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ハルノートを受け取っても開戦せずに済ませるには、当時の日本の指導部は、どうすればよかったんでしょうか?

A 回答 (5件)

はっきり言って手詰まりです。


そもそも最後の外交交渉でハルノートを受け取ったのは、
日本時間で1941年11月27日で、交渉期限は11月30日。
すでに真珠湾攻撃部隊は出撃していました。
残り3日で日本内部で意見調整をして交渉案の意見調整をしたり、
アメリカとの交渉で妥協点を探る時間的猶予はありませんでした。
あえて言うなら、東郷茂徳が自己の責任と腹をくくって
独断で丸呑みするくらいしか無かったと思われます。

ちなみに、アメリカが日本を戦争に引き込もうとしたとか、
ハルが「これで戦争ができる」と話したというのは陰謀論です。
ハルノートが出された時点でアメリカ軍は日本との戦争準備が
整っていないので戦争はできないとハルにくぎを刺していました。
また、ハルが陸軍長官スチムソンに語ったのは、自分の手を離れ
これからはスチムソンと海軍長官が対応することになる
という趣旨のお話で、あくまでも戦争になる可能性が高いとして
軍部も覚悟してねと言ったにすぎません。

さて、たとえ時間切れでもハルノートが戦争への最後のきっかけに
なったと言えばその通りなのですが、そもそも日本の甲案も乙案も
アメリカが受け入れなかった段階で交渉は無理でした。しかし、
ハルノートも時間があれば交渉の余地はあったのかもしれません。
東郷がハルノートにおける問題と考えたのが、
 ・中国と仏印からの日本の軍と警察の全面退去
 ・重慶政府以外を承認しない
 ・太平洋地域において三国同盟を適用しない
であったとしています。これにより、東郷がアメリカの最後通牒で
日本側が交渉の余地がないとして交渉を断念し、それを日本に伝え
その結果として開戦の決断がなされたとされています。
しかし、例えば中国と仏印のChinaが中国で満州を含めないとか、
重慶政府を認めて南京政府と統合させることで和平を図るから
アメリカの仲介を認めて対中交渉を行うことで認めてもらうなど
交渉を重ねて妥協点を見出す余地が全くなかった訳ではありません。
三国同盟は当時の日本が同盟するなら独・伊くらいしか無かった
という理由からだけで結ばれたようなもので、実際には上海事変や
南京事件の頃にはドイツは中国を支援して日本に敵対していました。
なので、同盟を破棄する見返り交渉を行ってもよかったと思います。
ちなみに、アメリカは最後通牒とは言っていませんでしたが、
日本もハル本人も最後通牒ととらえていたようです。

ハルノートは、東郷が交渉をあきらめた理由として挙げたもので
パール判事の引用(ハルノートを突き付けられたら小国でも戦争
というお話は東京裁判で日本側の弁護士が語った言葉の引用です)
などから戦争の直接の原因と思われていますが、アメリカが
日本に対する態度を極端に硬化させたのは南部仏印進駐です。
少なくともハルノートが出てからでは間に合いませんので
それ以前の南部仏印進駐くらいから止めておけばまだましで
それでも開戦が遅くなった程度と考えます。
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この回答へのお礼

大変興味深いご解説の数々、みなさん、ありがとうございました!

お礼日時:2025/03/17 16:02

万里の長城を超えた時点で、大日本帝国も米国も、ソ連共産党コミンテル


の引いたレールに乗ってしまったのです、ハルノートが来た時点で、
戦争に就き進むしか選択肢は無かったと思いますよ。

あえて言えば、軍事の天才石原莞爾大佐の考えに従って居ればと思います。
石原莞爾大佐は内戦をしている大陸は放って於いて、ドイツとソ連が
戦争している間に、樺太を含め、カムチャッカ半島までのオホーツク
沿岸を占拠して、米国との一大決戦に備えるべきと、提唱してました。

大陸に侵攻した、東条英機上等兵殿は愚かなりと面と向かって、
上官を批判したので、解任され予備役に成りました。

血気に流行った、皇道派の青年将校が二・二六事件を起こし、
皇道派は重要ポストから外され、財閥と組んだ統制派の軍閥の天下
となり国家総動員で戦争への道をひたすら進む事と成りました。
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どうしようも無かったと


思います。

ハルノートを受け入れても、それで
米国が納得するとは思えません。

米国は、どうしても戦争をしたかった
のです。

日本が受け入れても、何らかの罠を
仕掛けて、無理矢理にでも
戦争に持ち込んだと思います。


当時の米国は、1930年に続く大不況の真っ只中でした。
GDPは1/2に、株価は1/10に落ち、国民の1/4が
失業し、あちこちで暴動が発生していました。
ルーズベルトは、ニューデールなどの政策を打ちましたが効果は
はっきりしません。

これに加えて、当時は社会主義運動が盛んに
なりつつありました。
うかうかしていると、体制すら崩壊しかねません。

また、米国は英国フランスなどにも大量の資金を
貸し付けており、彼等が敗戦になれば、貸し金が焦げ付く
可能性がありました。

それでどうしても戦争をやる必要があったのです。
戦争は最大の公共事業ですから。その証拠に戦後、米国
経済は見事な復活を遂げています。

これは私の偏見ではありません。
米国歴史学の権威チャールズ・A・ビーアド元コロンビア大教授は
公文書を調べて、ルーズベルトが巧妙に日本を戦争に引きずり込んだ
過程を明らかにした本を出版しましたが、これは事実上の発禁処分
にされてしまいました。
ルーズベルトの責任 〔日米戦争はなぜ始まったか〕

31代米国大統領のフーバーが、ルーズベルトを、日本を無理矢理戦争に
引きづり込んだ狂気の男、と評した書見を残しています。
彼は、ルーズベルトは真珠湾を知っていた、とも書き残しています。

マッカーサーは戦後、あの戦争は日本の自衛戦争であったと
米国議会で証言しています。

ハルノートのハルは、真珠湾攻撃を耳にして躍り上がって
喜んだ、という側近の証言が残っています。
「これで戦争ができる」


では、日本が米国に屈してハルノートを受け入れれば、
戦争を避けられたでしょうか。

私はそうは思いません。イラク戦争を見て下さい。
ありもしない大量破壊兵器を口実に戦争を始めたのは
米国です。
その後、英国BBCは、911以前から米国はイラク、
アフガン戦争を計画していたことを暴露しました。

米国は何か罠を仕掛けて、戦争に持って行ったと思います。

1898年 2/15 ハバナ湾で、
米国戦艦メイン号が謎の爆発沈没しました。
これで米兵266名が死亡し、スペインの仕業だ、
ということになり、あの米西戦争が始まっています。
後になって米国政府は、事故だと発表していますが
陰謀ではないか、という説が強いです。

ベトナム戦争では有名なトンキン湾事件が発生しています。
1964年8月、北ベトナムのトンキン湾で北ベトナム軍の
哨戒艇がアメリカ海軍の駆逐艦に2発の魚雷を発射した
とされる事件です。
これをきっかけにアメリカは本格的にベトナム戦争に介入しましたが、
その後、ニューヨークタイムズが、米国のやらせであることを暴露し
真実が明らかにされました。

湾岸戦争 1990年 では
アメリカの駐イラク特命全権大使のエイプリル・グラスピーが
イラクのクエート攻撃に対して
「介入するつもりはない」と発言しており
これを信じたフセインがクエートを侵略しましたが、
米国軍等により撃退されています。
米国は約束の存在を否定していますが、
当の大使は、それ以後、公式の場には
一切姿を見せなくなりました。

その他にも怪しいのはいくらでもあります。
以上が、日本が戦争を拒んでも、
ダメだったろうと思われる理由です。
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対中問題を外交で解決することは不可能ではなかったはずです。


現実には陸軍のテロに政治家かが怯えて外交努力を怠ってしまった。テロに屈してしまったことになります。

軍縮に成果を上げた海軍の山本五十六でさえ、テロを警戒する海軍上層部によって、外交畑から連合艦隊司令長官に転出させられ、海軍が総力を挙げてテロから護らなければならなかったご時世です。

何かと難しい側面はあったでしょう。でも命を張り続けることは出来たでしょう。後世の無責任な人間の勝手な言い草ですが・・・。
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最後通牒ではないので交渉を続ければよかったのでしょう。


それで開戦が避けられたかはわかりませんが。
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