帝銀事件の事を自己調査していたら「九研(クケン)」というキーワドがでてきて自分なりに調べたのですが、「旧日本軍の登戸にあった第九研究所」ていうところまではわかったのですが、軍の所属・研究内容・実態などが不明のままなのです。
この質問を見て九研についての情報をお持ちの方がいらしゅいましたらどんな些細な情報でも構いませんのでご一報ください。宜しくお願いします。

A 回答 (1件)

 陸軍登戸研究所のことです。

1942年に陸軍兵器行政本部管轄の陸軍第九技術研究所となり、参謀本部第二部第八課に直属されていました。「帝銀事件」の犯行に用いられた毒薬が、陸軍登戸研究所で開発された青酸ニトリールの可能性があるとして、取り調べられたとのことです。下記URLに詳しい説明があります。

参考URL:http://village.infoweb.ne.jp/~fwhj5337/9k-index. …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
早速ジャンプしようと思います。

お礼日時:2001/10/13 10:38

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このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q北朝鮮軍(+中国軍)vs韓国軍(+日本軍、米国援助)ではどっち勝つか?

北朝鮮軍(+中国軍)vs韓国軍(+日本軍、米国援助)ではどっち勝つでしょう?

中国は、物資や武器、資金の提供、軍事力の援護
日本は、自衛隊の援護?ただし、どれぐらい派遣できるのかは未知数ですよね。
イージス艦は派遣しそうです。
しかし、陸自、空自は派遣は難しそうですが、有り得ますかね?
(今度の総選挙で鳩山政権が与党になれば楽に?)
米国は例のごとく、武器とイラナイ紙切れ同然のドルを韓国に援助します。

この場合、韓国が勝ちそうに見えるのですが、
某所の外人の書き込みによると、
「韓国がやられ、日本が反撃する(抵抗する?)」とあります。
これは、どういう意味なのでしょうか?
実際に韓国と北朝鮮同士ならば、韓国が圧倒的差で勝つと思います。
また、この場合、中国+北朝鮮軍が日本へ攻めてくるということも有り得るのでしょうか?
しかし、結局は日本が割りと楽に防衛し、中国がやけくそになって日本へ核を撃つということは有り得ませんか?
実のところ、無いとは思いますが、中国は奥が深いので難しいです。

一応、念のために原文載せます

Try this. 2009 North Korea gets attacked by South Korea. Japan joins with SK. China joins NK. US refuses to take sides. Israel attacks Iran, EU/US refuse to help. Russia does nothing. Aussies turn on china and helps SK+Japan. USA funds Israel and SK offensive. SK is ruined, but japan keeps attacking. Israel is stuck in a long term hit-and-run war with Iran supporters. EU finally steps in to help Israel and Japan, Russia sides with China, 2011. 2012, USA official joins the Allies, war cont.

北朝鮮軍(+中国軍)vs韓国軍(+日本軍、米国援助)ではどっち勝つでしょう?

中国は、物資や武器、資金の提供、軍事力の援護
日本は、自衛隊の援護?ただし、どれぐらい派遣できるのかは未知数ですよね。
イージス艦は派遣しそうです。
しかし、陸自、空自は派遣は難しそうですが、有り得ますかね?
(今度の総選挙で鳩山政権が与党になれば楽に?)
米国は例のごとく、武器とイラナイ紙切れ同然のドルを韓国に援助します。

この場合、韓国が勝ちそうに見えるのですが、
某所の外人の書き込みに...続きを読む

Aベストアンサー

僕は中国が本気で支援したら韓国軍が負けると思います。
日本軍は役に立たないでしょう。
「韓国がやられ、日本が反撃する(抵抗する?)」
これはない気がします。
米軍が反撃しそれに巻き込まれる形で支援、
そして支援した段階で日本も標的になるってことはあるでしょう。
日本に攻めてきた場合も楽に防衛なんてことはまずないと思います。
みえる軍だけじゃなく日本には多数の中国、朝鮮の人がいます。
その人たちの一部でもテロなんか起こそうものなら。敵軍が来る前に大混乱でしょう
中国がやけくそになるぐらいの状況にならすでに日本半分ぐらいなくなってるんじゃないかな

Q九龍城砦・取り壊し前当時の、九龍地区の本・サイトありますか?

中国・香港の、イギリス領時代の情報、特に、九龍城砦の周辺に何があったのか?
施設や地図などの情報の書いてある本やサイトを探しております。
九龍城砦自体の情報はそこそこありますが、周辺の情報は殆どみかけません…

詳しい方おられましたらお教えいただけますと幸いです。

Aベストアンサー

古書店街で、1980年代の香港旅行ガイドを探すのも、一つの手軽な方法でしょう。安く買えますから。

この方面に詳しい文筆家で思い出したのは、「山口文憲」さんです。
この名前と九龍城で検索したら、このような資料紹介ページが出てきました。
かなり、資料性の高い写真集もありますが、5000円から9000円もします。しかも、既に絶版のものが多いようです。
一応、ご参照ください。
http://kyoto.cool.ne.jp/nekonosuke//books.htm

Q【日本史・織田信長の死際の行動の謎】織田信長は本能寺に滞在中に家臣の明智光秀が攻めて来たという一報を

【日本史・織田信長の死際の行動の謎】織田信長は本能寺に滞在中に家臣の明智光秀が攻めて来たという一報を受けて、自分が普段座る鎮座に影武者の家臣を置いてその影武者に短い手槍を渡した。

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自害する必要がどこにあった?

なぜ織田信長は明智光秀と戦うという選択ではなく、最初から自害の道を選んでいたのか不思議じゃないですか?

おかしな話ですよね。

何かひっかかりませんか?

Aベストアンサー

光秀が攻めるときは、理詰めの確実な方法を取るはず。信長が前に出て戦闘状態になったら光秀の注文通り。
信長自身がしばらく生死不明という状況にするのが、あの夜の最善手だったからでしょう。
 事実、秀吉が引き返して山崎の合戦になったとき、秀吉側は、信長は脱出に成功、自分は信長の指示で指揮を取るという噂を流して、精神的動揺を誘ってます。

Qドイツ軍の第2装甲軍について質問です。

第二次大戦中のドイツ軍第2装甲軍について質問です。

当該軍は1941年バルバロッサ作戦時中央軍集団隷下において第2装甲集団として編成、
1941年10月に装甲軍に改編されたものと承知しております。

そしてその後1942年にバルカン半島に送られ、1943年F軍集団として再び改編され引き続きバルカン半島で活動したとウィキペディアに記載されています。

しかし、1943年7月のドイツ軍によるツィタデレ作戦(クルスクの戦い)時には
中央軍集団に属しモーデル将軍の第9軍左翼に陣取っていると各種資料の地図で確認できます。
さらにウィキペディアのクルスクの戦いのページにある部隊配置地図では
指揮官部分に"SHIMIDT"と記載、おそらくルドルフ・シュミット上級大将のことでしょうが
彼は1943年4月に第2装甲軍司令官を更迭されているはずです。
クルスクの戦いの起こった7月に彼が指揮官なのは時系列が合いません。

F軍集団の編成はウィキペディアでは8月12日とありますが、
第2装甲軍が参加していたはずのクルスクの戦いは8月22日まで続いたはずです。
ウィキペディアの情報をそのままたどると、
第2装甲軍は1941年バルバロッサ作戦においてモスクワに向けて進撃し
その後1942年にははるか1500km南方のバルカン半島に派遣、
さらに1943年夏に再び1500km北でクルスクの戦いに参加し、
激戦のさなかもう一度1500km南下してバルカン半島に戻ってきたということでしょうか?

いくらなんでもむちゃくちゃすぎると思うのですが、これは事実ですか?
それともウィキペディアの情報が間違っているのでしょうか。

第二次大戦中のドイツ軍第2装甲軍について質問です。

当該軍は1941年バルバロッサ作戦時中央軍集団隷下において第2装甲集団として編成、
1941年10月に装甲軍に改編されたものと承知しております。

そしてその後1942年にバルカン半島に送られ、1943年F軍集団として再び改編され引き続きバルカン半島で活動したとウィキペディアに記載されています。

しかし、1943年7月のドイツ軍によるツィタデレ作戦(クルスクの戦い)時には
中央軍集団に属しモーデル将軍の第9軍左翼に陣取っていると各種資料の地図で確認でき...続きを読む

Aベストアンサー

●「独ソ戦車戦シリーズ(9) 1945年のドイツ国防軍戦車部隊―欧州戦最終期のドイツ軍戦車部隊、組織編制と戦歴の事典」 (大日本絵画 マクシム・コロミーエツ著)によれば、第2装甲軍は、
1941年夏以降から1943年9月の間は、独ソ戦線で行動し、その後、F軍集団に編入されたとあります。

「独ソ戦車戦シリーズ(9) 1945年のドイツ国防軍戦車部隊」
http://www.amazon.co.jp/1945%E5%B9%B4%E3%81%AE%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%9B%BD%E9%98%B2%E8%BB%8D%E6%88%A6%E8%BB%8A%E9%83%A8%E9%9A%8A%E2%80%95%E6%AC%A7%E5%B7%9E%E6%88%A6%E6%9C%80%E7%B5%82%E6%9C%9F%E3%81%AE%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E8%BB%8D%E6%88%A6%E8%BB%8A%E9%83%A8%E9%9A%8A%E3%80%81%E7%B5%84%E7%B9%94%E7%B7%A8%E5%88%B6%E3%81%A8%E6%88%A6%E6%AD%B4%E3%81%AE%E4%BA%8B%E5%85%B8-%E7%8B%AC%E3%82%BD%E6%88%A6%E8%BB%8A%E6%88%A6%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA-%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A0-%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%84/dp/4499229243/ref=sr_1_3?ie=UTF8&qid=1377357679&sr=8-3&keywords=1945%E5%B9%B4%E3%81%AE%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84

つまり、この「独ソ戦車戦シリーズ(9) 1945年のドイツ国防軍戦車部隊」の内容が正しければ、

>1942年にバルカン半島に送られ、

の部分は誤りとなる可能性があります。

また、パウル・カレルの「バルバロッサ作戦」やエーリッヒ・フォン・マンシュタインの回想録「失われた勝利」等を見ると1942年1~3月、7月に第2装甲軍が東部戦線でソ連軍と戦闘しているのがわかりますから、少なくとも1942年を通して第2装甲軍がバルカン半島にいたという事はないという事がわかります。それに、クルスク戦においても第9軍の側面防御を請け負う援護部隊としての役割だった事などもわかります。

そのウィキの記事が何を元に書かれたか、それが信頼性の高い資料によるものなのかが問題だと思います。


●なお、
>F軍集団の編成はウィキペディアでは8月12日とありますが、

この部分について、ハインツ・グデーリアンの回想録「電撃戦」(1974年版)の別冊資料集では、F軍集団は「1943年8月22日~26日」となっています。


●余談ですが
>はるか1500km

ドイツ装甲師団は東部戦線で戦った後、兵士の休養と兵器の再装備のため、フランス等で数ヶ月過ごす事が珍しくありませんでした。
一例を挙げると、東部戦線にいた第7装甲師団は1942年5月にフランスに向かい、そこで休養と再装備をすませると12月には東部戦線に復帰しています。
東部戦線からフランスまでは軽く2000キロを超えている距離です。

●なお第2装甲軍に所属している部隊もそれなりに変わっています。
1941年11月にモスクワを目指して進撃していた第2装甲軍には、装甲師団として
第3装甲師団、第4装甲師団、第17装甲師団、第18装甲師団が所属していましたが、
クルスク戦前の時点では、この4個師団は既に所属しておらず、所属していたのは、
第5装甲師団、第8装甲師団、第12装甲師団でした。
この3個師団は第2装甲軍がF軍集団に配属された時、第2装甲軍から外されそのまま東部戦線に残されています。


■>ウィキペディアの情報が間違っているのでしょうか。
回答・・・その可能性はあります。

●「独ソ戦車戦シリーズ(9) 1945年のドイツ国防軍戦車部隊―欧州戦最終期のドイツ軍戦車部隊、組織編制と戦歴の事典」 (大日本絵画 マクシム・コロミーエツ著)によれば、第2装甲軍は、
1941年夏以降から1943年9月の間は、独ソ戦線で行動し、その後、F軍集団に編入されたとあります。

「独ソ戦車戦シリーズ(9) 1945年のドイツ国防軍戦車部隊」
http://www.amazon.co.jp/1945%E5%B9%B4%E3%81%AE%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%9B%BD%E9%98%B2%E8%BB%8D%E6%88%A6%E8%BB%8A%E9%83%A8%E9%9A%8A%E2%80%95%E6%AC%A7%E5%...続きを読む

Qなぜ第二次世界大戦時にアメリカ軍は日本軍の暗号通信

なぜ第二次世界大戦時にアメリカ軍は日本軍の暗号通信を解読出来ていたのにハワイのパールハーバーの奇襲攻撃を許したのでしょう?

日本軍がハワイのパールハーバーを攻撃することは,アメリカ軍は知っていたはずですよね?

アメリカ軍は日本軍にパールハーバーを攻撃させて,自国で開発していた核爆弾を実戦で使ってみたかった。

だから日本軍にパールハーバーの攻撃を許して,自国の離島民を殺すのと引き換えに核兵器の実験ではなく実際に使う口実を作った。

違いますか?

なぜ日本軍の秘密暗号を解読していたアメリカ軍がパールハーバーだけ攻撃されるようなヘマをしたのか謎です。

Aベストアンサー

 1941年当時、米国は日本軍の暗号解読に成功していません。
 米国が暗号解読に成功していたのは日本の外務省の通信暗号です(ちなみに、日本も米国の外交通信暗号の解読には成功していました)。

 また、「米国はパールハーバーが攻撃をされることを知っていた」というのは語弊があります。
 米軍は通信信号の傍受(信号の内容を解読できてはいなかったが、どの地点からどれだけの通信電波が発信されているかは探知できていた)から、日本海軍が千島列島に集結しているらしいということを察知(日本軍はほかの軍港から通信電波を盛んに発してそこに艦隊がいるように偽装し、単冠湾に集結していた軍艦は完全に電波封止していたが、フィリピンや中国大陸にある通信傍受施設の測定誤差範囲に両方の地点が入っていたため、偶然にも日本の偽装電波の発信源が単冠湾であると誤って断定してしまった)し、「少なくとも空母1個戦隊(空母2隻以上)の艦隊が北太平洋に出撃したまま行方不明である」と分析していただけです。
 その分析結果から「パールハーバーが奇襲を受ける可能性がある」という危機感を抱き、12月6日までの一週間は警戒態勢をとるように太平洋艦隊に命令が出されていました(パールハーバー攻撃は偶然にもその翌日だった)。
 米軍がパールハーバー奇襲について「知って」いたのは、それだけです。具体的に「12月8日の早朝に大規模な空襲が行われ、停泊中の太平洋艦隊が壊滅する」とまで知っていたわけではないのです。

 そして、開戦直前に日本の暗号を解読して攻撃の1時間前には日本が開戦に踏み切ることを米政府は知りますが、それは日本の外交暗号(日本政府から駐米日本大使館へ送られた対米宣戦布告の文面)を解読したものであって、日本軍の暗号を解読して作戦内容を知っていたというあなたの理解とはだいぶ違います。


>アメリカ軍は日本軍にパールハーバーを攻撃させて,自国で開発していた核爆弾を実戦で使ってみたかった。
>だから日本軍にパールハーバーの攻撃を許して,自国の離島民を殺すのと引き換えに核兵器の実験ではなく実際に使う口実を作った。
>違いますか?

 全然違います。
 開戦当時、原爆はその製造の可能性を検討されていた段階です。核分裂兵器の開発が決定されたのは1941年12月18日のことであり、真珠湾攻撃よりも10日も後のことです。
 さらに、原爆開発のための組織であるマンハッタン工兵管区が立ち上げられたのは翌年のことです。
 原爆を使いたいがために真珠湾攻撃を許したというのは、時系列的につじつまが合いません。
 謎があるとすれば、なぜちょっと調べればわかるような矛盾に満ちた陰謀論を簡単に信じてしまうあなたの思考の仕組みのほうです。

 1941年当時、米国は日本軍の暗号解読に成功していません。
 米国が暗号解読に成功していたのは日本の外務省の通信暗号です(ちなみに、日本も米国の外交通信暗号の解読には成功していました)。

 また、「米国はパールハーバーが攻撃をされることを知っていた」というのは語弊があります。
 米軍は通信信号の傍受(信号の内容を解読できてはいなかったが、どの地点からどれだけの通信電波が発信されているかは探知できていた)から、日本海軍が千島列島に集結しているらしいということを察知(日本軍はほか...続きを読む


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