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いつもお世話になってます。

ふと疑問に思ったのですが、徳川御三家の領地はなぜ紀州・尾張・水戸なのでしょうか。

大阪でも京都でもなく。

「交通の要所」って訳でもなさそうですし、「仮想敵国」に対する「睨み」にもなってないような・・・。

ご存知の方がいらっしゃいましたらお付き合い下さいませ。

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A 回答 (18件中1~10件)

紀州(和歌山)は、藩主が幼少の頃は山梨近くに幽閉されていたということでその後、紀州に任じられていったという。

(辞典より)
どうも領地の位置理由は、今のところ不明です。
閉じられなければ3日間でできるだけ調べてみます。
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この回答へのお礼

こんばんわ。
ありがとうございます。

>閉じられなければ3日間でできるだけ調べてみます。

期待しちゃいますよ★

お礼日時:2005/06/09 00:49

家康のやったおこないを質問とは、脱線していますが


記入させてください。
征夷大将軍・・もともとは平安時代に蝦夷(えぞ)せいばつのために設けられた官職であった。しかしのちに天下の武力をつかんだという意味になり鎌倉以後、源頼朝以後は幕府の統率者をあらわす職名となった。

関ヶ原戦い以後の西軍の領地取り上げ、縮小
大名の種類わけ 一門 譜代 外様
将軍を秀忠にはやくゆずり天下を他のものに取らさせないとした、
江戸城を3代にわたり増強(諸大名に金をつかわせる)
貿易に朱印状をわたす。
普請(土目工事で諸大名に金をつかわす)
何かと言いがかりをつけて大名をとりつぶす(石田光成に似ているのが気に食わないなど)
領地の1部をめしあげる。
朝廷の実権をうばう。(家康の家来みたいに・・)
方広寺の鐘の国家安康君臣豊楽
大阪城の外堀内堀を埋める
武家諸法度 禁中並公家諸法度を出す
1国1城
城の修理の時は幕府に願い出る
近くの国であやしい動きがあったときは知らせる
大名同士、勝手に縁組してはいけない
天皇や公家は学問を第1とすること
武士は勝手に官位をさずけてはならない
死後、遺言で日光にほおむられたが、自分の神像は西に向けておけと言い残している。・・これは諸カツリョウコウメイににている。やはり西方の動きが気になっていたらしい。

家光は、さらに厳しく
参勤交代 1大名 今の金で1回で4億円かかる

まだまだ細かくは、あると思います。


その後の将軍は お犬様(あきれる政策) 質素倹約 いろんな政策が出ています。

こうでもしなきゃ治まらないのかなあと思えるですね。

この回答への補足

簡単な総括として。

「家康が御三家を作った」というのが、「正確」に言うと間違っていた。

「御三家だから」紀州・尾張・水戸を領したのではなく、たまたま「身内」として「要所」を領していた。

その後「御三家」として整備された。

皆様ありがとうございました。

補足日時:2005/06/13 01:13
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この回答へのお礼

こんばんわ。

細かい点までありがとうございます。

お礼日時:2005/06/13 01:12

再度すみません。

他の方が述べられていますが補足的に・・・

新人物往来社 書物 前述のとおり

(著述どおり)
 徳川御三家の成立過程と役割
御三家の成立を考える場合・・
江戸時代の最高権力の地位にある将軍家が、跡継ぎがないか、その地位にふさわしくなければこれにかわって将軍職を継ぐのが御三家である。幕藩体制にあっては将軍権力が絶対であって、御三家といえども将軍の親族であると同時にその家臣の地位にあったのである。将軍というのは、本来、武家の最高司令官であるから、これと同等の地位はない。ところが鎌倉・室町時代では例外ではあるが将軍の絶対的権威が発揮されることが少なく、その地位は常に安定しているとはいえなかった。これは将軍家を支える一門がそれと比較的、独立的な存在であったからである。
 徳川氏は家康の祖父 松平清康が三河を一応統一した以降もとくに「御一門」の家柄が確立されないまま
家康の時代にいたった。ところが家康においても結局、関東入国にいたるまで、徳川一門というべき親族は存立しないまま、御三家の成立にいたるのである。

関ケ原役以前の徳川一門
三河国(愛知県)の統一を出発点とし、遠江・駿河国(静岡県)、甲斐国(山梨県)、信濃国(長野県)のいわゆる三・遠・駿・甲・信五カ国を領有しさらに関東八ケ国を領有する家康に「御一門」という家柄はなかった。
 五カ国領有時代の徳川氏の事績を記す「松平記」に松平衆 松平国衆 松平之五人衆 の名称がある。
家康が徳川氏を名乗ったのは永禄9年で、それ以前は
松平氏であった。この松平一族は松平郷時代以降、家康の父弘忠にいたるまで、三河国の国人領主であった。これは現在の村の規模でいうならば、一、二ケ村
以上、数ケ村程度の地域を領有する領主で小規模とはいえ城をもっていた。松平一族は十四か十六家あったといわれ、一門衆といってもよい存在である。家康が徳川氏に改称したのは小領主的規模の松平一族とは一線を画し、自らは戦国大名であることを内外にしめそうとしたからである。そして松平一族をかっての同盟的な関係から家臣の地位とした。
このようなわけで五カ国領有時代の家康には、彼に対抗しうる御一門は存在しなかった。徳川氏の一門になるべき人は家康の子供たちであったのである。

徳川氏の内紛と御三家の成立
天下分け目の関ケ原の戦いは、豊臣秀吉に嫌われた毛利と吉川の裏切りも影響し徳川方の勝利に終わり、家康は西軍にくみした大名90家、620万石余の領地を没収した。この結果、関東、中部、近畿にいたる豊臣系大名は一掃され、徳川氏の直轄領、徳川一門、譜代家臣の新しい領地にあてられた。戦後、慶長7年までに独立した譜代大名は28家、関東入部後からすると徳川一門、譜代大名を合わせて68家に急増した。これにより徳川氏は近畿以東、関東にいたる日本列島の中央部を完全に支配化におき外様大名を圧倒したのである。関ケ原戦い後の家康の次のねらいは大阪城の豊臣氏包囲網をつくり、これを徳川氏の配下におくことだった。
 いっぽう豊臣秀頼は68万石の一大名に転落していた。畿内から西日本は豊臣方の旧武将も割拠していた。
 家康が慶長8年征夷大将軍となり、4年後に秀忠にゆずり、秀忠には最も信頼する本多正信を顧問役として残し駿府にはその子正純など側近による権力を編成した。江戸の幕府重臣は元来、秀忠付の近臣であるから
権力抗争が底流にあった。将軍秀忠には大久保忠隣という武功派の巨頭がいた。三河以来の五カ国領有時代における家康の旗本軍の大将には、三傑の井伊直政・本多忠勝・榊原康政がいたが、彼らは家康からはなれて藩鎮となっている。忠隣はこの三傑の跡継ぎ的な存在で旗本、譜代大名から人気があった。しかし当時の
徳川氏においては全国統治と貿易をおこなう面から本多正信・正純父子のような行政手腕の人材がひつようであった。
 このように江戸と駿府の重臣たちには対立的な要素があったが、家康にとってはこれを何とか統合し、ともあれ当面の敵対勢力の豊臣勢力の根を絶たねばならなかった。ところが大久保忠隣は徳川譜代の家臣に信望があると同時に豊臣方の大名にも交流があり大阪方から好意をもたれていた。
 結局、慶長19年、忠隣は根拠のない豊臣方への内通説により改易となり失脚した。
御三家につながる徳川一門の創設は、将軍権力の支柱になること、豊臣背力に対する威圧にねらいがあったが、大久保忠隣に代表される譜代勢力の発展を抑制する面もあったと思う。
 御一門の創設については関ヶ原の戦い後、四男忠吉を尾張国62万石 五男信吉を水戸25万国 六男忠輝を越後国(新潟県)高田城60万石 義直を尾張国62万石の大名とした。慶長14年十男頼信に駿府・遠江で50万石 11男頼房を信吉の没後、三戸城にいれた。
 --参勤交代の制度的実施は外様大名が寛永12年
譜代大名が同19年である。--

御三家は将軍と諸大名の中間的な存在でありながらも
将軍の家臣として位置づけられたといえる。
御三家という名称がはじめて史料にでてくるのは家光政権以後の延宝年間1673から81年といわれる。
5代将軍綱吉のときには尾張家 紀伊家 水戸家の三家がたの諸大名とちがった特別な格式をもつ家柄として制度化されたのである。
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この回答へのお礼

本当にありがとうございます。

家康の子供で、他家に養子に行っていない子供だけが「徳川」を名乗れて、彼らが後の「御三家」の基礎になったわけですね。

外様に対する「睨み」は親藩「松平家」と共に家康の子供たちも配置され、その子供たち「徳川(分)家」にはそれなりの石高を与えた。

で、歴史的に生き残った「紀伊・尾張・水戸」が「御三家」として現在に至る・・・。

と言った感じでしょうか。

貴重な時間を、私の質問にお付き合い下さいましてありがとうございました。

お礼日時:2005/06/11 00:58

15番で回答したのですが、主要搬路は海の航路です。


なお、その他いろいろ調べたのですが、他の方が前述されておられるので重複するようです。本当に簡単な記述になってしまいました。失礼いたしました。
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お待たせいたしました。

史実というのはひと口で説明するのは難しいと思いました。tkr1977さんは、研究者であられますでしょうか?
私のハンドルネームは女性と間違われるようなですが実は男です。(関係ありませんですが)
 何分質問に興味がわきましたので、歴史上ではかなり重要な部分みたいに感じますね。
 1993年11月18日初版1994年9月9日(株)平凡社 日本史大辞典(全7巻)より
 「水戸藩」・・徳川頼房(よりふさ)初代
1609年常陸下妻城主から水戸に移封(いほう)された。それ以後代々の水戸藩主は参勤交代を免除され江戸小石川邸に常住し必要なときだけ幕府の許可を得て帰藩する定めであった。江戸北方の備えに置かれたものであるらしい。
 「尾張藩」・・徳川義直(よしなお)初代
1663年甲斐の国から1607年尾張国に転じ東海道を押さえる広域藩となる。紀州家と交替で江戸参勤した。当家より将軍になったものは出ていない。
 「紀州藩」・・徳川頼宣(よりのぶ)初代
頼宣は家康から1603年水戸、ついで駿府、遠江等を与えられ1600年から19年間紀伊国を統治した浅野氏の安芸国広島転封(てんぽう)の後に移った。
駿府の家康側近と江戸の秀忠側近との確執、紀伊国の
政治的・地理的な重要性、つまり幕府権力による大阪ー江戸間の主要搬路の掌握、伊勢神宮の所在する伊勢国支配の確立などを考慮して紀伊国へ転封されたと考えられる。

次は 歴史読本44回 19巻15号 新人物往来社 1944年5月11日発行により
 家康手づくりの大名・・
江戸時代の大名の出身をみると(1)島津、毛利、伊達氏のように戦国大名が近世大名になったもの、(2)織田信長・豊臣秀吉に取り立てられたもの、(3)家康の家臣で関東入部後、大名になったものに分けられる。御三家はもちろん第3のタイプに入るが、
近世大名とは何かについて
(1)大名の領地が石高で示され、江戸時代では1万石以上が大名とされる。(2)兵農分離がなされている。戦国時代では、大名の家臣の多くは大なり小なり領地に居住し合戦になると動員されて主君の居城に駐留する。近世大名になるとその家臣は領地(村)から離れ城下の武家屋敷に常駐するようになる。(3)江戸時代に入ると参勤交代が実施され大名は1年交代で江戸に居住するため、領国の統治は城代家老にまかされ家臣は在国と江戸に分かれて勤務した。(4)幕府の発布した武家諸法度は厳守しこれに抵触すれば改易(御家断絶)、減封(領地削減)の処罰がある。(5)とくに譜代大名は転封(領地の移動)が多く、一定の領地に落ちついてくるのはだいたい元禄期以降である。‘‘大名を鉢植えにする‘‘ということばがあるが、これは近世大名の特徴を示している。
 ここに御三家の特別な地位が明らかになる。
譜代大名はよく転封ー移動されるが、御三家は水戸・尾張・紀伊の要地に配置されて以来、明治維新にいたるまで移動されなかったのである。

私的の感慨・・・・・
家康のやったことで将軍を4年間おこなって次の将軍に
ゆずり(自らは浜松にいて実際は政治の権力を握り)
これは豊臣秀吉の系列をうつためと本当に徳川家(親戚松平一族の中でも独立した)を固めたあらゆる政策を打っていったということで、世の中を平和に保つというより、幼少のとらわれ時代反動もかなりあるような感じ=ふるえあがる独裁性てきなものを感じられずにはおられません。
ていうと関係の方にご迷惑ですが、深く研究すればするほどそういうことは感じますね。

歴史の史実は教科書で教えられるより自分から研究してみるといろんな刺激を与えられるとつくづく感じました。有難うございました。
長らく記入しましたが、また別の楽しみのある質問を期待しております。


「追伸」 前の#7、幽閉の件、どこで見たかまた振り返って調べたのですが、出てこなかったのでここの部分は無視してくださるようにお願いします。





 
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この回答へのお礼

私はただの歴史好き好き人間♂です。

私を含め、「素人」の「ふとした疑問」が歴史カテに限らず入れられてますが、その「ふとした疑問」って案外教科書に載ってなく、しかも今まで何の気にもならなかったクセして、急に「ふと」疑問に感じちゃったりするんですよね。

そういう質問を見つけちゃうと、私も意地になって調べちゃいますね。
普段、本棚に飾ってある本をひっくりかえしたり、色んなキーワードで検索かけてみたり。

またいつかお付き合い下さいませ。

お礼日時:2005/06/11 01:11

「交通の要所」と言う意味では紀州は、江戸時代以前の唯一の大量輸送手段である水上交通の要です。



船で西国から東国へ移動するには、瀬戸内海を通ろうが、土佐沖を通ろうが、
必ず紀州沖を通過します(昔の舟は陸地沿いにしか航海できる技術がありませんでしたので)。
熊野水軍がかつて精強を誇ったのも東西の水上交通の要に位置し、関舟で通行料を徴収していたからです。

尾張は、陸上交通における東西の要にあたります。
中仙道や東海道はもちろん伊勢街道や伊賀街道など、東西南北の街道が一度ここで集結する場所です。

そのために、頻繁に大名は配置換えされています。
結局、徳川姓を名乗ることが出来る一族を配置することで、徳川家の防衛構想が落ち着いたと考えるのが妥当ではないでしょうか?
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この回答へのお礼

こんばんわ。

「徳川家・幕府にとって、紀州ってそんなに重要な場所か?」って思っていたのですが、「水上交通の要所」なのですね。

ありがとうございました。

お礼日時:2005/06/10 01:01

#9の


>たまたま石高の高い藩が後に御三家になったのであって、御三家を紀州・尾張・水戸に封じた訳ではないってことですね。

生き残ったと見るべきかと思います。
御三家が成立したのは3代将軍家光の時代で、初代家康にはその思想がなく、2代秀忠は意図的に忠長を優遇します。
尾張義直、紀伊頼宣、水戸頼房と家光、忠長とは叔父・甥の関係ですが、年齢的にはほぼ同じ(家光を基準にすると義直が4歳年長、忠長は2歳下)で、家康死後の元和8年(1622)までは頼房の方が忠長の上位にいますが、元和9年に50万石に加増されて頼房を抜き、寛永元年(1624)には5万石を加増された上で、頼宣の駿府城を与えられますから、2代秀忠としては何らかの意図があったと思われます。
秀忠の時代に越後高田75万石の忠輝(家康6男)が改易になっており、この時点では4家。
結局3代家光により忠長が切腹させられ、最終的に残った3家をもって御三家とし、他の大名家とは差をつけたということかと思われます。

>「紀州」も「紀伊」も同じだと認識しておりました

これだけで1つのポストが造れる問題で、紀州とは大別すると紀伊の国と熊野の国が1つになった言葉で、紀伊という言葉自体も古代は「木の国」と呼ばれ、結局紀州は5つの国が合わさった意味になります。

>将軍家の跡目争い
ついでにですが、一応将軍家に後継ぎがいない場合は御三家からだすという建前がありますが、8代将軍候補を見ますと根回しがものを言うように思います。
このとき、血筋で一番将軍家に近い立場にいたのが、館林の松平(越智)清武。
3代家光の孫にあたり、6代家宣の実弟で、この時点では徳川宗家に残った唯一の男子ですから、有力候補の1人となってもよさそうなものですが、早々に脱落します。
吉宗が血筋をアピールして8代将軍になってますから、事前の運動があれば清武がなっても不思議でないと考えています。
理由として、一旦他家に養子に言ったからとか言われても、兄の家宣も新見家に養子に行ってますし、決定的ではないので。
脱線してすいません。

この回答への補足

脱線ついでに、よく考えると吉宗ってすごいですね。

「御三卿」を作って、
「親藩(松平家)」<「御三家」<「御三卿」<「将軍家」
って序列を整備し強固にしたわけですから。

さすが「中興の祖」ですよね。

補足日時:2005/06/10 00:46
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この回答へのお礼

たびたびありがとうございます。

>生き残ったと見るべきかと思います。

歴史に「もし」はタブーですが、ひょっとしたら「御三家」じゃなく「御四家」なり「御五家」の可能性もあったわけですよね。

実際、綱吉(館林藩主)や家宣(甲府藩主)は本家(宗家)から独立していたようなものですしね。

お礼日時:2005/06/10 00:39

 仮想敵国に対する睨みという点では、水戸は伊達に備えるためであることは周知の通りです。

名古屋は東海道・中仙道双方にに近く、萩・鹿児島など西国が攻めて来ても抑えられるからという「軍事上の要衝」という理由と、もともと織田の拠点であったという警戒心があったことも挙げられると思われますが、如何?

 京都には所司代を置いて幕府が直接支配し、同じく大坂も将軍自らを城主として大坂城代を置きました。これは、当時江戸よりも物資の集まる環境が整った場所に藩などを置くと、下手をすれば幕府より強大になってしまうおそれがあったからではないかと推測されます。「大坂」ではなく「和歌山」とした理由もその辺にあるのではないかと考えられます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

尾張は信長も秀吉も生まれた地ですからね。
交通の要所だけでなく、歴史上の要所って意味も含まれてるみたいですね。

大阪や京都に領地をもったら、確かに「天下」を窺いたくなるかもしれませんね。

ありがとうございました。

お礼日時:2005/06/10 00:45

ここで質問してもいいのか分からないんですけど…



「御三家」って「尾張・紀伊・水戸」ではないんですか?
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この回答へのお礼

こんばんわ。

ご質問の意味が分かりません。

私が「紀州」と書いたことについて「紀伊」ではないか?とのご指摘でしょうか。

それとも「序列」についてのご指摘でしょうか。

<前者の場合>
個人的に、「紀州」も「紀伊」も同じだと認識しておりました。
ですので、「紀州」と「紀伊」が異なるもの(「紀州」が適切でない)であれば今後改めたいと思います。

<後者の場合>
「序列」と言う意味では「尾張・紀州・水戸」と並べるのが「暗黙の了解」「適切」なのかもしれません。
個人的に「御三家」に「差」を付けることに、なぜか抵抗を感じるので、西から「紀州・尾張・水戸」と表記いたしました。

なぜ抵抗を感じるんでしょうかねぇ。
たぶん尾張の某氏が「御三家とは将軍家・尾張・紀州を指す」なんて将軍家の跡目争いの中で発言したのが気に食わないのだとは思います。

ひょっとして、この「御三家=将軍家・尾張・紀州」に対してのご指摘でしょうか。
この「御三家=将軍家・尾張・紀州」って言うのは、尾張家だけの常識です。
一般的(教科書レベル)に御三家とは「紀州・尾張・水戸」を指します。
「御三家=将軍家・尾張・紀州」は将軍を出したくても結果的に出すことの出来なかった尾張家の自慰です。

それ以外のことについてのご指摘であれば再度頂きたく思います。
(もちろん、このレスに関しても結構ですよ。)

お礼日時:2005/06/09 00:19

紀州藩ですが、これは左遷と見たほうがよいでしょう。


紀州藩の初代徳川頼宣は、家康に可愛がられ駿河・遠江50万石を与えられますが、秀忠により紀伊・伊勢55万5千石で転封されます。
代わりに秀忠の可愛がっている次男忠長が入るので、穿った見方をすれば、弟よりも息子をということでしょう。
和歌山城も豊臣秀長の城として藤堂高虎が縄張りし、その後桑山重晴から浅野幸長と城主が代わり、福島正則の改易で広島に浅野家が移った後に徳川頼宣が入りますが、紀州は統治が難しい国であり、加増とはいえ駿河のほうが上かと思います。
尾張は徳川発祥の地、岡崎に隣接し、東海道の要衝にあたり、家康の9男義直が、兄で清洲城主の忠吉の死亡により入りますが、西国への押さえと言う意味があります。
家康は11人の息子がいますが、上には冷酷無残、下は猫かわいがりで、長男信康(切腹)、次男秀康(他家に養子)、3男秀忠(ボンクラ呼ばわり)、6男忠輝(追放)で、下の3人は可愛がると言う親でした。
家康の考えとしては、可愛い9男義直には実高(木曽のヒノキがあって豊か)の多い尾張を与え、10男頼宣には駿河を与えて自分の老後を看させ、11男頼房には水戸を与えて江戸の押さえとしたということかと。
それが秀忠に代替わりして、目論見が変わったのでしょう。

大阪城は石山本願寺が織田信長の攻撃を多年にわたって凌ぎきった天然の要害で、そこに豊臣秀吉が天下の財をかけて築城したのが元々で、天下一の城と言ってもよく、多くの大名が望みましたが、この城を望むものは幕府に反抗する意思があると、改易されております。
曰くつきの城なので、幕府が大阪城代を置いて、直接支配しておりました。
因みに大阪城代は幕閣のエリートコースで、これを無事に勤めると老中への道が開けます。
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Aベストアンサー

こんにちは。
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>>徳川本家、御三家の家紋に違いがあるのでしょうか?

回答から先に述べますと、「若干の違い」がありました。

まずは、「葵のご紋」の使用について・・・。

(1)葵の紋は、京都賀茂神社の神紋であり、賀茂神社の神主、氏子、信仰者に葵紋が広がりました。

(2)三河から伊豆にかけて「賀茂」という地名が残っており、賀茂神社の社領が多くあった名残です。

(3)三河に居た松平氏、伊那氏、島田氏が葵紋を使っていたが、徳川家康が天下を取ると、葵紋の独占を図り、他家での使用を禁止しました。

(4)ただし、本田氏のみが賀茂神社神官の出自であったため、徳川家の独占に対して、
「殿こそ、新田の出であるのであれば、丸に一の「一引紋」に変更されたらいかがでしょう」
と、断り、家康もそれにはさすがに「理の当然」と考え、本田氏も葵紋を使用することを許可しました。

(5)賀茂神社の葵紋は、
そこで、徳川家では丸に三つ葉葵に変形させて、現代で言う「三つ葉葵」の紋を将軍家の紋所としました。
賀茂神社の葵紋は、次のサイトの一番上の右端の青い房に描かれた紋所です。

水戸家では、「茎無し」の三つ葉葵を使用しています。(次のサイトの二段目、左から四番目)
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GGLL_jaJP389JP389&q=%E8%91%B5%E3%81%AE%E7%B4%8B&um=1&ie=UTF-8&source=univ&ei=9TqGTIu_H4ffcZ37uZ4I&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=1&ved=0CCkQsAQwAA&biw=1251&bih=561

また、徳川本家でも、家康や秀忠、家光と違って5代将軍の綱吉や吉宗などは「茎」を太くしています。
http://www.google.co.jp/imgres?imgurl=http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2007/08/30/kamonaoicc.jpg&imgrefurl=http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2007/08/post_1188.html&usg=__jxzriYUf2UeE0LVYQmMrN0hIi4Y=&h=691&w=144&sz=133&hl=ja&start=18&zoom=1&tbnid=2auxicMlXwz1CM:&tbnh=137&tbnw=29&prev=/images%3Fq%3D%25E8%2591%25B5%25E3%2581%25AE%25E7%25B4%258B%26um%3D1%26hl%3Dja%26sa%3DX%26rlz%3D1T4GGLL_jaJP389JP389%26biw%3D1251%26bih%3D561%26tbs%3Disch:10%2C472&um=1&itbs=1&iact=hc&vpx=444&vpy=61&dur=14719&hovh=400&hovw=83&tx=104&ty=267&ei=zjmGTOeJA4XBcfTXwZ4I&oei=rjmGTLfUOYOHcdvXzOwK&esq=7&page=2&ndsp=22&ved=1t:429,r:10,s:18&biw=1251&bih=561#javascript:void(0);



紀州徳川家でも「茎」は描かず、さらには、「葉」の葉脈の数を変えたり変形させたりしています。
(最初のサイトの6段目左から二番目の銀色の紋所・・・もちろん、金色で描かれることもありました。

このように、本家でも違いを顕わにし、御三家なども少しずつ時代と共に変化を見せています。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>徳川本家、御三家の家紋に違いがあるのでしょうか?

回答から先に述べますと、「若干の違い」がありました。

まずは、「葵のご紋」の使用について・・・。

(1)葵の紋は、京都賀茂神社の神紋であり、賀茂神社の神主、氏子、信仰者に葵紋が広がりました。

(2)三河から伊豆にかけて「賀茂」という地名が残っており、賀茂神社の社領が多くあった名残です。

(3)三河に居た松平氏、伊那氏、島田氏が葵紋を使っていたが、徳川家康が天下を取ると、葵紋の独...続きを読む

Q徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。

こんにちは。

私の手元に、「江戸(嘉永)時代大名紋章及び城郭図」という地図があり、それを見ていて疑問に思ったのですが・・・。
徳川家は八百万石という力を持っていたにも拘わらず、江戸と呼ばれる範囲はあまりにも小さいと気が付きました。
他の裕福な藩は(加賀など)広々とした領土なのに、どうして徳川家の領土(城下町?)はこんなに狭いのでしょうか。
江戸以外にも、直の領土があったのでしょうか。
それとも、広い城下町を持つ必要がなかったのでしょうか。

教えていただけたら、ありがたいです。

Aベストアンサー

徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。

日本全国の総石高が3000万石といわれている中、幕府直轄領の石高が400万石(13%)~450万石(15%)、旗本領が約400万石、合わせて800万石(27%)を上回り、全国の30%近くを占めます。面積について乱暴な言い方をすれば、同じ様な比率で直轄領及び旗本領を持っていたものと考えられます。ですから、全国の1/4近くの支配地を持っていたことになります(直轄領だけでいえば1/7程度)。
直轄領は、江戸時代には御料、御領、御料所などと呼ばれ、明治以降は天領と呼ばれますが、天領と呼ぶのが一般的です。全国に散在し、直轄地がなかったのは蝦夷地くらいのものでした。ただ、蝦夷地も、寛政11年1799に東蝦夷地を直轄領とし、文化4年1807には西蝦夷地も直轄領にします。この処置は、文政4年1821に東西共に松前氏に返却しています。
大きな直轄領としては、九州の日田地方、石見東部、愛媛東部、備中西部、播磨西部、但馬西部、大坂・堺・京都周辺、近江南部、大和南部、飛騨一国、中期以降の甲斐一国、三河・遠江・駿河・伊豆の過半、武蔵・安房・下総・上総の過半、常陸南部、会津西部、山形北部、秋田南部など全国に及んでいます。
一般に10万石以上の地域を支配する場合は郡代を、それ以下は代官を派遣して支配をしています。また、一部では譜代大名などに預けている場合もあります。
この他に全国の主要都市を、江戸・京都・大坂以外に、伊勢神宮門前町の山田、貿易港長崎、金山の佐渡、旧貿易港堺、他に奈良、伏見を直轄地として、遠国奉行を派遣しています(幕末には神奈川、下田、兵庫、新潟、函館などの開港地も直轄領化し、奉行を派遣)。
佐渡、伊豆、生野、大森などの主要鉱山も直轄地ですから、全国展開していました。

以上、参考までに。

徳川家は八百万石なのに、どうして江戸の面積は狭いのでしょうか。

日本全国の総石高が3000万石といわれている中、幕府直轄領の石高が400万石(13%)~450万石(15%)、旗本領が約400万石、合わせて800万石(27%)を上回り、全国の30%近くを占めます。面積について乱暴な言い方をすれば、同じ様な比率で直轄領及び旗本領を持っていたものと考えられます。ですから、全国の1/4近くの支配地を持っていたことになります(直轄領だけでいえば1/7程度)。
直轄領は、江戸時代に...続きを読む

Q江戸時代の徳川家の譜代の家格の序列が 尾張>紀州>水戸 なのはなぜ?

江戸時代の徳川家の譜代の家格の序列が 尾張>紀州>水戸 だった、と読みました(吉宗就任のあたり)。
これはなぜなのでしょうか?もしかして、これらの分家のさい、尾張の1代目がほかより年長だったから、という理由でしょうか?家督の序列は3代家光以降定まった、と聞きました。

Aベストアンサー

名古屋城本丸は, (江戸城を除く) 他の城の本丸と違い「将軍が使う」ためにありました. だから尾張藩主は本丸ではなく二の丸を使っています.
名古屋城は, もともと西国 (特に大坂豊臣家) に対する最終防衛拠点兼最前線基地として使うことを考えて設計されています. 実際, 大坂の陣では家康自身が名古屋城に入って指揮をとるという計画もありました. もちろん, 家康は尾張藩主より格上 (義直の親だし, なにしろ大御所だから) なので, 家康が執務に使う部屋も藩主より格上でなければなりません. そのため, 設計時点では「藩主は二の丸を使い, 家康が本丸を使う」ということを予定していました.
ところが, 大坂の陣が予想した以上に簡単に終わってしまったため, 結局家康が本丸を使うこともありませんでした. が, まあそんな予定だったので, 藩主は二の丸で政務を執ることになりました.
平時に「将軍が名古屋城で政務をとる」ことは非常に稀なので, 本丸は通常空であり, 管理するための人がいるだけだったはずです.

Q水戸藩の参勤交代について

参勤交代についてですが、[水戸藩は江戸定府→参勤交代なし]と参考書に書いてあります。これはどういうことですか?水戸藩は江戸にあるから、参勤交代はなし。って意味ですか?水戸って現在の茨城県のあたりですよね?茨城が江戸のはずないし。どうでしょうか。よくわからないので、知識のある人お願いします。

Aベストアンサー

水戸藩主は常時江戸にいるのが原則であり、そのため参勤交代はありません。もちろん、ごくまれに将軍の許可を得て水戸に帰る場合もありましたが、参勤交代というのはあくまでも毎年領地と江戸の間をいったりきたりすることなので、たまに領地に帰るのは参勤交代とは言いません。
そのため水戸藩主は一生のうち水戸にはほとんどいませんでした。
水戸藩主のほかにも参勤交代をしない大名はありますし、老中・若年寄ほかの幕府の役職についている大名も在職中は江戸にいたきりなので参勤交代をしません。

Q徳川綱豊(徳川家宣)がいるのに徳川綱教が6代将軍候補になっていた理由は?

徳川御三家は徳川宗家の血が絶えたときに、将軍を出す役目を持っていました。
つまり、とくがわ徳川宗家の世継ぎがいる限り、その人物が将軍となることが決まっていたはずです。
5代将軍の徳川綱吉には、兄(徳川綱重)の嫡男であり、家光の孫にあたる徳川綱豊(後の徳川家宣)がいました。常識で考えれば、れっきとした徳川宗家の血をひいている徳川綱豊が6代将軍の筆頭候補になるはずです。
なぜ、徳川綱吉は甥であり、家光の孫である徳川綱豊をさしおいて、分家にあたる御三家の一つである紀州家の徳川綱教を次の将軍にと考えたのでしょうか?
血統的には誰が考えても徳川綱豊こそが次期将軍筆頭候補になるはずです。
徳川綱吉がれっきとした宗家の血をひく人物(徳川綱豊)がいるのに、御三家(分家)の徳川綱教を次期将軍にと考えた理由を教えてください。

Aベストアンサー

綱吉には徳松と言う子がいました。当初、綱吉は徳松に将軍職を譲りたいと思っていました。
水戸光圀の反対を押し切り徳松を江戸城に入れたものの、徳松は5歳で死去してしまいます。
順当に行けば綱豊が将軍継嗣となってもおかしくは無いのですが、
当時、綱吉の母(桂昌院)と兄・綱重の母(順性院)は反目していて、綱吉は綱重の子である綱豊が将軍になるのは避けたかったと言うのと、
綱吉の「自分の血筋を将軍にしたい」と言う願望から、娘婿の綱教を将軍候補に擁立しようとしたのです。

しかし宝永元年、綱吉の娘で紀伊綱教の正室の鶴姫が亡くなってしまい、
綱吉の血筋が絶えてしまった事から綱教が将軍世子になる根拠がなくなり、綱豊が綱吉の世子となり家宣と名を改め6代将軍となりました。

Q純正カーナビで走行中もTVを見られるようにするには?

新車を購入し、はじめて純正のカーナビもオプションでつけました。ところが、走行中は「安全のためと…」とTVが見られません。後付したときには見られたのに残念です。
もし、純正カーナビでも走行中も見られるようにできるなら、その方法を教えてください。
ちなみに、車はエスティマです。

Aベストアンサー

助手席の人がナビを操作したり、TVを見るのはぜんぜんOKですよ。

今回も、助手席の人の為ですよね!
その場合は、下を参考にしてください。

-----------------------
前回、助手席の人が見たいということで回答しましたのでリンクを参照してください。

全ての車で出来るかどうかはわかりません。
また、全て自己責任でやってください。

http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1706179

Q徳川家康が旧武田家を優遇した理由について

お世話になります。

家康公が甲斐武田家の遺臣を優遇し江戸幕府の中枢として取り立てたことは有名ですが、

これは何故でしょうか?

「わしの人生で3人の大きな師がいた。一つは信長公よ。
なんと恐ろしい方であったろう。だがわしのことを最後まで信頼して下さった。
一つは太閤殿で、わしに天下の何たるかを知らせて下さった。
最後には武田信玄公だ。この方はわしに戦の仕方を教えてくれた」

と隠居してからの言葉にあります。(小説なので脚色あると思いますが)

大久保長安などを今で言う財務大臣に取り立てたり、
八王子千人同心など、地域ぐるみで保護した経緯もあるようです。
また、のちの水戸藩(茨城)に2~3年、武田家を復活させたこともあったようです。

いろいろな説があると思いますが、なぜ家康はそこまでして武田を保護したのでしょうか?

Aベストアンサー

まずは国を治めるうえで、信玄のやり方というものが
かなり家康の手本になったということでしょう。
農業、治水、治山、軍事などあらゆる部分を参考としたはずです。

昔の場合であれば、単なる仕組みややり方を盗めばよいという
ものではなく、大方の場合、それらは人によって伝承されていたと
考えてもよく、武田遺臣を厚く遇することで、
信濃経営を順調に行うことと、それらの技術やしくみを取り込むことに
成功させたといえるのではないでしょうか。

信長のように歯向かったものは殺してしまえより、
秀吉のように昨日の敵もうまく使えば今日の味方という
ようなやり方が家康にはあっていたということもいえるでしょうが。

そういう意味では、家康が特別に武田遺臣を遇したというより、
それなりの扱いでうまく利用・吸収したというのが当たっていると思います。
ただ、信濃を吸収したことで家康の領土は当時では倍になったわけですから、
かなり神経を砕いたとも思えますし。

大久保長安については、彼が特別、異能の才をもっていたからだと思います。


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