どなたか、仏教用語にお詳しい方がいましたら
教えて下さい。
「蓮華ミショウ」?「レンゲミショウ」?「ネンゲミショウ」??
だったか、その言葉さえも正しいかどうか忘れてしまったのですが、
「釈尊が、あるとき一輪の花にそっと触れられ弟子達の方を
振り向かれて微笑まれた。」という教訓だった思います。
その正しい言葉と、どの仏典の出典なのか、そして、その教訓の正しい意味
そのとき何を釈尊は教えようとされたのか。
教えて下さい。
よろしくお願いします。

A 回答 (7件)

 三たび失礼致します。


 今度は「拈華微笑」という言葉そのものをサイト検索にかけてみましたところ、No.2のminatouriさんが紹介くださっているページの他に、参考URLに貼り付けたページも見付かりました。
 2月号「以心伝心」の中で、言葉の由来となった物語として「拈華微笑」が登場しますが、これで何となく『大梵天王問仏決疑経』とは何ぞやということも見えてきたような……(苦笑)

 さて、肝心の

 > そのとき何を釈尊は教えようとされたのか。

 ですが……
 これは、参考ページで釈尊の言葉として紹介されている通り、

 > 文字に書き表すこともできず、言葉で表現することもできない。

 教えであるようですね……。

★★★★★

 wind101さんの御質問や回答者の皆様のお答に興味をそそられたおかげで色々と調べることが出来、興味深いサイトにも出会え、非常に勉強になりました。
 有難うございました(笑)。

参考URL:http://www.mt-silver.com/BUDDHISM/01.htm
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この回答へのお礼

Tosshie-Toshikoさん、三たびの情報提供
ありがとうございました。
これから、いろいろ勉強します。
                 ^ ^ ;

お礼日時:2001/10/12 00:08

 再度お邪魔致します。

最初に回答させていただきました、Tosshie-Toshikoです。
 『五燈会元』というのは大辞林にも出典として書かれていましたね(笑)。yacobさんの御回答を拝見して調べてみたくなったので、ちょっと手が空いたのをいいことに、サイト検索してみました。

 ……どうやら、中国の宋の時代に成立した、禅僧の伝記などを集めた書物のようです。

 参考URLには、ちょっと読みづらいかもしれませんが、『五燈会元』とはどういう書物か、という説明があります。御参考まで。

 もうひとつの『大梵天王問仏決疑経』も、駄目元で検索したら引っ掛かったページがあるのですが……

   http://yat3.ice.ous.ac.jp/kuga/gosyo/title/G066. …
    (蛇足ながら、サイトのトップは≪http://yat3.ice.ous.ac.jp/≫です)

 行ってみたら昔の文章だったので、玉砕しました(爆)。いえ、一応読んではみたのですが(『大梵天王問仏決疑経』という語は真ん中辺より下の部分にありました)、よくわからなかったので……文中(少し前)にある『像法決疑経』と同じ物??
 どういう書物かという説明の文章ではないようですし、混乱させては申し訳ないので、こちらは下には貼り付けません(^v^;;
 格闘してみたいと思わるようでしたら、行ってみてください。「拈華微笑」という言葉も入っていましたよ(笑)。

参考URL:http://www.ningenzen.org/daruma.html
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No,3のjacobです。



別な本に、拈華微笑について、"唐時代に始まり宋の時代に定型化した、禅の公案で、「無門関 第10則」にあるのがもっとも著名" とありました。無門関は、1228年の本ですし、五燈会元も唐時代、または、それ以後ではないかと思いますので、本当の始まりは、大梵天王問仏決疑経であろうかと思います。

判りましたところ申し上げます。
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この回答へのお礼

yacobさん、再度の情報ありがとうございました。
何か、難しそうですね。

お礼日時:2001/10/11 23:56

拈華微笑の出典について調べてみました。



1・戦前(1938)にでた仏教関係の本には、「大梵天王問仏決疑経に載する所なりと伝ふ」とあります。この文言から察すると、大梵天王問仏決疑経なるものは、現存しないと読めます。
2・最近(1981)にでた国語関係の本には、出典として、「五燈会元(ごとうえげん)」とあります。

いずれも私には、さっぱり判らぬ名前ですが、とにかくご参考までに申し上げます。どなたかから、しかるべき補足説明いただけるかと存じます。
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もう答が出ているネンゲミショウですが、僕は中学のときに国語の先生から習いました。



釈迦が華をひねったことの意味を悟って、たった1人の弟子だけが微笑した、という故事だったように記憶しています。
同義語として、以心伝心、とかでしょうか。
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この回答へのお礼

nabayoshさん、有難うございました。
大切な人と以心伝心できるといいですね。
                m○m

お礼日時:2001/10/11 23:50

大覚寺HPの法話の中に「拈華微笑」について書かれています.ご参考までに.



参考URL:http://www.daikakuji.or.jp/howa/howa3.htm
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この回答へのお礼

minatouriさん、有難うございました。
言葉を知っていれば、自分で捜せたんですが
助かりました。

お礼日時:2001/10/11 23:44

 wind101さん、こんにちは。


 これは「拈華微笑(ねんげみしょう)」ですね。
 言葉の存在を知っている程度で余り詳しくはない人間ですので、取り敢えず、辞書で引いてみました。下にURLを載せておきますね。

参考URL:http://dictionary.goo.ne.jp/cgi-bin/dict_search. …
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Q種蓮華ってなんですか?

横光利一の作品「蝿」の中で「種蓮華を叩く音」という表現が出てきます。
それは野草のレンゲなのでしょうか?レンゲは叩くものなのでしょうか?
そして音がするものなのでしょうか。手がかりがなくて困っています。
もしかするとレンゲの種は叩いて落とすものなのかもしれませんが・・・。
教えてください。お願いします。

Aベストアンサー

「種蓮華を叩く音」
これは、レンゲソウの種を採るために「からさお打ち」をしていた時の音と思われます。から竿とは竹の棒の先にくるくる回転する短い棒をつけたものです。これを乾燥した植物体の上にうち下ろすのですから、「パン・・パン・・」と周期的な音がします。

原文を読みました。「スイカ」、「夏」などのキーワードなどから考えて、時期的には7~8月でしょう。イメージ的には盆前という気がします。すると、ハスは花の時期で、種はまだとれない。レンゲソウは、6月ころに種は熟してきますが、梅雨に入ってしまい、直ぐに種とりというわけにもいかない。したがって物語の時期に種とりをするのは合理的な話です。

レンゲソウは水田の緑肥や牛馬の餌として栽培されます。緑肥の場合は種が取れませんので、どこかで熟するまで栽培しておく必要があります。熟するまで栽培したものは、収穫し、種を採った後は牛馬の餌にします。

「種蓮華」という仏教関係のものがあるかどうか詳しくは知りませんが、「蓮華」というのは仏教では非常に重要なもの。いくら種がつくとはいえ、それを叩くかなと思います。

参考URL:http://www.brain.go.jp/Info/Shiryo/iam_shiryo09.html

「種蓮華を叩く音」
これは、レンゲソウの種を採るために「からさお打ち」をしていた時の音と思われます。から竿とは竹の棒の先にくるくる回転する短い棒をつけたものです。これを乾燥した植物体の上にうち下ろすのですから、「パン・・パン・・」と周期的な音がします。

原文を読みました。「スイカ」、「夏」などのキーワードなどから考えて、時期的には7~8月でしょう。イメージ的には盆前という気がします。すると、ハスは花の時期で、種はまだとれない。レンゲソウは、6月ころに種は熟してきますが、...続きを読む

Q仏典の解釈とその実践における失敗

私は日々の生活の中で、同じ失敗を繰り返すまいと肝に銘じたり、肝に銘じすぎて硬くなったのを戻したり、そしてまた失敗したり、どうもうまく教訓が生かせないと思い、現在は歴史の修練に残った宗教の教えを参考にしようとしています。(生真面目な性格です。)

具体的には、中村元訳の仏典を読んだり、テーラワーダ仏教のスマサナーラ長老の啓蒙書を読んだりしています。しかしやはり読了後は眼光紙背に及ばず字面に影響されて、例えば「犀の角のように歩め」というと、どことなく仏教を学ばない人を見下してしまいます。(いかんいかん・・)

そこで、仏典の文献学的な解釈方法やその失敗例を学べばうまく距離が取れるのではないかと考ました。
すでに(物騒ですが)オウム真理教関係の本は何冊か読んでいます。
そういった非日常の事柄から日常の失敗を集めた資料、
そして解釈方法を書いたものがあれば、ぜひご紹介願います。

Aベストアンサー

 少しばかりお話させていただきます。
>>私は日々の生活の中で、同じ失敗を繰り返すまいと肝に銘じたり、肝に銘じすぎて硬くなったのを戻したり、そしてまた失敗したり・・
 私はそんな感じでいいと思うんですけどねぇ。非常に仏教的だと思いますよ。私は個人的には浄土教を信仰していますが、その中で説かれる信心のなかに「深心」というものがあります。
 この深心とは、二つに分けることができると説かれています。一つは「信機」。二つには「信法」です。まず「信機」というのは自分の愚かさを省みることです。そして、「信法」とは阿弥陀仏に身を任せた生活に入ることを指します。この二つは「信機」、そして「信法」この二段階で終わりではありません。「信機」は「信法」を深めて、「信法」は「信機」を深めていくという、相互干渉しあうものとされます。
 つまり、自分自身はなんと愚かであろうかという反省(信機)が、阿弥陀仏の救いのありがたさを感じ阿弥陀仏の本願に身を任せる(信法)。しかし人間というのは時が経つとそのときの心を忘れまた傲慢に振舞ってします。するとまた、自分の愚かさというものを身にしみて感じる(信機)。そして、阿弥陀仏の救いの心の尊さを感じる(信法)といった具合で深まっていきます。このように深まり続ける心だから、「深心」と呼ばれるわけです。
 お釈迦様の言葉を借りれば、『法句経(ダンマパタ)』というお経の中に「愚かさを推し量る愚者は、それ故また賢者である。賢者であると慢心を抱く愚者は、それこそ愚者といわれる」と説かれており、お釈迦様は「愚かさを反省する必要のないほどの賢者」よりも、「自分の愚かさを反省し続けることのできる愚者」でありなさいと説かれるのです。
 そういった意味では、質問者さんは非常に仏教的だと思いますよ。

>>具体的には、中村元訳の仏典を読んだり、テーラワーダ仏教のスマサナーラ長老の啓蒙書を読んだりしています。しかしやはり読了後は眼光紙背に及ばず字面に影響されて、例えば「犀の角のように歩め」というと、どことなく仏教を学ばない人を見下してしまいます。(いかんいかん・・)
 そこで「どことなく仏教を学ばない人を見下してしまいます」と感じてしまうのが人間の愚かさなのでしょう。しかし、いかんと感じられるのなら私はあなたはなかなか自分を客観的に見る感覚はお持ちのようで、やっぱり仏教的な反省も得意な方のように思います。
 まぁ、お釈迦様も「犀の角のように歩め」とおっしゃる一方で「善き友と交われ」とおっしゃっていますし、これはもうご存知だと思いますが「仲間の中におれば、休むも、立つも、行くも、旅するも、常に人に呼びかけられる。他人に従属しない独立自由を目指して、犀の角のようにただ独りで歩め」説かれているように「犀の角のように歩め」というのは、人々の中で仲良くしていながらも誰かに寄りかかるわけではなく、自分勝手に振舞うということではなく心は自由でありなさいという意味だと思いますよ。ですから、仏教を学ばない人がいても、その人とも仲良くできるのが本当の自由じゃないですかね。生意気申しました。悪しからず。
 私もテーラワーダ(上座部)の書物はよく読ませていただいています。平易な言葉で素直に受け取ることができて私も好きです。先に紹介していらっしゃる方もいらっしゃいますが、「仏法―テーラワーダ仏教の叡智」(ポー・オー・パユットー 著、 野中 耕一 訳)は名著ですねぇ。テーラワーダの教科書であると形容されることもあり、典拠主義に基づいた理論展開はすばらしいですね。個人的な感想であるかもしれませんが、個人主義的な部分も強いテーラワーダ仏教の中において、社会科学的な視点を取り入れ大乗仏教とも通じる部分を感じたしだいです。

>>そこで、仏典の文献学的な解釈方法やその失敗例を学べばうまく距離が取れるのではないかと考ました。
>>すでに(物騒ですが)オウム真理教関係の本は何冊か読んでいます。
>>そういった非日常の事柄から日常の失敗を集めた資料、
>>そして解釈方法を書いたものがあれば、ぜひご紹介願います。
 なかなか、勉強家のようですね。私も本を読むのはすきなのですが、最近読んで面白かったのは
●釈徹宗 著 「いきなりはじめる仏教生活」
ですかね。この方は浄土真宗の方ですが、まずは現在の思想の解体から始まり、宗教とはいかなるものか、そして宗教の問題点等を挙げていき、お釈迦様の仏教を解説し、日本仏教の大きな流れである禅と浄土の思想を解説し、人間の問題の解決法を仏教の中に見出していくという流れになっっているかと思います。言葉も平易で読みやすい一冊でした。

 文章が急ごしらえのため誤字脱字乱文、どうぞご容赦ください。
 合掌 南無阿弥陀佛

 少しばかりお話させていただきます。
>>私は日々の生活の中で、同じ失敗を繰り返すまいと肝に銘じたり、肝に銘じすぎて硬くなったのを戻したり、そしてまた失敗したり・・
 私はそんな感じでいいと思うんですけどねぇ。非常に仏教的だと思いますよ。私は個人的には浄土教を信仰していますが、その中で説かれる信心のなかに「深心」というものがあります。
 この深心とは、二つに分けることができると説かれています。一つは「信機」。二つには「信法」です。まず「信機」というのは自分の愚かさを省みる...続きを読む

Qエアマスターの乾蓮華関係グッズ

ウチの嫁さんが乾蓮華(レンゲ)にとても似ている
ことから、夫婦でレンゲにハマッてます。
関連グッズ等の情報が欲しいです。
フィギュアがあれば絶対欲しいんですが・・・。

以前フィギュアのカテで同様の質問したところ
誰からも回答が無くてここに来ました。
宜しくお願いします。

Aベストアンサー

深夜アニメということもあって、現時点では無いみたいです。
ゲームセンターの景品でありそうかと思ったんですが、検索した範囲では見つかりませんでした。
過去に相川摩季のガレージキットが売られていたのと、雑誌の懸賞賞品のテレカ(蓮華単体は未見)ぐらいしか見た覚えがありませんね。

Q仏典のデータファイルありますか

Macユーザーです。

仏典(漢訳)のデータファイルを探してます。
難解な字もあるので、青空文庫のようにそのまま使えると助かります。
解説を書いているのですが、あると時間の手間が省けます。

Aベストアンサー

こんばんは。

http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~sat/japan/index.html
 ↑こういうもののことでしょうか??違ってたらすみません。では。

Q妙法蓮華経

法華経とは何をいっているのですか?
蓮華の花は、開いた時にすでに実を結んでいるものです。また、妙な法であるということです。
また妙法蓮華経の現代語訳が置いてあるページなど、いい所があれば教えてください。宜しくお願いします。

Aベストアンサー

 法華経を論ずるに当たっては、すべからく法華経に三種あることを知らなければならない。第一に釈迦在世および正法時の法華経二十八品であり、第二に像法年間における天台の摩訶止観であり、第三には末法に広布すべき南無妙法蓮華経の五字七字です。
 日本国に御出世の御本仏・日蓮大聖人様が、
 『今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし』
と明らかにお示しのごとく、末法の法華経とは、まことに三大秘法の南無妙法蓮華経にほかならないのであります。
 したがって、法華経二十八品は、三大秘法の仏法の序文として流通分として用いるのです。
 末法は、白法隠没とされ、釈迦仏法の効力がなくなっております。それなのに、現代語訳を論じ学んだところで、何になるというのでしょうか?

 「南無妙法蓮華経」を表面的に解釈すれば妙法蓮華経すなわち法華経に帰依(南無)するという意味です。
 日蓮正宗以外の日蓮宗各派では、本仏といえば釈尊であり、究極の経典は釈尊の法華経であると立てておりますから、南無妙法蓮華経の意味も、「釈尊が説いた法華経二十八品の経典に帰依する」ということになります。
 しかし日蓮大聖人様は、
 「今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(三大秘法禀承事・新編一五九四)
と仰せられ、大聖人様が建長五年四月二十八日に唱え出された南無妙法蓮華経は、いまだ誰も唱えなかったものであると説かれています。
 さらに大聖人様は、
 「仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(経王殿御返事・新編六八五) とも、
 「彼は脱、此は種なり。彼は一品二半(いっぽんにはん)、此は但題目の五字なり」(観心本尊抄・新編六五六)
とも仰せられるように、この南無妙法蓮華経は釈尊の法華経とは異ったものであると示されています。
 では南無妙法蓮華経のほんとうの意味はなにかというと、
 「無作の三身とは末法の法華経の行者なり。無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云ふなり」(御義口伝・新編一七六五)
と説かれています。すなわち無作三身(宇宙法界を我身・我体として悟られた根本の仏)とは法華経の行者のことであり、その仏名を南無妙法蓮華経と称するのであるというのです。ここでいう法華経の行者とは日蓮大聖人様にほかなりません。これについて、さらに、
 「本尊とは法華経の行者の一身(いっしん)の当体なり」(御義口伝・新編一七七三)
と仰せられており、法華経の行者の当体こそ一切衆生を済度する本門の本尊であると示されています。
 したがって南無妙法蓮華経とは本門の本尊のことであり、法華経の行者日蓮大聖人様の当体なのです。
 大聖人様は、
 「本尊とは勝れたるを用ふべし」(本尊問答抄・新編一二七五)
と私たちに本尊の大切さを教えられています。
 いかにお題目がありがたいといっても、日蓮宗各派のように、釈尊像を拝んだり、竜神や大黒天あるいは稲荷に向かったり、さらには霊友会や立正佼成会のように死者の戒名に向かって題目を唱えることは、本尊と題目がまったくちぐはぐなものとなり、大聖人様の教えに背く悪業を作ることになります。
 人でも自分と違った名前をいくら呼ばれても返事をしないどころか、かえって非礼にあたると同じ理屈です。
 せっかく日蓮大聖人様を崇め、南無妙法蓮華経の題目を唱えるのですから、大聖人様の御真意に叶った正しい御本尊に向って唱題すべきです。
 如何でしょうか?

 法華経を論ずるに当たっては、すべからく法華経に三種あることを知らなければならない。第一に釈迦在世および正法時の法華経二十八品であり、第二に像法年間における天台の摩訶止観であり、第三には末法に広布すべき南無妙法蓮華経の五字七字です。
 日本国に御出世の御本仏・日蓮大聖人様が、
 『今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし』
と明らかにお示しのごとく、末法の法華経とは、まことに三大秘法の南無妙法蓮華経にほかならないのであります。
 したがって、法華...続きを読む

Q釈尊のさとりについて

増谷文雄氏の著作『釈尊のさとり(p.65)』によると、釈尊がさとりを開いた後、次の様に考える場面が、南伝・相応部経典6-1に書かれてあるそうです。

曰く、『私が悟りえたこの法は、はなはだ深くて、見がたく、悟りがたい。寂静微妙にして、思惟の領域を超え、優れたる智者のみよく覚知しうるところである。・・・この世間の人々は、・・・この理はとうてい見難い。・・・この理とは、すべては相依性にして、縁(条件)ありて起るということであり、また、それに反してすべての計らいをやめ、すべての所依を捨てされば、渇愛つき、滅しつくして、涅槃にいたるということである。』

そこで疑問なのですが、釈尊は前段で、「私が悟りえた法は、思惟の領域を超え、優れたる智者のみよく覚知しうるところであって、一般の人には理解できない」と言っていますが、後段で述べている内容、つまり、「すべては相依性にして、縁(条件)ありて起るということであり、また、それに反してすべての計らいをやめ、すべての所依を捨てされば、渇愛つき、滅しつくして、涅槃にいたる」ということは、一般の人に理解出来ないほど難しい内容ではないと思うのです。

と言うことは、前段で言っていることと、後段で言っていることとの関係は、どのように考えれば良いのでしょうか?
後段で言っていること以外に、何か、あるのでしょうか?
あるとしたら、それは何でしょうか?

どなたかお教え戴けたら幸いです。

増谷文雄氏の著作『釈尊のさとり(p.65)』によると、釈尊がさとりを開いた後、次の様に考える場面が、南伝・相応部経典6-1に書かれてあるそうです。

曰く、『私が悟りえたこの法は、はなはだ深くて、見がたく、悟りがたい。寂静微妙にして、思惟の領域を超え、優れたる智者のみよく覚知しうるところである。・・・この世間の人々は、・・・この理はとうてい見難い。・・・この理とは、すべては相依性にして、縁(条件)ありて起るということであり、また、それに反してすべての計らいをやめ、すべての所依を捨て...続きを読む

Aベストアンサー

>>「私が悟りえた法は、思惟の領域を超え、優れたる智者のみよく覚知しうるところであって、一般の人には理解できない」

これは、仏陀の悟った法全体について述べているのでしょう。「宇宙即我」関連であれば宇宙空間とか遠い星雲についての悟りもあるでしょうし、物質の生成と消滅なども当然あると思います。科学的な知識の無い昔の人々にそんな話をしても理解できるわけありませんからね。

>>「すべては相依性にして、縁(条件)ありて起るということであり、また、それに反してすべての計らいをやめ、すべての所依を捨てされば、渇愛つき、滅しつくして、涅槃にいたる」

この部分は、「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の教えですね。これに関しては、一般の人になんとなく理解出来る気分にさせるけど、それでもなかなか理解は難しいはずです。
とはいっても、文系の人が宇宙論や量子力学を学ぶよりは容易かもしれません。

前半は、詳細な部分までも含めた悟りの全体について、後半は、教えの要点、エッセンスだけについて述べているのだと思います。

Q田畑に咲く菜の花と蓮華草の疑問

この時期の田圃や畑には、油菜や蓮華草が沢山咲いてますが、あれは意図的に栽培してるのでしょうか?どちらも食用出来る花ですもんね。食べるために栽培してるようにも見えるし、意味がないようにも見えるし。果たしてどっち…

1.油菜は蕾の内に食べる花ですよね。満開になって食べるもんでしょうか?でも刈った跡もなく、いい香りプンプンさせていまだに咲いてます。葉っぱを食べるなんて聞いたことないし。
2.蓮華草も満開です。田圃一面に咲いてます。これも摘んでる気配がありません。勝手に自生するのでしょうか?蓮華草は花も食べられるそうですね。なんで収穫しないのでしょうか?

どちらも近所の田圃や畑の光景ですが、食べるために植えてるのか、観賞用に植えるのか、勝手に生えるのか…ちょっと不思議に思いましたので質問させて貰いました。

Aベストアンサー

こんにちは。

昔、何かの本で読んだのですが、蓮華もアブラナも、緑肥のために種を蒔いて植えているものです。
蓮華の場合は、マメ科植物の特徴である「空中の窒素を固定する根粒菌」の働きと,レンゲをそのまま鋤こんで肥料にするためです。アブラナも、種を採って搾るのもありますが、一緒に鋤きこんで緑肥にする為の利用の方が大きいようですね。

御参考になれば幸いです。

Qインドの古代仏典は、デーヴァナーガリー文字で書かれたのが多いですか、それとも梵字で書かれたのが多いですか。

インドの古代仏教原典は、デーヴァナーガリー文字で書かれたのが多いですか、それとも梵字で書かれたのが多いですか。

Aベストアンサー

遠い昔、大学時代にサンスクリット語を習いました。その時の記憶から言うと、サンスクリット仏典は基本的にデーヴァナーガリーだと思いますが、それ以前の古代インド文字や、言葉で言えば“方言”のような、異体字のような文字でも書かれていたと思います。

所謂「梵字」というのは、デーヴァナーガリー文字を元にして図案化(といっていいのかな)された、中央アジアから中国あたりで作られた文字(悉曇文字)だと記憶していますので、「梵字」で書かれた仏典も存在するとは思いますが、時代的には少し下ったものになると思います。

「梵字」という言い方は、デーヴァナーガリーを初めとする、古代インドの文字を表わすこともありますが、現在の仏教学では多くの場合、真言宗などで種子に使われている“悉曇文字”のことを指すと思います。

“悉曇文字(梵字)”については、Wikipediaをご参照ください。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B5%E5%AD%97

もし、おっしゃっている「梵字」の定義が、この“悉曇文字”ではなく、デーヴァナーガリー以外の古代インドの文字のことをおっしゃっているのであれば、質問の意味するところが、「古代インドの仏教典籍のうち、デーヴァナーガリーと、それ以外の古代インド文字とでは、どちらで書かれたものが多いのか」ということになると思いますが、そこまで専門的な知識はないので、私には分かりません。
補足などでその旨を書かれれば、専門家が答えてくださるのではないかと思います。

遠い昔、大学時代にサンスクリット語を習いました。その時の記憶から言うと、サンスクリット仏典は基本的にデーヴァナーガリーだと思いますが、それ以前の古代インド文字や、言葉で言えば“方言”のような、異体字のような文字でも書かれていたと思います。

所謂「梵字」というのは、デーヴァナーガリー文字を元にして図案化(といっていいのかな)された、中央アジアから中国あたりで作られた文字(悉曇文字)だと記憶していますので、「梵字」で書かれた仏典も存在するとは思いますが、時代的には少し下ったも...続きを読む

Q日蓮上人が思考錯誤の上、南無妙法蓮華経を最高に置いた経緯。

日蓮上人が思考錯誤の上、南無妙法蓮華経を最高に置いた経緯。
ご存知のかたありませんか?

Aベストアンサー

妙法蓮華経を最高に置いた経緯

これは天台宗の二祖である天台智顗が『妙法蓮華経』が最高の仏の教えであるとしていたからですね。
その経典を持ち帰り日本に天台宗を開いたのが最澄ですから、天台宗の流れは『妙法蓮華経』を第一としてますね。問題は最澄にあったのですね。最澄は経典を持ってきただけで、中身はさっぱりわからなかったのですね。悟ってないから天台の祖を継いでないですからね。
ちなみに同時期の空海は恵果(真言七祖)の後の真言八祖を継いでますね。
それゆえ、天台系の弟子は『妙法蓮華経』の中身がさっぱりわからなかったのですね。
日蓮も同じですね。中身はさっぱりわからないけど「最高の法」と天台宗の祖がいっているのだから、南無「妙法蓮華経」と唱えてもご利益があるだろうということですね。
「南無」は帰依しますという意味ですね。
経文の題目に帰依しても利益はないでしょうね。
でも最澄がわからなかったのだから弟子はそれしかなかったのでしょうね。天台系でも南無「無量寿」南無「阿弥陀仏」と浄土に流れた者もいたわけです。もとは『妙法蓮華経』の中身がわからなかったので弟子は迷ったということでしょうね。
未だにその迷いが続いているということでしょう。迷いだけだといいんですけどあらぬ方向に行く場合もありますからね。あの世の日蓮さんはすごく反省してますね。

妙法蓮華経を最高に置いた経緯

これは天台宗の二祖である天台智顗が『妙法蓮華経』が最高の仏の教えであるとしていたからですね。
その経典を持ち帰り日本に天台宗を開いたのが最澄ですから、天台宗の流れは『妙法蓮華経』を第一としてますね。問題は最澄にあったのですね。最澄は経典を持ってきただけで、中身はさっぱりわからなかったのですね。悟ってないから天台の祖を継いでないですからね。
ちなみに同時期の空海は恵果(真言七祖)の後の真言八祖を継いでますね。
それゆえ、天台系の弟子は『妙法蓮華経』...続きを読む

Q仏弟子の名前

お恥ずかしい話なのですが、わたくし今まで戒名とか法名については一般的にネットで載っている「お釈迦様の時代には戒名は存在しなかった」って説を信じていたんですが、つい先だって『律蔵』大品の解説書を読んでいたら「舎利弗(サーリープッタ)」って本名じゃないようなんですよね。はぁーそうなんだと思って読んでいたのですが、その時思い出したのが『スッタニパータ』の中でも「ニグローダ・カッパ」って名前もお釈迦様がつけたって書いてあるのを思い出しました。
 だだ、『スッタニパータ』の注釈文献なんかには「阿羅漢果を得た記念にニグローダ・カッパと名付けてくれた」となっているようで、入門の時名前を変えたわけではないともいえます。確かに『中部』なんかでも、「初転法輪」のところで、五比丘が「ゴータマさん」とか「同輩」みたいな呼びかけをしたら、お釈迦様が「如来に対して、悟る前の呼び方をしちゃだめよ」ってとこがありますから、悟ったら名前を変えるってこともあったのかもしれません。(ただ、ニグローダ・カッパの場合、阿羅漢果を得た記念に名前をもらっているとしたら、『スッタニパータ』の「ヴァンギーサ経」の中で「ニグローダ・カッパは輪廻してるのか、していないのか?(要約)」みたいな疑問は生まれないと思いますがね)
 そうなるといろいろ疑いだしてきて、(1)仏弟子の名前って本名なんですかね?本名じゃないなら、私たちが知っている名前はあだ名ってことになるわけですが、このあだ名は誰がいつつけたんですかね?

 また、確かに「戒名」なる言葉に関しては、パーリ・サンスクリット等においてそれにあたる言葉はないわけですが、戒名という名前ではないにしても『増一阿含経』や対応の『増支部』には「釋子と名乗んなさいな」ってことはありますし、戒名の原型のようなものはあったんじゃないかと思うわけです。ですので、私の中でもう一度考え直したいのですが(2)最初にあげた「お釈迦様の時代に戒名は存在しなかった」という一般的に信じられている説って誰がどのような論拠をもって提唱したんでしょうか?論文等々を探しても書いてあるものが見つからなくて困っています。こんな本で読んだとかあったら教えてください。

 戒名等々に関してはほかにも多くの問題をはらんでいることは重々承知していますが、今回は文献的なところを中心でお願いします。恥ずかしながら、初期の経典を読むのは好きなんですが、いかんせんそれをどう解釈していけばいいかというノウハウに乏しくて、、、とほほです。お分かりになる方よろしくお願いします。

お恥ずかしい話なのですが、わたくし今まで戒名とか法名については一般的にネットで載っている「お釈迦様の時代には戒名は存在しなかった」って説を信じていたんですが、つい先だって『律蔵』大品の解説書を読んでいたら「舎利弗(サーリープッタ)」って本名じゃないようなんですよね。はぁーそうなんだと思って読んでいたのですが、その時思い出したのが『スッタニパータ』の中でも「ニグローダ・カッパ」って名前もお釈迦様がつけたって書いてあるのを思い出しました。
 だだ、『スッタニパータ』の注釈文献...続きを読む

Aベストアンサー

こんばんは、baka-hageさん

検索したら、下のようにありました。ただ《沙門釈子(しゃもんしゃくし)》(出家者として平等なシャカムニ仏陀の子)とのみ称す。
お釈迦様は、平等を目指したようです。
今の仏教は?戒名はお金の多さで?

http://www.bunet.jp/world/html/busshin/13_08/2001_08_busshin.html
☆大河は大海に至れば、以前の名と姓とを捨てて、ただ<大海>とのみ呼ばれるように、四つの階級、<バラモン>・<クシャトリヤ>・<ヴァイシャ>・<シュードラ>は、如来の説き給うた法と律とにおいて出家したならば、以前の名と姓とを捨てて、ただ《沙門釈子(しゃもんしゃくし)》(出家者として平等なシャカムニ仏陀の子)とのみ称す。(『律蔵』四、「小品」)

http://blog.goo.ne.jp/fukujukai/e/08c03f79c2f70ea1c3afe1b2bc8987e6
☆戒名の起源には三つの説があります。「釈尊帰一説」、「中国習俗帰源説」、「印度発展説」です。しかしいずれにせよお釈迦様の弟子になった証拠に戒名をつけるという点は共通です。

参考までに三つの説を書いておきます。
ア、まず釈尊帰一説です。お釈迦様の時代、出家して戒律をうけるとみな釈という姓にしました。
『増一阿含経巻二十一』に「たとえばもろもろの大河あり。いわくガンガー、ヤムナー、アチラヴァテー、サラブー、ミヒーなり。これらは大河に至らば前の名姓を棄ててただ大河とのみ号す。かくのごとく、バハーラーダよ、クシャトリア、バラモン、ヴァイシャ、シュードラの四姓あり。彼等、如来の説くところの法と律とにおいて出家せば前の名姓を棄ててただ沙門釈子とのみ号す」とあり、また『高僧伝巻五道安伝』には「初め、魏晋の沙門は師によりて姓となす。故におのおの同じからず。道安もって大師の本釈迦より貴きはなしとし、すなわち釈をもって氏に命ず。後に増一阿含を得るに果たして称せり。四海に入りてまた河名なし。四姓沙門となり皆釈種を称すべしと。すでにはるかに経て符す。ついに永式となす」とあります。

イ、 次に中国習俗帰源説です。中国では古来名のほかに字(あざな)ももっていてこれを戒名にしたとするもの。湛然は荊渓に住んでいたので其の居場所をさして「荊渓」といわれました。他にも「南嶽」「青原」「百丈」「黄檗」「天台」「慈恩」などおおくの例があります。

ウ、3番目の印度発展説は、戒名は経典の「授記」の思想から発展したと見る説です。これは将来、佛号、法号を授けられて佛になることを保障することをいいます。教団にはいり仏弟子となれば階級差別の激しいインドでも平等に佛号をさずけられたのです。法華経法師品に「仏前において妙法蓮華経の一偈一句を聞いて、一念も随喜せん者には、我また阿耨多羅三藐三菩提(正覚)の記(佛号、法号)を与え授く」と法号授与の資格まで示されています。日本史上最初に聖武天皇が「勝満」という戒名をつけられたのもこのためかと思われます。

こんばんは、baka-hageさん

検索したら、下のようにありました。ただ《沙門釈子(しゃもんしゃくし)》(出家者として平等なシャカムニ仏陀の子)とのみ称す。
お釈迦様は、平等を目指したようです。
今の仏教は?戒名はお金の多さで?

http://www.bunet.jp/world/html/busshin/13_08/2001_08_busshin.html
☆大河は大海に至れば、以前の名と姓とを捨てて、ただ<大海>とのみ呼ばれるように、四つの階級、<バラモン>・<クシャトリヤ>・<ヴァイシャ>・<シュードラ>は、如来の説き給うた法と律とにお...続きを読む


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