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後醍醐天皇は挙兵の地として、なぜ笠置山を選ばれたのでしょうか。
六波羅探題のある京都に近いし、強固な要害があるでもなし
鎌倉方に攻められれば、ひとたまりも無く潰されてしまうことは、目に見えているのに。

A 回答 (4件)

当時の時事状況や勢力分布における理由についてはみなさん御説明済みですので、地勢学的な見地と戦術的な見地から御説明します。



まず地勢学的には山城から伊賀上野しいては伊勢を東西に結び「伊賀街道」、南に進むとそのまま柳生から吉野へと抜ける「柳生街道」のクロスする交通の要衝に位置しています。
そのうえ笠置山は標高288メートルの急峻な小山で、北方には木津川、西側には打滝川が流れ、既に笠置寺という何重にも取り巻く土塀を持つ、山岳密教の修行道場の要害建築が聳えていましたので、大軍を寡兵で迎え撃つにはまさに絶好のポイントです。
実際に現地に行かれれば分かりますが、山上駐車場まではぐるぐると山を旋回しながらドライブをローギアに入れてあがらなければ成らない程の狭く複雑な山容が特徴的です。

しばらく時代が下りますが室町期に山城守護の細川晴元の時代に実際に「笠置城」という記述があり、「多聞院日記」の天文10年11月26日の日付けで城の堅固な様子が語られています。後の世にも城として活用できる程度の要害であったわけです。
当時既に、天智天皇時代に開創された当時でも山岳伽藍の有名な寺院でしたから「急な挙兵で考え付く」には妥当な選択であったと思います。
又、六波羅の大軍も加茂からは南北の山に挟まれ行軍に難儀したことが記録にあります。
後に山崎の合戦で劣勢の明智軍が淀川と天王山のはざまで秀吉郡を防御しようとした原理に似ています。
地図で確認されると良く分かりますよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。なるほど、東西と南北の街道が交差する要衝ですね。味方を集めるにも逃げるにも便利ですね。でも、便利な場所なら攻める方にも便利ですよね。今では何もない所ですが、寺院・要害があったのですね。精緻なご回答、感服しました。

お礼日時:2005/05/25 13:04

好き好んで行ったわけではなく、当初は比叡山に向かったのですが、洛中の警備が厳しくて断念、東大寺の聖寿を頼って奈良に行きましたが、ここでも僧兵たちが全て天皇方と言えず、聖寿の紹介で笠木寺に行った訳です。


比叡山へは花山院師賢が後醍醐天皇に化けて入山しますが、ばれてしまい比叡山の僧兵が分裂、笠置山で落ち合います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。奈良の僧兵もあてにしたんですね。後醍醐天皇は、意気込みや思い込みはすごいんですが、なんか空回りしてますよね。武器の使用に慣れている武士をなめたら当然やられます。時代の流れを読めなかった人ですか。

お礼日時:2005/05/25 12:58

もともとここは、天智天皇、天武天皇にゆかりの地で


後醍醐天皇が行幸したことがあり、ここを隠れ家に選んだのです、挙兵したというより一方的に攻められ
滅ぼされたのです、いまはそうでもありませんが、
当時この辺では強固な要害として有名でした。
サイトみてください。


http://www.kasagidera.com/

http://homepage2.nifty.com/farm55/kasagi100.htm

参考URL:http://www1.kcn.ne.jp/~kasagi/kankou/plan/c/c2/m …
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この回答へのお礼

ありがとうございます。先日麓を通って、ふと疑問に思いました。小さな山でしたが、急峻で要害があったのですね。でも、守る方が青白い公家では、多勢で攻められたらイチコロですね。

お礼日時:2005/05/25 12:51

用意周到な挙兵ではなく、倒幕計画がばれてあわてて逃げ出しての挙兵だったので、いちばん手近な味方の拠点で挙兵したのではないでしょうか。

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この回答へのお礼

手近な所で、慌てて取り敢えずだったっんですか。そりゃ、負けますよね。

お礼日時:2005/05/25 12:47

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