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日清戦争と日露戦争の違いについて、できるだけ詳しく教えてください。

A 回答 (6件)

この戦争は全く違うものです。


まず「日清戦争」について・・・・・。
日清戦争の「清」とは、1616年から1912年まで続いた昔の中国の王朝名です。
だから日本と清との戦いということで、日清戦争というのです。
何故、このような戦争が勃発したのかというと、当時、清の領土である朝鮮では、非常に治安がよくありませんでした。
朝鮮国内では、親清派と独立派(親日派)とに別れていました。
独立派は清の支配から逃れ、朝鮮の独立を目指そうとしている集団です。
しかし、朝鮮と清とでは当然のことながら、国の大きさもさることながら軍事力も全然違います。
そこで、独立派は日本の力を借りて、朝鮮の独立を目指そうと考えたのです。
そんな中、朝鮮南部でこの戦争の引き金となる事件が起きます!
日本史を習う者としては超有名な甲午農民戦争(東学党の乱)が起こります。
この事件で日本は「朝鮮を救う」という肩書きを理由に、朝鮮に軍を派遣します。
当然、清は自分の領土である朝鮮に勝手に侵入してきた日本軍を歓迎するはずがありません。
そこで、清は日本軍に即刻退くように要求します。
しかし、日本軍は朝鮮政府改革要求が清に拒否されたため、1894年8月1日に清に宣戦布告。
その結果、清は日本にボコボコにやられてしまいます。
戦争終了後、下関条約で日本はホクホク、清は遼東半島・台湾・などの領土も取られ、日本への2億両(約3億1000万円)という多額の賠償金で国家はボロボロ。
まあ、これが日清戦争の始めから終わりです。

次に「日露戦争」について・・・・・。
まず「露」とは現在のロシアのことです。
だから、日本とロシアとの戦いということで日露戦争というのです。
このようになった過程を説明すると・・・・・。
当時、日本はようやく日清戦争の特需景気が冷めてきたところです。
さて、下関条約締結時、ロシアは日本に遼東半島を取られたことを非常に面白くないことだと思っていました。
このとき、ロシアは満州への進出を考えていました。
そのためには、なんとしても遼東半島に中継基地を作りたかったのです。
そこで、ロシアはドイツとフランスの協力を得て、「遼東半島を清に返すように」と日本を脅します。(いわゆる三国干渉というやつです。)
日本は仕方なく、これを承諾します。
この一件以来、日本はロシアへの復讐を誓う「臥薪嘗胆」の合言葉で世論が高まります。
次に、ロシアは再び清の物となった遼東半島を貸してくれくれと頼みます。
清はこれを承諾し、遼東半島をロシアに25年間だけ租借するのを許したのです。
一方、清国内では、国民が「どうして我々の国は簡単に他の奴らの進入をゆるしているんだ。」という思いが万延していました。
そんな中、1899年に義和団事件というのが起こります。
この事件は清への怒りが爆発して起こったにです。
この大規模な反乱はさらに勢いがつき、北清事変に発展します。
実はこの北清事変が日露戦争の原因なのです。
なんと、この大反乱で国連軍までもが鎮圧しに清にやってきます。
清の方は、北京の各国公使館が包囲されたため、日本を含む8ヶ国に対し宣戦布告。
当然、清は敗れます。
さて、ここからが問題なのです。
このとき、ロシアは鎮圧したことを理由に満州を占領してしまったのです。
ここで日本はロシアが南下してくるので、何か手を打たねばならんということで、ロシアを脅威と思っていたイギリスと同盟を組みます。(日英同盟)
日本国内では主戦論、非戦論が交錯します。
そして、1904年ついに日本とロシアとの間で戦争が勃発します。
日本はかなりの損害を出しつつも、なんとか勝利をつかむことができました。
その後のポーツマス条約で、日本は賠償金は得られなかったものの、遼東半島の租借権を得たり、他様々な日本に有利な条件を得ました。

こんな感じですけど、お役に立ちましたか?
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日清・日露戦争について手っ取り早く知るには



 「坂の上の雲」著者:司馬遼太郎 文春文庫

を全巻読んでください。

面白い!わかりやすい!文庫本で買えば安い!と3拍子揃っています。


ただし受験勉強用には向かないので(面白すぎるから...)、学問的に調べたいのならば
別の書籍を探してください。
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日清戦争について少し補足みたいなのをします。

1882年に朝鮮で壬午軍乱というのが起こりました。これは親清派の大院君(ダイインクン)勢力、つまり皇帝の実父の派閥がそのとき国政を牛耳っていた親日派の閔氏(ビンシ)政権、つまり皇后の一族です。その閔氏政権に対してクーデターを起こしました。そのとき朝鮮は自国の軍隊だけでは抑えきれないと思い清に援軍を頼みました。このクーデターは親清派が親日派に対して行ったものなので日本の大使館も焼き討ちになりました。日本はたまりかねて軍を出しました。こうして朝鮮に清と日本の軍隊が同時に駐屯しているという状態が起こりました。清と日本の両国は撤兵の際、今後朝鮮に一方の国が軍を出す時にはもう一方の国に通告しなければならないという条約を結びました。そんな中で東学党の乱が起こったのです。そのときも朝鮮(大韓帝国)は、自国の軍隊ではどうにもならないので清に助けを求めました。清と日本の間には条約がありましたよね。その条約で日本も大韓帝国に出兵したんです。それで反乱を鎮圧してcse_riさんの回答のような感じで戦争が進んでいきました。ちなみに賠償金2億両(テール)は当時の日本の国家予算の3倍強でした。そのお金を日本は軍備費に使い1901年八幡製鉄所を作り日露戦争への備えとしたのでした。これが日本と清との戦争なのに朝鮮半島で起こったいきさつです。  手元に資料がなかったので詳しい事は乗せれませんでしたがお役に立てると嬉しいです。
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日清戦争前夜の中国(清国)は、事実上政権が崩壊し、西欧各国やロシア帝国の「草刈り場」になっていました。


そこに日本も、「1枚噛んで」甘い汁を吸おうとしたのです。
背景としては、征韓論当時からの朝鮮王朝と、その背後にいた中国への不満がありました。

日清戦争で実際に軍事力を行使することで、日本は中国における相当な利権を手に入れ、朝鮮も手のひらの上に転がり落ちてきました。

しかしそれは同時に、中国において、日本と同じように利権をあさろうとするロシア帝国と、利害関係が正面から衝突することになりました。

その結果として武力衝突になり、日本はロシア帝国を軍事的に中国から押し出しましたが、外交で失敗して、たいした利権は手に入れることができませんでした。

欲というのは際限ないもので、その不満が、シベリア出兵につながったのですが、日本軍は、ロシアのゲリラに悩まされます。
誰が善良な農民で、誰がゲリラかわからない。
それで村ひとつを皆殺しにして焼き払う、というような残虐なことを随分やったようです。
このあたりは、アメリカのベトナム戦争を、思い出させます。

そのときのシベリアの農民の恨みが、今度は第二次世界大戦後の、シベリア抑留兵日本軍兵士へのソビエト政府の残酷な扱いにつながって行きます。

欲と恨みと復讐の連鎖は、いい加減にやめないといけません。
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私自身現在日露戦争について調べているところなので十分な回答はできないでしょうが、参考程度にしてください。



当時の世界情勢どころか南下政策も知らない癖にに日清戦争や日露戦争を日本の欲望からなる大陸の侵略だと頭ごなしに決め付ける人がいますが、それは戦争を否定するばかりで原因というものを考えようとしません。

アヘン戦争などを見ればわかりますが、欧米列強の国々はアジアまで進出しようとしていました。
そこで日本が一番危惧したのは南下政策です。北国であるロシアは一年中使える不凍港を望んでいました。そのために、ヨーロッパやアジアの地域を次々占領しては南に国境を進めていました。
そして当時の朝鮮は鎖国状態にある後進国でした。日本自体が鎖国状態にあった後進国で、開国語はすぐに欧米に立ち向かえる力を得れるように国力を発達させた国なので、欧米に立ち向かうためには鎖国をやめるべきだと考えたのです。
つまり、朝鮮が鎖国をやめないといずれは南下政策の餌食となり、日本まで巻き添えになる事を恐れていたのです。征韓論という言葉がありますが、これは武力によって韓国の征服を唱えたものではなく、武力によって韓国の開国を求めたものです。
その後開国した朝鮮に対して日本は内政改革を求めましたが、それらのような日本の行為を清は勝手なものとして不愉快に感じました。何故なら、清は朝鮮を自らの属国と見做していたからです。その事によって日本と清は対立し、戦争をする事になりました。
これが日清戦争です。つまりは朝鮮の開国と独立を目的としたものです。当時の日本には朝鮮を支配するつもりはなかったと考えてよいでしょう。南下政策に対する対策は取りたいですが、だからといって早速朝鮮を支配すれば正面からロシアに喧嘩を売る事になりますからね。

ところが朝鮮の王妃が親露に傾くという事態が発生しました。それを危惧した日本や朝鮮の開派勢力は王妃を暗殺しました。これが乙未事件です。
ロシアは次々と南下政策を推し進め、義和団事件の鎮静と名分に満州に侵攻しました。日米英はこれに抗議しましたがロシアは耳を貸さず、同じようにロシアの南下政策に困っていたイギリスは日本と日英同盟を築きます。
そうして日本は、ここまで来たら日本自体が朝鮮を支配してロシアの南下を食い止めるべきだと考えました。そのため、日本は最初ロシアに対して満州はロシアに渡すから朝鮮は自分にくれ。朝鮮まで自分のものにしないでくれと頼みました。ロシアが朝鮮を手に入れて不凍港を手にしたら、少なくとも日本の近海をロシアの船がのし歩くことになるからです。
しかしロシアはそれを拒否。そのために日露戦争がはじまったのです。
ですが、これは非常にリスクの高い戦争でした。相手は国費も兵も日本より圧倒的に強く、しかも負けたら日本には後がないのですから。誰も日本が勝てるとは思っていませんでした。しかし、ロシア自体負けても別に大きな損をしない戦いだったので、殆ど手を抜いた状態だったそうです。結局日本は勝てましたが、国費を大量に消費するなどその分損も大きかったのです。試合には勝てても勝負には負けたような戦争でした。

つまり、南下政策を食い止めるための予防策が日清戦争、直接的な衝突が日露戦争です。
乱暴な例えですが、予防接種と治療薬の違いですね。

確かに、戦争に勝った日本は台湾などの国々を手に入れましたし、いかなる理由があろうとも日露戦争の目的は満洲や朝鮮の支配ですので、侵略を目的としたのは事実でしょう。
しかし、その侵略の目的を頭ごなしに日本の欲望だと決めつけるのは間違いです。確かに豊臣秀吉の侵攻という前科はありますが、だからと言って味噌も糞も一緒にするべきではありません。

戦争をなくしたいのなら頭ごなしに否定するのではなく、なぜ戦争が行われたのか一つ一つ原因や事情を理解しなければなりません。原因をなくすよう努めなければ結果がなくなる事もないのですから。
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露寇というのを御存知でしょうか。


幕末、ロシアが樺太や国後島を侵略した事件です。

幕府は、列強の圧力により開国しました。
そして、アヘン戦争です。

日本政府は欧米列強、特にロシアの侵略を怖れていました。
その為、朝鮮を独立させ、対ロシアへの防波堤に
しようとしました。
その為、朝鮮の独立を阻止しようとする中国と、戦争になりました。
これが日清戦争です。

その後も、ロシアの南下政策はおさまりません。
何かと朝鮮にちょっかいを出してきます。
朝鮮にロシアの軍隊が駐留したら、日本の安全は
脅かされます。

キューバにミサイル基地が出来る、ということで、米国は
第三次大戦覚悟で、海上封鎖しました。
あれと同じ図式です。

その為、武力でロシアを排撃しようとしたのが
日露戦争です。

その後、当時アジア最貧国であった朝鮮は、独力では
独立を保てない、として日本に併合を依頼してきました。
これは日本の利益になります。
その為、日本は赤字にしてまで、教育や港湾などの
インフラを整え、朝鮮を強くしようとしました。
朝鮮が強くなれば、ロシアに対する防波堤にできると
踏んだのです。

これは、大東亜戦争後、対社会主義の防波堤にしようと
日本を援助して、自衛隊を作らせたのと同じ構造です。
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