?


その通りです。「死」以外は存在しません。それ以外の責任の取り方が有るなど、バカ丸出しを通り過ぎており、言語同断、狂気の沙汰。

死以外有り得ません。従って、死以外の責任の取り方が有るなどと考える、あなたは愚かの極みであります。

第二次大戦の死者は日本国民だけで310万人。310万人を殺しておいて、死を逃れる事ができるのなら、死刑に成る者は居なくなります。

お礼日時:2024/12/24 17:24

> 天皇が政治的権限を持つと、失敗したとき、その責任を取らされます。



それのなにがまずいの?
君主が間違ったことをすればその責任を取らなければならないことは
当たり前のこと。

天皇は責任を取らないということは、あなたに取っての天皇制とは
神武天皇から象徴君主制だったということですか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>天皇が政治的権限を持つと、失敗したとき、その責任を取らされます。
それのなにがまずいの?


要するに、あなたは、昭和天皇は東条英機と共に死刑に成るべきだったと。

この動画によって、あなたの考えが「バカ丸出し」の考えだと証明されます。

https://www.youtube.com/watch?v=ZoKDAD4VI4A&t=146s

お礼日時:2024/12/24 09:43

> そのような人物が千年も前から居た事は十分、有り得る事です。



あなたの理屈なら、十分にありうることではなくて、
全員がそうでなければならないのでしょ?

ちなみに、ざっくりと言えば「天皇は余計なことをせずに
学問をしとけ」という禁中並びに公家諸法度を制定した徳川家康は
その当時、太政大臣。
天皇のしもべって天皇の行動にさまざまな制限をかけることが
できる立場ってことなのかな。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

それは、現在も同じです。天皇が政治的権限を持つと、失敗したとき、その責任を取らされます。例えば、第二次大戦の敗北で、責任を取らされ、東条英機と一緒に死刑に成ってしまいます。

従って、天皇には責任が及ばないようにする必要が有るのです。

お礼日時:2024/12/23 21:46

> 憲法19条によって、臣民に成る事は強制されていない。


> 従って、臣民に成るか、成らないかは自由である。
> それは現在も江戸時代も同じである。

言っている意味が分からないのだけど。
あなたは大臣という職がある限り、大臣は臣民の代表だという
考えなんでしょ?
だけど、臣民という言葉は明治時代にできた言葉だけど、
大臣自体は太政大臣や左大臣、右大臣など、明治時代よりも
はるか昔にできた言葉。
臣民という概念ができる前の江戸時代に臣民に成るか、
成らないかは自由ってどういう意味?

そして、臣民って大日本帝国憲法では国民と同義語で
書いているけど、あなたにとっての臣民って国民のうちの一部の
「私は天皇のしもべである」と考えている人だけってことなの?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>臣民って国民のうちの一部の「私は天皇のしもべである」と考えている人だけってことなの?


その通りです。そのような人物が千年も前から居た事は十分、有り得る事です。

お礼日時:2024/12/23 16:23

> 一般民衆とかけ離れた人間は掃いて捨てる程、居る。



ちょっと言い方がまずかったようなので、ちょっと言いなおすと。

ここで聞きたいことは、江戸幕府等、武家政治だった時に
一般の民衆は臣民だったのか?ということ。
それを示す意味かどうかは分からないけど、あなたは高山彦九郎を
例として出した。
そういう人がいるのは良いとして、”一般の民衆”は臣民だったの?

あなたが示したURLにもあったけど、高山彦九郎の土下座を見て
指をさして笑った人がいたらしいとのこと。
つまり、一般大衆からするとかなりの奇行に見えたのでしょ?
一般の民衆が上洛するときは普通に高山彦九郎のように
天皇に敬意を払って土下座をするということであれば、
奇行には映らないのでしょ?

そう考えると、高山彦九郎のような人がいたのは良いとして
高山彦九郎のエピソードを言われて、一般の民衆は臣民だったのか
って分かるの?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

憲法19条によって、臣民に成る事は強制されていない。従って、臣民に成るか、成らないかは自由である。それは現在も江戸時代も同じである。

お礼日時:2024/12/23 14:31

> 日本国民が天皇以外の王朝に仕えた事はただの一度も有りません。



王朝はなくとも、武家政治が支配していて天皇がおかざりだった時代は
めちゃくちゃ長かったけど。

そして、天皇が国民を治めていたのならなぜ臣民という言葉は
明治時代までそんな言葉がなく、大日本帝国憲法で
はじめて使われたの?

民にそんな意識がなかったからじゃないの?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

https://www.sankei.com/article/20131027-4GXLAFHK …
半沢も唖然「土下座さん」高山彦九郎の〝奇人変人ぶり〟…墓を300回鞭打ち「尊氏」への異様な〝憎悪〟
2013/10/27

 京阪電鉄の三条駅前に土下座するお侍さん姿の銅像がある。幕末の倒幕派に影響を与えた江戸後期の尊王思想家で、奇人とも評された高山彦九郎その人だ。入京前に京都御所を望拝する姿を表しているのだが、ドラマ「半沢直樹」でブームに火が付いたといわれる土下座。その元祖が入京後にしでかした、とんでもない出来事について紹介する。

草莽(そうもう)の臣
 彦九郎は延享4年(1747)5月、上野(現在の群馬県)の豪農の家に生まれる。高山家は足利尊氏のライバル・新田義貞の重臣で、13歳のとき、南北朝時代の軍記物語「太平記」を読んだのをきっかけに尊王に目覚めたという。

 後醍醐天皇の親政の世を作り上げるも、尊氏の離反で天皇は吉野へ逃れる。一方、尊氏は京に別の天皇を立てたことで、朝廷は南北に分裂。果てしない抗争の結果、義貞ら南朝の臣は道半ばに相次いで倒れていく…。

 「新田義貞をはじめ帝に尽くした忠臣が、なぜこうも倒れねばならないのか」。こう憤慨した彦九郎は宝暦14(1764)年3月、置き手紙を残して尊王の志を抱いて千年王城の地、京都へ向かった。

 そして京の玄関口・三条大橋の手前まで来た彦九郎は、通りかかった地元の人に皇居の方角を聞くと突然、地面にひれ伏すと感激のあまり号泣し、「草莽の臣、高山彦九郎です」と何度も叫んだという。

 彦九郎の周りには野次馬が何重にも取り囲み、中には指さして笑う姿もいたらしいが、彦九郎はまったく意に介さなかったという。

お礼日時:2024/12/23 08:42

失礼。

最初の太政大臣は天智天皇の頃だから、平安時代より前だね。
    • good
    • 1

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています


おすすめ情報

このQ&Aを見た人がよく見るQ&A