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攻撃しないように通告が入っているのでしょうか
それとも爆撃と勘違いされて攻撃されること前提で強行しているのでしょうか
また落とされた物資を日本軍はちゃんと連合軍の捕虜に与えたのでしょうか?

「戦時中米軍が日本の捕虜収容所に物資をB2」の質問画像

A 回答 (6件)

画像の日付をよく見てください。


1945年の8月28日ですよ。
玉音放送から2週間が経とうとしている時期です。日本軍が迎撃に出撃することは無いです。
これから何が起こるかわからないのに、進駐軍の物資をくすねるような命知らずはいたと思いますか?
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WiKiからのコピペ


日本の国内外154箇所の捕虜収容所に収容されている63,000人の連合軍捕虜に対する当面の間の食料や薬品といった物資の空中投下となった。
8月27日の北京近郊の捕虜収容所を皮切りに、東京都や愛知県、長崎県、佐賀県など、収容所を解放するまでの約1か月間で延べ900機が出動した
B-29の主翼の下側に「捕虜供給物資」とペイントされ、物資を投下する1時間ほど前に、物資の分量や、食べ過ぎや薬品の飲みすぎ注意するようにと但し書きが書いているチラシを散布するほどの気の配りようであった。
物資のいくつかはパラシュートが外れて、まるで爆弾のように落下し、建物を破壊したり、時には地上で物資を待ちかねていた捕虜に直撃して命を奪うこともあった。
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皆さんおっしゃるように降伏後ですから攻撃なんてされません。

物資は空中投下する必要もないので普通に近隣の基地に降りたんでしょうね。ちなみにB-29は爆撃機ですが、マリアナ近辺から日本に物資を運ぶには適しているというか、この機体しかなかったと思います。他の機体では航続距離が足りません。
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写真の日付は1945年8月28日で、日本は既に降伏して武装解除をやってる時期です。

 敗戦直後の1945年8月19日、参謀次長河辺虎四郎中将を筆頭とする降伏全権団は、アメリカ軍の指示で千葉県の木更津海軍飛行場から沖縄県の伊江島まで2機の飛行機で向かい、さらに伊江島からアメリカ軍機に乗り換えてフィリピンに向かいました。

全権団はフィリピンのマニラで連合軍と会談して最高指揮官マッカーサーによる降伏要求文書を受領、連合軍の進駐詳細や全軍武装解除を中央に伝達するため、伊江島から専用の緑十字機にて帰路につきました。 

8月28日の時点では、まだ完全には武装解除できてなかったでしょうが、日本軍は既に存在せず、マッカーサーの指示通り速やかに武装解除の作業を行っており、既に日本側でB29を攻撃しようとする勢力も能力もなかったでしょう。 8月27日には、進駐部隊をのせた連合軍の艦船が、相模湾逗子沖に集結しており、B29が捕虜への物資を搬送しているときには、捕虜収容所は既に進駐軍の占領下にあったはずです。
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戦争中なら乗員が捕虜になったのか戦死したのか、分からんでしょうが。


 ましてや捕虜がどこに収容されているかなんか分かりませんずら。
 ですけん、空襲や原爆投下で犠牲になった捕虜も少なくないです。
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ありえません。


B29は高空を飛ぶ爆撃機であって、物資の輸送用ではありません。
また、捕虜の待遇に関しては、国際条約で決まっていて、食事その他、捕虜にした国が負担します。捕虜用の物資が、アメリカから日本にということはありません。
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