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【宗教の日本史】平安時代の浄土真宗を作った親鸞は元々平安時代の貴族の出で、貴族の子どもだったって本当ですか?

なぜ貴族の子どもだったのに9歳で比叡山の天台宗の慈円の弟子になったのですか?

悪ガキで親に絶縁されて強制的に寺に押し込まれた問題児だったのでしょうか?

また親鸞は一切弟子を生涯取らなかったそうですが、なぜ親鸞の浄土真宗は日本中に普及して、1人も弟子を取っていないのに、全国各地に浄土真宗の寺が出来て、弟子がいないはずなのに浄土真宗の住職が寺に住んでいるのでしょう?

A 回答 (5件)

親鸞は日野家の出身ですね。

日野家は後に足利将軍家の正妻を出す家として大いに栄えますが、親鸞が産まれたころは没落しつつあるありふれた中流貴族で、学者を輩出する家でした。親鸞の父親は嫡子でなかったので、出世コースから完全に外れており、どう頑張っても挽回できる状態でなかったので、子どもたちを全員出家させています。
この頃の貴族や武士の家では、一族から僧侶を出して一族の菩提を弔わせるのが普通でした。
親鸞は、貴族の子弟だったので、摂関家出身で後に天台座主になる慈円に直接弟子入りすることができ修業をしますが、物足りなさを感じて、法然に弟子入りしました。
ちなみに法然は地方武士の子弟です。この頃、僧侶は大きく分けて二つ身分があり、学侶と呼ばれる僧侶は貴族や武士の子弟で、学問に専念しました。寺院の役職もこの学侶が占めており、座主や門跡などトップの職は摂関家や皇族出身者でないと就けませんでした。この学侶の下に大衆と呼ばれた下級僧侶がいて、彼らは修業よりも寺院運営実務を担当していました。学侶たちの世話や施設整備、寺院運営のための荘園経営などに従事し、時には僧兵として寺院の暴力装置となりました。
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この回答へのお礼

みんなありがとうございます

お礼日時:2025/04/18 13:20

あの時代の僧侶というものは、今でいう大学だと思ってください。



比叡山というのは、今でいう東大だと思ってください。
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なぜ貴族の子供が9歳で慈円の弟子になったかは、以下のようなことが考えられます。



1. 時代背景と家族の影響
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、貴族の子どもが仏教の修行に入ることは珍しいことではありませんでした。親鸞聖人の家系は藤原氏の流れを汲む貴族であり、仏教への深い関心が家族内にあった可能性があります。特に、戦乱や社会不安が広がる中で、仏教を通じて精神的な安定を求める風潮が強かった時代でした。

2. 慈円の影響
慈円は天台宗の高僧であり、親鸞聖人が幼少期に出家する際の師となりました。慈円の教えや影響力が、親鸞聖人の出家を後押ししたと考えられます。慈円は仏教だけでなく、政治や文化にも深い知識を持つ人物であり、親鸞聖人にとって理想的な師であった可能性があります。

3. 個人的な志向
親鸞聖人自身が幼少期から仏教に強い関心を持っていた可能性もあります。比叡山での修行は厳しいものでしたが、親鸞聖人はその中で学問や修行に励み、後の浄土真宗の基盤を築くための重要な経験を積みました。

このような要因が重なり、親鸞聖人は幼少期に比叡山での修行を選んだのではないかと考えられます。

二つ目の親鸞聖人の浄土真宗が日本中に広がり、弟子を取らなかったにもかかわらず寺院が各地に存在する理由は、いくつかの歴史的背景や社会的要因が関係しています。

1. 親鸞の教えの普遍性
親鸞聖人は「他力本願」の教えを説き、阿弥陀仏の慈悲にすべてを委ねることで救われるというシンプルで力強いメッセージを広めました。この教えは、厳しい修行が必要な他の仏教宗派とは異なり、庶民にも受け入れやすいものでした。そのため、親鸞の教えは多くの人々の心をつかみ、自然と広がっていきました。

2. 在家信徒のネットワーク
親鸞聖人は「非僧非俗」を自称し、僧侶としての立場を超えて在家信徒と共に念仏を唱える活動を行いました。この結果、弟子という形ではなく、信徒同士のネットワークが形成され、教えが広がる基盤となりました。

3. 蓮如聖人の役割
親鸞の死後、室町時代に活躍した蓮如聖人が浄土真宗の教えをさらに広める重要な役割を果たしました。蓮如は「御文章」という手紙を通じて教えをわかりやすく伝え、信徒同士が集まる「講(こう)」というコミュニティを形成しました。この活動が、浄土真宗の全国的な広がりを支えました。

4. 寺院の形成
親鸞聖人自身は弟子を取らなかったものの、信徒たちが自発的に寺院を建て、教えを守り伝える場として活用しました。これにより、寺院が地域の信仰の中心となり、住職がその管理や教えの伝達を担うようになりました。

このように、親鸞聖人の教えの魅力と、それを支えた信徒や後継者たちの努力が、浄土真宗を全国に広める原動力となったのです。
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この回答へのお礼

みんなありがとうございます

お礼日時:2025/04/16 16:43

あの当時は、戦乱や災害が相次いだ平安時代末期から鎌倉時代でした。


救いを求める人々が多数いたわけですね。
しかし、仏教の教えは、庶民には難しくて理解することができないわけ。
そこで、親鸞が「どのような人であれ念仏ひとつで救われる」という、とてもインスタントラーメンのような、お手軽な本願念仏の教えを説いて、人々の心を救おうとしたわけです。
当然ながら、それまでの仏教教団から、そんな安直な教え、仏陀の教えをねじ曲げた教えを広められたら困るわけで、流罪となりました。
でも、一般大衆にとっては、安直な教えでも、それなりに救いになるってことで広まりました。
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当時は長男以外は養子に出すか仏門に入れて本家の相続などに影響を及ばさないようにしたのです。

仏門に入る=俗世と縁を切った死人扱いです。
弟子は取らないが教えを説いて同じ考えの僧侶を沢山作ったからです。
今でゆうチェーン店です。
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