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千葉県松戸市にある戸定邸について

江戸末期~明治にかけての頃(NHK大河ドラマでも出てきた)徳川昭武(徳川慶喜の弟)が登城に速やかに応じられるように水戸と江戸の間に建てた屋敷だそうですが、ここの語りべに話を聞いても知らないとのことでモヤモヤしてることがあります。

戸定邸について詳しい方教えてください。
緊急参集の為に江戸に速やかに向かえるように居を構えたのなら、何故江戸川の向こう側(江戸寄りの方)へ建てなかったのか?
当時は江戸川の増水により度々足止めを食らっていたそうです。ならば、初めから江戸川の内側に用すれば隅田川の内側に居を構ええれば増水の度に参集に遅れることはなかったと重い質問になります。

江戸からの呼び出しに直ぐに応じられるように建てた屋敷が川の増水で立ち往生。何故?という質問の本質です。
景色が気に入ったということは語りべから聞いていますが、それでは江戸への緊急参集用の舘となりえず、本末転倒に感じたもので、その辺の事情を歴史的に詳しい方でお願いします。

A 回答 (3件)

>登城に速やかに応じられるように水戸と江戸の間に建てた屋敷だそうです


ここが怪しそうですね。

水戸藩主は参勤交代せず江戸に住んでいます。
昭武が藩主になってからはパリに行ったり京都に居たりで江戸にも水戸にも住んでいません。

松戸が水戸藩領になったのは明治になってからですそれまでは駿河田中藩の飛び地と天領ですから水戸徳川藩と言っても屋敷を構えるのは無理なことです。

水戸家の下屋敷は向島にあり明治になっても徳川昭武はここで暮らしていてここで死亡しました。

戸定邸は別荘或いは隠居所の様な物ではないかと思います。
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この回答へのお礼

そうですね。別荘とはいってましたた。ありがとうございます。

お礼日時:2025/03/13 18:43

戸定邸が建設されたのは明治17年ですよ。



>登城に速やかに応じられるように水戸と江戸の間に建てた屋敷
ではありません。幕末は水戸藩主、明治の初めは水戸の知事ですから水戸にいました。隠居してから松戸に移住しました。
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この回答へのお礼

そうですか。語りべが江戸?公務で東京へ行く必要がある時に足止め云々と語っていたため、ある程度戸定邸を居としていた感じだったので聞いてみましたが隠居してからなら遅れてもなんの問題もなさそうですね。

お礼日時:2025/03/13 18:45

お調べになられた通りです。


様々な見聞録にもその様な記録がありますが、詳しい理由まで記載されているものは未だ発見されてませんので、それ以上のことは今の段階では分かりかねます。
主観的な回答になりますが、だから歴史って面白いのだと思います。
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この回答へのお礼

どうもありがとう。語りべも分からんといっていたのでよく分からないと言うことで。気色は確かにいい所ではありました。当時なら雄大な平野を流れる江戸川が見えていい眺望でしたでしょう。

お礼日時:2025/03/13 18:47

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