今中学校で足利義満について調べているので足利義満が中世の日本において政策NO1だった理由をおしえてください。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (3件)

2つの革新的なことをやっています。


1つは1392年南北朝の統一です。
(いざ国をまとめる)!とすると覚えやすい。
どうしても相反していた朝廷の権力を一本化したという点
もう一つは勘合貿易でしょうね。1404年から
(イヨッお尻に勘合符)と覚えると(0は「オー」または「オ」とよむ)
覚えやすい。勘合符というチケットで明との貿易をしたことではないでしょうか
元寇にびびっていた鎌倉時代とはちがい、
新しく大陸と仲良くやっていこうという姿勢が見えますよね。

あとは文化的には北山文化で鹿苑寺金閣を建立したのは有名ですね。

余談ですがアニメの一休さんに義満将軍様はでてきますが
本来南朝の一休さんを憎むどころか、たとえば、してやられても
「いっぽんとられたなぁ」って感じでその知恵を認めていますよね。
あれはひょっとしたらそういうわけへだてのない性格が
カリスマ性を生み出したのかもしれません。
まぁアニメの将軍様はちょっと「おいおい」とおもうところも
ありますけど。
    • good
    • 1

ポイントからすれば日明貿易…ですな。


中世における中国大陸との交流の歴史を見れば、わかりやすいかも…
    • good
    • 1

中学生と言うことで、調べるヒントを!


1.PCは質問されているのですから使用できるのでしょうから、ネットで検索する。
2.図書館で「足利義満」に関する歴史書等を探す。

ご参考まで。

ネット検索方法が分からなければ、補足お願いします。
    • good
    • 0

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q足利義満について・・・

今中学校で足利義満について調べているので足利義満が中世の日本において政策NO1だった理由をおしえてください。

Aベストアンサー

2つの革新的なことをやっています。
1つは1392年南北朝の統一です。
(いざ国をまとめる)!とすると覚えやすい。
どうしても相反していた朝廷の権力を一本化したという点
もう一つは勘合貿易でしょうね。1404年から
(イヨッお尻に勘合符)と覚えると(0は「オー」または「オ」とよむ)
覚えやすい。勘合符というチケットで明との貿易をしたことではないでしょうか
元寇にびびっていた鎌倉時代とはちがい、
新しく大陸と仲良くやっていこうという姿勢が見えますよね。

あとは文化的には北山文化で鹿苑寺金閣を建立したのは有名ですね。

余談ですがアニメの一休さんに義満将軍様はでてきますが
本来南朝の一休さんを憎むどころか、たとえば、してやられても
「いっぽんとられたなぁ」って感じでその知恵を認めていますよね。
あれはひょっとしたらそういうわけへだてのない性格が
カリスマ性を生み出したのかもしれません。
まぁアニメの将軍様はちょっと「おいおい」とおもうところも
ありますけど。

Qドラマ、一休さんで足利義満の質問です

先日、鈴木福の主演で一休さんが放送されました
思ったよりアニメに忠実で
内容としては悪くは無かったな…と言う感想でした

ただ、キャラでは安国寺の小坊主で
鉄斎が…さよちゃんの飼い猫のタマが出てない事

それに残念なのがOP曲が
♪とんちんかんちん一休さん♪では無く
♪証城寺の狸囃子♪の替え歌だったのが
消化不良でした

しかし、消化不良は別として
1つ不思議な設定だったのが
将軍様こと足利義満の住まいです

アニメでも、一般でも義満の住まいは金閣寺の筈ですが
ドラマでは京都御所が住まいの設定
これは、アニメで一休さんの声が担当だった
声優、藤田淑子氏のナレーションでもハッキリと
京都御所が住まいと語ってました

そこで聞きたいんですが
これは実際の歴史上、義満が京都御所に住んでた…
なんて事は考えられたんでしょうか?

一応ドラマの設定上だろうな?…とは思ったんですが
そこ迄、歴史には詳しく無い為質問しました

Aベストアンサー

コメントありがとうございます。
「御所」=「高貴な人のいるところ」という意味で考えてください。
京都室町にある足利義満様のおられる所=室町御所
現在残っている「京都御所」と関係があるわけではありません。

横槍ですみませんが、日新斎は光圀の史実の号であり、テレビの創作ではありません。質問者さんはお分かりだと思いますが。
なお私も「麓穏院金閣」なる正式名称ははじめて聞きました。是非出典を知りたいものです。
「金閣寺」という鹿苑寺舎利殿の通称が間違いかどうか、質問者の言われるとおり通称として定着しており、間違いと断定することはできないでしょう。
正式名称のみを正しいとするのであれば、正式名称「舎利殿」の通称「金閣」すら間違いとなります。
あまりに浅はかで勘違い甚だしい回答がありましたので、つい我慢ならず失礼いたしました。

Q三種の神器と足利義満

三種の神器の写真(レプリカでも良いです)と、足利義満の顔の画像がのっているHPはありませんか?もし知っていたら教えて下さい。

Aベストアンサー

三種の神器↓

http://inoues.net/mystery/3shu_jingi.html

足利義満↓

http://www.nipponhyojun.co.jp/search/syakai/6_jinbutu/jd3/ayosimitu.html

Q足利義満の太政大臣就任

室町幕府の3代将軍・義満は

  征夷大将軍 1368年~
  太政大臣 1394年
  准三后 ?年

にという順番で就任しますよね。

1 1394年に太政大臣になったということは、征夷大  将軍は誰かに譲ったのでしょうか、それとも兼務  したのか

2 准三后になったのは、何年ですか?
  また、准三后になっても太政大臣(また、1の質  問の答えが「兼務」ならば征夷大将軍も)は兼務  したのですか?

どなたかお願いいたします。

Aベストアンサー

足利義満の准三后宣下は1383年です。
正式には「准三宮」で、官職ではなく称号というか待遇というか…。
皇后の皇后宮、皇太后の皇太后宮、太皇太后の太皇太后宮、以上の「三宮」に「准じる(=準じる)」くらいの待遇をします-という意味です。
(宮=宮職で、その人専用の役所のようなものです)
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/kani10.html

こちらの辞書には「准后」で掲載されていますが。
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%BD%DA&kind=jn&from=mobilet

官職に関しては、1368年~1394年が征夷大将軍で、1394~1395太政大臣でした。
1394年に息子の義持が征夷大将軍宣下を受けています。

足利義満については、こちらにも詳しいです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%BA%80

Q足利義満について

今僕のM中学校では歴史で「足利義満」について学習しています。そこで疑問に思ったのですが、なぜ足利氏は武士?なのに、お坊さんの格好をしているんですか?詳しく教えてください。お願いします。

Aベストアンサー

compaqさん、こんばんは。
その疑問、よくわかります。僕もむかしそう思いました。教科書には、お坊さんの格好をしている、例の絵しか出て来ないですしね。

歴史の要点は相国寺(金閣寺、銀閣寺の本山)のサイトをどうぞ。
http://www.shokoku-ji.or.jp/jotenkaku/person/ashikaga_yoshimitsu.html

参考URLには、出家前の武士の格好をした義満クンの絵もありますよ。

参考URL:http://images.google.co.jp/images?q=%91%AB%97%98%8B%60%96%9E&ie=Shift_JIS&oe=UTF-8&hl=ja&lr=lang_ja&btnG=Google+%8C%9F%8

Q中世イタリアにいた人物を調べています

 中世イタリアにいた人物を調べています。
 5歳で王位をついで(前王の父親が病死したからだと思います。)
 二十歳前後に、父親代わりだった人間に裏切られて、暗殺された人なんですが、聞いたこと無いでしょうか? (病死って事になってる可能性も有りますが)
 時代は、ルネッサンス初期か、それより前だと思います。

 何かヒントになる、本や、サイト等も紹介していただけると助かります。

Aベストアンサー

短大で歴史を学んだだけの「経験者」の分際で、「専門家」の方のご回答に口を挟むのも申し訳ないのですが…。

対象が「ルネッサンス初期か、それより前」ならば、「両シチリア王国(Regno delle Due Sicilie)」ではなく「シチリア王国(Regno di Sicilia)」ではないでしょうか?
確かに、「シチリア王国」内に「ナポリ」も含まれていましたが、この時代の「(ナポリ・)シチリア王国」を「両シチリア王国(Regno delle Due Sicilie)」と言う事例を、私は聞いたことがないので…。

ルネッサンス期に存在した「シチリア王国」の建国は1130年。
シチリア伯ルッジェーロ1世の子、アプーリア公・カラブリア公であったロジェ2世が、シチリア王ルッジェーロ2世として、対立教皇から王位を承認されています(すみません教皇の名前を忘れました。ロジェ2世は一時的に「破門」されてますので、確か対立教皇の承認で即位したはずです)。
「ナポリ王国(Regno di Napoli)」の実質的な誕生は、1282年の「シチリアの夕べの祈り」(オペラ好きにはたまりませんね~)の結果、シチリア王国から「分裂」した形ですよね?
ルネッサンス期の「シチリア王国」と「両シチリア王国」は確かに流れではつながっていますが。
オートヴィル家→ホーエンシュタウフェン家→アンジュー家(カペー家)→アラゴン家(ウルヘル家)から、アラゴンおよびスペインによる統治(1412年~1713年)を経てサヴォイア家、さらにオーストリアによる統治(1720年~1734年)を経て、ブルボン家へ。
そして、1816年に「ナポリ王国(Regno di Napoli)」と「シチリア王国(Regno di Sicilia)」を統合させる形で建国したのが、一般に「両シチリア王国(Regno delle Due Sicilie)」といわれる「国」ではなかったかと記憶しています。

ご質問に近い人物については「この王かな?」という人がいます。
ただし、王位を継いだのは5歳ではなく9歳の時です。
父と共同統治の形で王になっていた兄、そして父が相次いで亡くなり(いずれも病死とされています)、母が摂政になる形で王位についています。
即位の年に、父の叔母の夫(実は、父の先王が亡くなった時、父と王位を争っている)が王国征服に乗り出し、「彼」と摂政である母は降伏ましたので、父の叔母の夫はクリスマスの日に「シチリア王」として戴冠してます(妻(「彼」の父の叔母)と共同統治)。
年末近くに、「彼」と母と彼の姉妹(3人?)が陰謀を企んだとして逮捕されています。
「彼」のその後は不明ですが、説としては、「失明させられ去勢されてドイツに追放され、死ぬまでの13年間幽閉された」というもの、「1232年まで生き、父の叔母の夫の3代後の皇帝に発見されて処刑された」というもの、などがあるようです。
ちなみに、前者の説からすると、「彼」は18歳で亡くなったことになります(ちなみに兄の死亡年齢は、23歳説と19歳説があります)。

> 父親代わりだった人間に裏切られて
という点と年齢が少し合致しませんが、時代的には「ルネッサンス初期か、それより前」に合致しますし、この人物が近いような気がするのですが、「暗殺」と関係付けられるかどうかは微妙ですね…。

蛇足ながら…。
ボルジア家といえば、ドニゼッティ作曲のオペラに『ルクレツィア・ボルジア』という作品があります。
http://homepage2.nifty.com/aine/opera1/opera104.htm
チェーザレ、ホアン、ホフレと同母兄弟姉妹と言われています(教皇アレクサンデル6世とヴァノッツァ・カッタネイとの間の子供)。
オペラのルクレツィアは結構行動的で、これまで、小説や歴史関係の文献で読んできたイメージとはちょっと違います。

短大で歴史を学んだだけの「経験者」の分際で、「専門家」の方のご回答に口を挟むのも申し訳ないのですが…。

対象が「ルネッサンス初期か、それより前」ならば、「両シチリア王国(Regno delle Due Sicilie)」ではなく「シチリア王国(Regno di Sicilia)」ではないでしょうか?
確かに、「シチリア王国」内に「ナポリ」も含まれていましたが、この時代の「(ナポリ・)シチリア王国」を「両シチリア王国(Regno delle Due Sicilie)」と言う事例を、私は聞いたことがないので…。

ルネッサンス期に存在し...続きを読む

Q足利義満

足利義満が死なずにいたら、天皇家はどうなっていたのでしょう?

Aベストアンサー

私は王権簒奪説には否定的です。室町時代の政治体制は公武統一政権といわれていて、その支配者は足利家の家督の長である室町殿です。室町殿は伝奏(公家と武家の中継ぎ役)を通じて院や朝廷をも支配下においていました。つまり、義満は天皇をもしのぐ地位に就いていたのであり天皇家を簒奪する必要はそもそもありません。最期に参考文献をあげておきます。
今谷明著『室町の王権』中公新書
桜井英治著『室町人の精神』講談社
岡野友彦著『源氏と日本国王』講談社現代新書
富田正弘著「室町殿と天皇」『日本史研究319号』

Q中世ヨーロッパの騎士についておしえてください! 性格などなど

中世ヨーロッパの騎士についておしえてください!
性格などなど

Aベストアンサー

細かく言い出すときりがない話ですが…
カール大帝没後、フランク王国が分裂し、そこへノルマン人の侵入などもあって。西ヨーロッパ社会は混乱し、経済や文化も衰退します。
社会の混乱から貨幣の価値は不安定となり、貨幣の必要ない自給自足経済が主となります。その経済単位が荘園です。
中世西ヨーロッパは、物々交換を中心とした農村社会で、多くの人々が領主の支配する荘園で自給自足の生活を営みました。
このような時代、自らの生命や財産を守るには、信頼のできる人と強く結びつく必要がありました。
強者は主君となって、主君に忠誠を誓い戦うものに封土などを与え自らの安全をはかりました。
このような土地を媒介とした主従関係を封建制度といいます。有力者に軍事的奉仕する人が騎士です。
騎士道などと格好いい感じでよく言われますが、結構美化され過ぎで、後付けなものや後世の創作も多かったりします。
実際、非戦闘員に対する略奪暴行殺人は当時では常識でしたし、戦をしかけ捕虜をとって身代金を稼ぐような連中もいました。
騎士道の徳目の一つ、「忠誠」についても結構思い込みで勘違いしがちですが、中世ヨーロッパの封建関係自体は双務的な関係です。
どんな主君にでも騎士が一方的に忠誠を尽くすというものではなく、主君も新たな封土を与える等騎士の働きに見合った扱いをする義務がありました。
主君を変えた騎士を悪く言うより、優秀な騎士をつなぎとめておけない甲斐性無しの主君は見限られても当然ということです。
戦のたび主君が入れ替わっているなんてことも特別珍しいことではなかったようです。

騎士になるには、現代ならの小学生にあがる頃から主君の小姓となり、仕事の傍ら、勉学や武術などを学びます。
中学生になるころからは、従騎士として主人である騎士の身の回りの世話をしたり、実戦経験も積んだりします。
そして、成人となる頃、主君から叙任の儀式をしてもらい正式の騎士となりました。
騎士叙任の儀式は、叙任者が、合掌した騎士となる若者の腰に剣をはかせ、剣の平で肩を叩いたり、頬を平手で打つなどの行為が行われます。
先輩に従って経験を積み学ぶということはゲルマン人社会にみられた従士制度がその原型と言われています。
一方、肩を剣で叩くことは古代ローマの儀式に由来するとのことです。

細かく言い出すときりがない話ですが…
カール大帝没後、フランク王国が分裂し、そこへノルマン人の侵入などもあって。西ヨーロッパ社会は混乱し、経済や文化も衰退します。
社会の混乱から貨幣の価値は不安定となり、貨幣の必要ない自給自足経済が主となります。その経済単位が荘園です。
中世西ヨーロッパは、物々交換を中心とした農村社会で、多くの人々が領主の支配する荘園で自給自足の生活を営みました。
このような時代、自らの生命や財産を守るには、信頼のできる人と強く結びつく必要がありました。
強者...続きを読む

Q足利義満は将軍ありながら太政大臣だったというのはどういうことでしょうか。 朝廷側にも、幕府側にもいた

足利義満は将軍ありながら太政大臣だったというのはどういうことでしょうか。

朝廷側にも、幕府側にもいたというのが不思議なのです。

Aベストアンサー

それを言ったら、徳川家康、徳川秀忠、徳川家斉も太政大臣に任じられています。
将軍職を譲った後に、太政大臣になったと言う事ですね。

Q中世ヨーロッパで一夫多妻制だった国とは?

よく当ると評判の占い師さんにカウセリングしていただいたところ、
私の前世は、中世ヨーロッパの修道院でシスターをしている女性だったそうです。もともとは一般の女性で(すみません、貴族の出身だったそうです)、年の離れた婚約者がいたらしいのですが、自分のやりたいこと(仕事)を優先して結婚はしなかったそうです。占い師さん曰く、当時の結婚は家と家との結びつきという意味合いが大きく、貴族の間では一夫多妻制の習慣があり、彼には既に何人か奥さんがいた上での婚約だったらしいのです。仕事に生きる!と婚約破棄をしてみたものの、最終的には修道院に入りシスターになったそうです。
さて、前置きが長くなりましたが、中世のヨーロッパ(キリスト教圏)で貴族間の一夫多妻制が許されていた国ってどこですか?またいつ頃の時代(13世紀とか15世紀とか)でしょうか?占いや前世のお話は嫌いな方もいらっしゃると思いますが、そのあたりは触れないでいただけるとうれしいです。

Aベストアンサー

ヨーロッパのキリスト教国では、一夫多妻は許されません。
ただし、愛人のようなものは黙認でした。
フランスあたりでは、ポンパドール夫人のように、国王の愛人となり、国政に重要な影響力を持つ者もおり、国王や貴族の愛人は、庶民などの夢でもあった事は事実です。
また、恐妻家のフランツ1世も、妻マリアテレジアに隠した愛人と子供がいた事が知られています。

キリスト教国家でなければ、一夫多妻は可能でしたから、ヨーロッパであれば、15世紀以前のリトワニア、キプチャクハン国、トルコ、またはトルコ支配化のバルカン諸国では、ありえないとは言い切れません。

ただ、修道院に入ったという事は、カトリックの国かイギリスである可能性しか考えられません。
となりますと、15世紀以前のリトワニア(1501年リトワニアはカトリックに改宗しポーランドと合同国家となる)か、ハンガリー(1547年トルコがハンガリーの大半を占領)かと思われます。
(正教会では、女性の修道士はみられない)


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A

人気Q&Aランキング