ちくのう症(蓄膿症)は「菌」が原因!?

『科学的知識において知ることは科学的検証が伴い、検証可能なものが真理として受け止められるが、経験世界を超えた存在や現象を信じる宗教的心理は主体的真実であり、科学的検証を超えている。言葉を変えて言えば、信じることは実証を越える側面を持ち、信仰は飛躍の契機を内包している。』
前半部分の科学的検証は理解できますが、後半の宗教的心理あたりから内容が意味不明です。
どなたかできるだけ早くお願いします。本当に。(汗)

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A 回答 (11件中1~10件)

>経験世界を超えた存在や現象を信じる宗教的心理は主体的真実であり、


>科学的検証を超えている。
>言葉を変えて言えば、信じることは実証を越える側面を持ち、
>信仰は飛躍の契機を内包している。

私の苦手な哲学的な文章っぽいですけど、これ、外国語を翻訳したものじゃないでしょうか。

えっと、、、

経験したことないことを、<幻想ではなく、実存>だと信じる宗教的な捉え方は、観測者としての<客観的な視点での考察>によるものではなく、<主体的>なものであり(個人個人によってそれは異なり、それは誰とも一致することはないけど)、<客観的検証によって成り立つ>というのが基本の科学では、その現象を証明することは不可能である。

言葉を変えれば、<存在する>と直感するその感覚は、計器などの実験でもって明らかにすることはできない。
なぜなら個々の主体的イメージは、<誰も外からそれを見る>ことはできないから。
(実体を対象にする科学の分野では、宗教は証明できないのである。)

信仰するという行為は、その理論や考え方が<この世のルール>から干渉を受けない<性質>も持っており、科学のように<順序を追って考える>という行為とは違う次元で突き進むという<側面>を持っている。


だぁ 余計わからなくなっちゃいましたか?
私の言語能力の今の限界かな?


ただし、文章がその内容だとしたら、その論に対し私は「おぶじぇくしょん!」と反証することができます。


科学とはそうじゃないんですよね。
科学者だって神の存在を信じていると思います。
それは宗教的な人間と似通った顔をした神のことではない別なものとして信じていると思います。

あくまでも、あたしの考えですが、、、、
宗教を信仰している人たちにとっても科学をやっている人たちにとっても、<神とは希望である> という共通点を持っていると思います。
プラス <神は我々に必要なもの全てを備えてくれている>という考えを持っていると思います。


ここまでは両者とも一緒。
その先が分れるんだと思います。

科学者は、「人間が未熟なため、せっかく神が備えてくれているものを、認識して発掘することがちょっとしかできず、やっとどうにか認識して取り出しても、未熟なため<うまく使いこなせていない>ので、平和でみんなが安心して暮らせる世の中になかなかならない」と思っていると思います。
「ということは、探せば絶対解決法があるはずだ。」
こういう信念でやっているんじゃないかなーって思います。
つまり神を否定していない。
いや いる(ある)と信じているから、困難にぶちあたっても諦めないわけで。


宗教をやる人は「気持ちの問題だ。未熟だと心の置き方が正しくならず、そうなると神を認識できない。自分が変われば世の中の見え方も変わるはずだから、希望のイメージ つまり善なる人間を愛する神の存在を信じれば、その通りになる」という考えだと思います。
「人間は肉体と精神とでできており、精神には絶えず神の声が届いているが、肉体というフィルターがそれを邪魔をしている。肉体はまるで精神を縛るロープのようなものである。そのロープを断ち切り肉体から開放されると、神の真意が聞こえるはずだ。肉体という牢獄からの魂の開放手段は唯一信仰である」
という考えだと思います。
だから困難にぶちあたっても、希望 つまり 神を信じることで楽になるわけで。
(違ったらすいません)



あと、、、
宗教も経験則の上になりたっていると思います。
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 すでに色々な方が詳しく述べられていますし、わたしなりの推測ですが、ご質問されている引用文が問題にしているのは「信仰の本質とは何か?」という事ではないかと思います。




 一文が長いので、ちょっと切ってみます。

1) 科学的知識において知ることは科学的検証が伴い、検証可能なものが真理として受け止められるが

 ここで言われていることは、要は「科学的真理」で、方法として、実験・検証という手段を通して、この世界に隠れている(直接目で見ることのできない)真理を明らかにすることができるのだが、という事ですね。
 これは、すでにお分かりの通りだと思いますが、この事を前提として、以下の点が問題となっています。

2)経験世界を超えた存在や現象を信じる宗教的心理は主体的真実であり、科学的検証を超えている。

 経験世界を超えた存在や現象:1)を受けるので、恐らく[経験世界を超えた存在]神や、[経験世界を超えた現象]神の奇跡といった(実験・検証不可能な)現象について、宗教的心理(「真理」ではないでしょうか?)は、実験・検証といった客観的な真実ではなくて、神や神の奇跡といったもの、つまりそれを信じる人(主体的)にとっての真実であり、実験・検証によって確認できないゆえに、科学的検証を超えている、という事を後半部分で言っています。


3)言葉を変えて言えば、信じることは実証を越える側面を持ち、信仰は飛躍の契機を内包している。

 信仰は飛躍の契機(ヘーゲル哲学でいう所の「物事の変化や発展を決める本質的な要素」)を内に含んでいる。

 つまり、信仰の本質(信仰における真理)とは、実験・検証といった科学的検証を超えているという点において、飛躍(実験・検証を超えている)である。

前述の事から、この世の真理は二つに分類できる。

 →実験・検証可能な真理(一般的な真理)

 →実験・検証不可能な真理(宗教的な真理)
 [信仰という手段によってとらえる事ができる]
   →加えて、信仰という手段は「飛躍」(科学的実証を超えているという意味において)という本質的な要素を持つ。     

 という事ではないでしょうか?
 
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私たち人類がこれまで科学的に検証し知識化してきた事柄は


事象として存在する事柄の、ごくごくわずかでしかありません。
つまり、さまざまな学問がいかに研究を進めても、
その全てを解き明かすことは不可能だろう、ということです。
ですから、真理を前に私たち人間は、実に小さな存在でしかなく、
真理のもつ圧倒性に対し、謙虚にならざるを得えないのです。

この、まだ解明されない真理、あるいは人類が実証不可能なものを、
「現実を超越したもの」、あるいは「超越した存在」と名づけると、
私たちはその「超越した存在」に向かって、日夜、検証し、研究していると考えられます。
この「超越した存在」を信じることを「信仰」ということができるのです。
言い換えると、超越した存在を信じずして、
現状を飛躍する新たな知識獲得にたどりつけないというわけです。

こういった、未知の真理を目指す際、
方向指示器になる信仰心は、研ぎ澄ました「直感」に依存します。
しかし、「直感」はあくまで主体的真実であって、検証不可能だとするのが、
『』内の文章の言わんとすることではないでしょうか。
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[信仰は飛躍の契機を内包している]


現代科学もすべて信じることから始まっているのですね。目に見えて実証できるものだけが正しい世界なら地球は相変わらず平らで、太陽は地球の周りに廻っているアミニズムの世界だったでしょうね。地球は丸いも、重力も信じるところから新しい理論や世界が始まるのですね。素粒子物理の世界は信じることが出来なければ一歩も進めないでしょうね。宗教であれ科学であれ信じることが出来ない人間がパイオニアになれることはありません。信じる力は動物と人間を分けるものといってもいいですね。自らの理論を信じる、自らの世界を信じるといって多くの人々が迫害に耐え、現在の文明を築いてきたのですね。信じる人が少なくなればまたアミニズムの世界に戻るだけですね。スターウォーズだってジョージ・ルーカスの信じる世界でしょう。信じる力はあれほどの脚本を書くことができるということですね。すごいもんだね。
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科学的知識は証拠により裏づけされるものイコール真実ってことだとした時に、そういう客観的真実から離れたものが宗教的真実というもの、と考えてみます。


上の視点から文章を私なりに解釈すると、

経験世界(現実に私たちが生きている世界)を超えた存在(科学的に証明できない存在:たとえば神とか仏とか)を信じる宗教的心理は主体的真実(あなたは信じられないかもしれないけれども私にとっては真実)であり
科学的検証を超えている(科学的に証明できない)。
・・・信じることは実証を越える(信じることは、証明や証拠を必要としていない)側面を持っており・・・

となります。そして、「信仰は飛躍の契機を内包している」という文章は、何に対する飛躍かははっきりとわからないのですが、この文面だけで考えた場合おそらく、「人間の精神」の飛躍と考えるのが素直かな、と思います。

簡単に直すと、神様がいるとかいないとかは科学で客観的な答えを見つける問題ではなくて、私たち一人一人の問題だ、ということでしょうね。そしてもし私が神がいるのだと信じているならば、それは証拠がなく、証明できなくても私にとっては真実であると。
その信じる気持ちが、私の精神をより豊かに成長させる要因になる、ということではないでしょうか。
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信仰心の厚い者が必ずしも霊性が高いとは言えないというのを聞いたぞ.



そしてそれは本当だと私は思う.
信仰の盲目性.

信仰という言葉を何かに置き換えるとピタッと来るかもしれない.
それは何か.
 
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私は一応クリスチャンですが、聖書絶対主義とかの問題じゃないし、キリスト教に限ったことではないと思います。


クリスチャンという立場を離れて、大雑把に言いますと、
科学的な観測には不可能なことが、宗教的心理(必ずしも何か特定の宗教を信じることではなく、「あるから見える」「見えるからある」の次元を離れ、実証的な観測を伴わない、思考的、直感的な世界を扱う心理だと思います)には可能だと言うことだと思います。
宇宙の誕生や量子論的な極小世界を考えていくと、科学的、客観的な観測、実証には限界がある事が見えてきます。が、その限界を超えて、科学的客観的な観測、実証では計ることのできない真理を「宗教的心理」によって考えることができるし、或いは悟ることができるかもしれない、ということです。
客観的観測の限界を説いたのがデカルトで、更にその方法を発展させたのがスピノザだと思うので、そのあたりをお勉強されると良いと思います。ちなみに確かデカルトはカトリック教徒だったと思います。スピノザは無神論者としてユダヤ教からもカトリックからも攻撃されましたが、私的にはスピノザの方がよりもともとのキリスト教的な信仰・価値観を持っていたと勝手に考えております。
ご参考までに・・・
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信仰により得た悟りは客観的実証はできないが、信仰により魂は飛躍、向上するという意。

と受け取れます。
つまり信仰により3次元世界(この世)だけの価値観の束縛から逃れ、
魂本来の世界の認識(プラトン的にはイデアの世界、仏教的には
金剛界などの価値観を認識する事。魂としての霊的覚醒、経験、)が霊性を向上させる。これらの事を、
>>飛躍の契機を内包している
と解釈できると思います。
簡単に言いますと、信仰により悟る事によって幸福になり、
その幸福を広げていく事ができる。より多くの人の幸せに貢献できる。という事であると解釈できます。
難しい言葉はあまり考えたくないですね。^^
あっ、信仰と言っても邪教はこれにあらず、です。
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「主観的真実」でつまづいていらっしゃるのではないでしょうか。

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聖書絶対主義は関係ないんじゃないかなあ。



「・・・信じる宗教的心理は主体的真実であり、科学的検証を超えている。」
→ 神の存在を信じる者にとっては、信じる心自体が真実であって、
 それは客観的に証明したり検証したりする必要がない。
 デカルトが「我思う」を前提なしに成立すると考えたのと似ているかも。

「信じることは実証を越える側面を持ち、信仰は飛躍の契機を内包している。」
→ 信じないならば、人は客観的真実を探さなくてはならず、
 見つかるまでは先へ進むことができない。信じたならば
 それを起点として先へ進むことができる。

かなり主観が入っています。内容もかなりビミョーなところだと思います。
参考として受け取って下さい。
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