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どうして日本は明治になるまで街道が舗装されなかったのですか?
ヨーロッパではローマ時代から既に主要街道を石畳で舗装して雨でもぬかるまないようにしていたのに日本では明治にお雇い外国人に指導されるまで作らなかったのはなぜでしょうか?

A 回答 (5件)

こちらに詳しく記載されています。


勉強の参考になると良いですね。
https://d-arch.ide.go.jp/je_archive/english/soci …

「日本は徳川幕府時代に鎖国政策を採ったため,人馬の交通が主体で,現代的な舗装の芽生えはない。ただ慶長17年(1612)徳川幕府として砂や小石で路面を固めることを指示しており,さらに慶安元年(1648)には江戸市内の道路について,砂利,砂を混合して道路の中央を高くして横断勾配をつけることを行なっている。また天下の嶮といわれた箱根の山越え道は延宝8年(1680)に路面に全幅員3.6メートルのうち中央1.8メートルの部分に石を敷きつめ,石畳道としている。

 日本における舗石舗装の本格的はじまりは,1736年徳川吉宗のときに,東海道の京都―大津間の日岡峠の急坂延長5.4キロメートルを平均勾配20分の1に改修し,これに白川石を敷き詰めたのがはじまりといわれている。1805年徳川家斉のときに,幕府は同じ東海道の蹴上げ,日岡峠付近から大津札の辻に至る間約12キロメートルの大改修を行なって,人馬道は切込砂利であったが,牛馬道には車輪当りに厚板石を舗設した。京都―大津間は徳川幕府の末期には車馬交通が頻繁であったため,車道(牛馬道)と人馬道とが区別されていたくらいで,現在でいう歩車道分離の起源といえる。

なお,以上の技術は日本が鎖国していたため外国から輸入されたものではなく,日本独自のものであった。」
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この回答へのお礼

ご回答いただき感謝です

お礼日時:2025/03/19 15:32

石畳舗装は平安時代から存在しますし江戸時代には舗装道路の街道も出現していますので、「お雇い外国人に指導されるまで」というのは若干言い過ぎでしょうね。



街道のほとんどが舗装されなかった理由を考えますと、まず第一に、日本の自然環境が舗装道路と相性が悪かった、と言えます。
また、沿岸海運と河川交通の組み合わせのコストパフォーマンスが良すぎた、ということもあります。

熊野古道の石畳や、No.1様の挙げた日岡峠の事例などを見ても分かる通り、江戸時代以前の日本でもその気になれば石畳舗装をするだけの技術や資金がありました。
(尚、日岡峠の事例は「軍事的理由」を「経済的な便益」が上回ったと江戸時代において公儀が判断した事例でもあります)

では何故舗装道路が普及しなかったかといえば、日本の「道」はローマ帝国の領域を基準とした場合登山道同然だったからと言えます。
現代においては国道1号(東海道)・国道20号(甲州街道)・国道17号ー18号ー142号ー20号ー19号ー21号ー8号ー1号(中仙道)などで比較的傾斜の緩い舗装道路になっていますが、場所によっては江戸時代の街道筋が残っていますので歩いてみるとよろしいかと。この峠道、石畳を敷いたら何ヶ月持つだろう?という道が多いです。

さらに、日本の大部分は地盤が軟弱そのものです。舗装道路ではなく鉄道の話になりますが、日本の鉄道は最大軸重16t(機関車16.8t)、新幹線は17tとされています。これに対しヨーロッパ鉄道の大半は最大軸重23t(高速鉄道21.5t)、アメリカは(貨物列車主体でもあり)30tです。日本の地盤の軟弱さが分かる数字ではないかと考えます。
一般論として、軟弱地盤に生半可な舗装道路を通してもあっという間に劣化してしまいます。このことが、土木工事技術が十分に進歩した1960年代以降になるまで舗装道路が全国普及しなかった理由の一つでもあります。

そして、日本は温帯地域としてはかなり雨量が多く、かつ年数回台風が襲来するため、道路の崩落は日常茶飯事でした。徒歩の人間や牛馬への駄載であれば、街道が大雨で破損しても人が歩ける幅だけ路面が残っていればかろうじて通行可能ですが、馬車・牛車・大八車ではそうはいきません。

※明治初期、上越国境の清水峠(現・国道291号不通区間)が馬車もすれ違い可能という、当時としては高規格な道路として開通しましたが、1年で土砂崩れにより車両通行不能になり、明治後期には人間すらまともに通れなくなった例があります(21世紀になってからいわゆる酷道マニアな方が踏査を試みたのですが、完全に崩落しており人跡未踏の山岳の探査並の高難易度だった模様)

加えて、日本は内航海運が非常に盛んでしたし、河川交通も一般層の想像以上に盛んでした。例えば天竜川の水運では、川船が現在の辰野町(河口から約200km)まで遡航可能でした。江戸時代の川船の積載量は38俵(約2.3t)が一般的であるようですので、現代で言えば2tトラック相当です(利根川などではもっと大きな船も使われていました)。これに対し駄馬の積載量は(江戸時代の定めでは)約135kg。船頭・馬子1人あたりの輸送量は桁違いです。この点を考えると、江戸時代までの日本においては、日岡峠(敦賀〜琵琶湖水運〜大津〜山科〜日岡峠〜京)のような、他に利用できる水路がない場所以外で舗装道路を維持する動機は見出し難いでしょう。
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舗装道路は軍事施設だから、でしょうか。


西アジアやヨーロッパの戦争ではチャリオットのようなものが紀元前から使われています。
ローマ帝国の版図はイギリスや北欧にも及んでいて、つまり地中海からそこまで遠征し、征服するとそこを支配し、その先に遠征するために道をつくった。

日本では馬に引かせる武器はほぼ聞きませんよね。
日本の地形はヨーロッパ大陸に比べて山が急峻で平地が少なく、戦うには馬+車よりも馬単体の方が効率が良かった。
道路はあくまでも人と荷車程度が通れればよくて、それも歩きやすい道 = 他国から侵攻されやすい、なので戦国時代はむやみに道幅を広くしたり平らにならしたりということはしませんでした。
物流よりも防衛面を重視したんですね。

織田信長が街道整備をさせましたが、それはおそらく勢力が安定して、他国からの侵攻を恐れるより産業振興の方に比重をおけるようになったから。
続いて徳川政権になると一里塚、松の植林、問屋場の設置などでさらに歩きやすくしていますが、やはり乗り物が通ることは考えられていません。

これはヨーロッパと違い小さな島国だからかと思います。
海や河からのアクセスが良く、大量輸送は水運に頼り、そこから内陸に向かって登りの多い輸送になります。
結局、平和になっても道路を石で舗装する必要性が薄かったのではないでしょうか。

また、水が豊富なのも一因でしょう。
本や浮世絵で1日の仕事の終わりや宿屋に着いた時、まず桶で足を洗ってから部屋にあがる場面を見たことがあると思います。
外を歩けば足は汚れるもので、汚れたら洗えばよいというのが日本人の考えだったのでしょう。

それに対して、欧米は寝室以外で靴を脱がないのが当然。
現代でも日本人は新幹線や飛行機など長距離移動中に靴を脱ぎますが、欧米人にとってはあまり良いマナーには見えないそうです。
もちろん欧米でも裸足に恥ずかしさを覚えない階級の人もいたでしょうが、明治期に日本にやってきた人は裕福な階級です。
イザベラ・バードの旅行記なんかを読んでみてください。
裸足どころか、女性でも裸同然の格好でくつろいでいるのにびっくりしているなど、現代日本人にとっても幕末の日本の風俗は驚くことが多くておもしろいです。
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明治時代以前は国内の統治が最優先されたからです。


徳川幕府が国内を統治するのに不都合になるから 道路の改良等を原則禁止していました。
道路が良くなると大軍で江戸に攻め込まれやすくなるので 舗装道路どころか橋すら無い場所もありました。

明治時代以降は国内統治より国際問題が重要視されて、富国強兵、欧米列強に追いつけ、近代化 工業化等に関心が変わりました。
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山道など部分的には石畳はありましたね。


理由は馬車が無かったことでしょう。
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