プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

 現在の子供たちを見てみると、大人も同じことは言えますが、愛情に飢えている子供たちが多いということを感じます。また、目的や目標がなく、そういったものを見つけることができず、苦しんでいる子供たちが多いようにも思います。子供たちを取り巻く環境がどれだけ子供たちに影響しているか・・、私たちに何ができるのだろうか・・。
 私はそんな子供たちに、少しでも温かさや優しさや人間の温もりの大切さを感じてもらいたくて、精一杯関わってあげたいと思っています。それはもちろん、大人たちにも同じように関わっていきたいと思っています。
 皆さんは、現在の子供たちを見て、どのようにしたら子供たちは生き生きと過ごしていけることができると思いますでしょうか?
 また、愛情に飢えてしまうことについて、家庭の教育力や家庭の在り方についても繋がりがあると思いますが、どのような家庭が大切なのでしょうか?
 私たち大人は、子供たちを少しでも生き生きと過ごしていけれるように援助し、支援していかなければならないことを実感いたします。
 人間を見つめて、考えていきたいと思います。
 皆さんのご意見等も、是非お聞かせ願いたいと思います。
 宜しくお願い致します。

A 回答 (12件中1~10件)

最近彼と、子供が出来たらどういう風に育てたいね、と言う話を時々します。



十分な愛情を与えること。これは大前提なのですが、問題は何をどうあたえるかということ。金銭や欲しがるものをただ与えてやったり、言うことを聞いて上げるだけの愛情表現というのは、どうも自分たちがこどもに「してやっている」という事実を目で確認し、結局は自己満足のためにやっているような気がするのです。

親だから、子に何かしてあげたいと思う気持ちは当然出てくると思うのですが(私が彼に対する気持ちの中にもります)、人に与える喜び、愛情というものも、子供に教えていきたいね、と。

親にしてみれば、子供は存在するだけで、自分に様々なものを与えてくれる存在だと思うものかも知れません。実際に親になったことはないので、性格に自分が将来、どう感じるかはわからないのですが、周りにいる「親」を見ていると、そう思います。でもあえて、子供が親に対して出きること、周りにいる人間に対してできることを、要求し、その喜びを分かってもらえるようなチャンスを与えることも、大事じゃないかな、と思います。

親の影響は多大です。でも、子供にも育っていくに連れ、自分だけの世界が生まれます。友人、学校、恋人、会社。だんだん親の影響を受ける比率は、きっと狭くなっていくのでしょうね。だから、そのなかで、出きる限りの可能性を、教えてあげたいなぁと思います。そして素晴らしい選択を子供がしたときには、一番側にいる愛するものとして、心から喜んであげたいな、と。そしてまた、そう言う親の気持ちを汲める子供に育ってほしいと思います。

私がそういう良い子でなかった分、希望的観測も大きいのですが・・・押しつけないように、子供が自然とくみ取ってくれるような大きな器を持つ人間になっていきたいと思っています。
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なんか最近教育ママが多くなったな~と思いました。

小さい頃から塾や習い事をいっぱいさせている親が増えたな~と思いました。
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 同感です。

まず、家庭での責任と学校での責任を、明確にすべきです。現状は、あまりにも学校教育に(先生に)頼りすぎて、家庭での親としての責任を果たしていない部分が、非常に多いと思います。

 家庭での責任、親としての責任を明確にすることにより、ほら医の家庭としての役割、親としての役割が発揮できると思います。愛には色々な愛があります。夫婦の愛、親子の愛、兄弟姉妹の愛、それぞれが微妙に異なっていますが、これらがうまくかみ合うと良い家庭になっていくような気がしています。

 「国の将来は、その国の青少年を見るとわかる。」という言葉があります、家庭でも同じでしょう。その青少年を育て、将来を託せるようにするのは、我々親の責任でもあり、社会全体の責任でもあるでしょう。
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やはり、まず親が子供の人格形成にいい意味で関わるのが重要だと思います。



あつかましいですが、私の子供時代を少し。
私の父は、今は勇退しましたが警察官でした。
父は非番の日でも、タバコを吸ってる未成年とかを見かけると
走っていくような人間です。

ある夏祭りの日、父は私の手を引いて祭りに連れて行ってくれました。
父は少し酔っていました。まあ、祭りでしたから。
すると、「ちょっとここで待っていなさい」と言って、
傍らのタバコを吸っていた若者の集団のほうに行きました。

私は木の陰から父を見ていました。父は若者に囲まれ、小突かれていましたが、
決して後に退きませんでした。
しばらくするとその若者達はどこかへ行ったらしく、父が戻ってきて、
ただ「さあ、帰ろう」とだけ言いました。
当時私は10歳くらいだったと思います。
私は自分が父を助けに前に出ることが出来なかったのが、
子供心にとても悔しかったです。

そういう人間だったので、父はとても厳格でした。
悪いことをしたときなど、包丁で叩かれたこともあります。
(そのとき私が包丁を出して悪ふざけしていたのです)

その代わり、試験でいい点数を取ってきたりすると途端にご機嫌になって、
「いい息子を持った、ようやった、ようやった」とにこにこ笑って言うのです。
母がいないときは、ぶつぶつ言いながらも子供の食事を作ってくれたものです。
私もよくお膳立てを手伝いました。自分の食事ですから。
ちなみに今も時々やってくれます。最近は専ら私が作るのですが(^^;)

しかし父は大体いつも機嫌が悪い人なので、
試験でいい点数を取ったときなどは「いつ見せようか」等と思案したものです。
また父の機嫌をよくするために、家の手伝いなど率先してやりました。

母はそんな父の相手を毎日してるので、これまた筋金入りに厳格でした。
父が怒って母がかばう、或いは逆などという構図は無く、
怒るときは両方に怒られるのです。

悪さをしたときなど、母が
「これからあなたを叩きます。これは罰だからね。歯を食いしばりなさい!」
と言われて、食いしばった途端にすさまじいビンタが来たものです。
あれでも手加減してたのでしょうね。
ビンタが終わると何事も無かったように
「よし、終わりッ!もうするんじゃないよ。ご飯食べなさい」と言いました。

いつもいつもそんな日常でした。

今、私は30歳になろうとしています。
その頃を話すと、よく母は「あんたはよくグレなかったね」と言います。
実際私も、あれだけの環境でよくグレなかったものだ、と思います。

私の両親はビンタも平気でしましたが、ただの暴力ではなく、
いつも理由ある「悪い行為に対する罰」として子供に与えていました。
子供心に自分が悪さをした、だから親に罰せられる、
ということがわかっていたので、グレることがなかったのでしょう。

両親は、私に自分たちの姿を常に見せていました。
子供の前でも平気で喧嘩しました。
父:「こいつ(私)はなんでこんなふうに育ったんだ!」
母:「そこまでいうことないでしょ!」
もう大喧嘩です。
でも父が寝た後に、私に母がそっというのです。
「でもね、お父さんも言い方キツイけど、お父さんの言うことも正しいんだよ、
 あなたも反省しなくちゃいけないんだよ、わかるね?」

そういった両親を見て、何が良くて何が悪いのか、
人としてのあり方や常識を私は自然に学びました。

両親は学歴は決して高くなく、勉強のほうはからっきしダメです。
しかし私は、学業以外の全てのことを両親の姿から学んだと言っても
過言ではありません。

私には将来的に一緒に暮らしたいと思っている人がいます。
彼女がどう言うかはまだわかりませんが、
私自身は「私はお前を育てた親である」と
胸を張って言えるような父親になりたいと思っております。
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yuidesuさんこんにちは。


世界中の人々がみんなあなたのような気持ちで人とかかわり
子供達を育てることができればなんと幸せなことでしょう。
いつの世も戦争や事件があると、真っ先に弱い子供達が涙を流し
体と心に大きな傷を負うことになります。
どうしたら子供達が健やかに生きられるかについては今の日本の
現状からしますとなかなか難しい問題が山積しております。
それは氾濫する情報や、物質第一主義が定着しており、
幸福感がすべてお金で買えると言う錯覚から、
始まっているように思います。
お金のあるおじいさんやおばあさんがいい人で
お金をくれない人が悪い人という価値観を持った子供がたくさんいます。

やはり子供達を健やかに育てるための基本は家庭にあると思います。
家庭は社会の最低限の出発点ですからそこにいる親が
子供に大きな影響を与えることと思います。
基本的に親自体が自分の基本的な考え方をしっかり持って
子供と向き合うことが大切なような気がします。
親として一番大切なことは子供を自分の所有物として考えないことだと思います。
日本は特に親子心中が多い国ですが、
子供は自分のものという考え方が物語っております。
また、家庭の中を暗くしないことです。
暗くする最大の原因は夫婦の不和です。
いくら夫婦が不和でも子供がいる前では一生懸命
仲の良い演技するくらいの心構えを持たないと
子供の心はどこかに飛んでいくことになります。
親が大人になることが条件です。
そういう基本があってはじめて家庭・学校・社会の
連携した子育てが実現するものではないかと思います。
こんな子供に育てたつもりはないと嘆く前に自分の
子育てを再点検したいものです。
子は親の背中を見て育つといいますから。
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はじめまして。


私は親ではないので、親の気持ちというのはまだ感じることができませんが。
かなり、今文に悩んで時間が経ってしまいました。
長々と書いたのですが、文がまとまらず消してしまいました。
なのでこれから書くことはおかしいかもしれませんがご了承ください。

まず、最初にこの質問の内容は難しくよくわかりません。
僕が思うに子供の問題は子供が読んでもわかるくらいが答えだと思います。
意味不明ですが。^^;
親がどうこうしたらいいというのは大人の勝手ではないでしょうか?
もちろん、親が与える影響は子供を形成するのに欠かせませんが。
今、大人たちの視点でかかれてませんか?
まるで、小学校や中学校の先生みたいな感じがします。
大人の理論で語るのでは無く、子供の心で考えるべきではないでしょうか?
家庭の教育力、家庭のあり方?わかりません。頭が悪いからかもしれませんが・・・。すみません。

うーん、やはりまとまりませんが・・・。
「親が子供に何か特別なものを与えるのではなく、普通に接し、手を差し伸べて
あげる」程度が必要なのではないでしょうか?
むやみやたらに何かを与えねばと思うのではなく。
困っていたら手を差し伸べてあげる。
だから、特別なものはいらないのでは?
って、この話の基準は普通の家庭ですが。その家庭を作るにはどうしたらいいのか?という質問ならずれてますよね。

どのような家庭が大切か?

普通の家庭・・・・。普通の基準はないけど普通の家庭。

その後に、見守る心?

はっきり言って自分の意見は正しいのか、正しいにしても当たり前だろ?なんかもしれませんし、間違ってるかもしれません。なにぶん、混乱しながらなんとか書いた
ものですんで。あまりつっこまないでください。^^;
あと、追記ですが「私は子供を育てる自信は今はありません。」
私もついこないだ20を過ぎましたが、すでに3歳くらい離れた人の考えは
よくわかりません。聞く機会があればわかるのかもしれませんが。
そのように、歳の離れた子供がどう考え、何を価値観としてもっているのか
未知だとおもいます。
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yuidesuさん


良いニックネームだな~と、感心しています、アルファベットなのでそう感じたのかもしれませんが。
私が想像した漢字は「結い」でした。

「結い」という言葉をご存知でしょうか。「無尽」などとともに昔から使われてきた、助け合いのあり方の一つです。
もしご存じない時のために、一例をあげます。

萱葺き屋根の集落では、萱葺き屋根は、職人が葺き替えるのではなく、集落の住人が協力しあって行いました。
回り番で葺き替える家を決め、葺き替える時期になると、各人が一束づつ萱の束を持参し葺き替える家に提供します。
熟練したものの指導のもとに、集まった者達が全員で屋根の葺き替えにかかります。
賃金もお礼も支払いませんし、誰も要求したりしません。次は自分の家をやってもらえることがわかっているし、
やってもらわなければ困ってしまいます。
要するに助け合いの精神なのですが、コレが徹底していたものが「結い」です。

「人は一人では生きてゆけない」昔の人は、実感として身に染み込んでていました。
物質文明に浮かれている現代のわれわれが忘れたものを、ほとんどすべての人々がもっていた時代が、ほんのすこし前までは、どこにでも存在したのです。
物質的には、現在より恵まれてはいないけれど、精神的にははるかに豊かだったといえるでしょう。
人間の尊厳が、現代では考えられないほどに重んじられていたともいえます。

また、人間の尊厳と同時に、あらゆる『生』を受けたものに対しても同様に考えていたのです。

現代の大人たち、「結い」の精神を継承していますか?
子供たちに、伝えられますか?

最近でこそ「共生」という言葉がもてはやされますが、この言葉を使っている方々の中にも、人間のおごりが消え去っていません。
人間のために共生するのではなく、
共生した結果、人類の生存が持続できていれば幸運だ、と思わなければならないと思っています。

子供を育てるということは、人類の種を繋ぎ止める行為に他なりません。
親に、大人になったら、「個」の存在から「種」を守るべき存在へと意識を変えなければなりません。
これが出来ないから、大人が子供に、なすべきことが出来ないのではないでしょうか。

「種の保存」、一見難しそうな言葉を使うと思われるかもしれませんが、
現代のわれわれが忘れている、最も重要な「生きる価値」だと思います。

お尋ねの質問の回答になったでしょうか。
具体的な家庭での大人の役割、親の役割については、私(rakki)の「マイページ」で関連質問に応えた回答を参考にしてください。

yuidesuさんのお返事楽しみにしています。
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 目的や目標がない子どもが増えているという話をされていますが、それで少し思ったことがあります。

目的や目標がないというのは、今の大人そのままですよね。そういう大人の世界で育つ子どもに目的や目標を期待するのは、難しいですよね。

 私は企業のためにマーケティングプランを立てる仕事もしていますが、そういうものを依頼してくる側に目的自体が不明なことが多いのです。それでも会社が存続できる日本社会というのもある意味ではすごい世界ですが、今の経済状態の停滞の隠れた原因が、目的や目標がないということでないかと私は考えています。子どもの話をするのに、企業の話をするのは変に思われるかも知れませんが、目的や目標がないことがどう悪い影響があるのかを考えるときには、企業関連の話をするのがヒントになると思いますので続けます。

 ある企業のプロジェクトの企画書を想像してみてください。そこにはプロジェクトの「目的」がまず記されます。なぜかというと、そのあとに書かれることの判断基準は、この目的にとって正しいのかどうかしかありません。ですから「目的」のない企画書の価値はゼロです。このゼロはとてつもなく深いゼロです。目的のない企画書にいくら労力をかけても価値はゼロのままです。価値があると判断できる基準自体がないわけですから。また創造の機会をゼロにします。いいアイディアというのは、目的実現のために考えられた斬新なアイディアなのですが、目的がないとアイディアの存在意義自体がありません。このように労力と機会の大きな損失です。(たぶん、子どもに当てはめても想像しやすいのではないでしょうか。)

 しかし、実際は目的がはっきりしないような企業でも、なんとか機能しています。今まで失敗とはならなかった経験や慣習みたいなものを、それぞれの人が何となく同じように繰り返しているからです。こういう状況からは現状維持か外の世界から訪れる幸運しか可能性がなくなりますが、目的がないこの状態で一番悲惨なことは、その世界の中では仕事の能力を媒介とする部分では全く信用が成立しないということです。仕事の上で上司が部下の力を判断する基準も、部下が上司を非難する基準も、結局は個人的な思いこみや感情的なことになりかねません。(今の大人と子どもとの関係に近くないでしょうか。)

 なぜ、目的を表明しないか。ひとつの理由は目的を実現できない場合の責任が恐ろしいこと、もうひとつは目的が立派でなければいけないという思いこみです。
でも、目的を設定する本当の目的は、素晴らしい目的を固定することではありません。もちろん素晴らしい目的に越したことはないのですが、目的を明確にすることによって生まれる有意義なコミュニケーションと目的に合うアイディアと可能性を考え抜くこと自体が目的です。例えば、企業が「金儲け」という言うまでもない目的を掲げたとします(否定できないことがミソではあります)。しかし、その目的が明確になったことによって、能力判断や議論の取り敢えずの基準ができます。社員は心の中でくだらないと思うでしょうが、うやむやな状態よりはるかにすっきりした気分で過ごせるはずです。そのうち、「金儲け」と言っても自分の企業の特色を生かさなければいけないとかいう話が出てくる中で、少しずつ目的も絞られてきて、よりアイディアも役立つものになってきます。少し端折って書いてますが、要するに、大ざっぱな目的でも、まず出発することが大事なのです。目的を重く考えず、目的自体も変化することを意識しながら。そこからあらゆる思考や行動や労力の意味が生まれてきます。(さて、子ども達と共有できる目的は何でしょうか。)

 目的のはっきりしないわけのわからない基準で縛られているのが、今の子ども達と大人達の姿だと思います。目的の話を始めることは、結局、もっと自由になれることだと思います。長くなりましたが、以上です。
 yuidesuさんのご質問に刺激されて、いろいろ考えることができました。
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yuidesuさん、少し書かしてくださいね。


わたしは、子供たちのことを考えるときいつも頭をもたげることがあります。それは、子供の助けとなる機関はここ数年少しづつですが増えてきています。しかしながら、大人の助けとなる機関はまだまだです。リストラだけに限らず、病める大人は数多くいるとおもいます。混沌とした中でただ足早に時間だけが過ぎていく、なにもなかったように。厄介事は、「排除」で片付け隅っこに押し込んで問題は棚上げしたかのような今日、「排除」が意図したものがなんだったのかと憂い嘆く声がどこからか聞こえてきそうです。この声に耳を傾けることが大事だとおもっています。大人といっても一人の人間です。社会は人間の集まりで構成されています。子供を大切におもうとき大人も同様に大切な存在です。このことには、なかなか目が向けられていない、大人があっての子供、子供があっての大人だとすれば、子供たちに何ができるかは大人はどう生きるかを問われているように思えます。大人、一人の人間としての生き様で語り継ぐことかとおもいます。

「子供たちに私たち大人ができることとは?」
このことを考えると憂いを覚えます。世の中病んでます。何かを排除することによってのみ社会が成り立っていくなんて。リストラ、闘争、いじめ・・・etc。大人と称される者が自己の欲のためにこと人と人の差異に優劣があるかのように切り捨てていく姿勢。倫理・道徳的規範を防護服とし身にまとったかのように、優劣でものを語ることは無意識的にも何かの排除に荷担していることになるのではないだろうか?倫理・道徳規範でものをいえばどこからか拍手喝采され自己の優位を確固たるものと確信するのだろうか?。そんな大人がいるなかで、大人と称される者が子供たちになにができるのだろうか?子供は大人の背を見て育つとするならば、まず、大人が他者を切り捨て排除することを考え直すところにあるように考えます。この己と他との差異を認めつつ歩みより、ひとつの世界に共に棲み、生きていくことの素敵さを感じれるよう自らが実践して語り・考え・行動することにほかならないような気がします。

yuidesuさんの『人間を見つめて、考えていきたいと思います』という言葉を受けて、わたくし個人の意見を書きました。求められている回答からズレていましたらご容赦の程よろしく。
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先日テレビを見ていたら、もうけた金はほとんどか以外に投資して


国内には投資せず、投資回収しようと思っても、円高になってしまったため引き上げられないで困っているという内容を見ました。
そのために、国内に投資する機会を逸してしまったのだそうです。
もちろん、そのために、公園ができたり拡大されたり
、保養地ができたりすることもなく、狭苦しい国土が良い方向に改善されることもなかったようです。
話がそれましたが、
そのために、子供たちの遊ぶ場所が本当に少ないというのが実感です。周りは住宅だらけ。広い場所はほとんど道路。子供のための場所なんか全然用意されてません。
たしかに学校の校庭とかは遊び場所になるでしょうが、
私の場合、学校までがすごく遠くてそのため、学校までサッカーなどをやりに行きたくても、全然環境が許してくれない。本当に恵まれない条件だったように思います。
他のこと遊びたくても、遊ぶような場所がほとんどないし。まあ、いなか出身なんで探せばありますけど。
最近では少子化の影響で遊び相手自体も少なくなってきているのではないでしょうか?
子供にアンケートをとったらもっと遊び場が欲しいとか、
遊び相手が欲しいとか言うに決まってます。
だから、実際にアンケートをとってみて彼らの意見を聞くべきだとおもいます。
社会人は仕事に忙しい、教師は教師で権限が少なく、文部省に従うのがやっと。となると文部省当たりが動かないとだめですね。
もし積極的に動いたとしても、お金を町づくりに使えるときに使わなかったのでやはり厳しいとおもいます。
文部省が子供の遊び場を増やそうとすると、道路交通省当たりが、道路優先だとでも言うのでしょう。
まあ、推測も混じってますが、いずれにしろ、子供のことなんかほとんど考えられてないように思います。
おとなは勝手です。
ということで、以上をまとめ補足すると、子供の意見を聞く、遊び場を増やす、探検したり生物に接することができるような自然を残しておく、などでしょうか?
まあ、少子化進んでますから、いまやるよりもっと早くやるべきだったとおもいます。
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