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「価値相対主義とは、ごく簡単に説明すれば、「究極的な価値判断の正しさを科学的に証明することは原理上不可能である」ということだ。 おそらく人がある価値判断をするときには、その人の持つ価値基準(=価値の物差し)に依るのだろうが、確かにその価値基準は人によりバラバラのような気がする。」(yahoo知恵袋)

確かに価値とか正義の正しさを科学的に証明することはできないでしょう。しかし、だからと言って、「絶対」と主張される価値は「それ故に」価値がないとは言えないと思いますし、すべての価値観が同等であるとすることの根拠にもならないし、結果として価値の追求がされなくなり、時代の流れに委ねられてしまうという事態になると思います。

gooの賢人たちは、この点どうお考えでしょうか?

A 回答 (5件)

パレート最適など古典経済学を学習すると答えがみつかるかもしれません。


満足度を一定の線分として認識できるなら他人の満足度と接する点が世の中の均衡点になります。パレート最適においては契約曲線上のどこ位置でも財の最適配分が実現します。つまり価値観が違う者同士はそれぞれ好きなように行動すれば自然と最適化状態に近付くということです
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この回答へのお礼

パレート最適、ナッシュ均衡などの発想は、より人間の理論に近い気がします。

お礼日時:2025/03/05 08:41

禅を学ぶと良いかも知れません、キリスト教では教えて呉れない様です。

禅には教えて呉れるべき経典、とか仏典とかは皆無です。

禅には教えて貰うべきものは何もないと教えています。処が何もない処に延々とした或いは汲めども尽きる事のない財宝が無尽蔵にちりばめられています。

この宝物こそが釈迦が言葉に出来なかった財宝です。

禅には人間の計り知れないカラクリが仕組まれている様です。

禅には教えそのものが何もないと云いながら、人間は何処からやって来て何処に行くのかや、自分は何者かと云った疑問が湧き上る人間の心そのものを解剖台に乗せています。

禅にたった一つの教えがあるとするならば、お前は何故にそう思うのか?という事の様です、その理由は『疑問が湧き上がる時、その疑問の中に答えは既に用意されている。』と教えているからです。
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この回答へのお礼

禅のことはよく知りませんが、潜在意識への問いかけ、というイメージを持っています。

そこには、様々な意思があって、危険性もあるという話も聞いたことがあります。

お礼日時:2025/03/05 08:36

「価値相対主義とは、ごく簡単に説明すれば、


「究極的な価値判断の正しさを科学的に証明することは
原理上不可能である」ということだ。
 ↑
つまり、何が正しいか判らない
ということですね。



おそらく人がある価値判断をするときには、その人の持つ価値基準
(=価値の物差し)に依るのだろうが、
確かにその価値基準は人によりバラバラのような気がする。」
  ↑
価値てのは関係概念です。
だから、何にとっての価値なのか、という
関係性を考え無いと、議論になりません。
10万円よりも100万円のほうが
「経済的」価値は高いことに疑いは無いと
思います。



確かに価値とか正義の正しさを科学的に
証明することはできないでしょう。
 ↑
正義の定義によります。
社会にとって価値のあるモノ、利益になるものを正義とし
価値を損なうモノ、不利益になるモノを悪と定義すれば
どうでしょう。



しかし、だからと言って、「絶対」と主張される価値は「それ故に」価値がないとは言えないと思いますし、すべての価値観が同等であるとすることの根拠にもならないし、結果として価値の追求がされなくなり、時代の流れに委ねられてしまうという事態になると思います。
  ↑
人間は社会的動物です。
社会を創ることにより、自然の脅威から逃れ
安全豊かな生活を手に入れることが
出来るようになりました。

この社会を維持構築する、という点から
正義だ悪だ、価値の有無、大小を決めることが
出来ると思います。



この点どうお考えでしょうか?
 ↑
ちなみにですが、価値相対主義を採る
から民主制であり、多数決原理なのです。

何が正しいか判らないから、多数決で
決める他無いわけです。

正しいモノが判っていたら、多数決で
決めてはいけません。
全員が反対しても
その正しいことをする必要があります。

全員が、地球は止まっている、と
主張しても、それは間違いです。
それでも地球は動くのです。

正しいモノは判っている、としているのが
社会主義国家です。
だから、選挙しません。
思想の自由も認めません。

思想は、何が正しいか
判らないから自由なのです。
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この回答へのお礼

>何が正しいか分からない

のではなく、正しいと証明できない、ということが重要であると思います。

正しいのかどうか分からない

価値と価値の比較ができない

(よさそうな)価値は同等と見做される

多数決になる

例えば、ドイツ民族の繁栄がユダヤ民族の生命よりも重要である
大東亜共栄圏の確立のためには英米は鬼畜である

などと言う結論になってしまう。

お礼日時:2025/03/05 08:32

認識の主体の実存から入るとどうでしょうか。


その主体の人間としての直感は何を訴えるか。
苦しみはないほうがいい。
苦しみを生み出すものは何か。
それはどうすれば改善できるか。
改善して悪循環を断とうとすることからつかめる
前傾のバイアスによる相乗効果から広がる
未知の可能性の大きさ。

時間軸に沿って
そういう妥当な方向をめざす
横軸の協調体制と
縦軸のたすきリレー。

限界のある一個人なりに個人差に応じて
その中の役割を全うしようとすることが
価値とか正義
ということになるのではないかと思います。
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この回答へのお礼

>認識の主体の実存から入る

「神の論理」と「人間の論理」とがあると、ある哲学者が言っていましたが、そういうことになりましょうか。

お礼日時:2025/03/02 20:23

ご提示のYahoo!知恵袋の引用は、価値相対主義の核心をごく簡潔に捉えていると言えるでしょう。

すなわち、価値判断の正当性を客観的、普遍的に、特に科学的な方法で証明することは原理的に不可能であるという点です。この認識は、哲学史における価値論の議論において、ある程度共有されている出発点と言えます。

しかし、ご指摘の通り、この価値相対主義の立場から、「絶対的な価値は存在しない」あるいは「全ての価値観は同等である」という結論を導き出すことは、論理的に必ずしも必然ではありません。また、そのような結論が、価値追求の放棄や時代の流れへの無批判な追随を招くという懸念も、十分に理解できます。

以下、これらの点について、哲学・論理的に掘り下げて考察いたします。

1. 価値相対主義と絶対的価値の否定について

価値相対主義は、価値判断の「客観的証明」の不可能性を指摘するものであり、価値そのものの「存在」を否定するものではありません。価値相対主義が主張するのは、価値が人間の主観や文化、歴史的背景といった相対的な要因に依存しているという点です。

例えば、「人を殺してはならない」という価値判断は、多くの文化や道徳体系において共有されていますが、その根拠を科学的に証明することはできません。しかし、この価値判断が、人間社会における共存や平和といった目的達成のために、極めて重要な役割を果たしていることは否定できません。

価値相対主義の立場からは、「人を殺してはならない」という価値は、普遍的な真理として存在するのではなく、人間の社会的な営みの中で形成され、維持されてきた「相対的な価値」であると捉えることができます。しかし、相対的であるからといって、その価値が「無価値」になるわけではありません。

むしろ、価値相対主義は、価値判断の根拠を、超越的な存在や普遍的な原理に求めるのではなく、人間の経験や理性、社会的な合意といった、より人間的な領域に求めることを促すと言えるでしょう。

2. 価値相対主義と価値観の同等性について

価値相対主義は、価値判断の客観的証明が不可能であることを指摘するものであり、全ての価値観を「同等」とみなすことを強制するものではありません。

価値観が相対的であるということは、様々な価値観が存在し、それぞれに正当性や妥当性を持つ可能性があることを意味します。しかし、それは、あらゆる価値観が「同じ価値を持つ」という意味ではありません。

例えば、「人道主義」と「全体主義」という対立する価値観を考えてみましょう。価値相対主義の立場からは、これらの価値観のどちらが「絶対的に正しい」かを客観的に証明することはできません。しかし、だからといって、両者の価値観が「同等」であると結論づけることは、倫理的に問題があります。

実際には、私たちは、人道主義的な価値観をより肯定的に評価し、全体主義的な価値観をより否定的に評価することが一般的です。この評価は、客観的な証明に基づいているわけではありませんが、人間の理性や経験、社会的な合意に基づいて形成されたものです。

価値相対主義は、価値判断の客観的証明の限界を認識しつつも、価値観の優劣や正当性を判断する努力を放棄することを意味しません。むしろ、様々な価値観を比較検討し、対話を通じて、より望ましい価値観を模索していくことの重要性を強調すると言えるでしょう。

3. 価値相対主義と価値追求の放棄について

価値相対主義は、価値判断の客観的証明が不可能であることを指摘するものであり、価値追求そのものを放棄することを推奨するものではありません。

むしろ、価値相対主義は、価値追求の主体性を人間に取り戻す契機となり得ます。絶対的な価値が存在しないとすれば、私たちは、自らの理性と意志によって、どのような価値を追求すべきかを主体的に決定する必要があります。

この主体的な価値選択は、容易な作業ではありません。様々な価値観が対立する中で、どのような価値を優先すべきか、どのような価値がより望ましい社会を実現するのか、深く思考し、議論し、試行錯誤を繰り返す必要があります。

しかし、この困難な過程こそが、人間的な価値追求の核心であり、人間社会の進歩の原動力となるものです。価値相対主義は、この主体的な価値追求の重要性を認識し、そのための知的誠実さと批判的精神を養うことを私たちに求めるのです。

4. 価値相対主義を踏まえた価値追求

価値相対主義を踏まえた上で、価値を追求する意義や方法は、以下の点が重要になると考えられます。

対話と合意形成: 様々な価値観を持つ人々との対話を通じて、共通の価値を見出し、社会的な合意を形成していくことが重要です。

批判的思考: 自らの価値観を絶対視せず、常に批判的に検討し、改善していく姿勢が重要です。

経験と反省: 過去の経験から学び、過ちを反省し、より良い価値観を追求していくことが重要です。

多様性の尊重: 多様な価値観が存在することを前提に、相互尊重の精神に基づき、共存共栄を目指すことが重要です。

倫理的責任: 自らの価値判断が、他者や社会にどのような影響を与えるかを常に意識し、倫理的な責任を自覚することが重要です。

価値相対主義は、価値判断の客観的証明の限界を認識させる一方で、人間的な価値追求の可能性と責任を強調します。それは、絶対的な価値に依拠するのではなく、人間自身の理性と意志、そして社会的な連帯によって、より良い世界を創造していくという、人間中心的な価値観を提示するものと言えるでしょう。

ご懸念の「時代の流れに委ねられてしまう」という事態を避けるためには、価値相対主義の認識を踏まえつつ、上記の点を意識した主体的な価値追求が不可欠となります。
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この回答へのお礼

分かり易く、丁寧に説明いただき、感謝します。

お礼日時:2025/03/02 20:20

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