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大学受験のための国語は単に母国語として流暢に使えるという以上のことが必要です。
でも、僕はなぜ単に母国語として流暢に使えるという以上のことが必要なことなのか不思議に思います。
ちなみに僕は高校生で国語のできない理系です。

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A 回答 (11件中1~10件)

質問の意味は、なぜ専門的な知識を国語で問う必要があるのかということでしょうか



もしも、「なんの役に立つのか(反語)」という論調であれば、理系教科をそう感じる人もいると思うのです。
それは一部の専門的な立場の人だけが学べばよいのだと。

わたしは、言葉が好きで、特に日本語が好きだったので、国語の授業はいつも楽しみにしていたし、楽しかったです。
そこで学んだことはとても素晴らしいことだと思っているのです。だから、genkokuさんの気持ちとは随分違うのでしょうねぇ・・・。

わたしは、「大学試験のための」とわざわざつけなくても、日本語の専門的な教育を受けることには価値があると思っています。というか、そういえば、わたしは大学受験してないんですよ^^; だから、そう言うふうに言われるとちょっと・・・。
高校の話が主眼になってるようですので、言うと、一応高校は義務教育ではないわけで、わざわざお金を払って通っているのですから、識見を広め、自分の思考と感情を豊かにするうえでいろんなことを学びたいと思いませんか。わたしなら、貪欲に学びたいです。
わたしは、自分の得た知識や感性の価値を認めていますから、そういったことが試験で試されるのは全く嫌ではありませんでした。また、社会に出てから、自分の受けた教育は、とても役に立っているとも思います。

母国語として流暢に使えるというのがどの程度のレベルのイメージでおっしゃってるのかわかりませんが、社会に出ると、きちんとした文章の意味を取り違えてる人にたくさん出会います。文章をきちんと読めるということ、使えるということは、とても自分の助けになりますよ。

いやいや、役に立つとかそんなことじゃなくて。
普通に言葉を話しているだけでは気づくこともない言葉の魅力を知っていること自体が、世界を魅力的なものに変えてしまうと思うのですよ^^

もし、設問の意図と違うことを言ってしまっていたらごめんなさい^^;
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

僕の設問の意図にはあってます。

確かに僕は今まで国語に関しては受験のことばかり考えていたかもしれません。
識見を広め、自分の思考と感情を豊かにするうえでいろんなことを学びたいと思いませんかと問われると確かにイエスです。
僕も試験で自分の知識を試されるのは嫌ではありません。
でも、国語の試験で実際に確かめられるのは自分の知識というよりかは、作者の意見です。
傍線部の意味を答えよとかいう問題も、自分の知識ではなく文章に書かれている意味なのです。

お礼日時:2005/07/08 22:55

No.5です。



質問者様がお書きになった

> 違う感性を持った人はその感性が小説家の意図に合わないので間違いということでしょうか。

という理解は、どうやら私の意図とは違うようです。

違う感性を持った人でも、小説家の意図を理解できる、ということが国語の能力です。

国語が得意なタイプ云々は、国語の問題点です。
理系の科目も、理系の得意な人が発見した理論を、理系が得意な人が説明するのですから、文系の人には理解し難いものです。
国語は「理解し難い」ということが、その人の感性を否定するように思われやすいのだと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます
つまり、小説における国語能力とは小説家の意図を理解するためにあるということなんですね。

お礼日時:2005/07/09 21:59

質問の根にあるのは、理系の人間まで、何故文学的表現を理解しなければならないのか、文学的表現なんて不必要じゃないのかと言う反発だろうと思います。


文学的表現は回りくどく、曖昧ですが、そうした表現でしか伝えられない事柄があるのです。それは長く生きていれば分かってきます。
それから、文学的表現は毒にもなります。暗示を巧妙に使って、人間の心を操ることが出来るのです。文学的表現の毒に免疫をつけるためにも、若いうちから文学的表現に触れておいた方がいいのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
でも、文学的表現が理解できなければ操られることはないと思います。

お礼日時:2005/07/09 21:38

こんばんわ。

#7です。

いやいや、まとまっていないから問題文に成り得るんです。
まとまっていない文章だから、100字以内にまとめることが出来るんです。

まとまっていたら、それ以上まとめるコトができませんから。

だから、まとまっていない文章を用いて、受験者にまとめさせるんです。

この回答への補足

まとまっていない文章は悪い文章だと思います。

補足日時:2005/07/09 23:21
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
確かにその通りです。
#7のお礼の欄に「先ほどにも書いたように」と書きましたが、先ほどとは#2のお礼の欄のところです。
できれば読んでいただきたいです。
わかりにくい書き方してすいませんでした。

お礼日時:2005/07/09 21:30

理系の場合は結局英語で論文をかかないと評価されないので、英語を勉強して外国の大学へいくのもいいでしょう。

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この回答へのお礼

ありがとうございます。
でもお金が・・・
それに外国行くほど賢くありませんし・・・

そういう話は僕もよく耳にします。なので高校に入ってからは苦手な英語を克服しました。(まだ得意とはいえませんが)
でも日本にいたとしても結局は英語で論文をかかないと評価されない場合があるらしいですね。。。

お礼日時:2005/07/08 23:41

こんばんわ。



日本語を「流暢に話せる」と「流暢に使える」の間にはかなりの差があります。

相手の言いたいことを理解し、それに対して自分の言いたいことを相手に理解してもらえるように話す。あるいは文章で示す。

これってホント簡単なようで難しいコトですよね。

実社会ではもちろん、大学では論理的な講義はもちろん、論文を読んだり書いたりする訳ですから、日常会話以上の力が必要です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
先ほどにも書いたように受験の国語に出てくる文章はまとまっているとは思いません。その証拠に100字以内でまとめろなんていう問題がでます。
僕が本当に相手に理解してもらおうと思えば、もっとわかりやすく言うと思います。

お礼日時:2005/07/08 23:32

ちょっと素敵なアンチテーゼととりました(^^)



よくある学生の疑問に、「加減乗除ができれば暮らしていけるのに、なんで数学を勉強しなければいけないのですか?」というのがありますが、対照的ですね。

理系ということですので、国語よりは数学の方がお得意かと勝手に思いましたが、この学生の疑問にはどう答えられるでしょうか。きっと今回のご質問の答えに近いような気がします。

暮らしに困らないようにするレベルの学習は、小中学校(義務教育)で教えてもらいます。算数でも国語でも、社会科も理科もそうですよね。

高校の学習を終えて、大学で勉強しようとするのに必要なレベルは、ご質問のレベルよりは高くなるものでしょう。でも、#1の回答にあるご見解もそのとおりだと思います。
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この回答へのお礼

素敵なアンチテーゼをありがとうございます。
暮らしに困らないようにするレベルの学習は、小中学校(義務教育)で教えてもらうという意見には大賛成です。
僕は理系なので社会に出てからも研究職に就き(あくまで夢ですが)数学で鍛えた発想力や論理的思考力はとても重要な物になります。(なると思います。)
文系でもたまに必要な時があるとおもいますが、小中学校(義務教育)で教えてもらったことを理解していれば日常生活を送る上では大丈夫だと思います。

お礼日時:2005/07/08 23:25

質問者様は、おそらく小説の読解のことを意図していらっしゃるのだと推察いたしました。


「大学受験のための国語」は教科としての国語の出来を計るものだと思いますので、「教科としての国語」について書いてみます。

国語の授業は、必ずしも日本語の授業ではないと思います。
道徳に近い部分があると聞いたことがあり、私自身はそのことに納得しました。

どの小説を取り上げるのか、という取捨選択は、価値の選択でもあるのでしょう。
小説に描かれた情景、心情、行為が、(規範とまでは言えないものの)日本人として共感され得るもの、良いもの、と認識されている面はあると思います。

その小説の読み方に対して正答を求めるのも同じことです。
ひとつの感じ方に対して、日本人らしいとか、常識的であるとか、そういった評価をするのだと思います。評価されるものが、正答だということです。


例えば、桜を見たときに一番に思うことが、「きれいだ」の人もいれば、「この桜の種類は何だろう」の人もいるでしょう。
極端に言えば、「きれいだ」という感性を正答とし、前後の文から読み取れるはず、といってしまうのが国語です。つまり、「きれいだ」という感性を、もっとも日本人らしく、一般的なものだと評価しているのです。「この桜の種類は何だろう」と思う人は、感性ではなく、理性でもって「過去の問題から考えるに『きれいだ』が答えだろう」と理解しなければならない、ということになります。

国語という科目の問題は、いわゆる国語が得意なタイプの人が書いた小説を、やはり国語が得意なタイプの人が読んで、問題と答えを作成しているという点です。

ただし、国語の正答を求められる、ということは必要なことでもあります。
A「桜を見た。幸せな気分になった。」
B「桜を見た。図書館へ行った。」
国語的な見方をするならば、Bは「桜を見た。桜の種類がわからなかったので、図書館へ行った。」とする必要があります。Aは「桜を見た。きれいだと感じて、幸せな気分になった。」としなくても、理解できるのです。このとき、Aを理解するのに必要なのが、感性だとしても、理性だとしても構わないのです。

文章は、「常識的に理解できることは、わざわざ説明しない。理解しにくいことは、丁寧に説明する」というスタンスで書かれることが多いと思います。
不特定の人の読む文章でしたら、「理解できること=国語の正答」かもしれませんし、論文などで研究者のみが読む文章でしたら、違う基準になるのかもしれません。どちらにしても、科目としての国語というのがひとつの指針になるのでしょう。


分かりにくく、長い文章ですみません。
あくまでも私個人の意見ですので、ご参考までにご覧ください。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
要するに国語の世界では、いわゆる国語が得意なタイプの人が書いた小説を、やはり国語が得意なタイプの人が読むので、小説家は国語が得意なタイプの人に合わせて小説を書いている。それを読みとった人が正しい。違う感性を持った人はその感性が小説家の意図に合わないので間違いということでしょうか。
間違っていたらすいません。

お礼日時:2005/07/08 23:15

「母国語として流暢に使える」といっても、どの次元の流暢なのかが問題ですね。



たとえば、コンビニに行って「この店の中で一番辛いカップ麺はどれですか」と尋ねるときの流暢さと、科学論文をきちんと理解する流暢さは、別のものです。
さらにいえば、仕事で複雑な指示や要求を適切に理解し対処する流暢さも、また別物ですね。

現在の大学受験現代文で求められているのは、もちろんコンビニで買い物をする能力ではなく、論文を理解したり、相手の要求を適切に理解して、それに応じた答えを提示する能力です。
古典には素養という面もありますが、少なくとも現代文や小論文は、ある程度の知的能力が要求される環境で、どの程度、他者と言語コミュニケーションをとることができるか、その能力を試される科目だと考えてみてはどうでしょうか。

古典は英語と同じように「語学」の勉強に近いですが、現代文は「語学」ではなく「言語コミュニケーション」、それも客観性や論理性を重視するコミュニケーション能力を量る科目です。
「語学」の勉強ではないのですから、「流暢さ」で判断するのはどうかな、と思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
確かに現代文は語学系の科目とは違うということは経験でわかります。「言語コミュニケーション」についてもっと詳しく教えて下さい。

お礼日時:2005/07/08 23:03

一般図書が読めるだけではだめってことではないでしょうか?大学生になれば、専門雑誌を読んだり、文学書や難解な本を読む機会が増えてきますが、それらを一読しただけで理解する自信がありますか?


用語の意味がわからないくらいは仕方ないですけれども、何言ってるのか皆目わからないという状況はちょっと苦しいですよね。それに自分の意見を過不足なく伝える、表現するということは結構難しいです。おそらくそういった、流暢に使えるというレベル以上の読解力や表現力を要求しているのではないかと思いますよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
でも、理系の文章なら読める自信があります。
受験国語に出てくる文章はどうも自分の意見を過不足なく表現しているように思えない時がよくあります。
もう少し自分の意見をまとめて言ってほしいと感じます。
でもそうすると試験にならないですねf^_^;

お礼日時:2005/07/08 22:34

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