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お茶は中国から伝わった平安時代頃には、お団子のようにして食べていたそうですが、
茶の湯と称して飲むものになったのは室町時代くらいからなのでしょうか。

だとすると、平安時代などの山の峠の『茶屋』などでは団子状のお茶を出していた訳ですよね?
飲み物としては白湯やお水を出していたのでしょうか。

江戸時代のお話しや時代劇などでは今と同じように茶葉で茶を煎れ、
その他にお団子などを出しています。

では、それ以前の『茶屋』はどんなものだったのでしょう。最近とても気になっています。
お茶と茶屋の歴史を教えて下さい。お願いします。

A 回答 (3件)

質問者さんの想像する茶屋は、江戸時代の街道筋の宿場で喫茶・食事を提供する休憩所としての「茶屋」です。


 茶屋の始原は鎌倉中期に、街道筋の寺院門前で茶を接待する「接待茶屋」・「施行茶屋」までさかのぼりますが、室町期に寺社門前で抹茶を振る舞った「一服一銭」や、戦国から江戸初期まで将軍・大名によって直営された「御茶屋」へと至ります。御茶屋は後に本陣(大名が利用する宿)へと変化し、江戸期に民営の茶屋が誕生します。街道の整備や参勤交代、民間流通の発展に伴い、茶屋は主に宿場町の両脇に集中して建てられますが、街道筋の間(あい)の村にも休憩所としての立場茶屋が生まれます。
 この時代の茶屋の繁盛には、給仕女の売春に依るものが多く、幕府は延宝6年(1678)には、新規に茶屋を営業することを禁止、給仕女は2人まで。日中のみの営業と規制を引き、その後も何度か禁令を発しますが、実際は有名無実でした。しかし、幕末期の物価高騰と、交通手段の変化により旅籠とともに茶屋も衰退します。

 喫茶は、天平元年(729)に宮中大極殿で行われた、季御読経(きのみどきょう)で茶が振る舞われたと伝わります。また延暦24年(805)に最澄が茶の実を比叡山麓に植えたともいいます。
 弘仁5年(814)に嵯峨天皇は藤原冬嗣の閑院第より茶を喫し、翌弘仁6年には梵釈寺で煎茶を献じられます。また同年に嵯峨天皇は畿内・近江。丹波・播磨に茶を植え、宮中に献上させています。当時は煎茶、それも実際に葉を煎じて飲んでいたと考えられます。
 遣唐使の廃止後は茶栽培も中断しましたが、建久2年(1191)に栄西が茶を持ち帰り、また承元元年(1207)に明恵が栂尾で茶を栽培しました。栄西の茶法は抹茶であり、ここから寺院を中心に喫茶が広まります。当時は抹茶は薬効・覚醒・精神修練として取り入れられました。
 室町期に茶は流行し生産量も増えますが、茶葉は石臼で挽いて抹茶とし、庶民は主に引き屑である「ヒクズ」を飲用としました。茶葉を湯にくぐらせて飲む方法は日本では江戸初期に行われていたと考えられますが、江戸中ごろに現在の煎茶技術が確立し、庶民の喫茶法となります。
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 それと気をつけないといけないのは、テレビ・映画の時代劇や講談話などは、時代考証無視の表現ばかりなので、歴史勉強の参考にはなりません。


 例えば『水戸黄門』などは、元禄年間の内容であるのに、江戸中期から後期ごろの風俗・風習・思考をそれもごちゃ混ぜにしています。あのころの茶屋なら現在のような煎茶ではなく、茶葉を湯で煎じて飲む方が一般的であり、しかも、甘い団子などという「高級菓子」を、田舎の茶屋で提供すること自体考えにくいことです。

 あと団子状のお茶は「団茶」といい、平安期に日本に伝わりました。必要な分量だけほぐして、湯で煎じ、甘葛(あまかずら)や生姜の汁を混ぜて飲むという喫茶法です。
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>平安時代などの山の峠の『茶屋』などでは団子状のお茶を出していた訳ですよね?



そもそも平安時代に峠の茶屋なんてものは存在していないのではないでしょうか?
都から他の場所へ一般の人間が容易に旅をするような時代ではないですから、峠の茶屋というような旅人が一服するような施設自体無かったと思うのですが、、、

五街道の整備にしても徳川時代になって旅籠や宿場町等を整備していった訳ですし、旅人の休憩施設としての『茶屋』というものもその頃から必要に応じて存在していったと考えられるものだと思います。
したがって、いわゆる江戸時代以前には『茶屋』のようなものは存在していないと思います。
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