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なんだか物騒なタイトルですが、哲学を愛する皆様ならきっと明解なお答えがいただけるのではないかと思い、ここで質問させていただきます。

人間には自殺する権利があるのでしょうか?

漠然とした質問ですのでさまざまなシチュエーションなど考えられると思いますが、ご自身の「偏見に満ちた」(失礼な言いぐさですみません)ご意見を書きこんでいただけると幸いです。

A 回答 (33件中1~10件)

自分を殺すということは、


ある女性の子供を殺すということです。
そういう意味では殺人と同義です。
殺人を肯定するわけにはいきませんので、
人間に自殺をする権利は無いと考えます。
        

この回答への補足

いま、ご回答を12件いただいている状況です。
皆様ありがとうございます!
今後ご回答いただく皆様に、この時点で私の勝手な要求をさせていただきたいと思います。

私としましては、もっと禅問答に近いような方向でのお答えもいただけるとありがたいです。

補足日時:2005/06/12 09:12
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます!

自殺とはすなわち殺人であるというご意見ですか。
そう考えると自殺によって殺人の加害者と被害者の2つの不幸を背負うことになるんですね。参考になりました。

お礼日時:2005/06/09 15:49

結論です。


自殺はいけません。自殺は悪です。
自殺しても楽にはなりません。苦しむばかりです。
自殺する権利は無いです。
人間は幸福に生きる義務があるからです。
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この回答へのお礼

またまたご回答ありがとうございました。

シンプルにまとまりました。ストレートに受け止めます。ありがとうございました。

今の時点での私の個人的意見。
・個人の考えの裏では社会が糸を引いている。
・社会の意思は個人の責任である。
・自殺は肯定しない。他殺も肯定しない。
・言葉は「常識」のまえでは無力である。

「結局、質問のことはなんにもわかってないじゃないか」とお思いのあなた、これからもっと考えてみようと思っていますので、も少し猶予をください。たくさんのヒントをありがとうございました!!

ポイントは機械的に先着順の方からつけます。ご了承ください。

お礼日時:2005/06/20 13:25

自由や権利といった考え方は、近代というこの時代において特徴的な考え方であるように思います。

「人権週間」とか「知る権利」とか、「自由民権運動」とか……。

近代とは、個人や組織あるいは国家が、自己の権利を獲得するため闘争を繰り広げた時代であったように思います。

それが今になって、戦い続けることに疲弊してしまって、地べたに座り込む中学生が出てきたり、自殺者が年間3万人も発生するという事態になってきてしまっているのだと思います。

近代の考え方のままでいけば、人間には自殺する自由や権利があることになってしまいますが、私はこれは間違いであると思っています。自殺者に多かれ少なかれ関係してしまった人達にとっては、その後の一生が身動きの取りづらいものになってしまいます。とりわけ、「自分のせいであの人が自殺したのではないか」と考えている人にとっては、重苦しい罪悪感に苛まれ、その後悔は死後にも続いてしまうほどです。

それくらい、1人の人間の自殺は周囲の人々に大きなダメージを与えてしまいます。しかしながら、日本では年間3万人(潜在的にはそれ以上)もの自殺者が発生しています。これはどう考えても異常なことであり、近代日本のシステムの問題であり、戦争のような非常事態といっていいくらいです。簡単に自殺者や、自殺者を自殺に追い込んだ人を責めることはできません。

近代の常識が常識でなくなり、新しい常識が必要とされている時代の転換期が、今なのでしょう。こんな時にこそ、本物の哲学者が出現して、次の時代を築く力になってくれるのかもしれません。

とにかく、自殺は本人とその周囲の人々を共に苦しめるので、人間には自殺する権利はないと私は結論づけたいと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます!

>近代の常識が常識でなくなり、新しい常識が必要とされている時代の転換期が、今なのでしょう。こんな時にこそ、本物の哲学者が出現して、次の時代を築く力になってくれるのかもしれません。

新しい常識。それはきっと古来からの当たり前の常識の再認識なのかな、と考えています。悪い意味で使われることの多い常識という言葉ですが、本来の意味はきっと違ったものであったろうと思います。

「どこかおかしい」と、恐らくみなさん思っていますよね?沸騰した薬缶のお湯がフタを飛ばしてあふれるように、それぞれのココロに住んでいる常識が息をふきかえす日が来ればいいですね。

お礼日時:2005/06/20 13:08

以下の文章は、あくまで哲学する自由にもとづき考え、それを理解してくれる人を対象として公表していることをご了承下さい。



「権利」の本来の意味合いについて。忘れてはならないのは、「権利」とは実際の事象としては「自分以外の誰かが容認しなければ成り立たない性質のもの」であるということである。つまり「権利」を自分なりに定義すると、「ある枠内においての、その関係者によって取り決められたルール」に過ぎない。つまり、無条件に備わっている権利など、実在しないように思える。例えば何かに困窮した場合や生命の危機に直面した時、「私は生きる権利がある」としてその権利を行使しようとする場合も有り得る。しかしその場合においても、その行使された側あるいは法律がその権利を認めていなければ、権利としては成り立っていない。自衛権の行使にしても、国際的な基準にそっていなければ「権利」として認められないはずである。それ自身が「権利」を認めれば「権利」なのだろうか。正確に言えば、戦争とは「権利を勝ち取るためのもの」ではないだろうか。最初はその権利を主張しているのだ。それで、「人間には自殺する権利があるか」について考えてみようと思う。これを、「人間であれば無条件に認められるべき権利であるか」という意味で考えてみると、これは言葉は悪いが「個人の自由意志に任されるべきものであるから、人にとやかく言われる筋合いはない」というように取れる。つまり現時点では、その権利を獲得していないのでそれを主張していることになる。つまりは、それに対しての干渉と戦っているに過ぎないのではないだろうか。結局は「好きにさせてくれ」ということであって、「人間には本来そうした自由が備わっている」こととは違うのではないだろうか。このことは、「人間は考えたり動いたり、やろうと思えば自殺もできる」というそうした意味での自由とか権利に過ぎないのではないだろうか。本人が自殺した結果などを知らないのだから、本人が言える「自殺の権利」とはこの意味でしかない。結局は関係上における、認める認めないということなのである。「自由」を僕なりに定義するなら、「束縛を受けていない状態」のことだと思う。本来持っているものを勝ち取る必要などないし、現時点で持っていないからこそ問題にするのである。つまりこれにしても関係上の認知であり、「それをすることに干渉はしない」という取り決めを得ることである。
結論としては、「権利」にしても「自由」にしても、本人の「これがあって当たり前ではないか」という判断により始まる「関係上の安定を得ようとする試み」であって、無条件で所有しているのならそうした問題が浮上することはなく、その関係上における相手がそれを認めていないのであれば、これが乗じた場合には「搾取」とも成り得るものである。
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この回答へのお礼

またまた補足をありがとうございます!

>「自由」を僕なりに定義するなら、「束縛を受けていない状態」のことだと思う。

うーん。私には難しい文章でした。例えば鈴木大拙さんはそれと反対のことを述べられています。西洋的な「自由」と東洋的な「おのずからなる自由」は全然違うものである、と。

>「自由」を僕なりに定義するなら、「束縛を受けていない状態」のことだと思う。本来持っているものを勝ち取る必要などないし、現時点で持っていないからこそ問題にするのである

本来持っていないものを勝ち取る必要がないということは、必然的に束縛=自由という結果が生じないでしょうか。

言葉の定義というものは万人に向けての最大公約数を探す作業だと思うのですが、考えれば考えるほど最小公倍数の結論になってしまいますよね。それを承知しておられるから冒頭に「それを理解してくれる人を対象として公表していることをご了承下さい。」と断りを書いてくれているわけですが・・・

絵でいうと、具体を突き詰めると抽象になるし、その逆もまたアリです。良く理解できていませんのでまたあとでじっくり読み返してみます。(すべてのご回答をまた熟読するつもりですが)ありがとうございました。

また、このサイトの性質上、回答者のみなさまのご意見を歪曲、勘違いして私が書きこんでいるものが多くあるにもかかわらず回答者の方がそれについて反論を逐次載せられないというハンデがあります。フラストレーションがたまってしまうと思いますが、その点はご容赦ください。

お礼日時:2005/06/20 12:59

<自殺する自由>はありますが<自殺する権利>というものはありません。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます!

簡潔なご意見、参考になります。
自由と権利の問題になるとまた難しいです。
自殺そのものは脇において、自由と権利の言葉の定義がメインになってしまいます。

お礼日時:2005/06/20 12:29

こんにちは



親の自殺を、子供は「お前の存在そのものには価値がない」とか「いやなら死ね」といったメッセージとして受け止めがちで、しかもそれは言語化されず「感覚」として刻み込んでしまうことが多いと思われます。成長して、なぜ自分はこんなに生きづらいのか、と考えているようなところがあります。生きている事そのものがストレスだと言う人もおります。また自殺はその人の「生き方そのもの」の表現とも言えないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます!

>また自殺はその人の「生き方そのもの」の表現とも言えないでしょうか。

遺言、とも言えますね。「この世は生きるに値しない。とまでいくと、修正はかなり困難になるかもしれませんね」

自殺について多方面の議論が盛んになれば、と思います。
否定だけでなく、肯定の意見さえも吟味されれば残された人達のココロのケアも注目されるのでは、と考えます。

お礼日時:2005/06/20 12:24

度々、お邪魔します。


わたくし、自殺防止に幾ばくかの力になればと思い、
ボランテア活動をしているものです。
自殺が与えるダメージは、思っているほど軽いものではありませんでした。家族、親族にとって大変な事で、一生、立ち直れぬほどの暗い、悲しい、なんとも言えない、鈍重な雰囲気に包まれ、希望の持てない人生を送らねばなりません。
なべ底の底を割って落ち込んでいきます。本当に浮いては来ません。心に一生の傷トラウマ(ダメージ)が残ります。
日本で、今、自殺者が、3万数千人と言われていますが、実は、家族が隠したり、病院搬送後、別の死因として扱われたり、失踪死亡であったり、する場合が多く、実数は10万人に達するのではないかと言われているんです。これは、大戦争並みで、あのイラク戦争などを軽く上回る大変な悲しみであります。
いろんな社会問題がありますが、実はこれほど大きな問題であり、社会にダメージを与えているものはないのです。一日270前後の方が無くなるという事は異常事態では無いかと思います。
冷静にこれらの事を見つめ直した時に、
人間は幸福に生きる義務、
家族や周りの方を幸福にする義務、があるのだ。
と痛切に感じています。
人は人に不幸を与えてはいけない!
人は人を傷つけてはいけない!傷つける権利はない!
頑張って生きていかなくてはならない"!と強く感じます。
自殺する権利が、有る無しとの語らいも大切と思います。その議論が是非、この悲しい現実を少しでも減らして行く方向での皆様方の智慧の力として、心の力として働いていくように、自殺者が少しでも、減っていきますように、悲しみにあえぐ方が少しでも減っていきますように、心より祈念いたしております。
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この回答へのお礼

またまたご回答ありがとうございました!

>人は人に不幸を与えてはいけない!
人は人を傷つけてはいけない!傷つける権利はない!
頑張って生きていかなくてはならない"!と強く感じます。

本当にそうならなければなりませんよね。
他の回答者の方がおっしゃっていましたが、自殺は他殺の一面(社会が個人を殺す)もあるようです。ならばなおさら、他人のことを慮ることによって社会そのものが変容して行き、自殺せざるをえない人達も救えるようになるのかもしれませんね。情けは人のためならず、ですね。

お礼日時:2005/06/20 12:18

misakiさん、こんにちは。



ちょっとまわりくどいですが、
こんな話、聴いてもらえますか?
むかし、人に聴いたことなのか、本で読んだことなのか、
自分で創作した話なのか、は思い出せません。
たぶん、そのミックスでしょう。
想いを馳せてもらえれば、幸いです。


地球は大きな大きな舞台劇場です。
そして、長い長い、ながーーーい劇が演じられてきました。
地球劇は、一回の公演に三千年から五千年位かかります。
(もっと長い公演もあったようです。)
これを繰り返し、繰り返し、
一回ごとに配役を総入れ替えし、何千回と公演がなされてきました。
シナリオは公演ごとに書き換えられましたが、
主テーマは変わることなく、一貫して「競争・紛争・闘争・戦争」でした。

今、現在という時は、びっくりですが、
  最終公演の最終幕の最終場なのです。
  シナリオでは、
  ほとんど全ての人がいろんな状況下で、
  これから、苦難と喜びを合わせた体験をする時なのです。
  大きな苦難の体験ほど大きな喜びを得、大きく進歩できます。
  でも、苦難の体験も順調であれば今回が最後となるようです。

ところで、
  この地球劇場は老朽化したため、
  今回の公演を最後に
  より素晴らしい劇場にリニューアルされる予定です。
  そして、劇のテーマは「愛」へと大転換されます。
  なんと! これから、僕たちが演じようとしているのは、
  その「愛」へとつなぐための、
  最終幕の最終場のフィナーレなのです。

僕たち、65億?の人間は(他の生命も)、
多くの人が何回もこの最終公演の地球劇に登場してきましたが、
その苦しさと喜びの頂点となるフィナーレにも、
あえて出演を希望して、今回、生まれてきた人たちです。
みんな、男優、女優なのです。
ながい、ながーーい間かかって腕(魂)を磨いてきた、
役者ばかりなのです。
それぞれ、ひとり残らず役割があります。

 大金持ちの役を演じている人もおります。
 明日、食べるのにも困る役を演じている人もおります。
 総理大臣の役を演じている人もおります。
 暴力団の役を演じている人もおります。
 人につくす役を演じている人もおります。
 一生遊んで暮らす役を演じている人もおります。
 五体満足でない役を演じている人もおります。
 ・・・・・・・を演じている人もおります。

その人のこころ(魂)の進化にとってちょうどいい、
過去世での未体験の役どころをもらって、
一生懸命、演じているのです。

  生まれる前にそれぞれに演じるシナリオが渡されています。
  魂同士で固く約束して、
  いろいろと取り決めすることがあります。(宿命)
  この他、シナリオどおりに劇は進行します。(運命)
  強力な意志力によっては、
  アドリブによってシナリオ変更も可能です。(運命の転換)
  細部は、それぞれの自由意志にまかされています。

ちなみに、「自殺」は途中で劇を投げ出すことですから、
劇の進行に支障をきたします。
高次元から観た場合、「シナリオにない」のです。
いくら自分は自殺する権利を有する、と主張してみたところで、
舞台監督(高次元の存在)はこれを赦してくれるでしょうか?
少なくとも、その役者が劇を投げ出したことを深く反省するまで、
二度と舞台に出してはもらえないのではないでしょうか?

以上のようなことを、
潜在意識でみんな承知の上で生まれてきていますが、
みんな、名優ばかりで、それぞれの役どころになりきっているため、
そのようなことは、すっかり忘れ去っているのでしょう・・・。
また、これは「我欲」という健忘薬を飲んでいるせいでもあります。

数々の物質は舞台装置や小物類です。
肉体は舞台衣装です。
地球の上空には、この劇の成り行きをはらはらしながら、
暖かく見守り、エールを送って下さる、
観客(高次元の存在)もおられます。


    生きることは?

    「心で思ったこと(心の状態)が
    時間経過の後、現実になるという法則」を学び、
    現実を反省の材料とするため、

    また、より高度な「愛」を学ぶため、
    
    そして、さまざまな劇場の場(肉体体験)を数多くこなし、
    より偉大な名優(こころ)になるために、

    地球で劇を演じさせてもらっているのでしょう。
    ありがとうございます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました!

さまざまな趣向でお答えいただき、大変うれしく思います。
最後の最後の舞台ですか。ホールでやっている舞台には自殺役の人もいますが、この地球を舞台にしている役者は全員主役なので自殺されると困りますね。子供にも話して挙げられそうなお話でした。ありがとうございます。

お礼日時:2005/06/20 12:08

#14です。



>自分の命は自分自身のものではないので死ぬ権利は認められない。が、やはりケースによっては自殺を責めることができないということですね。

曖昧な書き方をしたために誤解を生んだようです。

「私自身は…自分の命は自分一人のものではなく…(中略)と認識していますので、今の自分には自殺する権利は無いように思えます」と書きましたが、この「自分」とは私自身のことです。一般論ではありません。

過去に「死にたい」と思ったことがありましたが、それをしなかったのは、家族があったからです。
特に我が子に「親が自殺をした子ども」としての人生を押し付けることはできないと思ったからです。

しかし一般に自殺をする人にとって、もはや家族や周囲の人のことなど考える余裕はなくなっている。それほど死への願望が強い、あるいは死への衝動に突き動かされているとも言えるでしょう。

>人間には自殺する権利があるのでしょうか?

あれから自分なりにもう少し掘り下げて考えてみました。前回とダブル部分があることでしょうがお許しください。

リルケは「各人に自分自身の死を与え給え」という言葉を残しました。
人間が自分なりの生を全うしなければならないと同じように、自分なりの死をも全うしなければならないと言ったそうです。

自分なりの生とは何か。自分なりの死とは何か。

人の一生は死をもって完結するものであり、その時点でその人の一生がどんなものであったかが決定する、と前回書きました。
どのように死ぬかということはどのように生きるかということに繋がっている、とも。
死に様(ざま)は生き様である、とも言いますね。

人間には、より良い人生を生きることを願い、より良い死を迎えることを願う権利はあるでしょう。そしてそれを実現させる権利もあるのではないでしょうか。

ならば、より良い死を選ぶ際の選択肢の一つに、「自ら命を絶つ」というのがあっても良いのではと思うのです。
つまり、人間には自殺する権利があるかもしれない。
哲学的に表現するなら、人間は自殺をする権利がある蓋然性は高い。ただしそれが自分なりのより良い死であった時に。

末期ガンの患者が、苦しみぬいて死ぬことより安楽死を願うなら、それは叶えられて然るべきではないでしょうか。
自分の信念・思想を貫くために自ら死を選択した人は、それがより良い死であるか否かはわかりません。が、彼らは生死を超えた次元での自己実現を望んだのでしょう。
自分なりの生を全うしたと言えるでしょう。

ここで一つ重大な問題は、死は一度しか経験出来ないものだということです。
霊魂不滅説、輪廻転生説をもってしても、現人生は一度きりであることは否定できません。

人間は生き続けている限りは人生のやり直しが出来ます。
重大な罪を犯し、無意味な人生を送っていたとしても、ある時点で悔い改めることで、過去の過ちを糧としてその後の人生をより良いものに変えていくことが出来るのです。

しかし自らの死をもって生きることをやめた瞬間、それ以降の人生を前より良いものにする権利を放棄することになるのです。
果たしてその人間は自分なりの生を全うし、自分なりの死を全うしたのか。その人間が選んだものがより良い死であったと言えるのか。そしてそれは誰が判断するのか。

自らの命を投げ出し死を選択した者に、お前にはその権利がある、ないと決定を下す権利を持つ人間はこの世に存在するのでしょうか。
人間には自殺する権利があるかもしれないと曖昧な答え方をしました。
私は特定の宗教を信仰している者ではありません。
しかし私には「神」の存在を否定することが出来ないのです。それがどのようなものであるか自分でも明確には言えないのですが。
人間には自殺する権利があると断定すると、「神」にお前にそのようなことを言う権利は無いと叱られそうで…

もし死後の世界で「神」に出会えたなら、私は自分の使命を全うしたとは言えないまでも、より良く生き、より良く死ぬ努力をしたと言えるような人生を送らなければ、と今、痛切に感じています。

以上、つたない長文に付き合っていただき、ありがとうございました。
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この回答へのお礼

またまたご回答ありがとうございました!
お返事遅れまして大変失礼しました。

>曖昧な書き方をしたために誤解を生んだようです。

安易に一般論としてとらえてしまっていました。すみません。
そしてこの個人と一般の間にある見えない垣根が、どうも重要なキーワードのような気がします。

>より良く生き、より良く死ぬ努力をしたと言えるような人生を送らなければ、と今、痛切に感じています。

はい、私もそう感じています。神様が見ているかどうかはわかりませんが、少なくとも自分自身は確実に私を見ていますからね。ありがとうございました。

お礼日時:2005/06/20 11:55

自殺が、権利の行使をもってなされる類のものと言われると、なんだか釈然とできません。

正確な表現かどうか自信がありませんが、感情的な諸々をひっくるめて言うなら、日本の法律で「自殺罪」がないのは、いけないことだけれど、責めないことにしている、という説明がしっくりきます。

権利という言葉が、随分偉そうに、自信を持って、何人たりとも侵すこと能わず、不可侵である、という語感を持っているから私も(多くの人も)そう感じているのだと思います。でも、辞書的な意味では少し違います。

【権利】一定の利益を自分のために主張し、また、これを享受することができる法律上の能力。

権利と権利がぶつかりあうことは、ごく日常的なことであって、不可侵とされるような権利は人権くらいではないでしょうか。(死刑がそれを侵すと言えるかもしれません)

とても近いと考えられるのが、冬山登山とかF1レース出場とかという、自ら危険な行為をする権利です。

突飛なことを言えば、「人を殺す権利」を主張することはできても、ほとんどすべての場合、そのことで侵害される他の権利によって封じられているということではないでしょうか。

権利はあるけれど、主張してもいいけれど、認められないことだってある、というのが私の落としどころで、ある権利行使に対して賠償請求だってできれば、その結果に対する責任追及だってできると考えています。自爆テロを「自殺する権利」で済ませられる問題だとは思いません。

自殺は、その権利行使の当事者、すなわち他の権利を侵害している(かも知れない)責任追及対象が生きていないという点「だけ」が、奇妙な議論になる原因だと思います。

一方、別の観点から考えなければならないのは、特に衝動的に自殺をする場合など、それが一時的であれ精神的錯乱なのかどうかということもあります。責任能力の問題です。

上記のことを踏まえて、原則的に自殺は、自分の人生を自分で決定するという権利の範疇に含まれると考えますが、その影響度合に応じて他から干渉されるものだし、もしかすると治療されるべき対象として扱われるかもしれないとも思います。幸いにも未遂で終わった場合しか、事実上当人はいないのですが……。

「権利がある」ということ自体、その程度のことだと私は思っています。(今回のご質問と無関係ですが、同様に、「義務がある」ということも、その程度に思っています)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます!
お返事遅れまして大変失礼しました。

>突飛なことを言えば、「人を殺す権利」を主張することはできても、ほとんどすべての場合、そのことで侵害される他の権利によって封じられている
>責任能力の問題です。
>「権利がある」ということ自体、その程度のことだと私は思っています。

共感しました。説得力のあるご意見でした。

お礼日時:2005/06/20 11:36
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