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「他者の発見」について、教えて下さい。
人は、他者がいることを知らないのですか。
多くの人は、他者がいることを知らないのですか。
人の多くは、他者がいることを知らないのですか。

A 回答 (5件)

自分以外の誰かを「他者」とカテゴライズした時点で「知らない」は必要十分条件でしょう。

知っていたらもう他者ではなく特定の人格を認めた個人なのですから
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お礼日時:2025/02/13 00:45

「自分」というものに興味がなく、追求しないから認識ができない。

だから、他人のことも認識できない。

何故かと言えば、科学の時代だから、客観的なものにばかり目が行って、主観的なものに目が行かないからでしょう。
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お礼日時:2025/02/12 04:59

自己に内に他者がいないと会話が成立しません。


形は対話のように見えても、一方的な言い合いに終始してしまう。コミュニケーションは不全に陥るのです
そしてシニシズム(冷笑主義)に陥ります。

無関心やシニシズムの世界における「自己」とは
ユングのいう「自我=エゴ」と同じく、表層次元を浮遊する閉塞的な自意識でしかありません。
そうした「自己」は「他者」が不在であり、「他者」の痛みや悩み、苦しみへの不感症に陥っているがゆえに、自分の世界に引きこもってしまったり、ささいなことでキレて暴力的な直接行動に走ったり、あるいは素知らぬ顔で傍観者であったりする。
こうした「他者」の不在という精神病理こそ、ファシズムやボリシェビズムなどの20世紀を席巻した狂信的イデオロギーを生み出す格好の土壌であったのです。
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ありがとう

お礼日時:2025/02/12 05:01

赤瀬川源平のエッセイに、自身の幼児期の「周りの人への思惑」というテーマがあって、要は大体みんな一度経験すると思われるのですが、



『この人たちは自分の前だけで父親や母親やその他の社会的人格というものを演技していて、自分の見ていないところでは役者が控室で素の姿に戻るようにその演技をやめているんじゃないか?』

という疑念にとらわれたそうです。つまり、幼児期の自他の分離がまだ未完成な時期に「他者」というものを意識し始める過程において、なにかそういう統合失調的な妄想にとらわれ、自と他というものをあくまで「同一ではない」「自が中心なはずだ」という思考形態をとった時期があったということです。

これは納得できる話です。私にも瞬間的にそういう時期がありました。今考えれば確かに「自他を相対的概念として確立する」その過渡期だったということです。

つまり通常「他者の発見」というのは幼児期のある時期に必然的に訪れます。でも例外的な人もいるでしょう。そういう人は何らかの問題行動や思考形態を残したままということになるでしょう。
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お礼日時:2025/02/12 05:02

一般には、他者がいることは分かっているのですが、その存在をよく理解していないといわれています。

曖昧に捉えて、試行錯誤を繰り返し、失敗をしている物ですよ。なので「完全に理解するのは無理だ」という話で落ち着いています。

以下は長いので、お暇なときにでもどうぞ。

●この本の事ですか?

「他者の発見」をネットで検索しますと、ある著作物が見つかります。この作者は「頭で理解しているのと、その人になり切って理解するのとでは感じ方が全然違うよ」と言っているだけのようです。元は役者さんなのでしょうかね。そのため「そういう発見をしました」と自分の体験を伝えたいと思ったようです。なので貴方が期待している「いることを知らない」という意味で「発見」という言葉を使っていないようです。

●この著作の話とは別の話をします

貴方の質問は「人がなぜ孤独を感じるのか?」という原因についての話になります。貴方が言っている程「存在をまったく知らない」というわけではないのですが、殆ど気が付いていないというのが実情です。なので、どんな人間も、どんなに楽しそうにしていても、どんなに沢山の人に囲まれていても、自分一人に感じるのが普通ですよ。つまり、寂しさというのは消えません。

「そこにある(いる)と実感できないのが普通である」

そして、そこから来る寂しさは一生消えません。

●どうするかは個人の自由

しかし、その寂しさを見つめ続けるのか? 気を紛らわせて他の事を考えるのか? どちらを選ぶかは個人の自由なんです。多くの人は後者を選びます。そういう物だと思って無視するというのが一般的でしょう。

●全ての物は存在を確認できない

実は対象が物であってもそうなんですよ。本当にそこにあるのか? と問えば、見たり、触ったり、匂いをかいだり、想像することで「あるのだろう?」と予想しているだけです。目を誤魔化されたり、触感を偽られたり、匂いを変えられたりされれば、真偽は判別でき無くなるでしょ?

「それに気が付いてしまうと、不安でしょうがない。この
 世界は本当にあるのだろうか?」

●悩ましいテーマである

こういう悩みを抱えてしまう人も昔から多いんです。そこで「いる」「ある」というのはどんな意味があるのか? と考えを深めていく分けです。

しかし、その考えもどこかで辞めないと疲れてしまうでしょ?

「答えが分かったとしても、今のルールは代えられない。
 結局私たちは、あるのだろう・・・いるのだろう・・・
 とする。その前提で演技をするしかないのだ」

疲れるというのだけは体感で現実です。

●演技をするという事で折り合いをつける

なので、私たち人間すべては「いるのだろう」と他の人が振舞うならば、「いるのだろう」という演技をします。そうする事で、他の人を不安にさせないようにします。勿論、「いるかいないか判別できない他者」を「不安にさせるかもしれない」と考えること自体面白い話なんですけどね。

大事なのは、演技を続ける事だけなんです。

●あとはどうするかだけ

真実が分かったとしても私たちが取りうる選択は、

「だから演技を辞めるの? 辞めた後何をするの?暇に
 なるだけでしょう。意味がないかもしれないけど、演技
 は上達するよ。上達だけを面白がるというのが人生であ
 るかもしれないよ。辞めてしまうと暇でしょ」

と折り合いをつけるんです。

なので「そこにいないかもしれない」とか「自分は誰にも見つけられていません」と慌ててしまう人がいると、

「しー。いま本番中でしょ? 台本通り動いてよ」

と注意するものです。

●まとめ

貴方の質問に答えますと、

「いるかいないかはどうでもいい。私はこれを本番の舞台
 と捉えて、最後まで演技を続けます。そして私は嫌な役
 を演じない様に、このキャラはこう動いて欲しいと自分
 を制御し続けるのです。そして嫌な役になりたくないと
 考えるのは、皆もそうみたいです。ですから、自分を主
 役にして欲しいと願っても皆はそうしてくれないんです。
 他人のシナリオをかいて、その通りにしてもらおうと思
 うのは無理でしょう。なので自分の行動だけはシナリオ
 をかいて、上手に演技をするんですよ」

という事だと思います。

「演技であると覚悟を決めた人」が正常と扱われます。私たちは「正常な人を想像して演じている」だけなのです。勿論、実際には他者はいないかもしれません。なので正常と思われること自体に意味がないかもしれませんよね。ですので、ただ単に自分のゲームをしているだけなんでしょう。

以上、ご参考になれば。
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この回答へのお礼

助かりました

お礼日時:2025/02/12 05:03

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