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戦中の日本がドイツやイタリーと同様にファシズムであって、これに天皇制という日本独自の事情を鑑み「天皇制ファシズム」という学説が戦後一時期唱えられていたようですが、どうも現在の政治学や歴史学の主流は戦中の日本はあくまで、全体主義的かつ軍国主義的傾向にある国家であったに過ぎず、ナチスドイツやファシストイタリーの如き政体ではなかったという見方が大勢で「天皇制ファシズム」説はほとんど否定されているようです。
日本の大多数の国民メディア揃って戦争に熱狂しファシズム国家になる下地は出来上がっていたのに関わらずファシズムにまで到達しなかった理由はなんでしょうか?

A 回答 (8件)

昭和天皇自身が饒舌でなく、一般市民を鼓舞扇動することができなかったからでしょう。


勿論、当時の日本人で天皇に公に異を唱えることは相当にに難しかったと思いますが、昭和天皇にはリーダーシップはなく補佐官の進言に賛同を示すだけでした。
つまり、日本人は間接的にしか昭和天皇の意向を知る事がなかったのが、ドイツやイタリヤ或いはソ連とは異なります。
彼の国々は専制的指導者が自らの言葉で市民に話しかけましたからね。
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大日本帝国憲法と日本国憲法も天皇陛下は権威は有るが何等の権限を


有して居ません、国民の多くが違った認識をしています。

大日本帝国憲法の作成に当たり、井上毅は天皇陛下を「知らす存在」
と表現する様に伊藤博文に進言しました。
伊藤博文は国民に解りずらいので「統治する」としました。
この辺の下りは、伊藤博文が記した解説書に書いてあります。

天照大神が降臨する邇邇芸命に証の三種の神器を渡す際に、葦原中つ国を
「知らす」せよと記してある、古事記から引用したようです。

質問への回答は昭和天皇陛下居たからです、となります。

アドルフ・ヒットラーに遭った秩父宮からの人となりの報告を
受けた、昭和天皇は宜しくない人物の評価をしたそうです。
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質問文を拝見しましたが、あまり分かっていらっしゃらないのでは?


たとえば、「上からの民主化」という言葉がありますね。本来、民主化は民衆から、下からわき起こるはずです。しかし、そうじゃなくて上層部から下々へ民主化を指令するという、不思議な話です。

それの反転がファシズムでしょう。いわば「下からの独裁盛り上がり」。本来、独裁は上からですよね。しかし、民主主義を享受してたイタリア市民が、歓呼してムッソリーニを迎えて、独裁で盛り上がった。意気消沈したんじゃなかった。つまり、民主国家で、独裁の待望論が下から盛り上がったのがファシズムです。
一方、非民主国家なら、そんなに民衆が力を持ってないので、独裁は上から押し付けるでしょう。これはファシズムではありません。

戦前の日本は民主国家だったか、非民主国家だったか?
諸説ありますが、その中間の半民主国家だったと見られます。「ファシズム国家になる下地は出来上がっていた」かどうか、微妙なところでした。
非民主国家だったら、民衆は見下(みくだ)されているので、「戦争に熱狂し」ても「愚民どもがっ」と言われてしまいます。
民主国家だったら、民衆が政治権力(の源泉)を持っています。その民衆が独裁を待望すれば、ファシズムになる。

日本は半分だったので、足りない分は上からの天皇制支配でファシズムを成立させた。というのが、「天皇制ファシズム」説です。
戦後の歴史学界で有力説だったが、今はさほどでもないようです。学説にも流行り廃りはある。

質問者さんは、「ファシズムにまで到達しなかった」とおっしゃるが、それが正しいとすれば、日本は民主国家ではなかった(非民主国家または半民主国家だった)ということですね。
付け加えると、「純粋ファシズム」説もあります。それによれば、戦前から日本は民主国家で、天皇制の力添えを俟(ま)たずに、ファシズムにまで到達した。
いずれにせよ、ファシズムはパラドックスと言えましょう。民主国家が、気分アゲアゲで全体主義(簡単にいうと独裁)に転じるという、不思議な話なのです。
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ファシズムは、元々はイタリアのムッソリーニが組織した「国家ファシスト党」を語源にしている。


ドイツは、ヒトラーが組織した「国民社会主義ドイツ労働者党」で、この略称がナチスであり、その政治的主張がナチズムと呼ばれている。

この二つは似て非なるものだが、英仏米といった資源も領土も広く、巨大民間資本も蓄積されて、自由と民主主義も確立していた大国からみれば、共産主義よりは自分たちに近いとはいえ、独裁制の強い国家として警戒はされていた。
またファシズムとナチズムは、結果として労働者階級を母体にしていることから共産主義と思想的に競合していたため、反共思想も強く、特にドイツとソ連は外交面で激しくやり合っていた。

つまり、自由と民主を掲げる英仏米と全体主義の独伊、そして共産主義のソ連の3極構造が当時の欧米世界の構図だった。

そういう中で、軍国主義の日本が全体主義の独伊と三国同盟を結んだことから、日独伊の3ヵ国を同じファシズムの国々と見做すようになっていった。

それが「天皇制ファシズム」説の原型だが、日本の場合は天皇が独裁者なのか、首相の東条英機が独裁者なのか、いくら調べても決定打が出なかった。
独裁者が居なければ、さすがに「天皇制ファシズム」説は苦しい。
元々、ファシズムには決定的な定義付けが学問的にされた用語ではない。独裁者の存在が不明だった日本に関して言えば、最初からファシズムという用語に学問的に当てはめるには無理があったと思います。
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ファッシズム、というのは


権力で労働者階級を押さえ、
外国に対しては侵略政策をとる独裁制
のことです。



ファシズムにまで到達しなかった理由はなんでしょうか?
 ↑
日本の国柄にあったと考えます。

外国の多くは、トップが決めて、下が
それに従う、というトップダウンです。

しかし、日本の場合は
下がワイワイやって決めて、
上がそれを認める、という
ボトムアップの国柄です。

だからファッシズムには
なりにくいのです。
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「ファシズム」という言葉は非常に定義が難しく、学者によっても微妙に違う定義になっていたりします。



ただ、当時のイタリアやドイツなどの情勢か見て、ファシズムというのは「右にあっては資本主義による富の蓄積(ブルジョワジーの増加)を否定し、左にあっては共産主義を否定するイデオロギーだとするのがもっともよいと考えます。

つまり当時のヨーロッパの状態が「産業革命以後の資本主義社会による貧富の差の拡大、特に戦争の結果を含めた国家間の経済力の差の拡大と、各国国内の貧富差の拡大による労働者たちの共産主義へのシンパシーの増加」という伝統的な社会を資本主義と共産主義が引き裂こうとしている状態への抵抗勢力であった、と考えるのが妥当だと思います。

だから特にナチスに対して中間層である大多数の国民が熱狂的に支持し、富裕層であったユダヤ人の排斥と革命を広げようとするソ連へからの防衛の両方に賛成した、とみるのが良いと思います。

これがファシストの本質的なイデオロギーであったとすると、日本にはまだ「貧富の差で国民を分断してしまうほどの問題はなく、共産主義に対してはむしろ優位な立ち位置に居た」といえます。

もちろん日本も当時の西洋国と同様に「財閥などの富の集中は加速していた」し「満州国や朝鮮に対する共産主義勢力の圧力は高まっていた」とはいえますが、しかし日中戦争は日本軍のほうが優勢で満州国はロシアの利権も阻害していましたし、満州国開拓で貧困者にもチャンスがあった時代なので《ファシズム的な大政翼賛会は国家のイデオロギー維持に必要だったが、本当にファシズムが必要になるほどの社会変革は起きていなかった》という事なのだと思います。
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明治以降の日本は民主主義です。

どこがファシズムだったのでしょうかね??
終戦後、日本の政治的文献は7000冊ほど強制的に焚書され、日本の歴史教育は大きく歪められたままです。現に、南京大虐殺があったなどと主張するものまで出てきた始末です。ドイツ・イタリアとの3国同盟は、東欧および極東におけるロシアの領土拡張主義に対応するためのものであってファシズムなどというものではありません。
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日本の場合は例えば南京虐殺は日本政府も認めています。

しかし、一部の軍人が秘密裏に行った事もあり、長年無かったと信じていた人もいました。

天皇は南京虐殺に関与した証拠はないので、天皇制ファシズムは日本側では言わないでしょう。ただ、被害側の呼び方に規制は出来ません。

私はファシズムそのものよりも、事実を隠す行為が同じ位に酷い事だと思います。今でも南京虐殺は無かったというような書籍がどうどうと売られています。ナチスは今でも逮捕者が出ますが、日本は終わった事。無かった事だと誤魔化し続けているのはもっと酷いかもしれません。
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