
戦国時代はめちゃくちゃでした。
家康が天下を取りそうになった時にあの広大な国土を家康は高齢であるにもかかわらず
あっという間にまとめ上げましたが、ちと理解に苦しみます。
関が原で負けた大名に減俸や御家つぶしを行ったと思いますが、なぜ大名は反乱も起こさずに従ったのでしょうか?秀吉の時に減俸やら転封やらがすでにあったので初めてではなかったのであんま抵抗なかった?
加増して満足している大名に周辺の減俸されて不服そうな大名の取り締まりを行わせたのではないかと思うんですが、あんまその話が出てきません。
反乱したらこうするという厳罰を科した?その厳罰とは?
戦国時代やら朝鮮出兵が長引いてみんな疲労困憊だったので、完全に納得できなくてもまとめ上げてくれる大大名をみんな待っていた?
家康が大ベテランだったので、反乱する気にならなかった?
No.7ベストアンサー
- 回答日時:
>関が原で負けた大名に減俸や御家つぶしを行ったと思いますが、なぜ大名は反乱も起こさずに従ったのでしょうか?
答えは「みんな戦争がイヤになっていたから」と「武家による支配システム=天皇や貴族(公家)の影響力の排除が実現したから」です。
そもそも戦国時代がなぜ始まったかと言うと「鎌倉時代から続く武家と朝廷の対立が調整できなかったから」です。
鎌倉時代は、東国に「武家の統治領域」を作りそれを武力で日本全国(特に西国)にも押し付けたわけですが、朝廷と関係が深い西国武士たちが反発し、後醍醐天皇の建武の新政が起きるわけですが、鎌倉幕府を瓦解させても東国VS西国の調停や武家・貴族の権利争いを調整することができず、足利尊氏が蜂起して後醍醐天皇を追い出し、即位した光明天皇が尊氏を征夷大将軍に任じて、室町幕府は成立します。
つまり「室町幕府」は最初から「武家VS公家・東国VS西国」の利害調整のための政治体制で、だから朝廷に近い室町に拠点を置いたのですが、結局8代義政の跡継ぎを調整できず、応仁の乱に突入していきます。
そして応仁の乱で武家も公家も東国も西国も調整機能を失ったので、国内大乱戦である戦国時代に突入したのですが、戦国時代の最大の目的は「天下統一」だったことはご存じの通りです。
つまりこの「天下統一」という意味は《一番強い武士が、朝廷から権力を受けつつも朝廷を管理し、日本国全体の管理と調整を行う》ということだったわけです。
これに最も近かった信長は暗殺され、秀吉は関白として管理調整を行いましたが、秀頼が小さすぎて権力移譲に失敗し、最終的に関ケ原で勝利した徳川家康が全国から「一番強い武士」と認められたわけです。
これにより、ほとんどの武家が「朝廷は家康に征夷大将軍を任じ、家康が日本国のトップとなることによって、武家全員がそれに従い、平和が訪れる」と期待したわけです。もちろんそうじゃない一部の人もいましたが、ほとんどの武家は応仁の乱から100年も続く戦争に飽きていた、のです。
そして家康は海外派兵をしなかったし、さらに朝廷の力も抑え込んで官位発行権なども制限しました。つまり武家からみれば「家康に従えば間違いないし、家康に従うしか生き残る道はない(もう朝廷は当てにできない)」となったのです。
だから大名の転封やおとり潰しにも従いました。もし反乱を起こすなら徳川将軍家に対して《大義名分》が必要でした。
実際、源頼朝の頃から「反乱軍は朝廷の勅許をもらって官軍になる」というやり方をしていたわけで、明治維新の薩長ですら同じやり方をしているわけですが、家康が強烈に朝廷の権力を抑え込んだことで、他の武士は反乱するための口実すら失ったのです。
そしてなにより「家康が征夷大将軍」であるということは「家康に従わないことは朝敵であり国賊である」わけで、これは明治に徳川慶喜が「朝敵になりたくない」大政奉還した理由と同じメカニズムだったわけです。
結局他の大名も「大義名分がないのに、家康に逆らった日本の国賊、それも大逆賊として不名誉を受ける」ので、従うしかなかったのです。
つまり家康は
・武力で日本一強いことを見せつけた
・朝廷にそれを見せつけ、日本の統治権をもらった
・統治権を含め数々命令できる朝廷そのものを管理した
ので、250年の徳川幕府時代が続いたのです。
ありがとうございます。確か家康は五大老の筆頭だったかと思うのですが、五大老の家康には逆らえない雰囲気は当時前後国広まってた感じですかね?

No.9
- 回答日時:
関ヶ原が終わって、大坂夏の陣が終わるまで、まだまだ反対勢力がいました。
大坂の陣は、各地から集まってきた浪人を叩くことでした。落ち武者狩も厳しかったようです。やっと元和偃武が訪れ、長い戦いの時代が終わりました。No.8
- 回答日時:
>ありがとうございます。
確か家康は五大老の筆頭だったかと思うのですが、五大老の家康には逆らえない雰囲気は当時前後国広まってた感じですかね?五大老の時はそうではないですね。だから石田三成率いる東軍に付いたものも多数いて「天下分け目」の関ケ原の戦いになったわけです。
ただ、この関ケ原の戦いは「三成憎し」の豊臣家家来が多数東軍に参戦していて、当時の人の理解としては「豊臣家の内乱」だったわけです。ただし、家康が勝てば、家康の権力が相当に強くなることは見通せたはずなのですが、この辺りの解釈には様々な意見があるでしょう。
結果的に家康は関ケ原の戦いの3年後、五大老の誓いを破って征夷大将軍になっています。これは「秀頼が関白を継ぐ前に将軍にならないと戦国時代に戻ってしまう」という認識が強かったからだと思いますが、この将軍就任を他の実力者たちは反対していない、というか反対できなかったので、関ケ原以降は「家康に逆らえない」雰囲気になっていた、といえるでしょう。
No.6
- 回答日時:
信長が土台を作り秀吉が築いた天下を見事に秀頼の代に乗っ盗った男。
それが家康。字は乗っ取ったより乗っ盗ったの方がふさわしいよね。
秀頼は薩摩に逃げて再起は図れませんでしたね。
No.5
- 回答日時:
とても良い質問です。
難しく考えてはいけません。
答えは簡単です。
戦には大義名分が必須。
大義名分を正当化するには、幕府か、朝廷の綸旨・宣旨・勅令・勅許が必要。
家康に逆らうには、朝廷からその許しが必要だが、そんなものは貰えない。
逆に家康が朝廷から討伐依頼をもらって、袋叩きにされるので、家康には誰も逆らえなかったのです。
秀吉に誰も逆らえなかったのも同じです。
天皇の次に偉い秀吉に逆らうには、
天皇から大義名分が貰えないと戦えないのです。
明治維新が成功したのは、薩長が錦の御旗を掲げて、幕府が朝敵だと大義名分を掲げられたからです。
No.4
- 回答日時:
秀吉が実子の秀頼にすべてを残そうと秀次を滅亡させたものの、自分の寿命の尽きるのが思ったより早く、まだ秀頼は幼なかった。
秀吉政権をサポートすべき2つの組織、五奉公(石田三成など)と五大老(家康など)があったが、朝鮮出兵の失敗によって戦の活躍を認めない五奉公への不満が高まり、五大老を支持する者が増えていった(石田三成の不人気)。
家康はうまく立ち回って?(どうやったかは知らないw)五大老の他の者を排除し、一人勝ち状態に。
石田三成が、恩のある秀吉の政権を維持すべく五奉公や五大老の他の者を引き込み家康に挑むも返り討ちにあう(関ヶ原の戦い)。
そんな流れだったような・・
違ったらごめんw
No.3
- 回答日時:
私は秀吉の朝鮮出兵で際限のない戦社会では駄目だと多くの者が悟った後に、戦をしない家康が理想に感じた事が最大の要因だと感じます。
AI による回答は以下です。
江戸時代、徳川家康は外様大名が反乱を起こしにくい仕組みを整えることで、安定した支配体制を確立しました。
【外様大名が反乱できない理由】
交通の要所は幕府の直轄地や親藩・譜代大名の領地だったため、江戸や京都への攻め込みが困難だった
金山・銀山・銅山も幕府の直轄地だったため、外様大名が経済力を蓄えることができなかった
参勤交代が義務付けられており、遠方の外様大名ほど藩の財政に負担がかかった
幕府は、外様大名が反乱した場合に備えて、幕府から遠い場所に配置した
No.2
- 回答日時:
象徴的なのは、土佐1国をもらった山内家。
司馬遼太郎が、功名が辻で、山内一豊を描いてます。関ヶ原までは好意的なのですが、土佐の領主になって、元からいた武士たちを汚い方法で強引に粛清したことについては、千代の独白で、殿はお人が変わられた。と、批判的に述べています。上杉家は、国替えを黙って受け入れました。
毛利家は、吉川がなだめて、すんなり引き下がりました。家臣の解雇なしでやりくりしたため、しばらくはお家の建て直しに専念です。
あっちこっちで解雇された武士たちは、やがて大阪城に集まり、大阪の陣を引き起こします。
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