痔になりやすい生活習慣とは?

武士と一口にいっても非常に多くの階級があります。
たとえば足軽から旗本直参まで…。
また藩によって別藩にない特殊な階級もあります。
土佐藩などは「上士」の下の階級の「郷士」の間に、「白礼」という階級があり、これは「上士」の最下級の階級ですが、土佐藩独特のものだそうです。

このように、藩それぞれの階級についてすべてを知りたいのですが、お詳しい方、またサイトや文献などがありましたら教えていただきたいです。

時代は幕末の明治維新前です。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (3件)

将軍家は直身の旗本と御家人を主な構成要素にしていました。


それぞれ家禄高により100石以上が旗本で以下が御家人と成ります(例外も在ります)。
この知行地の石だかにより、就任出来る役柄も変わります。
3000石から2000石の旗本だと伏見奉行・大目付け・町奉行に成れますが
大番頭や若年寄りには成れません。
そして給米と呼ばれる役職手当てが支給されます。

外様や譜代の大名も基本的には将軍の家臣として扱われ
外様大名の5000石の家来でも、1000石クラスの直参旗本には
トラブルが起こった場合、慣例上勝つ事は出来ませんでした。
外様大名の家来は将軍の家来の家来に過ぎない陪臣で、
将軍の直接の家来である旗本の方が身分(階級)が高かったわけです。

譜代や親藩等は基本的に幕府の身分制度を基本とする身分と役職の類似した形態をとっていました。

しかし、御指摘のような土佐藩のような外様大名は成立過程に違いが在る為、
各藩毎に構成単位や要素が全く異なって来ます。
一口に外様大名と言っても島津藩のように室町時代まで歴史が遡れる旧族系の大名で
転封と呼ばれる引っ越しを経験しなかった藩は独特の身分制度を維持し続けましたし、
関ヶ原以降に取り立てられた比較的歴史の浅い藩になると
新規取り立ての家臣層で疑似譜代のような形態をとった藩も在ります。
100万石では必要でも1万石では不必要な身分・役職が在りましたし比較も出来ません。

一般的になりますが大体の外様大名の階級を御説明します。
大名がまずおります。
次に「御一門」「お家筋」と呼ばれる藩主の子孫・親戚筋がおります。
そして大抵藩の始祖以来の古参の「古参衆」「譜代衆」の家臣から
関ヶ原や大阪の陣以降に召し抱えられた新参の家臣までがいて、
それぞれ石高によって厳密に階級付けされています。
絶対では在りませんが古い家臣の家柄程石高が高く、
これは合戦による手柄等により過去に決定されたものがそのまま世襲されました。
この下に徒という鉄砲足軽等の階級が在りました。
御指摘のような土佐藩の様に長宗我部の旧領に転封された藩等は
改易された藩の家臣で帰農した土豪層を、家臣や準家臣の身分として位置付ける藩も在り、

毛利の様に減封されたさいに多くの家臣が帰農した藩では、
「もともと同じ身分で在った農民」達にも特別待遇が与えられ
階級支配もなだらかでした。
前田、上杉、南部、佐竹等は各藩歴史も古く事情も複雑で階級秩序も特徴が在ります。
同時に階級イコール家禄ではありませんし役柄でも在りません。
また、江戸期は歴史が長いので、初期の身分制度は商業経済が発達する事に伴い
かなり変容をとげております。

任意の個別の藩の時代を限定した体勢を調べられた方が理解しやすいと思います。
ご質問の範囲があまりにも大きい単位な為、もうすこし絞っていただけると答えやすいです。
各藩毎に学習されるのが近道だと思います。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

お礼が遅くなりすみません。
一口に藩といってもそれぞれには様々な事情があるのですね。
「>各藩毎に学習されるのが近道だと思います。 」
そのようですね。出直します(笑)。
大変丁寧な解説ありがとうございました。

お礼日時:2005/06/26 00:00

>それぞれの藩についての階級名の箇条が知りたいだけなのです。


どこの藩についてといわれればまだ答えやすいですが、そういうふうな質問だと答えにくいのですが。

ちなみに薩摩藩の場合は上から
ご一門
一所持
一所持格
寄合
寄合並
無格
小番
新番
御小姓与
(以上鹿児島城下士族)
郷士
与力
(以上士族)
外城座付士
足軽
となっていました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

お礼が遅くなりすみません。
まずそれぞれの藩の階級を知るべきでした。
薩摩藩のご解説ありがとうございました。

お礼日時:2005/06/26 00:00

それこそ藩ごとにみな違い特に外様の大藩は歴史的な経緯もあって、一概にはいえないでしょう。

(個別の藩についてなら多少の資料はありますが。)
また、足軽については、農民からの一時採用で武士には含まれていないというところも多いようです。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
足軽についてはそういう藩もあるかもしれませんね。

>個別の藩についてなら
質問というのは、それぞれの藩についての階級名の箇条が知りたいだけなのです。が、何か質問に間違いがあればご指摘ください。

お礼日時:2005/06/12 22:11

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q上士郷士の差別は土佐藩だけなの?

司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」には、関ヶ原の戦い後に
土佐藩を支配した山内侍は、それまでの支配者長曽我部侍
を郷士とし身分差別したとし、これは他藩にはなく土佐藩
独自のものであったと書かれてます。
ただ、関ヶ原の戦いで改易になった大名家はたくさん存在し、
勝者がその領地に乗り込んだのは土佐だけではなかったはず。
大名家が滅んだところ、あるいは縮小、移封などの場合の
地侍はどんあったのですか?ちりちりばらばら、あるいは上杉
氏のように全員転居した?
土佐藩のような事例は他藩にもあったように思えるのですが。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>上士郷士の差別は土佐藩だけなの?

お答えから先に述べますと、
土佐藩だけではありません。

ただ、土佐藩は「極端に」「上士」「郷士」の差別をし、
足袋や下駄、日傘は上士だけしか許されませんでした。

有名なところでは、奈良県の十津川郷士がいます。
(1)古くは、地域の住民は朝廷の下働きを命ぜられ、朝廷の雑務をしていました。
(2)壬申の乱には、村から出兵。
(3)平治の乱でも出兵しました。
(4)これらの功績により、土地が山中にあり、米の収穫も少なかったことから、租税免除をされています。この租税免除は、明治まで続きました。
(5)太閤検地でも山間部で米の収穫が希少のため、年貢を免除されていました。
(6)大坂冬の陣では、十津川郷士1,000人が徳川方として参戦し、豊臣方の鎮圧に尽力したため、大和の国の五條代官所の管轄に入り、天領地として、租税免除を受けています。
(7)そして、家康より「永大にわたり郷士と名乗る」ことを許されています。

また、郷士は、
(1)下級武士が、その低い身分ゆえに城下で家禄のみでは生活できず、城下郊外または農村で農業を営むことを許された者。
(2)特別な所以がある場合。
を、基本としています。

(1)の例は、明和年間に赤字財政の米沢藩の改革を実行しようとした上杉鷹山の家臣で「北沢五郎兵衛」は、配下の「五十騎組」と共に小野川の畔の荒れ地の開墾を申し出て、小野川の畔に生活基盤を移しました。鷹山は「士分」を捨てることは許さなかったものの、ほぼ、「郷士」に近い状態でした。
(2)の例は、先に述べた十津川郷士などです。

あなたのお役に立てば・・・。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>上士郷士の差別は土佐藩だけなの?

お答えから先に述べますと、
土佐藩だけではありません。

ただ、土佐藩は「極端に」「上士」「郷士」の差別をし、
足袋や下駄、日傘は上士だけしか許されませんでした。

有名なところでは、奈良県の十津川郷士がいます。
(1)古くは、地域の住民は朝廷の下働きを命ぜられ、朝廷の雑務をしていました。
(2)壬申の乱には、村から出兵。
(3)平治の乱でも出兵しました。
(4)これらの功績により、土地が山中にあり、米...続きを読む

Q江戸時代の武士の階級について

将軍家>親藩大名>譜代大名>外様大名>高家>旗本>御家人
(左は高く、右は低いという設定です。)

こうのような認識でよろしいですか?
間違っているところ、抜けているところがあれば教えてください。

Aベストアンサー

>こうのような認識でよろしいですか?

残念ながらよろしくないです。
なぜならば、階級のようなものを曖昧にして、誰が偉いのか分からなくするのが徳川家康の狙いだったからです。

親藩は将軍の親戚だという「名誉」があるだけで、藩主は幕府の要職には就くことはできません。
外様大名は禄高が多い大大名が多いですが、これもまた、幕府の要職には就けません。
譜代大名や旗本は徳川家直属の家臣で、禄高はあまり高くないですが幕府の要職に就き、実際の権力を持ちました。
特に旗本でも高家と呼ばれる旗本は、格式ではその辺の大名よりずーっと上でした。
有名な「忠臣蔵」の悪役、吉良上野介は4千2百石の旗本でありながら、5万石の大名である浅野内匠頭を「田舎侍!」などとののしっています。(まぁ、これはお芝居の話ですが)

名誉、禄高、権力、格式を分散させたのです。
これは謀反の防止の為です。

ようするに、色々な分野でNo1を作ることによって、誰かが徳川に対して謀反を起こそうと仲間を集めようとしても「俺の方が偉いんだ、お前の下になんかつけるか」「俺の方が偉い、いいや、偉いのは俺の方だ」と、誰かが突出したリーダーシップを取るのを防ぐ為です。

 

>こうのような認識でよろしいですか?

残念ながらよろしくないです。
なぜならば、階級のようなものを曖昧にして、誰が偉いのか分からなくするのが徳川家康の狙いだったからです。

親藩は将軍の親戚だという「名誉」があるだけで、藩主は幕府の要職には就くことはできません。
外様大名は禄高が多い大大名が多いですが、これもまた、幕府の要職には就けません。
譜代大名や旗本は徳川家直属の家臣で、禄高はあまり高くないですが幕府の要職に就き、実際の権力を持ちました。
特に旗本でも高家と呼ばれる旗本は、...続きを読む

Q大名の家臣数

大名家の家臣数を知りたいので教えて下さい。
家々によって違うと思いますが、一万石・五万石・十万石・三十万石クラスの大名の大まかな家臣数・陪臣数を知りたいです。宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

大名家の家臣数は時代によりかなり異なります。
戦国期、江戸初期、末期で実態が変わっています。
戦国末期で軍制が定まってきたときは大体一万石につき200名以上の人数、に武器、乗馬、旗などの数が決められていました。
しかし実態は戦闘時、戦闘員の数がものをいうので軍制以上の人数を動員するのが常でしたし陣場借りといってアルバイトのような人員も抱え込みふくらんでいました。

江戸初期にはこの名残で大体一万石につき200名位に落ち着きましたがそれ以上の家臣をかかえる藩もありました。
米沢藩上杉家は謙信以来の家風があり大幅な減封を受けたのですが家臣団のリストラはせず、一律減封で対処したので有名です。
この為米沢藩士の窮乏はひどく、藩財政の建て直しを図った上杉鷹山の事績は有名で、内職が特産になった位です。

太平が続いた江戸中期では経済の発達、実収入の変動も影響しリストラ、給与の削減(借り上げ)などが常態となり軍制は形ばかりで多くは渡り中間など臨時の人数で揃えることが多くなり馬を備える事もままなりませんでした。
従って実数は半分以下位に下がっていたでしょう。
幕末長州攻めなどに動員された時武器鎧も質にいれていたので請け出すのに借金して間に合わせたといいます。
勿論内実の裕福な藩や尚武の念の厚い藩などはこの限りではありません。
それぞれの藩の古文書などに頼るしかないと思います。

大名家の家臣数は時代によりかなり異なります。
戦国期、江戸初期、末期で実態が変わっています。
戦国末期で軍制が定まってきたときは大体一万石につき200名以上の人数、に武器、乗馬、旗などの数が決められていました。
しかし実態は戦闘時、戦闘員の数がものをいうので軍制以上の人数を動員するのが常でしたし陣場借りといってアルバイトのような人員も抱え込みふくらんでいました。

江戸初期にはこの名残で大体一万石につき200名位に落ち着きましたがそれ以上の家臣をかかえる藩もありました。
...続きを読む

Q薩摩藩ってすごい藩?

「ドイツってすごい国?」をみて薩摩もすごいと思ったので質問します。

島津家は日本で(おそらく)唯一、鎌倉時代の守護大名からの歴史をもつ大名で、室町・戦国時代は九州最強を誇り、豊臣秀吉に逆らい、関が原では西軍につき戦闘をおこなうなど時の権力者に逆らいつつも領地を減らされることなく、江戸時代は参勤交代で全大名中最も長距離で負担の重い旅行を強いられ、徳川家は更に島津家を恐れ江戸防衛のため間に親藩・譜代大名を置き、名古屋城などの城を築いて万全の体制を敷いたにもかかわらず幕末には薩摩藩主力の新政府軍に倒されてしまいます。

このように、九州のはずれにある薩摩藩がこれだけ長い間、強大な武力とバイタリティーを持ち続けた理由は何でしょうか?鎌倉時代から明治時代初めまで(幕府を除けば)最強、悪くてもベスト3には入っていたと思うのですが、いかがでしょうか。

Aベストアンサー

 九州のはずれにある薩摩藩がこれだけ長い間、領土を守り続けられた理由は非常に保守的なお国柄でよそ者を受け入れない鎖国主義的な部分が有る反面、いいものなら新しいものを受け入れられる柔軟性を併せ持っていたことかと思います。
 例えば鹿児島の種子島に伝来した火縄銃を受け入れ、さらに信長の鉄砲使用法に近い乱射法で一時九州を制圧したり、薩英戦争での敗北後、一転攘夷論から開国論に切り替え英国の支援を受け、倒幕したことなどがその例です。
 あとはNo.4おっしゃるような交渉力や外交力でしょうか。
 関が原の戦いでは負けた西軍にいながらまったく唯一お咎めも無く60万石の石高もそのままでした。2度の朝鮮出兵で、三十倍の敵を殲滅し、鬼石曼子(おにしまず)とも呼ばれた武力もその外交力の裏づけにあったと思います。
 しかし鎌倉時代から明治時代初めまでベスト3には入っていたというのは買いかぶりすぎだと思います。
 最近の研究ではNo.9さんのおっしゃる程の搾取は無かったとされていますがそれでもまったく裕福とはいえず琉球に対するの清国との2重支配による密貿易や幕末の藩債踏み倒しなどでなんとかやりくりしていたのが実情ですから。
 
 
 

 九州のはずれにある薩摩藩がこれだけ長い間、領土を守り続けられた理由は非常に保守的なお国柄でよそ者を受け入れない鎖国主義的な部分が有る反面、いいものなら新しいものを受け入れられる柔軟性を併せ持っていたことかと思います。
 例えば鹿児島の種子島に伝来した火縄銃を受け入れ、さらに信長の鉄砲使用法に近い乱射法で一時九州を制圧したり、薩英戦争での敗北後、一転攘夷論から開国論に切り替え英国の支援を受け、倒幕したことなどがその例です。
 あとはNo.4おっしゃるような交渉力や外交力でしょ...続きを読む

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q藤沢周平の組頭

藤沢周平の小説にときどき出てくる武士・組頭はなんの組なんでしょうか?

Aベストアンサー

海坂藩は架空の存在ですから、真実は藤沢周平氏の頭の中にしかありません。藤沢氏は故人で、海坂藩の設定を藤沢氏自身が詳細に書き残したものもないはずですから詳細は永久に不明です。

いくつかの小説を読むと、海坂藩の職制は
執政←中老←組頭←奉行
と言う階層みたいですが。

なお、藤沢氏自身は庄内藩士の家柄ではなく庄内地方の農家の出身で、藩の組織まで詳しく知っていたかどうか疑問です。小説の海坂藩は、実収20万石以上の大藩である庄内藩より小さい数万石規模のように思えます。「組頭は何の組頭か」といった細かい設定まではしていないと考えるべきではないでしょうか。

Q江戸時代の関所って関所を通らなくてもよかったのでは

江戸時代の関所ですが、別にそこの関所を通らなくても迂回することは可能ですよね?例えば箱根の関所ですが、やる気になれば街道から一歩山の中へ分け入り、そこから関所を越すという感じでやれば関所を通らなくてもOKのような気がします。もちろん道なき道をわけいるのは面倒で勇気のいることだとは思いますけど、やってやれないことはないと思います。

入り鉄砲・出女と言われますが、鉄砲商人だったら死ぬ気でやれば見つからずにできたと思います。今みたいに山の中へ入ったら装置が作動して電気が付くなんていう事もできなかったと思いますし。あと時代劇とかで出女が関所を通るときに身分を偽って顔を隠すみたいな事をしていますが、これも関所を通らずに別のルートで出て行けたような気がします。

そこで質問ですが、関所はそれなりに機能はしていたと思いますが、本気で回避しようとしたら回避できたのではないでしょうか?

Aベストアンサー

>本気で回避しようとしたら回避できたのではないでしょうか?

士農工商のうち、農工商については通行手形なしで旅をした人もいるくらいで、回避方法はいくらでもあったようです。
例えば、厳しくて有名な箱根の関所の場合、関所近くの間道にも小さな番所が設けられていたり、森の中に鳴子(ヒモに触れると音が出る)を張ったりしていました。
が、箱根自体を通らず、北の方から迂回するルートはあり、そこの関所をこっそり抜ける道を案内する仕組みはあったそうです。
もっとも、こんな仕組みができるようになった頃には、関所自体、あまり取締が厳しくなくなっていた現実もあるようです。

でも、士分はそうはいかない。
入り鉄砲・出女は武士を対象にした規制ですが、例えば(こんな例はないと思いますが)、大名の妻が江戸から国へ帰った場合、関所を通ったという記録が残っていないと後が大変です。
幕府と戦をするつもりがあると見られてもしょうがない。

身分に関係なく、江戸を出る時は許可を得る必要がありますし、
大名の場合は大目付によって妻子が江戸藩邸にいるかどうかチェックされていましたので、入り鉄砲・出女は関所だけがチェック機関だったわけではないのです。

ただし、幕末になると妻子を国に返してもかまわない、ということになり、出女については意味がなくなっています。
討幕運動が一気に盛り上がれた要因の1つかもしれません。

>本気で回避しようとしたら回避できたのではないでしょうか?

士農工商のうち、農工商については通行手形なしで旅をした人もいるくらいで、回避方法はいくらでもあったようです。
例えば、厳しくて有名な箱根の関所の場合、関所近くの間道にも小さな番所が設けられていたり、森の中に鳴子(ヒモに触れると音が出る)を張ったりしていました。
が、箱根自体を通らず、北の方から迂回するルートはあり、そこの関所をこっそり抜ける道を案内する仕組みはあったそうです。
もっとも、こんな仕組みができるよう...続きを読む

Q島津藩?薩摩藩?

NHKの大河ドラマを見ていてふと思ったのですが
島津藩?薩摩藩?どちらが正しいのでしょうか?
そもそも島津藩と薩摩藩は同一のものでしょうか?
それともまったく別のものなのでしょううか?
薩摩藩、藩主、島津氏これは分かるのですが・・・

Aベストアンサー

そもそも、江戸時代当時には「**藩」という言葉はありませんでした。明治以降に、歴史学者が便宜上作り出した言葉です。

別に江戸幕府が公式に決めたわけでも、現在の法律で決まっているわけでもないので、お尋ねのことについては

1) 「鹿児島藩」
2) 「薩摩藩」
3) 「島津藩」

どれでも間違いではありません。特に、薩摩の島津家は日本第二の大藩ですから、1から3のどの表記でも間違える人はおりません。

ただし、現在の歴史の本では、(1)のパターンで「藩の政庁の所在地」藩、即ち「鹿児島藩」と呼ぶのが標準です。

なぜかというと、
A) この表記なら、日本に数百あった藩を全て識別できる。
B) (2)の表記では、一つまたは複数の国を全て領地とする僅かな大名しか表現できない。
C) (3)の表記では、同姓の大名が多数いたので、識別できない藩が多く出る。

例えば、
仙台の伊達家(62万石の大藩)
http://www.asahi-net.or.jp/~ME4K-SKRI/han/mutudewa/sendai.html
を1から3のパターンで表現してみましょう。

1) 「仙台藩」でOKです。
2) 「陸奥藩」と呼ぶわけには行きません。陸奥国には多くの藩がほかに存在しましたので。
3) 「伊達藩」と言えば普通は「仙台の伊達家」の事を指します。
ただし、
伊予国・宇和島10万石の伊達家
http://www.asahi-net.or.jp/~ME4K-SKRI/han/shikoku/uwajima.html
も「伊達藩」と呼ぶことが出来ますので、混乱が生じます。

(1)のパターンで呼ぶのが一番分かり易いことがご理解頂けたでしょうか。

ただし、何事にも例外があります。
長門国・萩(幕末には周防国・山口に政庁を移す)の毛利家36万石
http://www.asahi-net.or.jp/~ME4K-SKRI/han/chugoku/hagi.html
は、歴史の専門書でも、一般にも、「長州藩」と呼ぶことが普通です。萩藩と呼ぶ方が例外と言えます。

そもそも、江戸時代当時には「**藩」という言葉はありませんでした。明治以降に、歴史学者が便宜上作り出した言葉です。

別に江戸幕府が公式に決めたわけでも、現在の法律で決まっているわけでもないので、お尋ねのことについては

1) 「鹿児島藩」
2) 「薩摩藩」
3) 「島津藩」

どれでも間違いではありません。特に、薩摩の島津家は日本第二の大藩ですから、1から3のどの表記でも間違える人はおりません。

ただし、現在の歴史の本では、(1)のパターンで「藩の政庁の所在地」藩、即ち「鹿児島藩...続きを読む

Q韓国人が一発で黙る歴史の真実

東アジアでは昔から「王」は「皇帝」の家来です。
従って朝鮮王と名のることは中国皇帝の家来ですと宣言することです。(日本は天皇がいた。)
このことを韓国人に教えてあげれば韓国人は黙るしか無いと思いますがどうでしょうか?

Aベストアンサー

失礼な表現、記載、誤記等ありましたら済みません。

>このことを韓国人に教えてあげれば韓国人は黙るしか無いと思いますがどうでしょうか?

私も激しくなる事はあっても黙らないと思います。
まず、李氏朝鮮は古くは明、後に清に冊封していた事は明らかです。
韓国でどういう歴史を教えているか知りませんが
嘘の多い韓国の大河ドラマですが「チャングムの誓い」「イ・サン」「トンイ」で世子(セジャ・次期朝鮮王)、世孫(セソン)を世継ぎとして明や清に認めてもらうと言う場面が多々あります。
少なくとも、李氏朝鮮は明や清に朝貢、冊封していた事は認めています。
もし、そう言う認識が韓国に無いのならばこのドラマを作った監督は韓国マスコミや民衆に袋叩きになっていると思います。

中国に対しても韓国5000年の歴史と大統領が発言したりして中国より歴史があると言ったりしています。歴史観でほんの少しでも日本寄りの発言をすると韓国メディアや国民から袋叩きにあって社会的に抹殺されます。
それがソウル大学の教授でもですよ!
まだ、社会的な抹殺で殺人でないだけ良いですが…
(添付YouTubeを見てください)

韓国の有識者は日本併合(植民地)時代の本当の歴史等を知っているとは思いますが全体としては臨時政府などと言い方を変えたり、テロリストを反日であれば英雄にしてしまうように都合のいい歴史観にしています。
考古学的に何の検証もしていない神話レベルの話で韓国5000年の歴史と大統領が発言してもはばからない国です。
現在は日本は、歴史は歴史で神話とは別というのが日本人の共通認識のはずですが韓国人がどこまで区別しているのか、全く分かりません。

何せ、韓国では日本は悪でなくてはならない国であり、韓国は常に正義であり善であると教えている国です。
今の韓国には日本人が何を言っても逆なでする事はあっても肯定する人はなく無駄な気がします。
多少の隠れ親日派は作れるかもしれませんが公に口にする人はいないと思います。
韓国で権威のある歴史学者、大学の教授の発言でも親日でなくとも日本を少しでも擁護する内容であれば叩かれます。

李氏朝鮮末期の記録は欧米の記録や写真などが多少なりとも存在しています。
そう言った物、資料を直視する韓国人は少ないのです。
今の韓国と日本で歴史観を埋めようとしても一方的に韓国の歴史観を押し付けられるだけです。
今のうちに、そう言った客観的な資料を集めておくとか、日本、中国の文献を集めておくとか準備しておくくらいしかないと思います。
あまり人の事を言える立場では無いですが慰安婦問題なら「韓国軍のベトナム人大虐殺」「米軍慰安婦」とかで対応するしかない。

添付YouTubeでも言っているように
韓国とは暫く距離を置いて付き合うのが無難だと思います。

【日韓問題】 韓国人から見ても異常な…韓国人ブロガー・シンシアリー氏 .
↓↓(YouTube)

https://www.youtube.com/watch?v=cluHbI5i7gU

失礼な表現、記載、誤記等ありましたら済みません。

>このことを韓国人に教えてあげれば韓国人は黙るしか無いと思いますがどうでしょうか?

私も激しくなる事はあっても黙らないと思います。
まず、李氏朝鮮は古くは明、後に清に冊封していた事は明らかです。
韓国でどういう歴史を教えているか知りませんが
嘘の多い韓国の大河ドラマですが「チャングムの誓い」「イ・サン」「トンイ」で世子(セジャ・次期朝鮮王)、世孫(セソン)を世継ぎとして明や清に認めてもらうと言う場面が多々あります。
少なくとも、...続きを読む

Q江戸時代の身分(役職?)に詳しい方

・お留守居役

・大小姓頭

・膳奉行

・道中仮目付

・小十人各御庭番

この5つの上下を教えてください。
偉い順びするとどうなりますか?

Aベストアンサー

・お留守居役
御留守居年寄
諸大夫:万石級の大名格
実際は5千石級の旗本が就いた
定員5名
大名家にとっては留守居役は外交官としての責務も果たしていましたから、幕府とは取扱いが違います。

・大小姓頭
御小姓頭取:布衣500石御役料300俵
御小姓組番頭:3000石級の旗本
御小姓組頭:200俵~300俵(500石~750石)級の旗本

・膳奉行
御膳奉行
200~300俵(500石~750石)級の旗本
御役料200俵

・道中仮目付⇒不明
道中奉行:大目付が兼任
大名家にとって参勤交代は重要な責務ですので、道中方の名称、取扱いは幕府とは違います。

・小十人各御庭番
御庭番:100俵 両番格6人 小十人格8人・・・格は相当の意味
小十人組:100俵10人扶持

全部所轄組織が異なりますので、直接の上下関係は決められません。
格式としては禄高を目安として下さい。

上記はいずれも幕府のものですが、大名家によっては呼称、職務内容、格付けが異なります。
時代小説では作者によって役職名がいい加減なことがありますので注意して下さい。

出典:江戸幕府役職集成 笹間良彦 著  雄山閣出版

・お留守居役
御留守居年寄
諸大夫:万石級の大名格
実際は5千石級の旗本が就いた
定員5名
大名家にとっては留守居役は外交官としての責務も果たしていましたから、幕府とは取扱いが違います。

・大小姓頭
御小姓頭取:布衣500石御役料300俵
御小姓組番頭:3000石級の旗本
御小姓組頭:200俵~300俵(500石~750石)級の旗本

・膳奉行
御膳奉行
200~300俵(500石~750石)級の旗本
御役料200俵

・道中仮目付⇒不明
道中奉行:大目付が兼任
大名家にとって参勤交代は重...続きを読む


人気Q&Aランキング