第二次世界大戦で国民は得る物があったのですか?
戦争によって領土を拡大することによって様々な物資が日本に供給されていたことと想像されますが、
それによって日本経済は潤ったのでしょうか?それとも物資はほとんど軍隊の維持用に回され国民に物資が供給されることはほとんどなかったと考えていいですか?
たしかに戦時体制下では国民は苦しい生活を強いられていたように思いますが、それより前の話としてお願いします。うわさ、推測抜きでお願いします。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (6件)

>御意見を伺い、今の自分の戦争に対する悲惨なイメージもそう間違っていないと感じました。



#2で書いたEivisですが、その当時は廻り中みな同じで、物がないことなんかあまり悲惨だなんて思っていなかったんです。

とにかくS12?年頃日比谷の交差点の辺りで、親父の背中の上で「南京陥落]の提灯行列を見に行ったりしたんですから。。。

その次に少し侘しいかなと思うのが、S15年頃から三越のお子様ランチに[麦ご飯]が使われ始めた事です。
    (http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=137754・・・参照)

恐怖と悲惨が襲ってきたのは昭和19年頃からで、歴史に残るS20年3月10日の大空襲は、私の住んでいた三鷹から見ると

東の空が赤々としてものすごい恐怖感に襲われました。

私の住いの1.5km北側はB29の飛来コースで、飛行機はよく見えても、[中島飛行機製作所]の上にしか爆弾が落とさないので、

さほど怖くなく、民家を焼き払う意図としか思えない[焼夷弾]のほうが怖かったのです。

この10万人の被害者については、いえば言うほど思想的背景がありそうに見られるというのは犠牲者が可哀想ですね・・・。

そういえば、あの地域出身の体験者な筈の青島幸雄とか大橋巨泉さんなんかも忘れたがっているんでしょうか、不思議です?

S20年には極秘裏に停戦または終戦に向う裏工作もあったと聞きますが、陸軍を通信とした軍部は反対したとされています。

あの年の8月15日は全国的に良い天気だった事は書かれていますが、いつまでも暑くて10月半ばでも泳いだのを覚えています。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

再度のお返事ありがとうございます。
私は戦争を体験していない世代なのですが、
ご意見とても参考になります。

お礼日時:2001/09/30 13:06

戦争の原因は多様であったし、領土拡大も多様な原因があります。



しかし、現代の戦争、領土拡大もとても簡単な原因が多いのです。

近代から現代にかけての領土拡大の原因は、植民地にすることでした。

植民地とは、誤解を生じる言葉ですが、近代の植民地は資本主義の経済的な原因で発生してきました。

商品を作るための原材料を生産させる。これだけであれば、その国のすべてを破壊することはないのですが、安い商品を売り込むための国だったのです。安い商品を売り込まれた国は、その国の産業そのものが破壊され、本国の言いなりにならなければ、生きる糧を奪われる存在となったのです。

日本も鎖国をしている間は、領土拡大をする必要はありませんでした。

しかし、明治になり、多量の商品を作ることができ、その消費国を求める必要から、領土拡大が行われました。領土を拡大すれば、自国の商品を売る権限を得ることができるのです。他の資本主義の製品と競争する必要がないのです。

このような領土拡大策が世界的に行われ、最終的には、世界が分割され、ブロック経済を行うようになりました。各資本主義国が、自国の領土を守り、他国からの商品を入れないようにする政策です。

しかし、前回書いたように、このままの状況では、不景気の回復にはならないために、一番弱い、ドイツや日本が、戦争の引き金を引かなければならなくなったのです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。
持てる国と持たざる国と言う主張とともにドイツと日本がファシズムを展開したということですね。
世界史は既習ですので理解できます。

お礼日時:2001/10/01 14:03

質問の内容を読んでみると、戦争は必要だったか必要でなかったかと言う内容のように感じられます。


戦争は偶然に起きたのではなく、起こるべきして起こった考えてきます。もしあそこで戦争をしなかったら、戦争と同じくらい大きな苦悩があったと思います。その苦悩の回避を戦争といる博打にかけてしまったのだと思います。

すなわち世界は戦争をしなければどうすることもできないでいたのです。

一般に戦争は、生活ができなくなって相手のものを奪うことでした。日本国内の戦争は多くは権力闘争でした。

第一次大戦や第二次大戦は、皮肉にも豊かであったための戦争です。

商品が溢れ、失業者が急増している現代とよく似ていました。すなわち、世界恐慌からの脱出として、戦争が行われたのです。

商品が消費されないので、消費する。→軍需物資
失業者を隔離する(仕事を与える)→軍隊

すなわち、商品を消費し経済を好転するために以上の2つのことを推し進めました。資本主義経済のどの国も行ったのです。戦争の準備をすることが景気回復策として行われました。そうして、軍需物資や、軍隊が増えつづけ、本当に戦争をしないと消費できなくなったのです。きっかけは何でもよかったのです。破裂しそうな風船が破裂し戦争となり、戦後それなりの景気を取り戻すことができました。
不景気と言うのは、人間が必要でなくなること。景気がよいと言うことは、人間が必要で、社会的に価値を与えられることと考えてください。

これはまさに、商品を作りすぎた人間が、余り余った豊かさを、オリンピックにお金を使い、みんなで喜び悲しんだ世界史の悲喜劇です。

日本やドイツが戦後復興が早かったのも、古いシステムを破壊してくれたために、より効率的な都市の再生ができたからと言う面もあります。古いパソコンが一杯になってどうすることもできなかったのを壊し、新しいパソコンを入れたために、効率を上げたようなものです。戦争が終わったのは、いらない商品を使いはたし、いらない人間が死んだからです。

戦後、戦争の反省で、軍需や軍隊にお金をかける代わりに、国民に商品をまわすことが行われてきました。そのため、国民も資本主義経済の恩恵が得られるようになり、物質的に豊かになり、余暇も与えられるようになりました。しかし、この対応にも限界が来て、国民はこれ以上の消費をする必要もなくなり、不景気がはびこるようになってきました。

今、私達が、本当に価値ある人間として生きられる社会をつくらない限り、人間の狂気が戦争の原因となる可能性が出てきています。

戦争をしなければ、人々の生きる価値を奪われ、仲間同士の憎しみ合いが増したり、いじめ、差別が蔓延してきて、社会的秩序は保たれなかったと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。
戦争が景気対策であるというご意見はとても新鮮です。
ただ日本の場合、景気がいいときもわるい時を常に領土拡大を図ってきたのではないかとも思われます。
名目は、植民地化を避けるためとか、欧米支配からアジアを解放すると主張しながら。
領土拡大期を考えるとか朝鮮統治当たりからずっとということになりますからね。

お礼日時:2001/09/30 13:15

質問の内容が少々マトハズレの気もします。

「第二次世界大戦で国民は得る物があったのですか? 」と云うことは事後結果の内容であり、「・・・それより前の話としてお願いします。」と云うことは事前ですから。
そこで私の記憶をお話しします。私は昭和12年11月生まれです。ですから当時のことは覚えていませんが同年12月には南京を完全に占領しています。これを祝い全国で提灯行列があったそうです。ですから、人々の生活も豊かであったし、平和だったと思われます。目的が達成しているので喜ばないわけがありません。その後、国連で日本のすることが問題となり国連脱会、そして、第二次世界大戦となるわけですが、昭和20年の空襲のB29の轟音は今でも覚えています。子供の頃の心の傷とてもいいましようか、その恐怖は私の死ぬまで忘れないでしよう。住むところもなく食べるものもなく、思い出したくありません。その後、東京オリンピックの頃から日本の復興は目覚ましく世界でも注目の国と考えます。
私は、先の戦争がなかったなら現在の日本はないといっても過言でないと思っています。あれだけ傷みつけられたから、這い上がるチカラが湧くのであって平凡な生活では、あのチカラは出ません。東京の副都心のビル郡を見てください。あれは私たち同世代の者の結晶なのです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。
出来れば第二次世界大戦前のことを聞きたかったのですが、ご意見参考にします。

お礼日時:2001/09/29 14:43

台湾、朝鮮の日本帰属や満州建国は第二次大戦前のこととして12月8日以後について言えば酷かったですね!



歴史書に関係なく自分の感想で言えば、昭和17年4月に東京爆撃されたときには、学校の先生ら大人たちは自分を納得させ

言い聞かせるように「大した事はない」を繰り返し、国民学校(小学校)の生徒だった我々は「神国日本」は「深刻日本」だとも

知らされず、出生兵士を送っていました。 (後の東海大創立者の松前氏が登場の逆鱗に触れ、二等兵で徴兵された頃です。)

その頃、今のインドネシア、マレー半島、ビルマと南洋方面で作戦を展開していた日本軍の戦果のお陰で・・・という名目で

小学生にズックの運動靴と、ゴムのまりが段ボールに入って教室に運び込まれました。

ところが何と数量はクラスの人数の半分もないんです??

・・・いま次々と英国、オランダを追い出し、ゴムまりなんて百年遊んでも減らないような事を先生が真顔で云う時代でした。

結局、靴とまりはどちらか好きな方を抽選で分けたのですが、両方併せても人数分は無いし、靴なんかサイズも少ないので

何かものすごく寂しい思いをしたことがあります。。。

今の公約なんかまだ良い方で、当時は何もない戦果まで「勝った勝った」と騒ぎ立てる世の中で、そのとおり信じていたのです。。。

その頃のトラウマでしょうか・・・?いまだに、役人と政治家は信用出来ないという考えで凝り固まってしまったのは・・・?

読んでいて楽しくないし、気持ちよくないですね、、、どうも失礼しました!
    • good
    • 0
この回答へのお礼

本音でありがとうございます。
私は学校で戦争について習いましたが、
子どもだからということで少し歪められて教えられたんじゃないかと思ってました。
御意見を伺い、今の自分の戦争に対する悲惨なイメージもそう間違っていないと感じました。

お礼日時:2001/09/29 14:40

>たしかに戦時体制下では国民は苦しい生活を強いられていたように思いますが、それより前の話としてお願いします。


ということですので、二次大戦前の占領地についてコメントします。
収支ということならマイナスのはずです。
朝鮮、満州など、自国の勢力下に置いてから、道路・鉄道などのインフラ整備に金がかかり、さりとて元から有益な産業があったわけでもなく、税金など持ち出しの一方です。
そのあたりのことについて数値込みでかかれている本が何冊か出ています。
(昔読んだのでタイトルが思い出せませんが・・)
台湾、トラックなどの委任統治領についてはちょっと判りません。

満州で油田が発見されていたら違ったと思いますけどね。

この回答への補足

ありがとうございます。
質問文がした足らずであったので、補足させていただきます。
そもそも、政治腐敗→軍部の台頭を許す
という変化があったと聞きますので、
その軍部は国民を幸せにできたのだろうかと私は思って質問しました。
ということで、大局的にみて、軍部は国民を幸せにできたのかということでよろしくおねがいします。

補足日時:2001/09/27 18:25
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。
いわば赤字経営ということでしょうか?
そうなると命を犠牲にした人々にとってはやりきれない感があったのではないのかなとおもいました。

お礼日時:2001/09/29 14:35

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q戦争は武器商人などが儲けるためにしてるんですか?

戦争は武器商人などが儲けるためにしてるんですか?

Aベストアンサー

米国34代大統領のアイゼンハワーは、それを指摘して
いました。軍産複合体といいまして、
大統領でもどうしようも無いみたいです。

戦争の原因は色々ありますが、現在では資源と領土が
主な原因になっています。

イラク戦争は石油を巡る戦争であったし、パレスチナ問題は
宗教対立のように見えますが、本質は領土問題です。

資源や領土で戦争の火種が起こる。
そこへ、武器商人が政治家に、献金や票で
圧力を掛けると、
戦争になりやすくなる、ということは考えられます。

Q米軍の軍隊の組織の表

いくつの中隊が集まれば上位のカテゴリーの隊(例えば連隊とか旅団とか)になる、という表があると思うのですが見失いました。よろしければ教えていただけませんか?米軍でお願いします。

Aベストアンサー

 基本的には時代や、兵科(歩兵なのか騎兵なのか、機甲なのか)編成(重いのか、軽いのか)などによって異なってくるので、何とも言えません
http://www.lares.dti.ne.jp/~nadhi/allied.html
は北西ヨーロッパの連合軍の編成(1944~1945)
を集めたサイトです。しかし、私のブラウザ表示では樹形図のAAが崩れています。

http://www.100thww2.org/100org/100org.html
はアメリカ第100歩兵師団の編成表です。

現代で、一般論だと表はありませんが
http://mltr.e-city.tv/faq14b02.html#units
に一般例が示されています

Q戦争末期の中国戦線への武器弾薬の補給について

太平洋戦争末期の中国戦線(日中戦争)への武器弾薬の補給に
ついてですが、戦争末期になると米潜水艦の暗躍により、
商船を安全に送り込む余裕もなかったと思いますが、(最悪略奪すれば・・・な)食料はともかく、戦車や小銃などの武器や弾薬は
どのようにして日本本土から補給してたのでしょうか?
それとも日本海経由である程度終戦まで補給は継続していたのでしょうか?

Aベストアンサー

 太平洋戦争末期ということですが、1944年(昭和19)4月から発起した一号作戦という大作戦時でいえば、それまで中国にある兵器補給廠や貨物廠に貯蔵していた軍需物資がありました。(当時上海の第13軍参謀だった曲寿郎氏の回想による)また、内地からは朝鮮沿岸沿い経由で上海までは海上輸送で補給ができました。つぎに物資を補給する輸送部隊として満洲の関東軍から野戦輸送司令部2、独立自動車大隊7、独立自動車中隊2、独立輜重兵大隊3、独立輜重兵中隊6、野戦自動車廠移動修理班1が編入されています。これ等の部隊はなし得る限りの予備資材や燃料を携行することとされていました。このほかに中国には支那派遣軍野戦造兵廠があり、各種兵器や弾薬の製造を行なっていました。本廠、教育部を南京に設置、支廠を漢口、上海におき、天津と南京に製造所がありました。南京製造所は金稜工廠とよばれていました。

 45年に入ると、門司から釜山までの海上ルートにせばまり、しかも人のみとなり釜山からいったん満洲に入り兵器や軍馬、車輌を受領して鉄道で中国へ輸送されるのが主となりました。というのも満洲には1941年7月に行なわれた軍需動員(関特演)による蓄積があったためで、このころになると日本本土防衛のために満洲から部隊や軍需品が内地へ逆輸送されるようになっていました。

 太平洋戦争末期ということですが、1944年(昭和19)4月から発起した一号作戦という大作戦時でいえば、それまで中国にある兵器補給廠や貨物廠に貯蔵していた軍需物資がありました。(当時上海の第13軍参謀だった曲寿郎氏の回想による)また、内地からは朝鮮沿岸沿い経由で上海までは海上輸送で補給ができました。つぎに物資を補給する輸送部隊として満洲の関東軍から野戦輸送司令部2、独立自動車大隊7、独立自動車中隊2、独立輜重兵大隊3、独立輜重兵中隊6、野戦自動車廠移動修理班1が編入されてい...続きを読む

Q戦国時代の強い武将は本当にその人が強いの?

こんにちわ。ふと、ゲームをやっていて気になったので質問します。
よろしくお願いします。

よく、アニメやゲームなどで、武将が先頭で敵陣に突っ込んでいくシーンを見かけるのですが、実際の戦闘方法というのは本当にあんな感じだったのでしょうか?

日本の戦国時代にしろ、中国の戦国時代にしても強い武将というのは、一人で100人を倒すみたいなイメージがありますが、本当にそのようなことをした場合すぐに死んでしまうと思うのですがどうでしょうか?

大の大人が10人も集まれば一人くらいやっつけられそうなものです。

やはり、ゲーム等にでてくる武力が強い武将というのは本人が強いではなく、その軍団が強いだけなんでしょうか?統率がとれているとかみんなが死ぬ気で戦っているとかそういう意味なのですか?

実際、武将達は一番後方で戦いを指揮して親衛隊に守ってもらっていたからなかなか武将は死なないのではないか?

そう思ったので質問してみました。

誰か戦国時代の戦闘方法を知っている人、ご教授よろしくお願いします。
一騎当千とか絶対嘘だと思うんです。

こんにちわ。ふと、ゲームをやっていて気になったので質問します。
よろしくお願いします。

よく、アニメやゲームなどで、武将が先頭で敵陣に突っ込んでいくシーンを見かけるのですが、実際の戦闘方法というのは本当にあんな感じだったのでしょうか?

日本の戦国時代にしろ、中国の戦国時代にしても強い武将というのは、一人で100人を倒すみたいなイメージがありますが、本当にそのようなことをした場合すぐに死んでしまうと思うのですがどうでしょうか?

大の大人が10人も集まれば一人くらいやっ...続きを読む

Aベストアンサー

これは時代によります。
日本でも戦国時代後期になれば、銃の普及により前線で武将が指揮を取る危険度が大幅に上がり、前線で華々しく戦うのは無理になっていきます。
しかし飛び道具が発達する前は、武将が前線で戦うのは重要な要素でした。
例えば有名な項羽は前線で激しく戦い、最後の戦いとなった垓下の戦いでは一日で漢の指揮官だけで60人あまりと交戦したという、ちょっと信じがたい記録が残っています。
当時の戦闘では雑兵の殆どは雇われ兵で「命をかけて戦う」理由は殆ど無いため、自分たちの指揮官が打ち負かされると、戦意をなくして逃げ出してしまうのが普通でした。
つまり「一騎当千」には誇張はあっても、決して嘘ではありません。
このため少数の兵でも指揮官の武勇次第で状況をひっくり返す事が可能であったために、項羽や呂布と言った剛勇名高い将の軍は強かったのです(ただし個人の武勇で得られるのは、あくまでも戦術的勝利です。彼らが最終的に敗れたのが個人の武勇の限界を示しています)。
ただ上述のように時代が下り、飛び道具が発達するとそのような個人の武勇によって戦場を支配することは困難となり、現代ではそれは遠い昔の話となりました。

これは時代によります。
日本でも戦国時代後期になれば、銃の普及により前線で武将が指揮を取る危険度が大幅に上がり、前線で華々しく戦うのは無理になっていきます。
しかし飛び道具が発達する前は、武将が前線で戦うのは重要な要素でした。
例えば有名な項羽は前線で激しく戦い、最後の戦いとなった垓下の戦いでは一日で漢の指揮官だけで60人あまりと交戦したという、ちょっと信じがたい記録が残っています。
当時の戦闘では雑兵の殆どは雇われ兵で「命をかけて戦う」理由は殆ど無いため、自分たちの指揮官...続きを読む

Q抗日戦争、中国側の武器(戦闘組織・手段・支援)について

日中戦争時、抗日中国人の組織、戦闘手段(武器とその使用)、武器支援(購入方法)、について教えて下さい。

日本側は日中戦争中年間2万人ほどの死傷者がでていたそうですが、中国兵は強力な武器を持っていたようだという話しか知りません。

中国兵の所有はあくまでもライフル・機銃、拳銃だけであったとして、日本兵が所有していたライフルとの性能を比較して、知っておきたいです。

Aベストアンサー

>「当時の日本兵は蒋介石の軍隊とは戦ったが、共産党の軍隊と戦った記憶が無い」
それは地域による違いでしょう。山東地区では共産党軍の主力である通称「八路軍」が日本の59師団と戦っています。(もっとも、彼らの戦果報告は明らかに過大ですが)また、弾薬の乏しい八路軍は徹底的にゲリラ戦術でしたので、軍ではなく匪賊という認識だったのかもしれません。なお、戦後の国共内戦では国共両軍に旧日本兵の一部が強力、捕獲された戦車や戦闘機の扱いを教えたり、自ら操作して参戦したこともありました。

>ドイツのI号戦車A型
三国同盟以降に日本軍に捕獲(リンク先の一番下の画像参照)され、内地に持ち込まれ展示されましたが、気を使って「ロシア製」という説明表示になっていたそうです。
http://www2.ttcn.ne.jp/~heikiseikatsu/mokei/CAMARA.htm
他にも国民党軍は3.7cm対戦車砲PAK36や8.8cm高射砲(有名なFLAK18や36/37ではなく、海軍の沿岸砲)も使われており、後者は日本軍にコピーされ九九式八糎高射砲として生産されました。
http://www.warbirds.jp/kunimoto/type51/88-1.htm

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E8%B7%AF%E8%BB%8D

>「当時の日本兵は蒋介石の軍隊とは戦ったが、共産党の軍隊と戦った記憶が無い」
それは地域による違いでしょう。山東地区では共産党軍の主力である通称「八路軍」が日本の59師団と戦っています。(もっとも、彼らの戦果報告は明らかに過大ですが)また、弾薬の乏しい八路軍は徹底的にゲリラ戦術でしたので、軍ではなく匪賊という認識だったのかもしれません。なお、戦後の国共内戦では国共両軍に旧日本兵の一部が強力、捕獲された戦車や戦闘機の扱いを教えたり、自ら操作して参戦したこともありました。

>ド...続きを読む

Q長篠の戦いのうわさ。

長篠の戦いについてのうわさなどあったら教えてください。

Aベストアンサー

まずは有名なことから。
1、織田軍の有力武将の佐久間信盛が、勝頼に内応の手紙を出した。勝頼はこの話を信じて戦い敗れた。ただし、これは勝頼が戦に出てこないことを恐れたの信長が、信盛に命じて仕掛けた謀略で、勝頼はまんまと引っかかった。その後信長は、信盛を追放したが、これはこの後ろ暗い秘密を知る信盛の口を封じるためだったとするものです。

2、長篠の戦の前日、あるいは前々日に有海原(長篠より城に近い地)で、織田軍と武田軍の戦いがあり、織田軍は敗れて、長篠の戦の地=設楽ヶ原の中の連吾川の西側に撤退した。これも信長の作戦で、勝頼が全軍を率いて出てこないことを恐れ、初戦の小競り合いで織田軍が負けることで武田軍に自信を持たせ、戦いに引っ張り込んだとするものです。

3、武田軍も織田軍ほどではないが、設楽ヶ原の東側の丘陵部に野戦陣地をつくったとの話があります。(武田軍は最初持久戦を考えていて、しばらく持ちこたえれば大軍の織田・徳川軍は補給が続かず、撤退すると考えていた。)

4、京都では戦前は武田軍優勢の下馬評が高く、戦後も武田軍勝利、織田軍敗北のうわさが流れた。織田軍の部隊が京都に帰り着くとうわさは消えた。

5、家康の娘亀姫が、奥平貞昌(後の信昌)と結婚し、夫貞昌と長篠城に籠城して、鎧に鉢巻き姿で兵を激励した。

まずは有名なことから。
1、織田軍の有力武将の佐久間信盛が、勝頼に内応の手紙を出した。勝頼はこの話を信じて戦い敗れた。ただし、これは勝頼が戦に出てこないことを恐れたの信長が、信盛に命じて仕掛けた謀略で、勝頼はまんまと引っかかった。その後信長は、信盛を追放したが、これはこの後ろ暗い秘密を知る信盛の口を封じるためだったとするものです。

2、長篠の戦の前日、あるいは前々日に有海原(長篠より城に近い地)で、織田軍と武田軍の戦いがあり、織田軍は敗れて、長篠の戦の地=設楽ヶ原の中の連吾...続きを読む

Qベトナム戦争の頃、米軍とベトナム軍が使っていた武器はそれぞれどんなもの

ベトナム戦争の頃、米軍とベトナム軍が使っていた武器はそれぞれどんなものがあるでしょうか?
M16やAK47などのメジャー処は知っているのですが、もっとマニアックな銃が知りたいです。
URLだけ貼るというのはナシでお願いします…

乱文失礼しました

Aベストアンサー

北ヴェトナム軍が使用していた消音器内蔵の中国製拳銃「六四式微声手槍」はどうでしょう。

中国の人民解放軍特殊部隊に1964年に制式採用され、専用の7.65ミリ弾を採用。
音を極力出さないことを主眼に設計されたため、ほとんど音を出さないとか。
ベトナム戦争でアメリカ軍に捕獲されて、初めてその存在が知られました。
のちに小型軽量化された六七式微声手槍も開発されました。

中折れ式のグレネードランチャーM79もヴェトナム戦争がデビュー戦です。

小ネタとして、AK47のマガジンが不足気味だったため韓国でも製造されていたそうです。
アメリカ側に兵士を送り、ソ連側に武器を供給してたわけですな。

Q軍隊

映画を観ていて疑問に思ったのですが、
軍隊の少将・大佐・中佐・少佐・大尉・中尉・少尉・軍曹は何人ぐたいの部下の上官で、どんな部隊を統率していたのでしょうか?

Aベストアンサー

また微妙な話ですねえ。
以下のサイトなんかが良い資料なんじゃないでしょうか。時間ないのでURLだけ。


軍隊における階級呼称一覧
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E9%9A%8A%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E9%9A%8E%E7%B4%9A%E5%91%BC%E7%A7%B0%E4%B8%80%E8%A6%A7

近代陸軍の編制
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E9%99%B8%E8%BB%8D%E3%81%AE%E7%B7%A8%E5%88%B6

軍によっても時代によっても国によっても大きく違うんですよ。

Q日中戦争の頃の中国の武器はどのようなものでしたか?

日中戦争の頃の中国側の武器はどのようなものでしたか?
古い映画をみて、機関銃と迫撃砲くらいしか出てこないので、貧弱だったのかなと想像しています。
戦車や飛行機、戦艦、潜水艦などなかったのでしょうか?
飛行機などあれば日本本土を空襲したはずですよね。

中国の装備が貧弱であったので、日本はやすやすと侵入できたと考えてよいでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

当時の中国軍の装備はドイツの軍事顧問の指導により改善の途中でした。
チェコより輸入した機関銃は当時の最高級で、揚子江河口地区の防御陣地はトーチカなど近代陣地の装備でした。
この為上陸した名古屋師団はこの陣地に肉弾戦を挑み大損害をうけました。

当時中国軍は蒋介石の政府正規軍と軍閥の私兵からなっており、正規軍はかなりの近代装備を有していましたが軍閥の私兵は貧弱な装備でした。
正規軍は37ミリ以下程度の対戦車砲も有しており日本軍の軽戦車は撃破されたのです。
しかしこれらの装備を有していた正規軍が初期の防衛戦で消耗すると、彼我の兵器差は大きく開きました。

中国空軍は海外の義勇軍の混成で機種も2戦級でしたが奥地の重慶に遷都しての防衛ではかなり活躍し日本の護衛のない爆撃機は大きな損害をうけました。
開発直後のゼロ戦が護衛についてからは日本軍の一方的な勝利になったのです。

中国戦線での迫撃砲の脅威は唯一の大口径砲として日本軍を悩ませました。

しかし戦争末期にはビルマ経由の援将ルートで米英の近代重火器が到着しこれを装備した中国軍に北ビルマの防衛拠点を次々に奪われ玉砕が続きました。

中共軍とはゲリラ戦で困らせられ、かなりの兵力を貼り付けざるを得なかったのですがここでも戦争末期に
中共軍の百団大戦攻勢で板垣師団は大損害を受けました。
決して中国戦線では勝利だけではなかった事実は知っておく必要があります。

当時の中国軍の装備はドイツの軍事顧問の指導により改善の途中でした。
チェコより輸入した機関銃は当時の最高級で、揚子江河口地区の防御陣地はトーチカなど近代陣地の装備でした。
この為上陸した名古屋師団はこの陣地に肉弾戦を挑み大損害をうけました。

当時中国軍は蒋介石の政府正規軍と軍閥の私兵からなっており、正規軍はかなりの近代装備を有していましたが軍閥の私兵は貧弱な装備でした。
正規軍は37ミリ以下程度の対戦車砲も有しており日本軍の軽戦車は撃破されたのです。
しかしこれらの装備...続きを読む

Q戦時中のエピソード

沖縄戦か硫黄島かのどちらかだったと思うのですが、
守備隊が、武器弾薬が全く足らず作戦が成り立たないので至急送ってくれ、と毎日本土に打電していたのですが、既に制空権を奪われていたこともあり、本土からは何の反応もなかったそうです。
武器が届かぬままやがて米軍が上陸し激しい地上戦になりましたが、守備隊は洞窟などに隠れるなどして抵抗を続けたそうです。そんな日の夜、聞きなれた爆音が聞こえたので外をのぞくと日の丸をつけた輸送機がパラシュートで何かを投下していったのを目撃したそうです。
「武器が届いた!」「これで戦える!」と生き残り守備隊員達は、敵に見つからぬよう慎重にパラシュートの降下地点へ向かったそうです。運よく敵に見つからず、投下された大きな袋を発見したのですが、中には大量の竹ヤリが入っていたそうです。
守備隊員達は言葉も無く、その場で全員悔し泣きをしました。。。

といった感じのエピソードなのですが、(記憶が曖昧なので細部は違うかもしれません)
このエピソードが何の本に書かれていたのか、どこの島だったのか忘れてしまいました。
知っている方がいらっしゃいましたら教えていただけないでしょうか。

沖縄戦か硫黄島かのどちらかだったと思うのですが、
守備隊が、武器弾薬が全く足らず作戦が成り立たないので至急送ってくれ、と毎日本土に打電していたのですが、既に制空権を奪われていたこともあり、本土からは何の反応もなかったそうです。
武器が届かぬままやがて米軍が上陸し激しい地上戦になりましたが、守備隊は洞窟などに隠れるなどして抵抗を続けたそうです。そんな日の夜、聞きなれた爆音が聞こえたので外をのぞくと日の丸をつけた輸送機がパラシュートで何かを投下していったのを目撃したそうです。
「...続きを読む

Aベストアンサー

水木しげるさんの「白い旗」に一部掲載されています。
ほんの一コマ二コマですが。


人気Q&Aランキング

おすすめ情報