ちょっと前のことなんですが、ラジオで色即是空の意味を
たとえとして、目の前にある紙から、木が見え、森が見え
やがて宇宙につながるというような、新しい解釈があると話していましたが、私は、「色即是空」は、形のあるものはいつかは無くなるという、「無常観」として理解していました。ラジオの話が、「梵我一如」との混同のような気がしますが、新しい説があるのでしょうか。
どちらが正しいとかではなくて、私の考えのほうが一般的だと思いますが、皆様教えてください。

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A 回答 (2件)

専門ではないのですが…。

「色即是空 空即是色」、般若心経の一節ですね。

「色」は「実体、移ろうもの」、「空」は「空虚、実体がないこと」という解釈が一般的だと思うので、fishbowl66 さんの解釈も一般的なように思われるのですが、それだと後半の「空即是色」の説明がつきにくいのではないでしょうか。おそらくその部分の解釈によって、様々な意見の相違が起こるのだろうと思います。

私は、『全てのものは「縁」によって生成するのであって個々のものにはそれ自体の独立した実体がない』という、竜樹の中観派の哲学に基づく解釈が一般的ではないかとも思います。これは『全ては消滅する(あらゆる「色」→「空」)』ではなく、『人も花も動物も宇宙も、それぞれ独立した存在ではなく、連環のなかで全てがつながっている(あらゆる「色」=「空」)』という解釈です。ですから、むしろ「梵我一如」的解釈に近いですね。

大学在学中には、「色即是空」の「色」と「空即是色」の「色」は異なる、という説も耳にはさみました。前者の「色」は「仮りそめの実体」、それが「空」につながることで「真の実体」になる、という論でした。

しかし「是」という中国語は英語の「be動詞」にあたるので、竜樹の解釈が今もなお一般的であるように感じます。いかがでしょうか。

なお、どの程度、信憑性があるのかわかりませんが、参考サイトをあげておきます。

http://www1.ocn.ne.jp/~maka/sikisoku.html
http://ww5.et.tiki.ne.jp/~raiden/1419.htm
http://www.urban.ne.jp/home/sugano/butu/hannya.h …
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この回答へのお礼

有難うございます。
「梵我一如」と「色即是空」を前者を世界観の広がりと捕らえ、後者を時間の概念として考えていました。
前者と後者が同じ様な意味では考え直さなければいけないのかも知れません。
ちなみに、i-junkieさんの仰る通り、無の使い方は雑な表現をしたと反省しています。

お礼日時:2001/09/26 19:35

どちらも正しいです。


色つまり目に見えるすべての物質(元素のもととなる素粒子)はある時は人の血や肉となり
ある時は木や森や石となります。
永遠ではなく無常です。
色即是空の意味は宇宙即自身であり無常であります。
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この回答へのお礼

有難うございます。

どちらも正しいです。
そのように認めたくない自分の心の中に、テロの種があるのかもしれませんが、何かを信じないと何も出来ないのも確かだと思います。分からないとなかなか認められなくて困っています。くわばらくわばら。

お礼日時:2001/09/26 19:46

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【梵我一如という言葉を高校の倫理の授業で習いますか?】日本では国民がみな梵我一如という言葉の意味を高校で習って知っているんですか?

梵我一如の意味を高校の倫理の授業でどのように習うのか教えてください。

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ウパニシャッド哲学(インド哲学)の、バラモン教(教典ヴェーダ)の中で学習すると思います。
梵(ブラフマン)と我(アートマン)が同一だと言う事を自覚する境地を「梵我一如」と言う言葉で表現します。(バラモン教の場合は、これにより輪廻から解脱できると考えます)
梵は、宇宙の根本原理を意味します、我は不変の自己(輪廻する自己そのもの)を意味します。
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手紙や手帳に落書き程度のポップなイラストを色鉛筆で書きたいのですが、
発色の良い色鉛筆が見つかりません。
こちらでよく名前が挙がっている
ステッドラやファーバーカステルの試し書きをしてみましたが、
パキッとした発色が見られませんでした。(特に黄色!)
(色鉛筆にパキッとしたものを求めるのが無理なのかもしれませんが…)
プリズマカラーはクレヨンのような書き味らしいので、気になっています。
クレヨンのようなということで、擦れたりしないか心配です。
(手帳に書いた際、ページに写って欲しくないのです。)
マジック系のペン、絵の具以外で手軽に使えるようなもの、
発色のよい色鉛筆があったら教えて下さい。

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ご希望に添う発色かはわかりませんが、
水彩色鉛筆(描いたものが水で溶ける色鉛筆)は発色がいい印象を受けます。
様々な会社から出てますので、画材屋さんなどで描き味を試してみてはいかがでしょうか。

また、黄色などの発色についてですが、12色セット、
24色セットなどに入っている一般的な黄色では明るすぎて、
niotastoneさんの求めている色ではないのかもしれません。
(極端ですが、黄色ではなく山吹色とかの微妙な色の方が
 見た感じにパキっとは見えますよね。)
大きめの画材屋さんですと、黄色ひとつとってもたくさんの色が
一本ずつバラ売りしており、しかも試し書きができます。
メーカーさんにこだわって一式を揃えるのではなく、
そういった売り場で「このメーカーさんの山吹色は求めているイメージに近い」とか「ここのメーカーさんの赤が好き」とか
自分の理想の発色に近いものを一本ずつ 決めていくとうのはどうでしょうか?

Qイデア論と梵我一如の違いについて。

梵我一如とイデア論の違いとは何でしょうか?
それとも両方とも同質なのですか?

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イデア界に相当するものを梵として
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というように対比させることはできると思います。

梵(イデア界)が投影された我(現実)の世界において
それらが一致する感覚を持つことが梵我一如の状態。
そんなものかもしれませんね。

イデア論はイデア界というものの存在の主張
梵我一如はイデア界的な梵と現実存在としての我が
一致した状態ということで
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くらいの違いがあるんだと思います。

Q色鉛筆イラストのサイト探してます

趣味で色鉛筆で絵を描いているものです。日々、自分の描いた絵と格闘しながら上達の糸口を探って悶々としております。

芸術の秋といわれるように、もっと気合を入れて取り組んでみようと思い、人の描いた絵を研究しようと色鉛筆イラストのサイトを探しています。

基本的に制限はありませんが、できればリアルな絵を描かれているサイトを見たいと思っています。ご存知でしたらぜひ教えてください。

Aベストアンサー

こんにちは。はじめまして(o^^o)
私が個人的に好きなサイトです。
個人の方のサイトですが、見ていると楽しい気分になります。いかがでしょうか・・・。

参考URL:http://www010.upp.so-net.ne.jp/akino-kozaiku/hpnote1index.html

Q梵我一如とは

梵我一如とは

Aベストアンサー

No.1様の云う通りと思います。その事を知識で捕らえようとしてもそれは『机上の理論』が分かった、というに過ぎません。本当に分かったという事は、体が分かった。『体得』という事にならないといけません。それが悟りです。悟りの原理を書いてみますので、ご自分で体得する事お勧めしたいと思います。

人間は自我意識で考えています。それは左脳の意識です。顕在意識です。自我意識は『言葉』で考える意識です。言葉には限界が在ります。他の言い方をするなら、自我意識の考え方にも限界があります。如何云う事かというと、物事を割り切ってゆくという分別心に限界が在ると言う事です。

何故なら、割り切れる事を『有限』と定めて在るからです。従って左脳に在る『分別心』で考えている間は『有限の壁』は越えられないという事になります。それで禅坊さんは『分別を捨てろ!』と言います。

人間を苦しめる事になる『漠然とした不安、或いは有限の壁を越えられないじれったさ、或いは自分は何ものか?、或いは自分は何処から来て何処へ行くのか?』と言った悩みや、生き難さや、根本的な疑問が湧き上がってきます。

この疑問や悩みが何処から湧き上がってくるのかが『宗教の目的』となって来ましたが、その解決が『悟り』という事になります。或いはキリスト教的に云うならば『神に会って和解する』という事になります。何故ならばこれ等の問題の、全てを解決してくれるからです。自分自身を脅かせていた者、或いは自分自身を不安におとしめていた者、或いは自分自身に疑問を抱かせていた者が『誰』であったかが分かるからです。その者と和解が成立する事で『全ての不安や、疑問が』氷解するからです。

『意識の根底』からの疑問や、不安が『意識の根底から』分かるという事になります。それが『心身脱落、脱落心身』という事になります。それが『真理を体得した』という事です。この事を理論的に書いてみます。

天国に一番近い存在は『幼子』と聖書に書いてあります。それは脳の機能が『未分化』だからです。子供から大人になってくる過程で脳は成長してきます。この脳の成長とは左右の脳の機能が『分化』してきます、この事が『失楽園』という現象になっています。つまり心が二つになってくると言う現象の事です。

人間の苦しみとは『心の矛盾や対立や、分裂』という事になります。人間の心が二つ在るところに人間の苦しみが存在していると言う事になります。思春期頃から昔の宗教家は『無情』を感じて出家しています。今の時代は宗教家のところには行かないで『医師』の元に通うようになっています。医師は、薬を出して、クルト.シュナイガーの言葉{内因性精神疾患の本態が今日までわかっていないのは精神医学の恥辱である。}としながらも、『薬を出しておきます、治療をすれば治ります』と言っています。

原因が特定できていなくとも『治る』という事には、合点が行きませんが、今の医学の限界が『寛快』というものかと思います。

本当の意味での心の病い、精神疾患、神経症、自律神経失調症などは『心の矛盾』が原因です。人間には『識られざる神』が内在しています。それは右脳の意識です。『無意識界や潜在意識界』を統率しています。その意識は人間の体の調節や、ホルモンの分泌や、呼吸や心臓の速さも自在に替える働きがあります。正に『命の働きそのもの』という役目があります。

その者は誰の脳の中にも内在しています。右脳の意識として、無意識の意識として、仏性として内在しています。その者は自我意識と常に一緒に行動をしています。その者は言葉を持っていません。気配や、言葉によらない情報で自我意識に常に働きかけています。その働きの一端を書いて見ます。

誰の心にも湧き上がる感情の中で、その感情を湧きあがらせる『者がそれ』です。高い所に上がった時、納期が迫った時、スピードを出しすぎた時等です。急ブレーキを掛ける時には『自我意識に替わって』体を働かせています。その証拠が『思わずに』体が動いています。自我意識が関与しない時にも、体は反応します。

誰もいない野原で歩いている時には、歩いている事さえ『意識』していません、が自由に歩けます。大勢の人の前で話をするとなったら、壇上に上がるために歩く時には、歩く事さえ『自我意識』が出た場合には自由になりません。この事が関係しています。

もう残りの字数に限りがありますので、結論です。人間には『自覚できなくとも』もう一つの意識が存在しています。その意識は目の前の事を『自我意識』には分からなくとも、事実を事実として認識をして『言葉によらない』情報で自我意識に絶えず教えています。事実と一体となっている者です。その者とかけ離れた時が、人間の障害となります。その者と一体となる時が『無病息災』の時です。

梵我一如です。

No.1様の云う通りと思います。その事を知識で捕らえようとしてもそれは『机上の理論』が分かった、というに過ぎません。本当に分かったという事は、体が分かった。『体得』という事にならないといけません。それが悟りです。悟りの原理を書いてみますので、ご自分で体得する事お勧めしたいと思います。

人間は自我意識で考えています。それは左脳の意識です。顕在意識です。自我意識は『言葉』で考える意識です。言葉には限界が在ります。他の言い方をするなら、自我意識の考え方にも限界があります。如何云う事...続きを読む

Qイラストに色鉛筆(?)..

イラストに色鉛筆(?)..
それとも...


最近趣味でアニメキャラを
書いています
下書きまでは上手い具合に
書けるんですが
どうも..._
それ以降の色塗りが
上手くいかず、
失敗してしまいます。

金銭面的に
コピックは不可能のため
水彩色鉛筆や
クレヨン/クレパスや絵の具
様々使いましたが
上手くいきません
多分...塗り方が
下手くそなんだと思います
コピックみたく
ハッキリとした色で
塗りたいんですが
どうやって塗ったら
良いでしょうか?
後、塗る時に下書きの上から
塗っても良いんでしょうか?

Aベストアンサー

水彩で、鉛筆書きのまま彩色する場合、
水彩紙を使い、
まず、色を塗る範囲に水だけをつけた筆で水を塗り、
その後、カラーインク等を薄めて筆で塗ると割りと均一に塗れて失敗が少ないです。
発色もかなり良いです(経年劣化というか光に弱そうですが)。
ただし、陰影をうまくつけようとすると、慣れというか経験が必要です。

ほか、リキテックスとかアクリルガッシュなどのアクリル系の絵の具を
使うと、一度塗った後の上塗りができ、微調整が可能です。
リキテックスは透明水彩なので、下書きは鉛筆でも
乾いた後なぞれば何とかならないこともないです。
ペン入れした方がいいとは思いますが。
リキテックスも発色はいいです。最初から自分好みの色だけ買って
揃えると良いです。

アクリルガッシュは不透明水彩なので、下書きの線は見えなくなります。
ポスターカラーみたいな色付けにしたいなら、
こちらの方が乾いた後に修正できる分良いかもしれません。

Q梵我一如と一念三千の違いは

梵我一如も一念三千も、個人の内に宇宙を含み個人は宇宙と一体であると説いていると思いますが、違いがよく分かりません。

ある仏教系宗教団体の人から勧誘を受けたときに、その人は仏教以外の宗教の教えは外の道ゲドウと言って、仏教の教えは内の道ナイドウと言う。ナイドウに比べたらゲドウは低級な教えと言っていました。この人に梵我一如と一念三千の違いを尋ねましたが、梵我一如は知らないと言っていました。

梵我一如と一念三千の違いを教えてください。
よろしくお願いします

Aベストアンサー

梵我一如はよく、「宇宙と個人が一体であるという思想」という具合に説明されます。けれども、この説明を読んで、「よくわかった」と腑に落ちる人はあまりいないでしょう(わかった気になって済ませられる方は別として)。やはり、この思想のもとになっている極めてインド的な考え方を感覚的に理解しておかないといけませんし、そのことが結果的には「一念三千」との違いも浮き彫りにするのではないか、と思います。

まず基本として、インド人の思考様式では、普遍を重視して特殊や個物の意義を非常に軽視する、ということを踏まえておかないといけません。抽象的なものを実体的で具体的なものとして理解する、と言ってもいいでしょう。

例えば、「樹木」と「杉」は、普通ならば「類」と「個」という別個の概念に属するものです。西洋哲学ならば大きな問題になるこの両者の関係も、インド人の論理形式では、「樹木」は「杉」の本質であるとされて、この意味で両者は同一関係にある、とすら表現されてしまいます。インド的思考においては、個物の本質というのはそれが担っている普遍の本質である、とされて、いわば論理の階層を飛び越えるようにして、個物や特殊を普遍に属するひとつの例と考えるのです。

こういう考えに規定されたサンスクリット語では、ある属性と、属性を保持するものの区別があいまいになります。例えば、バラモンという階層の人々は、サンスクリット語ではbrahman、つまりブラフマンと呼ばれます。ブラフマンとはもともと「梵我一如」の「梵」で、いわば宇宙の統一原理です。本来は宇宙の統一原理をいう言葉であったブラフマンが、やがてそれと交感するための呪術をも指す言葉になり、さらにそれを操る特定の階層の人達の名称となったのです。

こんな例は沢山あって、「覚者」を意味するbuddhaがお釈迦さまを意味するようになったり、「勝者」を意味するjinaという言葉がジャイナ教の開祖を表す言葉に転化したように、ある性質を意味する一般名詞が横滑りして具体的な固有名詞にもなる、というのがインド的思考のひとつの典型なのです。

「梵我一如」も、このようなインド的感覚のうえに自然に生まれたもの、という風に理解しておかないと、言葉だけの理屈を言葉でなぞるだけになってしまいます。

梵我一如は、上に書いたような感覚が世界と個人との間に適用された時に、必然的に生まれた思想だと言えるでしょう。現象世界の種種雑多な相の根底に「梵」という最高原理があり、すべての存在や現象はそこに由来しているはずなのですから、当然、杉が樹木の本質であるように、自我という「個」もまた、究極的にはブラフマンであるはずなのです。迷いのせいで普段その一体性ははっきりとは自覚できませんが、その合一を体得することがウパニシャッドに説かれる聖なる目標なのです。「チャンドーギャ・ウパニシャッド」に挙げられている例によると、その合一は、例えば塩が水に溶けた時に、味を残しながら水に一体となるような状態に喩えられたりしています。

こういう感覚と比べてみると、「一念三千」との違いもなんとなく感じられるのではないでしょうか。誤解を恐れずにあえて書くと、違いのひとつは、現実世界の強度にあるといっていいでしょう。三千とは、現前世界の多様性一切を表現しているわけで、そもそも、「一念三千」とは、理であれ事であれ、縁起をベースにした現実肯定の思想である「諸法実相」が下敷きになっています。そこには、この現象世界の多様性に軸足をおいたうえで、その中に存在する「私」がこの世界とどのように関わるのか、という問題意識があります。

あまり単純に比べてもいけませんが、一方のサンスクリット語で「三千」や「諸法」、「万象」といった多様な現象世界のもろもろは、イダム・ヴィシュヴァム、「この全て」という単数表現で表されます。ここにもやはり、我々日本人には理解しがたい、背景の抽象性の強度ゆえに現象世界が閑却されがちなインド的思考が表れていることがうかがえますし、それは仏教思想との異同を語るうえで、実はかなり重要なことではないかと思います。

質問者氏は、恐らく本門の一念三千をご承知なのだと思います。この回答では、久遠実成の釈迦とブラフマンの違いには触れていませんから、肩透かしのように思われるかも知れませんが、まずは思想の背景にある違いを知ったほうがいい、というぐらいの意味にご理解下さい。

尚、関係が薄いかもしれませんが、以前梵我一如について回答していますので、よろしければご参照ください:
http://okwave.jp/kotaeru.php3?q=1106940 「梵我一如と仏教の悟り」

梵我一如はよく、「宇宙と個人が一体であるという思想」という具合に説明されます。けれども、この説明を読んで、「よくわかった」と腑に落ちる人はあまりいないでしょう(わかった気になって済ませられる方は別として)。やはり、この思想のもとになっている極めてインド的な考え方を感覚的に理解しておかないといけませんし、そのことが結果的には「一念三千」との違いも浮き彫りにするのではないか、と思います。

まず基本として、インド人の思考様式では、普遍を重視して特殊や個物の意義を非常に軽視する...続きを読む

Qイラストを色鉛筆で上手く描くにはどうすればいいですか

さいきん、よくコンセプトアートを描くのですが、最近やっとカラー化しようと決心し、カラー化したのはいいのですが、ひとつ難しい(というか、想像がうまくできない)ことがありまして、
色鉛筆で、手前のぼかし(例:桜の花びらが散る時に手前に見えるぼやっとした花びらみたいな)
が、どうしてもうまく表現できません。
これをマスターすれば、恐らくアクション系のイラストも描けるようになるのでは…と考えているのですが、何かいい方法がありましたら教えてください

Aベストアンサー

使いたい色鉛筆の芯を小皿か紙の上でけずり
ガーゼかティッシュに、その粉をつけて
最初はかるく、だんだんと濃く塗るようにしてみたら
いかがですか

細かいところでしたら
先が丸いものに同じようにガーゼかティッシュを巻き付けて
塗ってみる

Q神をめぐる《非思考の庭》というべき信仰は すべて梵我一如の類型である

○ 信仰類型論:《非知なるナゾ と 人たるわれ との関係(非関係?)》としての信仰は そのかたちとして 《ブラフマン(梵天なる神) と アートマン(霊我) との霊的な一体》すなわち梵我一如なる形態を 類型としている。
 
 ☆ これを問います。検証してみてください。

 (あ) この梵我一如なるかたちは ただし わが心なる《非思考の庭》として成っているという想定ですから むろん仮りに説明したら このようになるのではないかというものです。

 (い) まづ 非思考の庭についての説明です。:

 ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~

  信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;ヒラメキ直観
  ---------------------- 
  考える:《思考の緑野》:理性←→オシヘとしての宗教
  感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ


 ☆ (う) この《非思考の庭》における内実が 次のように捉えられる。:

 ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~

  ・《非思考の庭》は 次の二層構造を成すと考えられる。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空(シューニャター)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(自然および超自然)
   霊:われ(自然本性)

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ


 ☆(え) 無神論( B や一般の無神論)と有神論(前項以外)とは いづれも信仰なのであって 自由に人がえらべばよく 互いに対等かつ同等である。
 
 (お) 樅の木に喩えられる信仰に 差はいっさいない。カザリをつけたクリスマスツリーとしての・つまりうオシへとしての宗教には 互いに差がある。というよりは オシへは 信仰という蝉の抜け殻として成り立ったものである。《信じる⇒ヒラメキ→思考によるオシへ・神学→宗教》。
 この考えるの対象となったオシへを 信じなさいと言うなら そこには百害あって一利なしである。ひとの自由意志を踏みにじるおそれさえある。

 (か) 有神論にあって神の名が互いに違っていても やはり問題にはならない。信仰類型が完全に同じである。
 それは 自然本性としての人間の条件(天与)として 半ば証明抜きでみとめられるのではないか? 言いかえると 普遍神の問題である。それとわれとの関係には 差は出て来ない。

 盛りだくさんですが 自由なご批判をたまわりたく。・・・
 この信仰論をとおして ひとつの道として世界の人びとのあいだの和をめざします。

○ 信仰類型論:《非知なるナゾ と 人たるわれ との関係(非関係?)》としての信仰は そのかたちとして 《ブラフマン(梵天なる神) と アートマン(霊我) との霊的な一体》すなわち梵我一如なる形態を 類型としている。
 
 ☆ これを問います。検証してみてください。

 (あ) この梵我一如なるかたちは ただし わが心なる《非思考の庭》として成っているという想定ですから むろん仮りに説明したら このようになるのではないかというものです。

 (い) まづ 非思考の庭について...続きを読む

Aベストアンサー

お礼ありがとうございます。
信仰者が信仰に至る選択を行う事は、信仰者の内的要因によるならば、理性(理論)による認識は不可能と言えますが、それについても、部分の伝達が可能であるとすれば、信仰者が理性が演繹できる経験的事項で語る必要があると言えます。
これは、理性と言語の限界から、比喩と呼ばれるべき言説となるでしょう。
そこに何らかの類型が見られるのであれば、信仰に至る選択の比喩が一致する事が予想されます。(比喩は部分なので、部分の集合となる可能性もあります)
予想される反論としては、強知性が扱う言語が、理性の取り扱う言語との同一性を持つ事が保証されない事です。
それは、比喩と言う形で、理性の理解出来る言葉に翻訳される事が保証されなければいけません。
実は、言語自体に限界がある事は、哲学的に議論され尽くされていると言えます。
信仰者が認識する、信仰の対象としての非知=神は、信仰者の内的要因により選択されます。
この行為に対する言説は、その強知性から、理性が認識出来る言語では説明不能となります。(理性にとっては、依然二律背反の状態になります)
それは、比喩という翻訳によって、理性が認識できる言語に部分的に変換されます。
宗教哲学では、それを避ける為に、社会的要因や、宗教構造が、自然に信仰を要請すると分析する方法も取られました。
宗教が信仰を公準として要請する構造を持つと解体するわけです。(この理論は、宗教がその内的構造としての知解性を持つ事は保証しますが、これは同時に強知性を持つ為に、外的な理性の関与を拒絶してしまいます)
信仰が真に、信仰者に内在している場合は、これを他は認識出来ません。(強知性が、共通の言語を拒絶する部分を持つからです)
他者は、信仰者がいると認識するだけです。
信仰者が、他が理解できる言語に翻訳(これを比喩と考えます)した場合に部分的に認識されるだけです。
哲学者によっては、宗教の持つ知解性自体も幻想であると考える場合があります。
宗教の内部構造としての知解性は保証されず、信者は個として信仰しているにすぎないという考えです。
ここで理性が受け入れられる共通言語は、信仰者は、信仰対象を信じると言う事だけです。
信仰者にとっての信仰→信仰対象を信じる→信じる事を選択した要因→多様性を持ち理性の言語では表現出来ない。
命題:比喩としての、信仰要因が理性の理解できる言語として類型を持つ
上記が成り立つ条件を考察しなければなりません。

お礼ありがとうございます。
信仰者が信仰に至る選択を行う事は、信仰者の内的要因によるならば、理性(理論)による認識は不可能と言えますが、それについても、部分の伝達が可能であるとすれば、信仰者が理性が演繹できる経験的事項で語る必要があると言えます。
これは、理性と言語の限界から、比喩と呼ばれるべき言説となるでしょう。
そこに何らかの類型が見られるのであれば、信仰に至る選択の比喩が一致する事が予想されます。(比喩は部分なので、部分の集合となる可能性もあります)
予想される反論とし...続きを読む


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