No.6ベストアンサー
- 回答日時:
再蛇足です。
萩市と会津市とは戊辰戦争の敵味方で戦争時の恨みが双方にありました。
薩摩、土佐共にいわゆる佐幕派に属する藩です。
しかし薩摩は薩英戦争で英国艦隊に完敗して外国の戦力を知り、急いで武力増強を図る必要を痛感しました。 所が外国貿易の手段に暗く困っていた時土佐出身の坂本龍馬の海援隊という貿易商社が仲介したのです。
坂本は開明派で新政府を作らねば日本は危ういと考えていたので薩摩の西郷を説き私怨を棄てての薩長連合の必要性を強調しました。 この為桂小五郎と西郷の会談が実現し薩長連合がなり、長州藩は輸入武器の選択などの情報を提供、財政援助も行いました。
長州藩はそれ以前の馬関戦争の敗戦で外国武器の威力を知って輸入の先達でした。
土佐が勤王派に鞍替えしたのは坂本の影響もありましたが後藤象二郎という策士が時流を見て乗り舞えを策したという説が有力です。
彼は功を独り占めする為坂本龍馬の暗殺に動いたというのです。
No.5
- 回答日時:
回答ではないですが・・・
私も「風雲児たち」をお勧めします!というか私自身最近20巻セットを購入して読んでいるところです。
ギャグマンガにしては文字も多く、少し難しいと思いますが非常に読みやすいです!ある程度歴史を勉強されている方にとっては最高のマンガだと思います!
みなもと先生は幕末の話を描きたいがために関ヶ原の戦いまでさかのぼって描かれているのです。逆に言うと、関ヶ原までさかのぼらなければ幕末は理解できないのですね!ですので質問者様には最適な教材ではないでしょうか?
私も幕末の徳川家と藩の因縁などがサッパリわからなかったのですが、これを読んでほとんどの謎や疑問が解けました!
(ちなみにわたしはみなもと先生のまわし者ではありませんので・・・笑)
No.4
- 回答日時:
これまでに出た回答で十分かと思いますが、蛇足を重ねます(No.3さまの回答は”蛇足”などではないかと)。
まさにこの因縁を描いたマンガがあります。
みなもと太郎著「風雲児たち」です。
全20巻+6巻、今なお継続中という長~いマンガですが、そのうちの3巻までを読むだけでも、なぜ長州や薩摩・土佐が倒幕に立ち上がり、会津藩が最後まで徳川家を守ろうとしたのか理解できると思います。
ギャグマンガですが、史実に基づいてますし、独自の歴史観もありますので、お勧めいたします。
参考URL:http://www.fuunji.net/
みなもと太郎先生は新選組の話も書いていますよね。
どちらも読んだことがないのでこれを機会に
読んでみます!!
会津が何故京都守護職についたかというのは
知っていますが、薩摩、土佐が何故倒幕に立ち上がったかというのはわかりません。
これも長州のように昔からの因縁があるのでしょうか??
これも「新選組!」からの台詞の引用ですが、
薩長同盟の折に誰かが「あの長年いがみ合っていた
薩摩と長州が同盟だなんてありえん」と言っていたのですが、これも昔からの因縁??
ただ、単に八月十八日の政変のことを言っているのか??
お礼なのに質問ばかりしてすいません(汗)
歴史って深くて知れば知る程疑問が湧いてくるもんで。。
No.3
- 回答日時:
No1のご回答で十分と思いますが蛇足を付け加えると
関ヶ原の合戦にあたり毛利輝元は気が進まぬまま西軍の総大将に祭り上げられてしまいました。
これは安国寺恵恵の強硬な主張があったのと西軍優勢の予感もあったからです。
しかし一門の吉川広家は豊臣秀吉による冷遇を受けていたので西軍荷担に反対でした。
この為東軍に内通していたのです。
西軍内部でも広家を疑う声もあり、彼は勇戦せざるを得ませんでしたが、関ヶ原戦の直前東軍の黒田長政や家康の謀将本多正信らを通じ内応を持ちかけ、その際条件に毛利家には手を付けないという約束が欲しいといったのです。
黒田や本多は家康に報告、口約束の了解を得て承知と回答しましたが家康のお墨付きは出しませんでした。
しかし広家は信じて合戦が始まっても毛利本軍の行動を妨害して動けぬ様にし東軍の勝利に貢献したのです。
戦後当時大阪城にいた輝元にその旨を報告し東軍に抵抗しないように薦め輝元もやむなく従い大阪城を家康に引き渡し領国に帰りました。
所が戦後処理にあたり家康は毛利家を改易、跡地の一部を吉川広家に与えたのです。
広家は本家を裏切り恩賞を得た事に困惑し家康に毛利家には手を付けぬと約束をしたではないかと違反行為をせめましたが、お墨付きもない為泣き寝入りになる所でした。 これを見た黒田長政が仲介にたち改易を取り消し防長二ケ国に減封して毛利家の存続を認めたのです。
結果的に家康の謀略にかかったことになり、吉川家は裏切り者とのちのちまで藩内で白眼視され、毛利藩は徳川家に反感をもち、毎年年中行事として謀反は今年かいやまだまだと誓い合う事を常としたといいます。
これが幕末の爆発の遠因でした。
萩市と会津若松市の確執はこれとは別で蛤御門の戦いで長州勢が敗れたのは御所の警備に当たった会津藩と薩摩藩の奮戦のためとしてこの両藩に恨みを抱きましたが薩摩とは後に連合を結び明治維新を遂行したので、会津藩のみに恨みが集中し戊辰戦争で会津を攻めたのが長州を主体とする官軍だったのです。
なるほど、
徳川家康は策士であった訳ですね。
ただ、そこまでされてしまった長州藩は
200年の時を超えても恨みを覚えるのも
わかる気がします。
歴史はつながっているとよく言いますが
ほんとそうなんですね。
おもしろい!!
萩市と会津若松市の確執というのは具体的には
なんかあったりとかしたんですかね。
交流がなかっただけということでしょうか??
どちらかといえば会津若松市が萩市に恨みを
感じているというところなのでしょうか??
No.2
- 回答日時:
毛利元就は中国地方百十万余石の大大名でした。
輝元のときに豊臣秀吉の配下で五大老になりましたが、関が原の戦いで西軍に属したことで、徳川家康から周防、長門の二国三十六万九千石に封じ込められました。
本来なら関が原での不戦により(西軍に属しましたが見ていただけ)徳川が天下を取った後は、旧領安堵の密約があったのですが、この約束を破られた長州には徳川への恨みが残っていました。
五分の一に石高を削られた長州藩は、江戸幕府のスタートから、反徳川そして尊皇思想の強い火種を抱えた藩でした。
なるほど。
もし、これで家康がその密約を
守っていたら、、
幕末の歴史も大きく変わったかもしれない
ってことですよね。
長州は最大の佐幕派になって
公武合体が実現されていたとか、、、
まぁ歴史で「もしも」は禁止ですけど(汗)
ご回答有り難うございました!!
これでのどのつかえがとれました。
No.1
- 回答日時:
長州藩の藩主は毛利氏です。
関ケ原では徳川と敵対する西軍側の総大将を務めてました。(これが200年前の戦い)
そのときの影響で江戸幕府に大幅に領地を搾取されています。(この辺がうらみなのかも)
詳しくは参考URLをご覧ください。
参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B7%9E% …
なるほど!
これで合点がいきました!
今の時代ではあまり何百年前のことを
きにするということは考えられないので
昔の武士の魂の真剣さにびっくり、、と
思いきや
萩市と会津若松市は最近まで交流がなかった
というのにもさらにびっくり!!
歴史って深い!!
早速のご回答ありがとうございました!
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