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オリエンタリズムを扱った大学の授業があります。講義要項を見た限り、大変おもしろそうなのですが、その講義ではオリエンタリズムの脱構築を模索することが目的らしいです。
オリンタリズムとはどういう思想ですか?またそれからの「脱却」とは?

また、私は、色々な講義が、学問でいうと何学に当てはまるのかということを気にする人間です。オリエンタリズムを研究するのは、何学でしょうか?社会学?倫理学?歴史学?政治思想?

gooドクター

A 回答 (4件)

17世紀のフランスで中国ブームが起こって、「シナ学」がはやったといった、欧米人の「東洋趣味」というのがありますよね。

東洋びいきとも言うような、その視線もオリエンタリズムとされます。ヨーロッパ文明が普遍的なものであるという前提に立って、その目で東洋を見、東洋びいきも一種のエキゾチズムとして成立する、つまり、未開文化を好奇の目で見る、という視線です。
つまり、オリエンタリズムからの脱却とは、ヨーロッパ出自の文明を普遍として前提することをやめる、ということです。
僕自身は、ヨーロッパ出自の価値観でも、人権とか民主主義とかは普遍的価値があると思っています。しかし、同時にそれぞれの文化で独自の人権観や民主主義観があってもいい、ということなのではないでしょうか。独裁政権が自らの正当化のためにそういうことをいうこともありますが、その場合も欧米的な価値観を前提にするのではなく、その社会の実情に応じて見ることが重要なんではないでしょうか。何が普遍で何が特殊なのか、というのは、なかなか明確な基準を設定しづらいし、ある個人が設定した基準を大人数で共有するのはもっと難しいことです。思考停止することなく、基準なんかないんだ、と断言するのも難しいでしょう。僕は、オリエンタリズムや多文化主義、文化相対主義の問題提起をこういうふうに受け止めています。

国際政治学や国際関係論を学ぶのに、オリエンタリズムとかポストコロニアルとかという視点は役に立つ場合があります。例えば、アメリカがイスラムを見る目、というのはオリエンタリズムにあふれていて、パレスチナ系アメリカ人のサイードは、そういう問題意識で、議論したといえるでしょう。それは、アメリカの外交政策に大きな影響を与えている、というのはよく言われることです。
もっと一般化すれば、様々な人たちのイデオロギーとか、ステレオタイプの認識枠組みとかが、外交や国際関係にどういう影響を与えるのか、ということは充分に国際関係論の研究対象たりえます。
ただし、それは現実の国際関係を理解する上で役に立つ、ということで、オリエンタリズム論を直接に研究対象とする、ということではありません。
政治思想とか、政治的イデオロギー研究、政治哲学になれば、直接にオリエンタリズムを扱うことができますが、その場合もそれぞれの分野の文脈で扱う必要があって、サイードの議論を無媒介に持ち込むのはいろいろと問題が生じます。

直接にオリエンタリズムやポストコロニアル理論を既成の学問分野(ディシプリンと外来語をつかうこともあります)、哲学か社会学ということになります。もともとは文芸批評の理論ですから、文学でもあります。過去にさかのぼるのだったら、歴史学としてもいいでしょうし、様々な分野の思想史に位置づけるのは可能です。学際的な問題意識を含んでいるので、やはりこういう風にしかいえません。
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補足欄拝見しました。



まず、前提として、なにかを学ぼうという気持ちで主体的に学んだことは、なんであれ、かならずそのひとの役にたちます。

勉強というのは、知識・技術を身につけるためのものと、主体的に取り組むものの二種類があると思うんです。
たとえばね、質問者さんが、お礼欄で、

>基本は、予備校の現代文と小論文(東大一橋後期・慶応のもの)の授業でやりました。

と書いていらっしゃる。

予備校というところは、基本的に受験のテクニックを教えます。けれどもそれを越えて、テクストの読み方の基本も(人によっては)教えるのです。

つまり、問題がありそれに答えるという、テクストを消費するために文章を読む読み方と、主体的な読み方、自分でもんだいを立てながら、誤読することも含めて(この「誤読」というのは、大変大切なことです)テクストを主体的に読むという読み方があるのです。後者は、学問の第一歩であり、すべてでもあります。

そして、教わる側も、あくまでも受験のテクニックだけ身につけようとする生徒もいれば、質問者さんのように、それを越えたものをつかみとろうとする生徒もいる。
テクニックだけ身につけた子は、大学へ入ったら、もうそんなものは必要ありませんから、きれいさっぱり忘れちゃいますが、予備校の授業を主体的に取り組むことによって、「主体的に読む」読み方を身につけたことは、一生、応用が利きます。

同じように、その理論がポストコロニアリズムであろうとなんであろうと、そういう姿勢で取り組んだ学問は、かならずこれからの役に立ちます。

そのうえで、非常に申し訳ないのですが、わたしは国際政治学というものが、どのような学問なのか、具体的に見取り図がかけるほど、その内容を知っているわけではありません。ですから一般論を越えて、「役に立つ」といいかげんな言い方はできないのですが。

ポストコロニアリル理論というのは、おもに政治ではなく、文化に焦点を当てていく学問です。
けれども、その文化というのは、芸術や文学といった狭義の文化ではなく、「知識、信念、芸術、道徳、法、慣習、その他およそ人間が社会の成員として獲得した能力や習慣をふくむ複合的全体」(エドワード・B・タイラー『原始文化』)というように、人間の行動様式にまで対象をひろげた「文化」です。

こうした「文化」を、これまで漠然と見ていたような見方ではないやりかたで、「斜めから見る」。
一般に受け容れられている「見方」というのは、だれの「見方」なのか? それを日本人の自分が見ることに、どういう意味があるのか。ポストコロニアリズムは、この問い直しを要求します。

たとえば新聞には「グローバリゼ-ション」ということばがあたりまえのように出てきます。ポストコロニアリズムも「グローバリゼ-ション」を扱いますが、その「グローバリゼ-ション」は、普通の新聞には載らないような、地球のさまざまな地域の、実際のありようが細かく出てきます。

おそらく、こうした見方を学び、思考方法を身につけていくことは、少なくとも大変刺激的だろうし、おもしろいことと思います。

お礼欄を拝見して、大変うれしかったです。どうもありがとうございました。
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この回答へのお礼

再び書き込みありがとうございます。

そうですね。私の通っていたJ予備校というところの現代文は相当力を入れていたのです。ただ単に解答が導き出せればよいという先生ではなく、現代文で議論の対象となる「近代」「現代」の徹底理解を目指していたのです。なぜなら、「近代」「現代」の理解こそが、そのまま東大・一橋・慶応などの最難関大学の小論文で求められる力であり、現代文と小論文を「別々の科目」として対策しようとするのだから苦しいのであり、現代文を学ぶ時点で小論文対策をも包摂してしまおうという狙いがあったようです。
おかげで一つ一つの文章を終えるのに、ふつうの予備校の二倍時間はかかったでしょうが、人間中心主義に始まり、合理主義、身体性、言語の恣意性、文化相対主義、死生論、市場経済の持つ欠陥、西洋中心世界観、普遍性など色々な論点を取り扱ってきました。
現代文の教師たち自身が、文学部国文科の卒の人は一人も居らず、多くが法学部や経済学部、政治学部などの出身であり、現代社会の様々な問題を哲学的な根源の問題から解き明かそうとする姿勢を持っていました。

おかげで二項対立の考え方、そしてそこからの脱却、理性と感性との融合の重要性、といった議論は以前より格段に理解できるようになりました。
ポストコロニアリズムについては、オリエンタリズムの授業とは別の独立した講義として、うちの大学でも「ポストコロニアリズムと多文化主義」という講義があるのを発見しました。西洋中心主義からの脱却として、世界を相対化していく勉強がここではできそうです。
予備校時代の現代文で、「接続詞から解答を類推せよ」とかそんな解法だけを習うのでは終わらず、近代思想から現代思想までを概観する授業をしてくれたことは、大学生になって活きています。

お礼日時:2005/05/28 15:55

追加です。


脱構築を書くの忘れてました。

伝統的な西洋哲学では、「批判」ということが重要だったんです。
先行する思想の問題点、脆弱な点を見つけ、それを批判し、間違っていることを示し、そのうえにみずからの理論をうち立てていく。このようなプロセスをとってきました。

それに対して、ジャック・デリダ(ポスト構造主義の思想家)は「脱構築」という考え方を導入します。
脱構築は、批判ではない。

下でもちょっと書いたけれど、伝統的な西洋の思想は、二項対立というものです。精神-肉体、自然-文化、話し言葉-書き言葉、という具合に。
このふたつは対立しているだけでなく、どちらかが、どちらかに対して優位性を持っている。

けれども、ほんとうにそのふたつは、たがいに独立し、そうしながらどちらかがより高い価値を持っている、というようなありようとして存在しているのか? 一方があるからこそ、他方が存在する、という、相補的な関係としてあるのではないのか。それぞれの意味は、他方の項の痕跡に依存しているのではないか。
 
ここで脱構築、という手続きが必要になってくるんです。
この手続きについて説明するのは、なかなか大変だし、話が少々専門的にもなってくるので、非常に荒っぽく、要点だけ書きます。
脱構築は、伝統的な二項対立の理論の不備をつくのです。

西洋社会においては、世界もこの二項対立、西洋-非西洋、白人種-非白人種、というものとしてとらえられてきました。白人の文化こそが正しい、文明の基礎である、と。

ポスト・コロニアルの思想というのは、これを逆転させ、非西洋的な文化こそが正しい、と主張するものではありません。

伝統的な西洋中心社会では、白人が基盤となる原則です。非白人は、ここから閉め出されます。
そして、この区別がきちんと守られているかぎり、伝統的な西洋中心社会は効果的に機能します。
一方で、白人は、対立物、非白人の存在を必要とします。非白人がいなければ、「白人」という規定に意味はないのです。実際は、非白人がいなければ、白人は存在できない。つまり、「白人」という言葉の意味のなかに、不可避的に「非白人」の意味が侵入している。
白人の側は、自分が支配する側であり続けるために、つねに境界線を用意しようとします。けれどもその境界線は、みかけほど確固としたものではない。
脱構築は、この境界線の不備をつつき、暴き立てるのです。

実際、この二項対立の外側に立つということは、容易なことではありません。
それでも、ある種のものごとを、ある種のやり方で解析することで、私たちはこの対立関係の込み入ったからまりあいを少しでもほぐすことに着手できるのではないか。
その解析の方法が、脱構築なんです。

なんとなくわかったら、それでじゅうぶんです(って、無責任だな)。あとは授業をいっしょうけんめい聞いてください(笑)。

下で紹介した『ポストコロニアリズム』、思い出したんだけど、ポストコロニアルがどんなものか、イメージとしてとらえるのには向いているけれど、理論としては、ちょっとわかりにくいかもしれない。
ちくま新書『カルチュラル・スタディーズ入門』上野 俊哉、毛利 嘉孝共著 のほうがいいかもしれません。

この回答への補足

補足で質問があります。

このオリエンタリズムという考え方は、とても興味深いです。私は世界史を学ぶのが好きでしたが、なぜそもそも、ヨーロッパ史と中国史・アジア史を分けて扱うのか、そんな境界はなく、横断的に歴史を取り扱わないのはどうしてだろうかと長らく疑問に思ってきました。しかし、こうしたこともオリエンタリズムの議論と結びつくことに新鮮さを覚えます。

私の場合、専門にしたいのは国際関係学すなわち国際政治学です。政治学を学ぶ者として、「オリエンタリズム」を取り扱うのは、妥当するでしょうか?
なんか哲学とか社会学、歴史学みたいな感じがするので、政治学の徒としてふさわしい内容かどうか教えてください。

補足日時:2005/05/27 01:25
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この回答へのお礼

長文でレス頂いて有難うございました。まとめてお礼させていただきます。
書いておられることの基本は、予備校の現代文と小論文(東大一橋後期・慶応のもの)の授業でやりました。「二元論」というヨーロッパ独自の世界観が、神と自然を分けて神を絶対化し、今度は人間と自然を分けて人間を絶対化した人間中心主義が巻き起こり、これが環境問題などの根源的な原因になっていると習いました。
また物心二元論とか、理性主義とかも二元論の申し子で、さまざまな現代社会における市場経済や科学技術の問題を巻き起こしているとも習いました。

現代社会において大切なのは、こうした近代的な二元論化から脱却する「一元論」もしくは「多元論」が重要だと習いました。

これらの議論の一環として、「オリエンタリズム」も位置づけられそうです。脱構築とは「二元論からの脱却」ということですね。たいへん分かりやすかったです。
オリエンタリズムというのも、最近、世界史の教科書でも登場している、世界を中心-半周辺-周辺と分ける「世界システム論」などと似ていて、近代的な考え方なのでしょう。そんな感じがしました。

お礼日時:2005/05/26 19:50

「オリエンタリズム」というのは、おそらくエドワード・サイードの著書『オリエンタリズム』から来ているのだと思います。



一般に「オリエンタリズム」を扱うのは、ポスト・コロニアリズム(ポスト・コロニアル理論)です。カルチュラル・スタディーズの一潮流、学問領域でいうと、哲学と文学、ほかに社会学、文化人類学、歴史学にまたがる領域と考えて良いかと思います。

本来の「オリエンタリズム」という言葉そのものは、近代ヨーロッパ芸術にあらわれた、一種の異国情緒全般を指すのですが、その言葉を現代において定義しなおしたのが、エドワード・サイードです。

サイードはパレスティナ生まれ。のちアメリカに渡り、研究・著作活動を繰り広げました。

まず『オリエンタリズム』でサイードは、この近代ヨーロッパのオリエンタリズムが、「西洋の、東洋に対する支配」にほかならないものである、と批判します。

オリエンタリズムの思考様式というのは、「西洋」「東洋」を二項対立的にとらえ、東洋は支配されるもの、後進的であり、受動的であり、官能的であり……というイメージによってとらえられてきた。そうして、それは西洋の、植民地支配する側が、みずからをその反対のイメージとしてとらえることで、みずからのアイデンティティを形成しようとするものだった、と批判するのです。

さらに、このオリエンタリズムの思考様式が、西洋諸国の覇権主義や植民地主義、人種差別主義と結びついたのだ、と。

サイードのいう「オリエンタリズム」をごくごく簡単に紹介しましたが、おそらくその授業で扱うことになるのは、サイードの『オリエンタリズム』(上・下 平凡社ライブラリー)、『文化と帝国主義』(上・下 みすず書房)、あるいはガヤトリ・スピヴァク『サバルタンは語ることができるか』(みすず書房)あたりではないか、と思うのですが、いきなり読むとおそらく“何を言ってるんだ……”ということになるかと思います。

とりあえず岩波から出ている一冊でわかるシリーズの『ポストコロニアリズム』(ロバート・J・C・ヤング)を読むと、ポスト・コロニアル理論とはどういうものか、その全体像がつかめるので、良いのではないかと思います。この本はわたしは小一時間かけて立ち読みしたのですが(笑)、非常にわかりやすかったです。

>色々な講義が、学問でいうと何学に当てはまるのかということを気にする人間です。

最近の講義は、上であげたカルチュラル・スタディーズにしても、フェミニズム理論にしても、学問横断的な性格が強いので、なかなか××学、とひとことでは言えないものが多いのです。そういうものだ、と思って、あきらめてください。

わかりにくいところ、もうちょっと知りたいところがあればどうぞ。
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