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詩の解釈なんて好きにすればいいのでしょうが

中原中也の「よごれちまった悲しみに」は、中也自身が世間で生きてきて純粋でなくなった、つまり「僕が汚れたことが悲しい」という意味だと思ってました。

悲しみが主語で、「悲しみが汚れた」とも取れるなと気づきました。
愛する人の死の席で、遺産争いを見ているような場合ですね。

一般的にはどちらの意味にとられているのでしょうか。

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A 回答 (3件)

はじめまして。


この詩、私も、昔昔、読みました~。大好きでした(なぜか私は、悲しみが汚れたと・・・読んでいました。)

別冊国文学の「中原中也必携」吉田熈生編を、持っていましたので、調べてみましたら、吉田熈生さんはこの詩について、ーーー「私が汚れた悲しみ」とも、悲しみ自体が汚れているとも、両義的に理解できるーーーと書かれています。また、--ーしかし、いずれにせよ、「汚れ」の原因は何であるのか、明示されていない。人間関係の中での悪しき傷つき方であろうか。ーーーとも、書かれています。

ご参考になると良いのですが・・・・。
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この回答へのお礼

新聞記事などと違って、読む人が色々と解釈できるのが詩の良さですね。
無理にどちらと結論付ける必要はないのかもしれません。

この詩を丸暗記した子供が、味噌汁を服にこぼして「よごれちまった悲しみに」と叫んだと、斉藤孝さんが何かに書いてました。この場合の主語は「僕」というか「服」ですね。

お礼日時:2005/05/31 09:13

初めまして。


中也の詩に詳しいわけでもなく高校の国語の授業で出てきたような気もするのですが例の有名な、かわゆらしい顔写真しか記憶に残ってない・・・あとクラスの女子どもが、この写真見たとたん「きゃ~いや~ん、カーワユイっ!!」と、どよめいたことだけ・・・^^;

「どちらの意味」か・・・う~ん。「一般的に」どうかは存じませんが私個人も、やはり、どちらとも取れるかなあと思います。
と言うか『悲しみ』=『自分自身』ではないのかな、とも思います。

下記参考URLは個人サイトですが中也のことが、その作品の数々も含めて、よく分かります。中也周辺の人たちのエピソードも、しみじみしてて興味深かったです。
3番詩『不可入性』という作品は或る女性を連想させられて、おもしろかったです。

あの・・・中也のカオなんですけど・・・昔、図書館で中也関連の本を見ていて晩年の中也が子どもと一緒に写ってる写真見たんですけど・・・すごいクタビレたオジサンになってて思わず「あーうそぉー」って心のなかで叫びました・・・彼って、凄い若死にですよね?なのに、なのに、あの老けようは・・・??よっぽど苦労したんでしょうかねえ・・・。

参考URL:http://www.ten-f.com
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この回答へのお礼

う~ん、はっきりしませんか。
曖昧に自分なりの解釈をしていいんでしょうが。

享年30歳。老け顔の写真は見たことありません。結核が脳に来た・・相当苦しいかもしれませんね。
ああいう可愛い顔は、アイドルでも一気に老ける人が多いような・・話がどんどんそれてます。

お礼日時:2005/05/30 11:08

こんばんは~


よく子供と一緒にみている某テレビ番組で聞いていたフレーズですけれど、私も「自分が汚れてしまった悲しみ」と思いました。
 確か、この中原中也さんって、若くしてなくなったんですよね?(自殺…?)国語の教科書に載っていてお顔もきれいな人だったと思うんですが…
 話がそれてしまいました。すみません。
 私も気になります~ 

この回答への補足

その後の言葉も抽象的で、どちらとも取れますものね。

だれか国語の授業で習った人いませんか~

補足日時:2005/05/29 09:10
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Q汚れつちまつた悲しみに・・・

中原中也の、汚れつちまつた悲しみに・・・、という有名な詩の意味を、どなたか教えてください。この詩は、いったい何を表現しているのでしょうか?伝えたいことはなんなのでしょう。ひたすら悲しい、ということは伝わってくるのですが、あまりよく分からないのです。

Aベストアンサー

 
詩にしても和歌にしても、俳諧にしても、これはこういうできごとの折りに造られたものだ、という説明を聞いて、意味が分かるとかは本当はおかしいのです。

作品を読んで、聞いて、何かの心の感銘を受けて、その後、その作品が作られたときの状況や経緯をしって、なるほど、よく分かるということで、作品としての感銘・感興は、説明と独立していなければならないのです。

造られた状況が分からないと、感銘がないとか感興がないというのは、作品になっていないのです。

中原中也の詩は、その点、少し問題があるのです。読んでも、よく意味が分からないとか,何を言っているのか感興がないという人がかなりいるのです。その他方、中也の独特な作風というものに惹かれる人がかなりいるのも事実なのです。

幾つかの作品を読んでみて、中也は、その言葉にどういう思いを込めたのだろうか、と考えていると、ある程度,何かが分かってきます。無論、分からない、感じられないということもあります。

この作品は、著作権が切れているはずで、引用してもよいはずです。全文は、下の参考URLにありますが、一行置きに繰り返される、「汚れちまった悲しみに」と「汚れちまった悲しみは」をはずしてみます。次のようになります:

>汚れつちまつた悲しみに

>今日も小雪のふりかかる
>今日も風さへ吹きすぎる

>たとへば狐の皮裘(かはごろも)
>小雪のかかつてちぢこまる

>なにのぞむことなくねがふなく
>倦怠(けだい)のうちに死を夢む

>いたいたいしくも怖気づき
>なすところなく日は暮れる……

「汚れちまった悲しみに」という表現が、自嘲的で投げやりな表現だという感じは確かにあるのです。「悲しみ」が「汚れる」とは、何と気障な、とも感じるのですが、他方、これは非常に自嘲的な言葉に響きます。それでは、「汚れちまった悲しみ」を除くと、詩はどうなるかというと、上のようになります。

二連目の「たとへば狐の皮裘(かはごろも)」というのは、何を言っているかよく分からないのです。感覚的に分かるか分からないかの問題のようになります。

しかし他の行は、通俗的な言葉のようで、しかし、

>今日も小雪のふりかかる
>今日も風さへ吹きすぎる

ここには、何か痛々しい感情の苦痛と絶望のようなものが、造形されています。この表現自体、まだ自嘲的な感じがしますが、中也の他の作品を見ると、やはり、こういう自嘲的な感じの言いまわしが出てくるのですが、しかし、他方、その部分だけを見ると、高度に冷静に緻密に彫琢された、詩的形象が含まれています。

中也の詩は、どこかユーモラスで自嘲的な言いまわしと、綺麗な詩的形象と、そして悲哀というか、切ないような悲しみの三つの要素から大体できているのです。

この作品にも、この三つが含まれていて、この場合、詩的形象が一番希薄というか、形象はあるのですが、それが自嘲的な表現に隠れてしまっています。

どこかユーモラスで自嘲的な言いまわしは、中也が自分自身を反省的に眺めている結果,出てくるのだとも感じられるのです。この詩の場合、自虐的とも言えるレベルまで来ているのですが、しかし、上に抜き出したラインを見ると、詩の形象彫琢は行っていることが分かるのです。

中也の詩は、自意識過剰で、自己の感情に溺れているようにも思えるのですが、良く読むと、冷静にそのような自己を眺めている視線があるのです。「自嘲」とは、そういう状態だとも言えるのですが、中也の場合、ただ自嘲に溺れこんでいないというのが、彼の作品を「詩」と評価する人たちの見方でしょう。

自嘲し、悲哀の感情に溺れているように見えるなかに、冷静に詩の言葉を彫琢している中也という詩人がいるということになるのです。すると、これは、単なる自嘲や自虐ではなく、もっと複雑な屈折した意識のありようの表現であるとなります。

どこかユーモラスな自嘲的な屈折した、いわば青年期の自己の客観視のような視点と距離の取り方、それに先に述べた,詩としての形象彫琢と、悲哀という組み合わせで、「中原中也世界」というものが出来あがっているのです。

自嘲的な視点に心動かされる人と、詩的彫琢に心動かされる人と、悲しみのある言葉に心動かされる人がいるということになるのですが、これらは、どれも、中也の詩の世界を前提にしているのです。

この「汚れちまった悲しみに」は有名な作品ですが、これは詩ではなく、青年が日記に書くような感傷的で自意識過剰な言葉の羅列だと感じられる人には、これはそういうものに見えるのです。

立原道造という青年詩人がいて、若く亡くなりますが、彼の感傷的リリシズムの詩は、エピゴーネンが一杯あるが、しかし、立原はエピゴーネンとは一線を画しているという評価を昔,読んだことがありますが、「一線はなかった」というのが答えだったと思います。

中也の場合も同じで、こういうスタイルのエピゴーネンはたくさんいるのです。そこで一線があるのかというと、あるのですが、ないとも言えます。しかし、中也の詩は模倣できないのです。こういう自嘲的で悲哀のある詩の真似はできますが、「中也の詩」にはならないのです。

この詩は、投げやりになり自嘲的になって、「人生はこんなものさ」と言いつつ、感傷的に悲しみや絶望をうたっているように思えますが、どこか、「冷静さ」が入っているのが特徴なのです。自分を反省して自嘲する自分自身を、また冷静に眺めている自分がいるというような構造です。

何重にも、こういう自己観察、自己省察の視点があるのではないかというのが中也の詩で、立原の詩は、ここまで自己省察した視点がある意味ないとも言えます。

立原の詩は、詩的空間からある距離を置いて、詩を形象している作者がいるのですが、中也の詩は、もっと自己観察・自己省察が錯綜しており、もっときっちりした詩的イメージを彫琢できながら、敢えてそれをしない中也という存在が感じられるのだとも言えます。

実はわたしもこの詩はよく分からないのです。しかし、中也の他の詩のなかに、その哀切さと美しさに心動かされる作品があるのであり、そこからすると、この詩にも、大きな感銘を受ける人がいるだろうと想像できるのです。

この詩がよく分からない場合は、中也の他の作品を読んでみて、どれか心に感銘を受けるものがあれば、もう一度引き返して、この詩に戻ってくると、違って見えてくる可能性があります。

最初に述べたように、この詩がどういうできごとの背景で造られたのか、関係がないのです。

No.1 の方の回答が簡潔で見事に中也の詩の構造を言い当てているのですが、そういう意識は、実は大勢の人が持っていて、しかし、彼らは中也ではないのです。しかし、中也の詩に心動かされる人たちなのです。

「近代人的意識」と言えば、小林秀雄につながって行くのが分かるでしょう。
 
>汚れちまった悲しみに
>http://macalfa.tripod.co.jp/YomuFiles/yogore.html
 

参考URL:http://macalfa.tripod.co.jp/YomuFiles/yogore.html

 
詩にしても和歌にしても、俳諧にしても、これはこういうできごとの折りに造られたものだ、という説明を聞いて、意味が分かるとかは本当はおかしいのです。

作品を読んで、聞いて、何かの心の感銘を受けて、その後、その作品が作られたときの状況や経緯をしって、なるほど、よく分かるということで、作品としての感銘・感興は、説明と独立していなければならないのです。

造られた状況が分からないと、感銘がないとか感興がないというのは、作品になっていないのです。

中原中也の詩は、その点、少し...続きを読む

Q汚れちまった悲しみに

中原中也の有名な詩に、「汚れちまった悲しみに…」というのがありますが、あれはヨゴレと読むのでしょうか、それともケガレでしょうか。どちらかだとはっきり証明するものがありますか。

Aベストアンサー

「汚れつちまつた」という表記だったかも...?
個人的には「よごれ」派です。
「けがれ」というようなやや固い、比較的文語的な
表現よりも、「よごれ」という口語的な表現の方が
吐露としての(?)この一句の調子にあうと思いますし、
「汚れ」の後に促音が入るなら、「よごれっちまった」
の方がより自然な気がします。
また、たとえば「汚れ役」というときのような
「よごれ」という語がもつ惨めさ(?)が
「狐の皮裘」とか
「小雪の降りかかる」などのイメージにあうんじゃないかな
と思います。
いかかでしょう。


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