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中国残留孤児はその当時13歳未満、婦人は13歳以上っていわれていますが、ふと疑問に思いました。その当時、男性はいなかったのでしょうか?または、男性も含めて、婦人って呼ぶのでしょうか?
私の周りにいる残留婦人や孤児の方は(今は、中国帰国者とよぶのがただしいのでしょうか?)女性ばかりです。どなたか教えていただけませんか。

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A 回答 (8件)

No2の者です。



>13歳以上の男性は結局、何らかの理由で敗戦時には
>中国にはいなかったという意味でいいでしょうかね。

昭和20年の徴兵下限年齢は19歳でしたので、それ以上の年齢の男性は、その多くがソ連参戦の段階で召集されていたと思われます。昭和20年7月から8月にかけての「根こそぎ動員」です。満州での日本人を襲った悲劇の大きな原因がこれです。

13歳から19歳までの男性(今で言う中学生、高校生の年齢)は、餓死・凍死か日本に引き揚げるかのどちらかだったと思われます。

先の回答では書きませんでしたが、中国残留婦人が発生した背景には

* 当時の中国では、妻を迎えるには多額の結納金を妻の親に支払わねばならず、貧困のために一生独身で過ごす男性がかなりいた。売買婚の習慣です。

* そこに、根こそぎ動員・日本の敗戦・現地人とソ連軍による略奪によって、「父や夫を失い、一文無しで、言葉も通じず、日本に帰る手段のない若い女性」が大量に現れました。この女性たちを妻にするのに、結納金を払う必要はありません。

* 結果、50歳の貧農が、15歳の日本女性を妻にするような事態が発生しました。この場合の「貧困」というのは、日本人が想像できるような生易しいものではありません。リンク先の本で、控えめに描写されています。
例えば「結婚した男性は饅頭売りであった。妊娠したが、臨月になっても一日も休むことができず、饅頭を作りながら子供を産み落とした」といった話が伝えられています。

というものがありました。13歳以上19歳未満の少年の場合、こうしたことはありません。

参考URL:http://www.7andy.jp/books/detail?accd=19515660
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この回答へのお礼

どうして男性がいなかったのか?という疑問がとけました。詳しい説明ありがとうございました

お礼日時:2005/06/11 11:24

No5…の


為政者なんて何時の時代にも自分達の都合の良いように歴史を改ざんするものですから、ゴマメが幾ら声を大にして真実を述べても所詮空しさだけが木霊するのは分かって居ますが…

No4と5で発言をさせて頂きましたので、もうそれ以上の発言をしても無駄な事は承知しています。
併し、今定年を迎えた人達が終戦を知っていると思いますか?←僅か0歳の人達です。

敗戦当時は一面の焼け野原、何処の地方へ行ってもいたる所にパン゜パンと称される女性達がいました。彼女達は蔑視の目で疎んじられ日本人の恥だとされて来ました。
併し、彼女達の大部分は進駐軍の兵士達にもてあそばれ、その結果家族はもとより縁者からも疎まれ身の置くとこすらなく地元を離れ、落ちて行った経緯の人が多かったと思います。
日本政府や役人達が偉そうな事を言っても、同胞すら守れ無かったのです。

一方、満州に居残った日本人は「在留邦人だと」政府も役人も発言しています。
引き上げにしても、日本政府が手を差し伸べた訳ではなく、当時中国が、旧満州をも含めて統括する手段に共産党一党独裁国を目指した「蒋介石」と戦い、満州をも内包する事に成功しました。そこで、共産主義を遂行する為には、難民がいては(面倒を見なくては成らないので)邪魔。それで、難民は自国へお帰り…
所が、あれだけの広い国土(満州を自分の領土として広げた為)の末端(今の中国東北部)まで目が届かなかった。で、中央が難民を帰すように指示を出しても、肝心な里親が従わなかった(知らん振りを決め込んで)としても、中央(北京)にはその実情が把握出来なかった。
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小学生高学年位(日本で言えば)の少年は簡単に洗脳できて、最初の紅衛兵として仕立て上げ、罪人狩りを奨励しやがて、共産思想に異を持つ満人をも標的にして行ったのだと思います。
臭い物が真実で有れば有るほど隠したく成る物です。←だからそのような事は無かったのだと、紅衛兵の実在は、文革時にはじめて浮上して来たのだと言う歴史上のまやかしの手を、後の(当時の現実を知らない日本人は信じさせられて居るのです。
)
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何故13歳で線引きをしたのか。
当時、日本は数え歳が常識でした、8歳で小学校へ入学13歳は6年生でした。
尋常小学校と呼ばれて居ましたが、その上に、尋常小学校高等科と言うものが2年存在します。
女学校・中学校(戦後両方が高校と成った)、その上に高等学校と大学が存在し、就学年限も中学5年生まで。女学校・中学校などは、余程の裕福な子弟で無ければ行けなかった。
詰まり13歳までは子供扱いだったのです。
当時は(貧乏人の子弟は)小学校を卒業すれば、一般社会で働くのが常識でしたので13歳以上は社会人として自分の意思で子行動しているのだと、捉えて(都合の良い方便です)いた訳です。
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話は前に戻りますが、終戦の一寸前(ソ連の戦火が激しくなって)孤児の出現に触れましたが、日本国内にも浮浪児と呼ばれる孤児が無数にいましたが焼け野原と化した国内では政府も役人も手をつけられない(援助どころでは無い)実際にたい下手も差し伸べていませんでした。一方満州でも組織だった援護は大人でさえ受けられ無かった状況なので、里子の日本人孤児達を目の前にしても誰も(大人たちが)手を差し伸べてはあげませんでした。
自分達が日本の地を踏むのが精一杯で、彼らを置き去りにしたのが実状です。
収容所の内にも、引き上げ船の中にも、子供は殆ど居ませんでした。特に小学生高学年から上の人は見当たらない。?????
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それどころか、終戦で逃げ惑う中を(匪賊←強盗団のこと)に襲われ声を立てると見つかるので幼児達を親がわが手で窒息死させた例は山ほどあります。←そんな経験をした大人達が同胞とは言え他人の子(日本人の)面倒どころでは無かったのも事実です。
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軍人は、ずるい、自分達の家族は終戦前に日本へ返してしまい、敗戦時に一般人には、青酸カリを人数分渡して、「敵の手に落ちた時日本人として恥ずかしく無いように自決しろ!」だってさ…
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この回答へのお礼

戦争してもうかるのは誰?被害をこうむるのは誰?とよく思います。帰国者の生活や子供の教育にかかわっているので、歴史認識というものを改めて考えさせられます。たくさん教えていただき、ありがとうございます

お礼日時:2005/06/11 11:30

敗戦直後に、何らかの理由で、自分の意思で中国に残らざるを得なかった13歳以上の男性も、その後、中国側が日本側の要請で(国交は長い間ありませんでしたが、友好団体などによる民間交流はありました)帰国のための措置がとられていたと記憶しています。

兵士の帰還に準ずる扱いだったような気がします。
男性の場合も、今度のフィリピンでの日本兵騒ぎに見られるように、日本人は日本政府による保護の対象ですから、なんらかの対応を政府はとらねばなりません。だから、日本に帰りたければ、名乗り出ることはそんなにおかしなことではありません。
女性の場合は、中国残留婦人という扱いになります。家父長制の秩序の下では(現代日本にも家父長制秩序はあります)、残留婦人の場合は、向こうの家族との関係もあって、帰りたいという意思表示をすることが難しい事情が、過去にはあったということで、特別の配慮が要るということです。
中国人女性と結婚していて中国を離れがたかったとか、中国の人々との友情とか、中国のために働くとか、といった気持ちで中国に残った日本人は、日本人であることを隠す必要はなかったし、現地の人々とも友情や協力関係を築いていました。しかし、「文化大革命」のときには事情は一変し、紅衛兵は日本人を迫害しました。その人たちが、どんなに中国を愛していても、日本人だという理由だけで迫害されました。そのときには、日本人であることを隠してた人はいたでしょうし、そのときの記憶が強くてその後も隠し続けた人もいると思います。
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この回答へのお礼

男女差別があったんですね。男性だけが日本政府の保護の対象であるなんて。。文革のことは、本で読んだりしただけですが、実際中国の人は文革の迫害をはなしたがらないようですね。もしかして、また文革のようなことがおこらないとも限らないとおもっているのでしょうかね。。。
ありがとうございます

お礼日時:2005/06/11 11:27

ANo.4 の続き



ANo.4 を読んだ人は「なかにし礼(赤い月)や、山崎豊子・大地の子」の小説(映画化)を読んで、あれが戦後の満州の事実を物語っていて、ANo.4の書き込みは間違っていると言う人も多いと思いますが、小説と言う物は商業的ベースで考えられていて、或る特定の部分にフォーカスを当てて作られていますので、内容的に間違いは無いのですが、総てを物語って居るわけでは有りません。感動を得られそうな部分は強調されますが、目を覆いたく成るような現実的な話は寧ろ隠されて仕舞いがちです。でも、真実は真実として別の所で語られて(伝えられて)行くべきでは無いかと思います。
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例えば、「大地の子」の中では、文革時代に日本人糾弾が高まった様に書かれていますが、あの時期は終戦から20年も後の話です。現実に日本人孤児(残留婦人も)達が自分自身を隠さ無ければ成らなかったのは、終戦直後と、その後に少年・少女の組織の紅衛兵としょうされる一団が←(この陰には恐らく大人の軍人が指揮をして居たのかも知れない)所謂、人民裁判的権利を振り回して罪人(日本に加担した満州人)を後ろ手に縛り紙の羽織を着せ、その羽織に罪状を書き綴って市中引き回しの末銃殺したのです。一般市民も見て居るので、観衆達も興奮して、日本は悪いやっだ! と、そう言った雰囲気が増大して行き行き着く所は日本人は悪者だと…
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一方、満人の里親は総て善意の人と描かれていますが「大地の子」では偶々里親が教養の有る人なので(或る意味で裕福)高等教育も受けさせて貰えたように描かれていますが、当時の満州人の人達の大部分が貧困に近く、里子は「家畜の牛馬と同じく労働力の」一つとして日本の子供達を引き取った場合も多く、途中で売り飛ばされたり(表向きは共産党は人身売買は禁止)或いは昼は労働力、夜は息子の相手として…
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終戦から2年間位の間に何度か、引き揚げ命令の指示は出たはずですが、里親側が手放したく無い事情も有って本人には伝えられて居なかったのでは無いかとおもいます。
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満州人と中国人の違い
日本で言えば「旧アイヌ原住民と旧沖縄原住民」←言葉も通じなければ、文化も全然違う人種
現在は恐らく北京語に近いものを標準語として(旧満州人も)←使って居るだろうと思いますが、嘗て、台湾や朝鮮半島の人々に日本語を強制したようなものでは無いかと思う。
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この回答へのお礼

質問とはそれてしまいますが、確かに「大地の子」が日本で放送され、大ブームを呼び起こしことありましたね。そのときに残留孤児の方が「私たちのあじわったものとぜんぜん違う!こんなのは現実ではない!腹が立つから、見ない」って話してたことありました。
確かに、彼女たちのたどってきた道のりは、私が想像できるようなものではなかったようです。。。

お礼日時:2005/06/09 16:16

中国と言えば「反日」デモが起き一時は如何なる事かと思いましたが…



今の若い日本人達は「中国」と言えば中国本拠地である「北京」辺りの地図を想像しがちだと思いますが、…

所で、「残留孤児、残留婦人、中国帰国者」の大部分の人達は「旧満州」に在住して居た人達です。中には「大連」←辺りの居住者も居たと思いますが(一部には朝鮮半島に在住者も居ましたが…)
大連や朝鮮に在住してた日本人では「収容所」生活を余儀なくさせられたと言う話は聞いた事が有りません。
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旧満州では1945年8月にソ連が侵攻して来て略奪や婦女暴行のかぎりをやりましたが、八路軍が満州全土の治安を担当したので日本人に対する危機は一応回避されました。。そして日本人全員は双方の安全の為に「方々の収容所に一年半程収容された後」徐徐に移動命令に依って「ソ連領のコルトゥ」と言う港から佐世保へと引き揚げ船で帰国して行きました。その中には、数千人の女性が婦女暴行の為妊娠そして心的障害を負って(佐世保の療養施設で治療う受けて居た人達もいます。)
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1945年8月20日が敗戦日ですが、ソ連の空爆は7月には既に行われて居ました。
その為家族を失った歳はのいかない子供達は孤児と成って逃げる方策も有りませんでした。「大人と一緒に居た子供達は後に、収容所に入れましたが…」
戦前の満州での日本人達は「満人を侮蔑していました」が(山崎豊子・大地の子)でも見られるように、子供には罪は無いと、里親に成って下さった満州人の((中国人では有りません。)方々から長年面どうを見て貰いその日本人の子らが後に残留孤児、残留婦人、中国帰国者と成った訳です。
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余談ですが、八路軍はとても戒律が厳しく「敵である日本人」に対して、外敵(多数の強盗団や、反日満州人)から守ってくれましたが、やがて「紅衛兵」←何故か少年少女ばかりの兵隊でしたが、日本国に加勢した満州人を毎日の如くつるし仕上げと処刑の日々が続きます。
その煽りで、反日感情ももりあがり、里子として育てられた日本人の子(残留婦人と呼ばれる、当時少女だった人達も)日本人で有る事を隠さなければ生きて行けなかった(日本語の使用は厳禁)訳ですが、後に日本政府は、残留婦人は自らの意思で中国に残ったので日本政府には責任が無いと言う考えのようです。←事実は違います。
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歴史と違う事実。
紅衛兵「1966年に発動された「プロレタリア文化大革命(文革)」に実動部隊としてかり出された兵士」とされて居ますが「1945年.秋頃には(少年・少女達の組織で紅衛兵が)居ました。
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女性の場合は、13歳未満を「孤児」と呼び、13歳以上を「婦人」と呼ぶことになっているということで、「孤児」には男性も含まれます。



当時の民法はどうなっていたかは、僕は知りませんが、刑法の当時のままの規定には、13歳未満との性交渉を罰するようになっています(だから、刑法上は13歳以上との性交渉は合法です。現在では、ほとんどの県で青少年健全育成条例などで18歳未満の性交渉を禁じていますが)から、おそらく結婚もそれに近い年齢で認められていたのでしょう。
おそらく、13歳以上の場合は結婚などで中国人の保護を受けた、という扱いなのでしょう。やむなく中国に残らざるを得ない、ということでいうと、弱い立場の女性については、日本政府が様々な支援をする、ということです。13歳以上の男性だったら、ほとんどが軍事訓練を受けていたでしょうから、捕虜扱いだったり、自分の意思で残ったとみなされたりしている、ということなのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。13歳がどういう基準できめられたのかは、私もよくわかりませんが、自分の意思でのこったとみなされたってことですか?
もし、そういう人がいたとしても、日本人であることを隠して生きねばならなかったでしょうから、残留婦人としてでてくることはないですよね。。。

お礼日時:2005/06/09 16:10

残留婦人と言うのは、簡単に言うと、



* 日本人の妻や娘として満州にいた。

* 夫や父が、敗戦間際の「根こそぎ召集」で軍隊に行ってしまい、一家の大黒柱がいなくなった。

* ソ連軍が侵攻し、満州国の秩序が崩壊して、現地人とソ連軍の略奪で私有財産(お金、持ち物、備蓄食料)を奪われた。

* 異国の地で、瞬時に一文無しに転落し、このままでは餓死するしかない。実際、多数が餓死・凍死しました。

* 生き延びるために現地人の妻や妾になった。「幼ない子を少しでも延命させるため」という悲しい理由もあったようです。

という人たちです。本によっては「苦界に身を沈めた邦人女性も多い」とされています。なお、この状況は、北朝鮮から中国に逃げた「脱北者」の北朝鮮女性と良く似ています。

成人男性は多くが兵隊に取られ、シベリアに送られました。そうでない人でも、避難中にソ連軍に捕まってやはりシベリアに送られた人もいるようです。

根こそぎ動員の対象を外れ、妻子と共に行動できた成人男性は、「日本に帰る前に餓死・凍死」か「生き延びて日本に帰った」かのどちらかで、「残留」という可能性はないでしょう。
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この回答へのお礼

13歳以上の男性は結局、何らかの理由で敗戦時には中国にはいなかったという意味でいいでしょうかね。ありがとうございます

お礼日時:2005/06/09 16:07

残留孤児には男性もいますよ。

(肉親探しに日本に来る孤児は女性だけじゃないと思いますが)
孤児でない男性は、孤児や婦人が自分の意思とは関係なくやむを得ずに帰国できなかったのに比べて、男性は残留したのも自分の意思なので援護の対象にならないだけではないのでしょうか。
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この回答へのお礼

確かに昔、新聞で残留孤児の肉親探しで、男性の写真もあったことを思い出しました。やはり、13歳以上の残留男性はいなかったという解釈になるでしょうかね。ありがとうございます

お礼日時:2005/06/09 16:06

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