時々思うのです。「人はどうして生きる」のでしょうか?
生あるものはいつか死にます。それなのにどうして苦労をして生きるのでしょうか?みなさんのご意見をお聞かせ下さい。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (24件中11~20件)

こんにちは。

興味があるので書き込みします。
私の考えはこうです。

人がどうして生きるのか、なんて
その人自身が生きていたいからに決まってる。
と思う。

誰だって自分が生きたいから生きてる。
と思う。

自分のために、生きてる。
と思う。

苦労だって自分がしたいから、してる。
と思う。

結局すべては自分のまいた種だ。
と思う。

誰かのために生きる、ということも
あるかもしれないけど、
それも結局は自分がそうしたいからしてるだけ。
と思う。

生あるものはいつか死にます・・
ま~しょうがない、いつかは死にますよ。
生きている、生き物なのだから。
と思う。

だめかな?こんな考え。
どう思いますか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
ぜんぜんOKだと思います。
人それぞれ色々な答えがあってあたりまえですからね。

お礼日時:2001/10/10 02:53

自分は生きていると思ってないからだと思います。


生と死を意識して生きてないから。
苦労して生きてるは、生=苦労 と意識しつづけてるわけじゃないし
苦労が嫌でも,それが死ぬほどの事ではないとか
人の本能が死を恐れるから?
例えば
ドラマやバラエティー用を足してたり音楽を聞いてたり本を読んでたり。
あ~自分は生きてるんだな~なんてあまり思わないし
苦労している時は、がんばってる事で精一杯。
生と死について考えるとき、それを考えた結果が死ぬほどの事じゃなければ生きてても別に困らないし。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
大変参考になりました。

お礼日時:2001/10/10 02:51

いろいろな答えがあって然るべきですが。


即物的に考えるとやはり、我々は子宮の中で精子と卵子が1つになった瞬間に“生きる状態”となるスイッチがONになってしまっていて、そのスイッチは極度の外的な要因を与えない限りは決してOFFにならないからではないでしょうか?
あくまで自分の意志とは違う次元に“生きる”という“状態”の根本が起因しているという感じですね。これを人は本能と呼ぶかもしれませんが、私は本能とは別物だと思っています。何故なら、このことは“生”か“死”かの“状態”の棲み分けにしかすぎないからです。
その“生という状態”を人(=生き物)はそれぞれの意志でいろいろな形に変えていったり、意味を持たせていったりするのではないでしょうか?
>それなのにどうして苦労をして生きるのでしょうか?
冒頭部分を踏まえた上でこの問いに対しては、まず言えることは全ての人は自分の意志とは無関係に“生という状態”を保っているだけだということです。
その“生という状態”を保っている人(スイッチONの状態)の中で、自分なりに人生の目的を考えたり“生という状態”に意味を持たせようとしていると胸をはって言える人たちが“生きる”という行為をしていると言えるのだと思います。
その努力の過程に苦労などがあり、また逆に快楽もあるのだと思います。
逆説的に言うと、そういう人たちが生きるには当然苦労が伴う、言い換えれば人は苦労する道を進んで行かざるを得ないのかもしれません。
充実した“生という状態”を貫いていこうとするならば。
なんだかうまく書けませんが、言いたいことは少しは伝わりましたか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
大変参考になりました。

お礼日時:2001/10/10 02:50

僕が「生きる」のはやりたいこと、やり残していることがあるからです


何がしたいのかは大小様々であっても、まったく何にもしたくないと思ったことはないです。
ちなみに、僕は今、「ボンベイのカレーが食べたい。」とか、
「海外旅行に行きたい」とか、「会社を起こしてみたい」とか、色々やりたいことがあります。
自分が欲しいもの、それはお金やモノだったり、時には名声や充実感、愛といった
抽象的なものの場合もあるでしょうが、
自分の欲望を達成するために生きるのではないでしょうか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

お礼が遅れてすいませんでした。
回答ありがとうございました。
大変参考になりました。

お礼日時:2001/10/05 05:22

気がつくと「世界」が、あったからです。

    • good
    • 0
この回答へのお礼

お礼が遅れてすいませんでした。
回答ありがとうございました。
なるほど。

お礼日時:2001/10/05 05:21

生きている事の意味での答えですが、


自分の子供を作り育てることです。
原始的な種の保存の為です。

といいながら、

別な方から始めた宗教が有ります。
なぜ人々は苦しんでいるのに生きようとするのかではなく、
苦しみの源泉は何処に有るのかあらわし、苦しみの根源をとりはぶこうしたのが釈迦です。

仏教の基本は生老病死の現実は何かから始まりました。
従って釈尊は生老病死の源泉は何処に有るかと解明かしたので、仏陀になったのです。
(仏様=仏陀でありません)
    • good
    • 0
この回答へのお礼

お礼が遅れてすいませんでした。
回答ありがとうございました。
大変参考になりました。

お礼日時:2001/10/05 05:20

「人は」というか「生物は」と、言い換えて「何故生きるか」を考えた時、「何故死ぬか」も当然のことながら問題になってきます。

鴨長明は、『方丈記』の冒頭で「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。…」と書き、ギリシアの哲学者ヘラクレイトスは「同じ川には二度入れない」と言っていますが、流れない河の水は淀み腐り悪臭を放つようになります。生物に「死」が無かったら、生物は「進化」という現象を示さなかっただろうし、人は「文明」を創らなかっただろうし、第一、「私」は生きていなかっただろうと思うんです。ましてここでパソコンのキーを叩くなんてことはありえなかったと。

ニーチェか誰かがどこかで言っていたような気がするんですが、「何故、どうして」という言葉にできるような意味なんて無い、そんな意味は自分で作れ、と。「どうして生きるか」や「何故、死ぬか」という問いやその答えは、かつて「生まれた」という事実や、今「生きている」という事実、また未来に「死ぬ」であろう事実が、まず始めに理由無しに在って、それから人間の理性がそこに追いつこうとして発した問いなのだと思います。それは「宇宙は何故あるのですか?」という問いと大差なく、「本当の」答えの存在し得ない問いなのだと思います。

結局、何故生きているのかということの答えは、死にたくないから生きている、死ねないから生きている、それほどのことでしかないような気がします。家族の顔とか友達の顔とか思い浮かべたら、死ねないという気がしますよね。あるいは自分は、こんなことがしたいとか、そういう夢や希望を持っていても死ねないような気がします。死ねたら死んでます、多分。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

お礼が遅れてすいませんでした。
回答ありがとうございました。
本当にその通りですよね。

お礼日時:2001/10/05 05:19

うーん、一言で言うと楽しい事があるから


難しく言うと進化論的にすべての生命は自らが生きるようにプログラミングされているから。楽しいと思う心は人を生かすためのプログラムといえる。
つまり、人に限らず生命は死ぬことよりも生きるほうがメリットがあると錯覚(あえて錯覚という)するようにプログラムされている。単純に言うと「死は恐ろしい」「生きる事は楽しい」という感情が働くため。

逆に私には死ぬ事のほうが不可思議である。
進化論的な立場から言うなら、物の成り立ち、生命の成り立ちからして、すべての物質はその形態を保持しようとする方向に進む。つまり、生きようとする。その生きるようにプログラムされている存在が老化によって死のうとする。まったく逆といえる作用が存在する事が不思議である。

一方、『死』それ自体が種としてのその生命を生き長らえさせるためのプログラムであるという考え方も有る。言いかえると『個体の死』は実は『種としての生』を意味している。
良い例がガン細胞だ。ガン細胞は細胞が無限に増殖する病気である。増えるべきでない細胞が増えるのだ。細胞は『死』をもって他の細胞を生かし、ひいては母体である人を生かすようにプログラムされている。

人という集団、地球の生命形態全体の中の人という集団・人個人にも当てはまるのではないだろうか?
人は個人の死によって他の人を生かす。
人という集団は戦争により自らに死を与える事により他の生命形態を生かす。
と、このようにも考えられる。

以上です。

ちなみに私は「死にたい」と思う心に対抗する心は「楽しい事が有る」「自害するくらいなら一発デカイ事をする」と言う心か。
結局、死という本能に起因する感情に対抗するには本能的な欲求に従う以外無いのではないだろうか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご意見を寄せていただきありがとうございました。
改めて本当にスゴイテーマだな~と思いました。

---------------------------------------------------------------------

今までご意見を寄せていただきた皆さんに

お礼のなかで皆さんのご意見を聞いて思ったことを率直に
一言書かせていただいおります。
万が一おきにさわる所がございましたらお知らせください。
又かさねてお礼させていただきますここは当分閉めないで多くのみなさんの意見を
聞こうと思ってます。

お礼日時:2001/09/26 03:21

 初めましてnctccさん。


自分にとって久々、約1ヶ月ぶりの回答になります。
なんて、もったいつけるほどのことは書けないですが``r(^^;)

わたしもたまに考えます、わたしの方は「人」ではなく
「いきものってどうして~」って感じです。
いきものって生きてるからいきものですよね
何でいきてるんでしょね
しにものってありますかね 
誰かも言ってましたね「みんなしにもの」
しんでるものっていつか生きますかね
しにつづけることって苦労かしら

大体このようなことをぼろぼろと思って、終いに飽きて
興味のあるほかのことにアタマが行ってしまうのが常ですが、

さて、わたしは「どうせ死ぬなら何もする甲斐がない」とは思わない方です。
うつ的な気分のときは別にして、
「それはそれとして」「まあ、それはおいといて」
生きてる身分のうちにできることはやってみましょうかという感じで
日々やっています。
 わたしの中では「いつか死ぬ」ということと「今やっていることも消えうせる」
ということが結びつきません。そして、それはどんなに人の死を目にしても、
わたしには「いつか自分が死ぬ」という実感が欠けているということだと
思っています。
 一方血を吐くような思いをして自らの生に取り組み続ける人もいます。
相手は病魔だったり、貧困だったり、戦争だったり、少し前までは、
わたしの親の世代までは、もっとそれと背中合わせの実感で生きていたはずです。
でも同じ状況の中で、生きるのが辛いから投げ出そうとする人もいれば、
辛いけどでも生きようとする人もいます。

たぶん、辛さを越えて、何か得られるものがある、と思うからじゃないのかなあ。

例えば、自分は死んでもこどもたちが続いていけばいのちは続くと考えたり、
同じように幸せな社会を作ろうと思ったり、自分の作ったものは残ると考えて
それを一所懸命残そうとしたり・・・そんな感じだと思います。

それが本当にそうなのかはおいといて(あっ繰り返してしまった)
少なくとも「人」はそう考えるのではないでしょうか?

さて、ではほかのいきものは・・・?
ってここはわたしの質問の場ではありませんですね、失礼しました~
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご意見を寄せていただきありがとうございました。
「どうせ死ぬなら何もする甲斐がない」とは思いたくありませんね、
そんな人生悲しいすぎるから…。

お礼日時:2001/09/26 03:12

 わたしの場合の回答ですが。


 まずは「生まれたから」ですか。
 生きるチャンスをまずもらった、それをどこまで自分にとって(!)有効に使えるか。可能性と限界への挑戦。それがわたしが「生き続ける」理由です。
 生きていれば義務や責任など世のしがらみもできますが、基本的なところはあまり大差ないですね。
 できる限り後悔の少ない人生が理想です。
 急いでも放っておいても、いつかは「死」がやってくるのですから。

 宗教的な方だと、また違った答えがあるのでしょうけれど。
 
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご意見を寄せていただきありがとうございました。
そうですね。せっかく多くの生物の中から人として生まれたのだから
人生を生ある限り楽しまないと損ですよね。

お礼日時:2001/09/25 23:49

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q人の成功を願って生きるのor不幸を願って生きるor特にどちらの感情もなく(その時々)ていきるのでは何が一番得?

 人の成功(幸せ)を願って生きてると、自分も成功(幸せ)できる。心が豊かになる。等メリット、デメリットあるかもしれませんが意見を聞かせてください。

Aベストアンサー

人の成功を願って生きるでしょう。

誰かが成功しようとしている時、笑ってオープンにおめでとう!よかったね!と言える人になるか、それともその逆か・・・明らかに前者のほうが総合的にも良いと思います。

不定的思考の人間に、心の問題、病気がよくあるのは自明の理だとおもいますので、心がそうであるならば、財産もその他すべて無意味なものになってしまいます←そういうのは心の平安を築くための力、要因となるべきだと思いますので、そうではなくなるならば無意味だということです。

だって生きてる時は同じように与えられているけど、その一瞬一瞬の時をうつうつと過ごしたり、卑屈に過ごしたりするのは、なんのための財産かと思いますね。

それと、あやかるだけ、みせびらかすだけの財産なら富の役目も対したものではないと思います。

話はそれましたが、心から人の成功を思えなくても、そう思考していこうとすることこそが、心から人の幸せを願える人間になる原因を創るのだと思います!
心が積極的思考で前向きで、心豊かで、真の平安を築ければ幸せなんですから、その原因は人の成功を願って生きるに大きく関連していることをあなたも気づいているとおもいます。
結局、財産も地位も名誉もすべて手に入れても、人の成功を願って生きることができない人間は、ほんとうの心の平安というものを知らない人だと思います。
これでもか!というぐらい心の大きさ、心の平安さを示した偉大な哲学者達に、その法則性があると私は確信していますが、その一つの大きな要因こそが、人の成功を願って生きる、人の幸せを願っているだと思います。

愛せよ!さらば愛されんだ!!

もし読んでいないのであれば、エマソンの『償い』を絶対見たほうがいいです!
これは、一生を心豊かに暮らしたい、ほんとうの心の平安を築きたいという人には必読書です!ほんとうに読んでみてください、価値ありです!

人の成功を願って生きるでしょう。

誰かが成功しようとしている時、笑ってオープンにおめでとう!よかったね!と言える人になるか、それともその逆か・・・明らかに前者のほうが総合的にも良いと思います。

不定的思考の人間に、心の問題、病気がよくあるのは自明の理だとおもいますので、心がそうであるならば、財産もその他すべて無意味なものになってしまいます←そういうのは心の平安を築くための力、要因となるべきだと思いますので、そうではなくなるならば無意味だということです。

だって生きてる...続きを読む

Qガンジーの言葉について。…明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい。

ガンジーの言葉に

「明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい」

というものがあります。もし私が明日死ぬと自分が言われたとしたら、預金をすべておろして「いつかしたい」と思っていたことをし、「いつか欲しい」と思っていたものを買うでしょう。しかし、ガンジーはそんなことを言っているのではない気がします。どう解釈するのが正しいのでしょうか?

また、前半部を私のように解釈すれば、後半部の「永遠に生きると思って学びなさい」と矛盾することになりますよね。

結局全体としてどうとらえればいいのか、私はよくわからないのです。わかる方、教えて頂けないでしょうか。

Aベストアンサー

こんにちは。
私も初めて聞きましたがすてきな言葉ですね。

勝手ながらお若い方と推察いたします。もしそうならば、この言葉を簡単には理解しなくとも、この言葉を目に留めて、ご自身の疑問を提起されたこと自体、大変に有意義で、価値ある感性をお持ちの方と思っております。
その上で、さて、次のようなアドバイスではいかがでしょう。

ポイントは次の2つで、少々言い換えてみましょう。
(1) 「明日死ぬ」ではなく「家族との夕食中に15分後に死ぬとしたら」・・・
(2) ある事項を学ぶ機会に恵まれたとき(例えば、数学のより高度な方程式を大変わかりやすく、無料で教えてくれる先生に出会えた)、でもただちに「私には関係ないから」(数学なんてうんざり・・・)と思ったならば、なぜ瞬間的にそう言い切れるのでしょう・・・

「明日には死ぬ・・・」。なかなかあり得ない状況ですが、この前提では「無茶をしてでも好きなことをする」と思う方は少なくないと思います。貯金をおろすどころか、迷惑をかける家族がいないなら強盗や強姦をしてもかまわないかも知れません。(パニック映画でよくあるパターン)
しかし、今回の語句は、「残された時間が大変に短い」という前提で考えてみると良いでしょう。楽しむ時間さえもない・・・
この場合、「無茶をしてでも好きな・・・」と考える方々は急速に減るでしょうが、ではどのように?

私なら、(きっと)死を受け入れる(覚悟する)努力をするとともに、心を落ち着け、家族に感謝し、生きてきた中の良かったところだけを想い出そうとし、そして、ちょっとだけ、「もしその危機を乗り越えることができればこんなチャレンジもしてみたいのに」との夢を描く・・・という感じですね。まあ、「良い死」をみずから作ろうとするのでしょう
現実には死は目前にはありません。でも、あれっ?「感謝」や「チャレンジ」は「死を目前にしてから考えるべき」ものではないですよね・・・・

また、「学ぶ」機会」に対して、こんな例はどうでしょう。
例えば、「中学生での数学は何のためにあるの?こんな方程式は生活では使わないのに。」との典型的な答えは、「中学生にとっては、将来、どんな職業につくことになるかわからない。どんなチャンスがある(あるいはないかもしれない)かわからないし、自分の好みも変わっていくので、広く基礎知識を持っておくことで、与えられたチャンスをみすみす失うような状況を減らしておきたい。」というものがあるでしょう。

しかし、逆に、この理論はある程度職業が定まると(例えば八百屋さんになったら)数学は不要なものになります。そうなれば、数学の大家のお話を聞くなんて、何の役にも立たないと言い切れるため、たいていは「私には関係ない」と言い切ることになるでしょう。

しかし、これだけだと見落としになるのはお気づきでしょう。思わぬ学問が思いもかけないところで必要(あるいはその知識を持っている者に負ける)になることもあり、また、周辺知識(数学の知識から発見者の人生模様へ・・など)への広がりも重要で、何より、常に学ぼうとする人の姿は美しく、細かな感動を重ねており、総じて優しく、尊敬も集める傾向も強くなります。
(反して、学ぶことから何か理由をつけて逃げるようでは、テレビのお笑いくらしか見ず(真面目にお笑いをやっておられる方ごめんなさい!)、刺激を求めても自分が工夫が出来ないのでお金や他人への攻撃で楽しませてもらうしかほう方がなく、何かにつけ不満が多く・・・とまあ私もその一人ですが)

そこで、「もう生活の道が決まっていて他に役に立つ可能性がないのだから、こんな勉強は無駄」とばかり考えず、「無限に命があるのなら、いつでも、どんな可能性でもある。そのくらいの気持ちでいろんなことを勉強してみましょう」というのはご納得いただけませんでしょうか。
(ちなみに、私は、英語が好きでもなく、使うはずもない職場に就職したはずでしたが、職場の都合で容赦なく英文を扱う羽目になり、何も考えずに暗記した受験用英単語に今更感謝しています)

いささかの勝手な先入観を許していただき、少々口の悪いことを承知で申し上げれば、この言葉を理解し、そこにちょっとした感動を覚えるためには、少なくとも自分のことだけで精一杯という年代では困難で、ある程度の年齢と、多少の恥ずかしい・悲しい経験の積み重ねが必要とは思います。

特に、「明日死ぬと思って・・・」「永遠に生きると思って・・・」のくだりは、ご指摘のように明確な矛盾です。
これをかみ砕くためには、まず、「単純なミスや幼稚なウソやいちいちあげ足をとらずに笑って許せる寛容(優しさ。たくさんの小さな矛盾に出会った経験)」と、「あえて矛盾をあげて目を留めさせ、小さな感動を誘発するテクニックに感心する感性(自分で言う言葉で相手がウケる・感心するような多くの小さな工夫を現に行ったことのある経験)」が必要です。

それでも、質問者さんがこの言葉に目を向けられたこと自体、ある程度の人生経験の証であり、大変に良いことだと思います。

ずいぶん長くなってしまいましたがさてさて、いかがでしょうか
お役に立てば幸いです。
(おかげで、私にとっても一つ勉強になり、ガンジーの業績についてもういちど何か読んでみたくなりました。)

こんにちは。
私も初めて聞きましたがすてきな言葉ですね。

勝手ながらお若い方と推察いたします。もしそうならば、この言葉を簡単には理解しなくとも、この言葉を目に留めて、ご自身の疑問を提起されたこと自体、大変に有意義で、価値ある感性をお持ちの方と思っております。
その上で、さて、次のようなアドバイスではいかがでしょう。

ポイントは次の2つで、少々言い換えてみましょう。
(1) 「明日死ぬ」ではなく「家族との夕食中に15分後に死ぬとしたら」・・・
(2) ある事項を学ぶ機会に恵まれ...続きを読む

Q【あなたは何を目的に生きて、何を目的に死までの道を突き進んでいますか?】目的もなしに生きて、目的もな

【あなたは何を目的に生きて、何を目的に死までの道を突き進んでいますか?】目的もなしに生きて、目的もなしに死んでいくつもりですか?

それとももうちゃんと目的を持って日々を生きて、死へのゴールまでの目的設定を作っていますか?

Aベストアンサー

かつて、神様が幅をきかせていた時代には、
人間にはそんな悩みはありませんでした。

神様の言う通りに生きていれば、良かったからです。

しかし、神が死んだ現在、生きる目的云々は
人間が決めてよいことになりました。

目的など無くてもよい、あってもよい、欲しければ
自分で創ればよい、となりました。

目的などあろうが無かろうが、人間は死ぬのです。

何の意味があるというのでしょうか。

そこにあるのは、自己満足だけです。

Q皆様は「人形として生きる者」と「苦悩して生きる者」とでは、どちらを選択して生きていきますか?

皆様は「人形として生きる者」と「苦悩して生きる者」とでは、どちらを選択して生きていきますか?

Aベストアンサー

「人形として生きる者」とは、他人に所有され他人の意思で他人の思うように生きる、「苦悩して生きる者」とは、自分の意思で自分の思うように自分で険しい道を切り開きながら生きて行く事だと解釈します。

人形の持ち主にもよりますが、どちらか選べと言われたら、「人形として生きる者」を選ぶかもしれません。
20代で人生の半分も生ききっていない若輩ですが、これまでの道がかなり険しかったもので、これからは楽に生きたいです。
例え誰かに所有されるとしても、穏やかで安定した気持ちで生活を送れるのなら、将来は人形も良いかもしれません。

ですが、独身一人暮らし、今の自分は「苦悩して生きる者」に近いです。

Q【1人で働いて生きて何か意味があるんですか?】1人で自分1人が生きるために、老後に生きるために働く。

【1人で働いて生きて何か意味があるんですか?】1人で自分1人が生きるために、老後に生きるために働く。そして死んでいく。

なら今、死んでも同じことなのでは?

老後に遊ぶために今、若いうちに頑張ってお金を貯めているんだという人がいますが、若いうちに遊んで年取ってヨボヨボになってから老後に遊ぶのはどう考えても非効率ではないですか?

最後に遊んで死ぬなら、若い今、遊んで老後の貯蓄も病気の心配もなく自分で命を絶つ方が独身者にとっては効率が良い死に方だと思いますがどう思いますか?

若いうちにお金を貯めて足も体も若い頃より衰えてから遊んでも仕方がないと思います。

これは一生独身者を貫く現代の若者の人生設計の話です。

Aベストアンサー

今死にたい奴は老後も死にたい。今楽しい奴は老後も楽しい。効率ではなく本質の問題。
ま、今が楽しければひとりでは居れないが。


人気Q&Aランキング

おすすめ情報