西郷隆盛が太政官と決別して薩摩に帰った際に従道と大山巌は同行しませんでした。私はそのことが後の日本の歴史に幸いであったと思っておりますが、薩摩の人の多くが隆盛についていったわけですが、なぜ幕末にあれだけ隆盛と近い関係にあった2人がついていかなかったのでしょうか?隆盛の深謀遠慮なのでしょうか?
ぜひともよろしくお願いします。

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A 回答 (4件)

西郷隆盛という人は情の強い人でした。


理論で物事を判断するより情念に流される人で、自分の考えが採用されないと地位も身分も弊履のように棄てて引退する位です。
自分の命も征韓のためなら投げ出す覚悟でした。

少し冷静に事態を分析するような人は付いていけないと思うのは無理ありません。
冷徹な大久保が西郷と訣別したのも、それほどでなくても西郷従道や大山が離れていったのもみな同様であったと思います。

明治もこの頃はカリスマより理論的分析家を必要とするようになって来ていたのです。
西郷従道の台湾総督としての采配、大山のその後の陸軍指揮振りを見ても良くわかります。

そして西郷自身それを良しとする恬淡とした所があったと思います。 
彼には薩摩の下級武士階級に対する特別な感情がありすぎました。
それは大久保などには理解出来なかったでしょう。
惜しむらくは戊申戦争で戦死しなかったことです。
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この回答へのお礼

『西郷自身それを良しとする恬淡とした所があった』というのが西郷の魅力のひとつだったのですね。その磁力で薩摩の不満分子が一発で解決したというのも皮肉ですよね。
お返事が遅くなってしまいましたが、ご回答ありがとうございました。またよろしくお願いします。

お礼日時:2005/07/11 10:49

歴史が歴史となるのは事実を客観的に見れるようになって始めて歴史となりますよね。


ちょっと前なら、西郷隆盛や乃木希典などを下手にいじると大ヤケドする場合があったようです。

さて、西南戦争の首謀格となった西郷は美談として捉えると・・・

 1.自らを慕う桐野等の先鋭的イケイケ思想に付き合わざるを得ず・・・
 2.自らを犠牲的扱う事により「リストラされた武士達不満」の区切りを付けようとした

というところが西郷の英雄性を高めているところだと言えます。

さて、冷静に新政府が立ち上がった直後を考えると・・・

 1.徳川幕府の崩壊による新政府の確立。
 2.強固な中央集権国家の成立を目指し廃藩置県&武士階層の解体
 3.そして・・・自由民権運動へ

この様な流れになることは、必然の流れとして知識層は理解していたと思います。

政治の中心で活躍した西郷も当然このような流れは理解すべきところ。
が、結果として反乱の首謀者となる。
笑い話として、島津久光が維新直後に周囲のモノに「ところでワシはいつ将軍になるのだろう?」と聞いた・・・
とありますが、意外に西郷自身も「薩摩幕府」を夢見ていたのかもしれないですよね。

さて、この「西南戦争」を現代風に置き換えて考えれば・・・

「郵政民営化」の必要性を説いたかの様に見えた安部晋三氏が下野し、
郵便局員を集めて民営化に対する抗議デモを始めたようなもの。。。とも見えてしまいます。

こうやって考えると大山や従道をはじめ、多くの国政の中核を担う者がついていけなかった・・・というのもある意味当たり前と思うのです。

しかし、「不平士族」の最後の幕引きとなるのが大久保利通の暗殺であったのは歴史の皮肉とも言えますよね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。郵政民営化との比較はおもしろいですね。西南戦争は西郷は勝つ気があったのでしょうか?とも思ってしまいます。歴史の妙味でしょうか。本人の意思がどこにあったかは別として、結果として維新において西郷が巨大な英雄であったのは疑い所でしょうか。
大久保はもう少し長生きしてくれていたらとも思いますが、歴史の必然なんでしょうか?  勉強になりました。
またよろしくお願いいたします。

お礼日時:2005/07/11 10:56

大久保は西郷に後事を託してヨーロッパ視察に出かけたのですが、帰国してみると西郷が江藤等にかつがれて自分の思った方向とは違う方向になっていたと感じ、それが最大の不満だったようです。


それで、帰国後公職から退いていましたが、征韓論のときに岩倉等から引張りだされたのですが、そのときに西郷がこのまま江藤等に担がれて方向を改めないのなら決別もやむをえないということで権謀術策を弄して、知られている通り非征韓派の勝利となりました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。西郷の性格として担がれやすい所があったのですね。それが魅力と所謂、懐の深さでしょうか? 当時の西郷の力(政治力など)をもってして征韓論を実行するのはカンタンだったはずですが、時勢にある程度従ったのでしょうか? 勉強になりました。ありがとうございます。

お礼日時:2005/07/11 11:00

 西郷の意見(征韓論)についてゆけなかったというのが最大の理由だと思います。

二人とも西郷の個人的な引立てによって新政府での地位を得た人ですが、しかしその義理や情誼を勘案しても、なおかつ国を危うくする西郷の意見には乗れない、と考えたのでしょう。
 また、当時の薩摩出身者の多くが「維新後、西郷はかわった。よくない取巻き(征韓論派の江藤や板垣、桐野のような陸軍の若手将校)に騙されている」という意識も持っていたようで、西郷個人に対してはともかく、彼の取巻きに対して感情的齟齬があったようです。西郷はいいが、桐野のようなやつといっしょに何かするのはいやだ、という思いが、大久保派とまではいえないにしろ、積極的に西郷についてゆく気もしない、という中間派を形成していたようです。
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この回答へのお礼

早々にご回答ありがとうございます。お礼が遅くなりまして申し訳ございません。なるほど西南戦争までに親西郷派と中間派、大久保派と薩摩閥も形成されていたのですね。さすがに薩摩の人材の層は厚かったですね。

お礼日時:2005/07/11 10:31

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Aベストアンサー

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(中略)
私は大山」、黒木、乃木、東郷など
(中略)日本軍の偉大な司令官達に全部会った。そして日本兵の大胆さと勇気、天皇への殆ど狂信的な信頼と尊敬の永久に消えることのない感銘を受けた。」

マッカーサー回想録(朝日新聞社、昭和36年)

このことは、マッカーサーの青年将校時代を書いた伝記等にも、同様の記述が、見られる 。

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Aベストアンサー

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海音寺潮五郎は「わたくしは、1901(明治34)年に薩摩の山村に生まれました。先祖代々の薩摩人です。明治34年と申せば、西南戦争から24年目です。当時の薩摩には西南戦争に出たおじさん達が多数いました。ですから、その頃の薩摩の少年らは、その人々から西南戦争の話を聞き、西郷の話を聞いて育ちました。聞かされても、そう感銘を受けない人もいたでしょうが、わたくしは最も強烈深刻な感銘を受けつづけたようです」
と書いていますように、実際に体験者から自らが聞いた事をもとに小説にしています。

3.「人斬り半次郎 幕末編」 「人斬り半次郎 賊将編」  池波正太郎著 新潮文庫 平成11年8月発行

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ぜひともよろしくお願いします。

Aベストアンサー

西郷隆盛という人は情の強い人でした。
理論で物事を判断するより情念に流される人で、自分の考えが採用されないと地位も身分も弊履のように棄てて引退する位です。
自分の命も征韓のためなら投げ出す覚悟でした。

少し冷静に事態を分析するような人は付いていけないと思うのは無理ありません。
冷徹な大久保が西郷と訣別したのも、それほどでなくても西郷従道や大山が離れていったのもみな同様であったと思います。

明治もこの頃はカリスマより理論的分析家を必要とするようになって来ていたのです。
西郷従道の台湾総督としての采配、大山のその後の陸軍指揮振りを見ても良くわかります。

そして西郷自身それを良しとする恬淡とした所があったと思います。 
彼には薩摩の下級武士階級に対する特別な感情がありすぎました。
それは大久保などには理解出来なかったでしょう。
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Aベストアンサー

今日は。

60代の歴史好きの主婦です。

西郷隆盛ですが、私はあまり好きではありません。

15代将軍 慶喜も「長州は、最初から反幕だったから恨みはないが

薩摩(西郷隆盛)は、最初、味方だったのに、途中で掌を返して裏切った、、

だから、薩摩は、絶対に許せない、、」と常々、語っていたそうです。


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レーニンは、日露戦争をどのように見ましたか?

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Aベストアンサー

レーニンは日露戦争が開戦した直後からその戦争期間中はもちろん、終戦後に亘り多くの論文や演説を残しています。その量は相当なものでほとんどはレーニン全集に納められてはいますが、まともに研究するなら独立した一冊の本が出来るほどです。

 ということでレーニンの詳細なコメントを含めた回答は不可能ですので、ざくっとした回答でお茶を濁らさせてもらいます。

 レーニンの日露戦争観は当時の日本を取り巻く諸国の知識人とはかなり違ったもので、中国や朝鮮のように小国が列強大国を見事に打ち破ったことに対して、無邪気に喜ぶというものではありませんでした。同時に反政府的思想を持っていたにもかかわらず、敗北という現実の前に止めようのないナショナリズムが湧いてきた、トルストイのような複雑な感情も持ち合わせてはいませんでした。

 レーニンは日露戦争開戦直後からこの戦争の本質と推移、そして戦後の変革を冷静に見つめ、これをいかに自己の思想闘争に活かし、なおかつ利用しようかということを分析し研究していたといってもよいでしょう。

 日露戦争は当時のヨーロッパやアメリカのインテリゲンチャと同じく、弱小国対強大国の戦いといった単純な見方ではなく、帝国主義的的植民地主義者たちの闘争であって、アメリカやヨーロッパ諸国の反動的ブルジョアジーたちの間に将来起こりうるであろう、新しい形の戦争の初期段階的なものであるとみなしていました。

 日露戦争開戦直後の小規模な戦闘でロシア軍が敗北を続けたとき、ロシア社会主義民主労働党中央委員会での労働者への呼びかけの中の一節です。
「戦争が始まった。日本人はすでにロシア軍に一連の敗北をもたらし、いまやツァー政府はこれらの敗北復讐を果たすために全力を注いでいる」とし、これらの結果がロシア人労働者、農民たちに新たな苦難を招き、人民やその家族に大きな惨禍をもたらし、さらなる税の過大なる負担を強いるであろう、と続けています。

 そしてレーニンはそこにツァー政府の将来的な破滅と崩壊を予想し、革命の実現という現実的な姿を見たのです。

 レーニンは前述したように戦争中、各戦闘の経過と結果について詳細に分析・研究を行っています。そしてその結果の原因の主なものに必ずツァー政府における官僚や軍人の腐敗性と、農民大衆の無教養や無気力などを挙げて、「露日戦争の仮借ない教訓によって、惰眠をむさぼるだけの広範な農民大衆を目覚めさせる」と結んで、巧妙にアジテートしています。

 さらにレーニンは機に乗じて日本をたくみに利用しており、あるときは帝国主義者、あるときは進歩的勢力と呼び、自身のイデオローグに効果的に組み込んでいる点でもしたたかな人物でした。

 日露戦争に関してのコメントしての集大成というなら、「新しい大戦争、専制制度に立ち向かう人民の戦い、自由を求めるプロレタリアートの戦争が近づいていることを意味していることに、この戦争の全世界的・歴史的意味がある」というのが、最もふさわしいかもしれません。

レーニンは日露戦争が開戦した直後からその戦争期間中はもちろん、終戦後に亘り多くの論文や演説を残しています。その量は相当なものでほとんどはレーニン全集に納められてはいますが、まともに研究するなら独立した一冊の本が出来るほどです。

 ということでレーニンの詳細なコメントを含めた回答は不可能ですので、ざくっとした回答でお茶を濁らさせてもらいます。

 レーニンの日露戦争観は当時の日本を取り巻く諸国の知識人とはかなり違ったもので、中国や朝鮮のように小国が列強大国を見事に打ち破ったこ...続きを読む

Q西郷の欧州視察 明治維新で明治政府は大久保や木戸やその下の山県や西郷従道ら多くの志士を欧州視察に行か

西郷の欧州視察




明治維新で明治政府は大久保や木戸やその下の山県や西郷従道ら多くの志士を欧州視察に行かせているのに、なぜ西郷隆盛に欧州視察を勧めなかったのでしょうか?西郷が征韓論を持ち出した時に欧州帰りの政府要人は「おまえも欧州を見てくれば征韓論なんて到底無理だと分かる。」と西郷を(たとえ本人が嫌がったとしても)無理やりにでも欧州視察に行かせれば、そのあとの不平志族に担がれて西南戦争も起きなかったと思うのですが?

Aベストアンサー

なぜ西郷隆盛に欧州視察を勧めなかったのでしょうか?
   ↑
政権がまだ不安定で、国内を沈静化させる
ために、西郷を日本に置いておきたかったからです。
首脳の皆が皆、外国などへ出かけたら、反対分子が
暴れます。

現代でも、クーデターは国王なり、独裁者なりが
外国へ出かけた隙に発生している場合が多いです。




「おまえも欧州を見てくれば征韓論なんて到底無理だと分かる。」
    ↑
朝鮮半島は日本防衛の要です。
元寇だって、半島経由で日本を侵略しています。
半島が列強の植民地になったら、特にロシアですね。

ロシアの植民地になったら、日本の安全保障上
非常にまずいわけです。
だから、征韓論なのです。
ロシアに占拠される前に、占拠してしまえ、ということです。

日清日露戦争はまさに半島を巡る戦だったのです。

Q結局 ざっくりいって、、 朝鮮半島の奪い合い←日清戦争 満州の奪い合い←日露戦争 日露戦争勝利→朝鮮

結局
ざっくりいって、、
朝鮮半島の奪い合い←日清戦争
満州の奪い合い←日露戦争
日露戦争勝利→朝鮮半島いただき、、

という図式でよいのでしょうか?

Aベストアンサー

朝鮮半島の奪い合い←日清戦争
 ↑
そうです。
しかし、どうして朝鮮半島を奪い合うことに
なったのか。
それは朝鮮半島は日本の安全保障の要だ
からです。
朝鮮半島に敵国の軍隊がいたら、日本の
安全は脅かされるからです。

キューバにミサイル基地が出来る、ということで
米国は第三次大戦覚悟で、海上封鎖に出ました。
隣国とは、安全保障にとってそれだけ重要なのです。



満州の奪い合い←日露戦争
   ↑
満州がロシアに取られたら、次は朝鮮です。
ひとたまりもありません。
そして朝鮮がロシアに取られたら、日清戦争と
同じになります。



日露戦争勝利→朝鮮半島いただき、、
   ↑
いただいていません。
満州から追い払い、朝鮮半島を守りました。
それもこれも、安全保障の為です。

元寇は、朝鮮半島経由で日本を侵略しています。
繰り返しますが、半島は日本防衛の要なのです。


結局ざっくりいって、、
  ↑
ロシア脅威から日本を防衛するためです。
事は、明治維新から続いているのです。
上海で、中国人が列強の奴隷になっているのを
目にした、高杉晋作らは、なんとしても列強の
植民地にはさせない、ということで明治維新を
おこし、日清日露となったわけです。

朝鮮半島の奪い合い←日清戦争
 ↑
そうです。
しかし、どうして朝鮮半島を奪い合うことに
なったのか。
それは朝鮮半島は日本の安全保障の要だ
からです。
朝鮮半島に敵国の軍隊がいたら、日本の
安全は脅かされるからです。

キューバにミサイル基地が出来る、ということで
米国は第三次大戦覚悟で、海上封鎖に出ました。
隣国とは、安全保障にとってそれだけ重要なのです。



満州の奪い合い←日露戦争
   ↑
満州がロシアに取られたら、次は朝鮮です。
ひとたまりもありません。
そして朝鮮がロシアに取られ...続きを読む

Q西郷隆盛の銅像

上野の西郷隆盛の銅像についてお聞きします。
テレビなんかでもよく言われていますが、あの銅像って、できた当時、西郷の奥さんが「うちの人と全然似てません」みたいなことを言ったそうです。
そこで疑問なんですが、奥さんが「全然似てない」と言った時に、
「じゃあ、どんな顔だったんですか?」とか聞かなかったんですか?
聞いておけば良かったんじゃないんですか?

Aベストアンサー

>「じゃあ、どんな顔だったんですか?」とか聞かなかったんですか?
>聞いておけば良かったんじゃないんですか?

 一説によると あの像を見た奥さんは、
かなり、「取り乱した」という話もあります。

 アナタは、そんな取り乱した女性に対して
「どんな顔だったんですか?」と平然と聞けますか?
http://pleasure-bit.com/1048.html

 仮に取り乱していなくても
<除幕式>の祭典の際中に「どんな顔だったんですか?」なんて
まともな、人間なら聞かないわな~

 聞いたところで どうするの?
似顔絵でも書いて銅像を作り直すの?

 あの銅像が作られた経緯を考えたら
作り直しなんて余程バカか、責任感のある奴しかやらんだろ

 大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって
西郷の「逆徒」の汚名が解かれたのをきっかけに、
吉井友実ら薩摩出身者が中心となって建設計画が立てられ

・宮内省より500円を下賜
・全国2万5千人余の有志の寄付金で建立

 この金額と善意が無駄になりますがな~

Q日露戰勝参拾周年 記念牌

僕の家に日露戰勝参拾周年 記念牌というものあるんですけど
これは日露戦争に勝ったというしるしの記念品ですよね

Aベストアンサー

 そうです。日露戦争は、1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日)ですから、その戦勝の30周年というと、1935年、昭和10年のものになります。

Q西郷隆盛の側近について

西南戦争の時の、西郷隆盛の側近で、映画やテレビ番組で描かれている人物で、いつでも、戦場でも、戦闘時でも、山高帽をかぶり、高級スーツにネクタイ・革靴を着用している人物は、どういう人なんでしょうか?

Aベストアンサー

 桐野利秋の可能性も有りませんか?

 洒落者として有名だったみたいですし…。

 陸軍少将時代には金無垢の懐中時計を愛用し、軍服はフランス製のオーダーメイド・軍刀の拵えも純金張の特注品を愛用し、城山で戦死した際にも遺体からはフランス製の香水の香りがしていたとか…。
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%90%E9%87%8E%E5%88%A9%E7%A7%8B


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