痔になりやすい生活習慣とは?

 西洋や中国では、何千年も前かから馬車が使われてたのに対して日本では明治時代になってからやっと馬車がつかわれるようになりましたよね?
 牛車でなく馬車があれば便利高速手段となったと思うのですが。
 なぜ日本では馬は武士や馬借、馬の背に荷物を乗せて使われることまでしかなっかったのかとても不思議なのですが、そのことについて調べていますがなかなか答えに辿りつけません(ToT)そのことでプレゼンをやるひが近づいてのですかこのままだと、ぜんぜん満足のいくプレゼンができないので、どなたかお答えいただけないでしょうか?
 また日本では手紙も馬を使わず、飛脚を使っていたのかも調べてるですが、そちらのほうもお教え願えないでしょうか?

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A 回答 (8件)

 以下はわたしが書いたものの抜粋です。

テーマが少し違うため直接お役に立たないとは思いますが、もともととても長いものですので、ヒントになりそうなところだけをブツブツと切り取ったものをご回答として。。。
 
1.世界史から見た「車」

●紀元前1595年、ヒッタイトの軍勢が古代バビロンを攻略し占領した。この戦いでは木製の車輪を持ち2頭の馬に引かれた戦車が登場している。この時代に戦車として応用されていたくらいだから、一般の物資運送用には、さらに古くから「車」は存在していたであろう。
●ほぼ起元の頃に当たる古代ローマの時代にも一頭の馬に引かせた戦車(チャリオット・シャリオ)が戦争で使用されていたし、カルタゴの名将ハンニバルのアルプス越えや敗走のシーンにも戦車は登場する。古代ローマと言えば勇壮な戦車競争があるが、ローマ人はエトルリア人からこれを教わったという。
●10世紀以降の頃、わが国では「源氏物語」が書かれた時代、ヨーロッパの主要都市では馬に引かせる荷車が広く普及している。パリではゴミや水を道路に投げ捨て、これを豚が処理していたという。ここに荷車が通るから、道路は年中ヌタヌタ状態で悪臭もひどかったという。それが理由で、やがて道路には側溝と歩道が作られ、次第に石材で舗装されるようになり、さらに大規模な暗渠が整備されることとなった。
●1200年のハンザ同盟の頃のドイツ、わが国では平清盛全盛の時代、ここにも馬車が活躍している。1618年に起こった三十年戦争では人も乗る幌馬車が活躍している。
●18世紀から19世紀、イギリスで起こった産業革命では輸送力が大きく貢献している。また、乗用の辻馬車が生まれ、炭鉱の坑内でもトロッコが活躍している。これらはディッケンスはじめ多くの文学にも登場する。
●1818年、独立間もないアメリカで、開拓民のために土地を給付する法律が施行されて、民衆は新天地を求めて西へ西へと移動を始めた。2頭または4頭の馬に引かせる幌馬車や4頭の馬に引かせる駅馬車(ステージコーチ)などは西部劇でもなじみ深い。

2.日本史から見た「車」

●古墳時代の出土品のなかに円形で、中央に穴があり、穴から外周に向けで多数の線を刻んだものがある。これが「車輪」を模したものか、あるいは宗教的な宝具なのかは不明。
●奈良朝の時代(6~8世紀頃)、唐からさまざまな文化文明が流入している。「車輪」や「車」の概念もまたあったと思われるが記録に乏しい。
●平安時代(10世紀頃)、牛車(ぎっしゃ・御所車)が見られる。平治物語絵巻「六波羅行幸巻」にはこの牛車が克明に描かれているが、一部を鉄などで補強した直径の大きな車輪に特徴があり、ここに当時の「車」が置かれた環境を見て取れる。
●天正20年(1592)、秀吉が朝鮮に出兵した時代、大坂城の火薬庫に多数の荷車に積んだ火薬が搬入されたという記録がある。特に大坂、堺などでの荷車の普及は顕著というが、その姿は不明。
●天文、元亀(16世紀頃)から始まったいわゆる戦国時代、たしかに「車」に関する記述は少ない。まして「乗用」ともなるとまったく見当たらない。少ないこともまた、その理由の推測と考証の足がかりとなる。
●文久2年(1862)に発生した生麦事件に対してイギリスへの賠償が行われることになり、イギリス軍艦パ-ル号に積み込まれる賠償金を運ぶ多数の「大八車」の絵が1963年9月12日号のイラストレイテッド・ロンドン・ニューズ紙に掲載されている。

3.構造と機能から見たわが国の「車」(あまり関係ないので1項のみ)

●路面からのショックを吸収するサスペンションバネの概念の遅れもまた、乗用の「車」の普及度の低さに関係しているかもしれない。とかくのんびりと進む牛車(御所車)の場合はともかく、バネを介在させない「車」では今日の舗装路でも、とても長時間は乗っていられたものではない。

4.中世までの環境から見たわが国の「車」

●これまでに述べたように、「車」というものは、過去、人の力、あるいは家畜の力を利用して運行できるものでなくてはならなかったし、また、その車輪の仕様や車体の寸法が当時の道路事情に合致していなくては利用度が低かったはずである。
●馬は長距離に適しているし歩行速度も速い。その点、牛は長距離には適さないし、その速度も遅いが、根気が良く、短距離かつ長時間の労役には適していた。いわば高回転高トルク型エンジンに似た馬の特性、低速トルクの高いエンジンに似た牛ということになろうか。
●戦国の世には、長距離に及ぶ街道はまだ完全に整備されてはいなかった。
●多くの軍勢は表立って街道筋を通ることを避け、山野を横切ることで、その実勢力を傍の目から隠し、同時に移動距離を縮めていた。そして戦場となるのは自然のままの原野である。このような戦術と環境では「車」は利用度が低かったはずである。
●馬、れん台、輿、駕籠などはこの点、地形やその他の環境に対して対応性と踏破性が高い。
●当時の道路事情といえば、例えば大坂、江戸、京など大都市の市中においてはかなり整備されていたはずである。しかし、ヨーロッパと異なって舗装が遅れたわが国では、一旦雨が降れば車輪がスタック(頓挫)して、そこから引き出すのにさぞかし難渋したことであろう。
●当時の都市計画から見ると、例えば大坂や堺、江戸などでは市中に物資運搬用の船が往来できる堀や運河を縦横にめぐらせることに重点が置かれていた。「車」の積載量に比較するとまさに桁違いに運搬効率の高い船への依存度が高かったからであろうし、大八車などは近距離用として副次的に使用されていたと考えられる。
●中距離、遠距離まで大八車などが引き回されることは、一部の地域や方角を除いて少なかったものと考えられる。一方、乗用ともなると、近距離なら駕籠や馬の方が地形や道幅に左右されない分だけ有利で、利用度の高さで勝っていたはずであり、ここにも乗用の「車」の普及が遅れた理由があるのではないだろうか。
●堀や運河、川などの多い大都市では当然のことながら橋が掛けられている。当時の木橋ではアーチ型に構造材を組み合わせていたことを考えに入れなくてはならない。万一、橋の上り勾配で力負けして「車」が止まってしまうと、「転がり抵抗」も加わって、再度発進させることには大変な労力を要する。坂の多い地域もまたしかりである。物資運搬用の大八車なら丁稚などに手伝わせることもあったであろうが、このような環境においては人力はもとより、牛馬を使う「車」が乗用の営業運行にまで発展しなかった理由がここにもありそうである。
●都市間の移動となると、とかく問題となるのが箱根、山科といった山道、峠道、そして、当時は橋がなかった一級クラスの河川であったろう。たとえ大名行列といえども、そして大人数のお供がいるにしても、「車」はとかく不便であったに違いない。ここでも駕籠、馬、れん台の方が利用度の高さではるかに勝っている。
●当時の街道を考えてみるにつけ、現存する旧東海道(横浜市戸塚区、保土ヶ谷区内)の道路の幅員の狭さに驚かされる。車幅1700ミリの5ナンバー車が一台やっと通過出来る程度の道幅であり、大八車などが頻繁に往来するにはあまりにも狭い。
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この手の話を以前本で読んだことがあります。

本では「去勢技術が日本には無かったのが原因」として取り上げていました。それが伝わらなかったのか途絶えてしまったのかは解らないようですが、とにかく無かったようです。
 個人的にも一番の要因は去勢技術が無かった事だと思います。他の方が取り上げられている道が狭いなどの理由は一理あるかもしれませんが、根本的にずれているとおもいます。道が狭いから馬車が無かったのではなく、乗馬や馬車が普及しなかった為に、道が狭かったと考えるのが筋だと思います。日本の馬がいくら小さいとはいえ乗馬や馬車の有用性を否定する程の理由にはなっていないと考えます。
見解をまとめると
「去勢技術がなかった為に普及出来なかった。普及しなかった為に街や街道整備、法度、社会などに影響が出た。」
と私は考えます。
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道路事情もあるでしょうが、車輪も関係ありそうですね。

ヨーロッパでは16世紀から金属の車輪が使われていました。後は歴史的に、人の乗ったものを馬に牽かせるというのはやはり馬の大きさによるんでしょうね。

だから飛脚も、馬に人間が乗って早く走れないのだから、人間が走った方が速いと。それとやはり、日本が山の多い国だったからでしょう。チベットだかヒマラヤだかの郵便屋さんは今でも何日もかけて人が歩いて山間部の村々へ郵便を届けるそうです。あれってほとんど飛脚ですね。馬に乗って通れないような山道でも人の足なら通れますから。
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皆さんのおっしゃる通り、日本は山が多いので馬車はやくに立たないと思います。

現在、自動車で走れるのもトンネルがたくさん掘られているからだと思います。トンネルが無い時代には車の通行は不可能でしょう。

また、日本は海の近くに市街地があるので船が使われたのだと思います。
むしろ馬車より船のほうが大きな荷物を運ぶのに適していると思います。馬車は船の使えない大陸で代替的に使われていたのではないでしょうか?
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まずは馬車に適した街道事情ではなかった。

(勾配が多い、平野が少ない割には河川が多くい)それに馬は家畜と言うよりも財産や家族に近い扱いで、耕耘で扱われていた。(東北地方の曲り屋の構造を見れば同じ屋根の下で人間と馬が同居している)更に日本固有の馬は長い距離を走るよりも力仕事に向いていた。などがあげられそうですね。
また農耕民族で各地を移動する理由もなかったので大量輸送の発想がうかばないのではないですかね。

ただ馬が全く運搬に使われていなかったというわけではなく街道の峠越え等には馬を運送に使っているはずですよ。
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あまり自信はないですが困り度3ということで・・



#1・2さんのおっしゃる通り道路事情だと思いますよ。

狭いし、デコボコだし、山も多いし。

江戸時代は防衛上、川に橋はNGでしたし。

それより「馬」ですよね。日本馬は小さいでしょ?

映画とか大河ドラマとかあんなカッコイイものじゃなかったと思いますよ。

それと日本はなぜか馬の去勢をしなかったです。
やはり馬は武士専用の道具だからかなぁ?

途中で交換したりとかも必要だし、金がかかる割りに
「そんなに速くはなかったのでは?」というのが私の答えです。
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日本産の馬は使い物にならなかったでしょうね。

大陸産に比べ小さく、弱く。
義経ブームで、一ノ谷の戦いの検証がよく出版されていますが、そのころの馬を担いで崖を下った武将がいたそうで、担げるほどの馬だったそうです。
大陸に比べ山の多い日本では車はたいへん難儀なものでしょうね。中国でもヨーロッパでも、見渡す限りの平原でないと、車はむしろ不便でしょう。
この二点から、日本では、馬車があまり使われなかったのだろうと思います。
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馬車が通ることができる道がそんなに整備できていなかったのと馬車をつくる職人や材料を加工する技術が発達しなかったから

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Q日本で馬車が発達しなかった理由

どうして日本ではヨーロッパほど馬車による移動が発達しなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

江戸幕府によって、江戸府中の一部や京都の一部を除いて、「車」(大八車や牛車含めて)の通行を禁止されたのが大きいでしょう。

参勤交代でも、大名は人足が担ぐ輿に乗って移動してますねー。

地理的な問題点もあれど、制度的に禁止されていたことが一番大きい理由だと思いますよ。
#そうでなければ、明治以後に車や鉄道が急速に発達した理由と矛盾します。

Q日本に馬車がなかったのはなぜでしょうか?

ちょっと気になったので質問してみました。
江戸時代に五街道が整備され、特に東西の行き来が速くなったのは有名な事実ですが、なぜ馬車は走っていなかったのでしょう?
特に速達性重視の飛脚が人間の足によって営まれていたのは不思議でたまりません。戦で使う馬はいたのだから、欧米のように馬車が走っていてもよかったとおもうのですが・・・。
誰か詳しい方よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 まず、馬はランニングコスト(洒落じゃないですけれど)が、牛に比べて高く贅沢な乗り物だったということがあります。ですから、いまでも世界の貧しい地域で耕作に牛が使われているのはこうした理由です。
 また、馬がひいているものに限らず車の使用は道路を著しく傷めるため(かつての牛車は貴族たちのみの乗り物だったためダメージは些少だった)、道路の維持管理費用がかさむという理由から江戸幕府によって使用が禁止されていました。まして、道路の維持管理がその地域に任せられていた江戸時代では道路を個人の都合ででこぼこにされたのではたまったものじゃなかったのです。
 いまの時代劇ではあまり見かけなくなった場面ですが『街中を大八車で爆走する近所のバカ』を、近隣住民が問題としている点は「危ねぇよバカ」じゃなく「道が痛んで金がかかるじゃねぇかバカ」な訳です。
 で、馬車の使用を禁じていなかった欧州では石畳の磨耗が激しく維持管理費が捻出できずに捨てられた街道があったり、轍に乗り上げて馬車が横転するという事故や犬などに驚いた馬の暴走による事故が多発していました。しかも、モーツァルトの短躯は成長期の旅暮らしのせいといわれるほどに振動が激しく(乗り心地をよくするサスペンションは馬車の時代の最末期に発明された)、わたしたちが想像するほど馬車というものはのんびりした安全な乗り物ではなかったし、某国の道路行政に思いが至ってしまうほどに公共財を消耗させるものだったのです。

 まず、馬はランニングコスト(洒落じゃないですけれど)が、牛に比べて高く贅沢な乗り物だったということがあります。ですから、いまでも世界の貧しい地域で耕作に牛が使われているのはこうした理由です。
 また、馬がひいているものに限らず車の使用は道路を著しく傷めるため(かつての牛車は貴族たちのみの乗り物だったためダメージは些少だった)、道路の維持管理費用がかさむという理由から江戸幕府によって使用が禁止されていました。まして、道路の維持管理がその地域に任せられていた江戸時代では道路...続きを読む

Qなぜ飛脚は馬ではなく人力で走るのか?

江戸時代、飛脚がいますよね。なんでも大阪から東京まで3日でいったとかなんとか。

それはそうとして、時代劇で飛脚を見るたびにおもっていました。

「なぜ、馬を使わないんだろうか?」

馬のほうがいいような気がするんですが、どうでしょうか?

いや馬を使っていたこともあるとは思うんですけど。

飛脚ってほとんど人力走りじゃないですか。おかしくないでしょうか?

Aベストアンサー

実は日本は世界の歴史から見て、稀有なほど馬を利用しない文化だったのです。たとえば馬車は地中海や中近東では紀元前には出現しているのですが、日本ではついに一度も利用しないで、自動車社会になってしまいました。日本の道が狭く道路を整備しづらいのは、馬車を利用しなかったからだ、という説もあるぐらいです。

なぜ馬が利用されなかったのかはついては、体系的な説明がなかなかなく、私も調べているかぎりの知識になりますが、いくつかの事実をあげると
・馬の去勢を行わなかった。
・武士階級はそもそも馬を御す技術を持った者のことだったため、乗馬が特権化した。
・仏教思想から、馬に限らず牛なども家畜というより家族として扱った
ということが影響していると思われます。

そのうえで飛脚についていうと、江戸時代でも馬による伝令はあったのです。ですから、飛脚とは別に馬を使った伝令も江戸時代にはあったのが事実です。
これらの伝令用の馬は平安時代に「駅伝駅馬」として整備を始め、江戸時代には駅がおかれた地域を中心に宿場町が発展していました。
つまり江戸時代の宿場には駅(伝令のために馬を用意し、宿泊できる施設も整えた施設)もあったのです。

ところがこれは平安時代から政治的軍事的な伝令のためのもので、庶民がつかえるようなものではありませんでした。武士といっても国の根幹にかかわるような伝達事項でなければ、馬は利用できなかったのです。

そのため、庶民が気軽に利用できる郵便制度として飛脚が発展し、まるで現在の宅配便のように気軽に利用できるようになっていたのですが、ここでそもそもの問題があります。それは「なぜ江戸-大坂間などを頻繁に飛脚が往復する必要があったのか」ということです。

この時代は人の行き来が難しい時代ですから、現代のように関東と関西に親戚がいて、お父さんは東北に出張、お母さんは九州に旅行、という具合にはいきません。当時のほとんどの人は生まれた場所から10kmぐらいの行動範囲しかなかったのです。

そのため飛脚は実は「商売」のために往復していたのが実際のところです。実は江戸時代、江戸と大坂では金貨経済と銀貨経済と貨幣も貨幣単位も違いましたし、大坂の堂島には米の先物取引があり、米相場は大坂しかし米の消費地は江戸、という二重経済をしていたのです。

今で言えば日本の中に円建ての経済地域とドル建ての経済地域があるようなもので、しかも毎日為替相場が動いて、その日の金貨と銀貨の交換比率が変わるという具合だったのです。

現在でもFXのように、為替相場は儲けることができます。また米の先物取引で儲けることもできます。この儲けのために頻繁に江戸-大坂間を証文がやり取りする必要があったので、飛脚が発達したのです。
しかしこれは階級社会から見れば士農工商の商、何の労働もしないで富をえるいちばん悪い儲け方だったので、当然ながら役人は馬の使用を許可しなかったのです。

これが、実際に馬を利用しなかった(できなかった)一番大きな理由です。

もっとも、日本も馬の去勢を取り入れていたら扱いやすい馬が増え、江戸時代には普通に馬や馬車を利用していたかもしれません。

日本から古来から大陸産の馬を時々輸入していたようで、去勢の方法も知らないはずは無かったのですが、たぶん当時の文化的な理由から馬の去勢をしなかったのだと思います。(じつは人間の去勢である宦官も日本は大陸から受け入れていません。日本は中国・朝鮮からいろいろな文化を受け入れつつかなり取捨選択しているのです)

話が脱線しましたが、江戸時代の中期になると庶民でも利用できるぐらい飛脚が発展したので、時代劇にも登場するのでしょう。それに比べて伝令の駅馬は地味すぎるのと政治的なドロドロが多すぎてテレビには向かないのではないでしょうか。

実は日本は世界の歴史から見て、稀有なほど馬を利用しない文化だったのです。たとえば馬車は地中海や中近東では紀元前には出現しているのですが、日本ではついに一度も利用しないで、自動車社会になってしまいました。日本の道が狭く道路を整備しづらいのは、馬車を利用しなかったからだ、という説もあるぐらいです。

なぜ馬が利用されなかったのかはついては、体系的な説明がなかなかなく、私も調べているかぎりの知識になりますが、いくつかの事実をあげると
・馬の去勢を行わなかった。
・武士階級はそもそも...続きを読む

Q平安時代の乗り物はどうして牛車

源氏物語などを読むと、
平安時代の貴族の一般的な乗り物は牛車のようです。
どうして馬車を利用しないのでしょうか?
牛など遅すぎますし、よだればかりたらしていて美的ではないです。
当時の馬にパワーがなかったのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

まず、現在「馬」と聞いて思い浮かべるサラブレッドは、昔の日本にはいませんでした。
昔はもっとずんぐりした馬でした。
昔の武士が乗っていたのは、そういうずんぐりした馬だったのです。
でも、パワーはすごいですよ。
力仕事をさせるための馬ですから。
今でも、北海道のどこかでその馬を使った馬そりレースをやっています。

それでは素人ながら質問にお答えさせていただきます。

牛車と馬車のスピードの違いですが、確かに舗装した平坦な道路で競争したら、馬車の方が速いだろうと思います。

でも、昔の道は未舗装なんですよ。
よく映画なんかで、馬車がすごいスピードで走るシーンがありますが、実際に未舗装の道であんなふうに馬車を走らせるのはほぼ無理だろうと思います。
あっという間に車輪がこわれるんじゃないでしょうか。車輪は木製ですよ。
車輪が壊れなくても、乗っている人は天井やら壁やらにぶつかってあざだらけになると思いますよ。
乗っている人がゆったりあざを作らずにのるのなら、牛が引いても馬が引いても速度的には変わらなかったのではないでしょうか?

それと、もう一つ重要なことは、
貴族は先を急いでせかせかしたりしないものです。
牛が引こうが馬が引こうが、ゆったり優雅に移動できればいいのです。

そういう意味で、馬の荒っぽい動きより、牛のゆったりした動きの方が、平安貴族の美意識に合っていたのかもしれませんね。

あと、質問者さん、牛を引っ張ったことありますか?
すごい力ですよ。
日本では、ほんの数十年前まで、牛に農機具を引かせて畑や田んぼを耕していたんですよ。
昔は農家には必ず牛がいて、農作業をしたり荷物を運んだりして活躍していました。今のトラクター・トラック・乗用車、全ての役をしていたんですね。
牛は、農家の何より大切な財産だったし、今でも世界各地の農地で働いています。
パワー的には昔の馬にもまったく劣らないのではないのでしょうか。

というわけです。

まず、現在「馬」と聞いて思い浮かべるサラブレッドは、昔の日本にはいませんでした。
昔はもっとずんぐりした馬でした。
昔の武士が乗っていたのは、そういうずんぐりした馬だったのです。
でも、パワーはすごいですよ。
力仕事をさせるための馬ですから。
今でも、北海道のどこかでその馬を使った馬そりレースをやっています。

それでは素人ながら質問にお答えさせていただきます。

牛車と馬車のスピードの違いですが、確かに舗装した平坦な道路で競争したら、馬車の方が速いだろうと思います。

...続きを読む

Q日本人はなぜ馬車を使わなかったのですか?是非、教えていただけないでしょうか?。

 中国や西洋では、何千年も前かから馬車が使われてたのに対して日本では明治時代になってからやっと馬車がつかわれるようになりましたよね?
 牛車でなく馬車があれば便利高速手段となったと思うのですが。
 なぜ日本では馬は武士や馬借、馬の背に荷物を乗せて使われることまでしかなっかったのかとても不思議なのですが、そのことについて調べていますがなかなか答えに辿りつけません(ToT)そのことでプレゼンをやるひが近づいてのですかこのままだと、ぜんぜん満足のいくプレゼンができないので、どなたかお答えいただけないでしょうか?
 また日本では手紙も馬を使わず、飛脚を使っていたのかも調べてるですが、そちらのほうもお教え願えないでしょうか?

Aベストアンサー

 日本で馬車が普及しなかったのは、地形の問題だけではなく歴史的背景も大きかったのではないでしょうか。

 まず古代日本では「魏志倭人伝」に「日本には馬がいない」と記述されているほど、在来馬が少なく家畜化もされていませんでした。そして古墳時代になると大陸で家畜化された馬が海上ルートで輸入されるようになりますが、重要輸入品目として王族が掌握し権威の象徴としていました。やがて馬が持つ機動力が注目されるようになり、軍用としての価値を見出され統制管理されるようになります。

 奈良時代から江戸時代にかけて、馬は軍用として重宝され続けました。それ以外にも農耕用、運搬用として需要が高く常に品不足の状態だったと言われています。しかしそれらも朝廷や幕府によって厳しく管理されており、人々も貴重な馬に荷や車を引かせるのを嫌って、比較的頭数の多かった牛が「牛車」として馬車の替わりに使われています。当時の人々がいかに馬を特別視していたかは、いまも全国各地に残っている「馬頭観音」という石像を守り神と考え信仰する風習や、馬を題材とした祭りなどからもうかがえます。ちなみに馬は神への貢ぎ物として珍重され、現在も神社でよく目にする「絵馬」は貢ぎ物の馬を簡略化したものです。

 江戸時代になると、馬の軍用としての役割は低下しますが、各村々での馬飼育状況は「予備役」として調査され、「馬籍簿」という台帳で管理されます。幕府はいくつもの直轄牧場を経営し、諸藩も藩営牧場を経営しました。また馬術も盛んとなり、幕府は練武場を作り武士に馬術を奨励します。東京にある「高田馬場」という地名は幕府の練武場が由来です。

 このように、西洋と比べると日本において馬は幕府や朝廷が管轄する貴重品でした。ですから馬に車を引かせるということはできませんし、そもそも人々の感覚になかったでしょう。こういった歴史的背景が日本で馬車を普及させなかった一つの要因ではないかと思います。

 日本で馬車が普及しなかったのは、地形の問題だけではなく歴史的背景も大きかったのではないでしょうか。

 まず古代日本では「魏志倭人伝」に「日本には馬がいない」と記述されているほど、在来馬が少なく家畜化もされていませんでした。そして古墳時代になると大陸で家畜化された馬が海上ルートで輸入されるようになりますが、重要輸入品目として王族が掌握し権威の象徴としていました。やがて馬が持つ機動力が注目されるようになり、軍用としての価値を見出され統制管理されるようになります。

 奈良...続きを読む

Q江戸時代に車(車輪)を使う乗り物が発達しなかったのはなぜ?

明治になって人力車が普及するまで、身分の高い人の乗り物は駕籠だったと理解しています。

駕籠は担ぐ人も大変だし、乗っている人も楽ではなかったと思うのですが、なぜ車(車輪)を使う乗り物が発達しなかったのか、不思議です。

江戸時代でも荷物を運ぶのには大八車などがありましたし、さらに古い時代には貴族は牛車に乗っていた時代もありました。
ですから、車輪を使う技術を当時の日本人が知らなかったわけではなさそうです。
しかし、なぜか、人を乗せる乗り物には車輪の付いたものは現れませんでした。
これは何か、理由があったのでしょうか?

Aベストアンサー

ついでにですが、何故日本では馬車が発達しなかったか考えてみました。
当初馬の「去勢」が一般的ではなく、操るのに難しいといった理由かな、と思ったのですが、どうもこれも政策的なもので、幕府の物資運送を担当する「馬方」や「船方」の権益を保護するため,幕府が街道筋での車両の使用を厳しく制限したことによるようです。
その為、こうした規制の無い戦国時代には「荷車」といい、馬が2輪の車をひいて軍事物資を運んでいるようです。
4輪の馬車が使われるようになったのは明治時代からで、実は私も昭和30年頃、家の前を馬が材木を載せた馬車をひいて通るのを見ておりました。
一応政令指定都市のど真中ですが、昭和30年代は馬が都心を通るのも珍しくなかったのですね。

Q貴族や騎士・兵士は何人ぐらいが妥当でしょうか?

貴族や騎士・兵士は一国あたり何人ぐらいが妥当でしょうか?

異世界ファンタジーの世界設定をしているのですが、行き詰っています。
一国あたりの貴族の人数、またはそれに伴った領地の数がよくわからないからです。
モデルとなる時代は14~15世紀ごろです。銃やプレートメイルが普及し始めたぐらいで、船は帆船が主流という設定です。
色々調べてはみたのですが、例えば公爵が何人で伯爵が何人などの具体的な数を探しあてられなかったので、知識人の力をお貸しいただけたらと考えた次第です。
下記の条件で、本当におおまかな数(“少なくとも○人は居て、○人以上だと多い”程度)で良いので妥当な数をお考え頂けないでしょうか。
ちなみに騎士はほぼ騎兵で、歩兵は傭兵を雇うのが一般的ということでお願いします。
■A国
絶対王政
国土面積:約2100万平方キロメートル(現在のロシアと中国の間くらいです)
人口:約5000万人
爵位:公爵、辺境伯、伯爵、子爵、男爵、準男爵、士爵
10以上の国を併呑し、統一して誕生した大国。
貴族は文官と武官に別れ、文官は領地を持たず武官は領地を持っている。
士爵は領地を持たず、武勲をうちたてた騎士に贈られる一代限りの爵位。
軍は国の軍(王の常備軍?)のみ。ただ、全員が王都にいるわけではなく、王族を守る近衛兵と、王都を守る兵、国境を守っている兵(全て騎士)に別れる。王都と国境以外の街は、領主が雇った警備兵(庶民)が常駐する。稀に警備兵から騎士に取り立てられる者がいる。戦時中のみ傭兵を雇う。
海洋貿易が盛んで、海軍がある。海軍は貿易航路と海岸沿いを守っている。
同程度の規模の敵国と国境(山と川)を接していて、現在は冷戦中。

■B国
絶対王政
国土面積:約100万平方キロメートル(現在のエジプトくらい)
人口:約255万人
爵位:公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵、士爵、名誉士爵
軍事的に強い国ではない。隣国の二国(東西の国)と三国軍事同盟を結んでいる。
あまり裕福ではなく、極端に貧乏でもない。海が無い。
士爵は領地を持たず、武勲をうちたてた騎士に贈られる爵位。世襲制。名誉士爵は伯爵以上の位を持つ者が、何かしら国に貢献した者に与えられる一代限りの位。免税と、街に入る際の優先権が与えられる。
軍の形は海軍が無いこと以外はA国と同じ。
同盟のため東西の守りは薄く、南の国境を重点的に固めている。北は砂漠で、国が無い。

以上です。
そもそも上記の条件の時点で無理があるという場合は、そちらもご指摘いただけたらと思います。


それとタイトル外のことなのですが、上記の設定で色々考えた結果、全世界の人口が二億人ちょっと程度になってしまいました。
ちょっと人口が少なすぎるかなと思うのですが、いかがでしょうか……。もしわかるなら、合わせて答えていただけると嬉しいです。

貴族や騎士・兵士は一国あたり何人ぐらいが妥当でしょうか?

異世界ファンタジーの世界設定をしているのですが、行き詰っています。
一国あたりの貴族の人数、またはそれに伴った領地の数がよくわからないからです。
モデルとなる時代は14~15世紀ごろです。銃やプレートメイルが普及し始めたぐらいで、船は帆船が主流という設定です。
色々調べてはみたのですが、例えば公爵が何人で伯爵が何人などの具体的な数を探しあてられなかったので、知識人の力をお貸しいただけたらと考えた次第です。
下記の条件...続きを読む

Aベストアンサー

●回答・・・14~15世紀の頃ではなくて申し訳ないのですが・・・

○1700年頃(17世紀)のイギリスにおける貴族(公爵~男爵)の数は約180家で、準貴族にあたる准男爵が約800家、騎士爵が約600家。
そして、この頃のイギリスの人口は約900万人で軍隊の規模は約7万人でした。
ちなみに現在のイギリスにおける貴族は公爵が31家、侯爵が36家、伯爵が197家、男爵が495家となっています。
なお現在のイギリスの人口は約6000万人です。

○1700年頃の他の国の人口と軍隊の規模は、
フランス・・・人口約1900万人。軍隊は約35万人。
ロシア・・・・人口約1700万人。軍隊は約22万人。
プロイセン・人口約200万人。 軍隊は約3万9千人。
スペイン・・・人口約600万人。 軍隊は約3万人。

○なおヨーロッパの人口は1600年(16世紀)でも約1億人程度だったそうです。
ちなみにその頃のヨーロッパの人口の約四分の一は、ハプスブルク家の領地に住んでいたと推定されています。

○軍隊における兵士の数は、当然、その国のおかれた周辺の状況にもよってくるでしょう。
戦争状態にあったり、敵対国家が隣接していれば大きな軍が必要になりますし、周辺全てが友好国ならば、軍の大きさも抑え目になる場合もあるでしょう。
前述した1700年頃の人口と軍隊規模からは、人口の約0.5%~約2%程度が兵士であった事がわかります。
ただし、これも絶対というわけではなく色々なケースがあります。
特に傭兵を雇う場合、資金があればかなりの軍を維持できます。
16世紀、「北方の獅子」と呼ばれたスウェーデンのグスタフ2世王は、ドイツに進攻し軍事的成功をおさめ、15万人の軍隊を率いています。
しかし、そもそもこの頃のスウェーデンの人口は約100万人程度しかなく、15万人もの兵士のうちスウェーデン人はその約2割の3万人程度でしかなく、他は現地のドイツ人やイギリス人などの傭兵だったそうです。
ただ、傭兵を雇えばお金がかかります。
グスタフ2世王は現地ドイツの味方の貴族や都市から寄付金を募り、味方でないところの都市や、貴族からは、攻めない略奪しないと約束して、安全保障費を払わせ、軍を維持する資金を得ていたそうです。
ただし、傭兵を雇用し資金繰りに苦しみ失敗した例もあり、それがハプスブルク家です。
前述した16世紀におけるハプスブルク家の領地の人口は約2500万人ですが、この頃、ハプスブルク家の軍は、傭兵を主体に30万人を超えました。戦争も多く戦費も嵩みます。その結果、国の財政は殆ど破綻しています。

■そういうわけで、知恵を絞り、歴史に学び、工夫すれば、かなりの軍を作品内で動員する事が可能になるかと思います。
良い作品ができますようお祈りいたしております。

●回答・・・14~15世紀の頃ではなくて申し訳ないのですが・・・

○1700年頃(17世紀)のイギリスにおける貴族(公爵~男爵)の数は約180家で、準貴族にあたる准男爵が約800家、騎士爵が約600家。
そして、この頃のイギリスの人口は約900万人で軍隊の規模は約7万人でした。
ちなみに現在のイギリスにおける貴族は公爵が31家、侯爵が36家、伯爵が197家、男爵が495家となっています。
なお現在のイギリスの人口は約6000万人です。

○1700年頃の他の国の人口と軍隊の規模は、
フランス・・・人口約1900万人。軍隊...続きを読む

Q日本にどうして馬車がないのか?

平安時代貴族は牛車に乗ってました。戦国時代、武士は馬に乗ってました。
しかし、日本で馬車が活躍したという話しを聞きません。どうして日本の歴史に馬車が登場しないのでしょうか?

Aベストアンサー

既出の質問です

日本で馬車が発達しなかった理由
http://okwave.jp/qa2878864.html

馬車 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E8%BB%8A

Q馬車で、人が乗る部分の名前は何ていうんですか?

馬車で、人が乗る部分の名前は何ていうんですか?

昔のイギリスが舞台の漫画を見ていて思ったんですけど、貴族が移動用に使っていた馬車のあの人が乗っている部分の名前って何ていうんですかね。

商人とかの馬車だと、荷物を積んでいる部分は荷台って言いますよね?
じゃあ、人間が乗っている場合は何ていうのかなと、ふと気になったんです。
ここも荷台でいいんでしょうか。

Aベストアンサー

1. 馬車屋のカタログを見ていると、人の乗り所の大きさを coach dimensions と下記のように言っているので、coach ということも出来るようです。

 http://www.coyaltix.com/landau.html

 もっとも車など全部をひっくるめて coach という場合もあり、イギリスでは鉄道の「客車」の意味にも使います。

下記のしたの方にはなかなかいい、馬車がでているのですが人が乗る部分の名前はありませんでした。

 http://www.coyaltix.com/victoria.html



2. 下記には「釣りかけのキャリッジ」(suspended carriage)という表現があり、懸架装置で人の載る部分が、車輪軸に直接繋がっていないので、緩衝装置となる表現があり、carriage とも言えそうです。

 http://en.wikipedia.org/wiki/Carriage


3. 何しろ山坂が多いため日本では駕篭が発達したものの、下記では西洋の馬車は9種も名前があったようですから、一語では言えなかったのでしょう。

 http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E9%A6%AC%E8%BB%8A_%E6%A7%98%E3%80%85%E3%81%AA%E9%A6%AC%E8%BB%8A

1. 馬車屋のカタログを見ていると、人の乗り所の大きさを coach dimensions と下記のように言っているので、coach ということも出来るようです。

 http://www.coyaltix.com/landau.html

 もっとも車など全部をひっくるめて coach という場合もあり、イギリスでは鉄道の「客車」の意味にも使います。

下記のしたの方にはなかなかいい、馬車がでているのですが人が乗る部分の名前はありませんでした。

 http://www.coyaltix.com/victoria.html



2. 下記には「釣りかけのキャリッジ」(suspended carriag...続きを読む

Q自分が在日かどうか調べる方法

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証明)を取れば両親のこともわかるのですか?
母親の祖母が在日で帰化していた場合、その事はどの世代まで表記されるのでしょう?

ちなみに私は両親の戸籍から分籍(転籍)しており、本籍は東京ですが、出身および両親の本籍は大阪です。


在日か調べたい→戸籍を取れ、という解答はよく見るのですが、
具体的な方法が見つからず困っています。


また在日がどうのという質問に非難が集中している様子を見ることがありますが、
まぁ私のアイデンティティを明確化させたいだけですので、今回はご容赦ください。
日本生まれの日本育ち、ここ数世代の直系は全員日本人の日本人!と、
日本生まれの日本立ち、でも曾祖母は朝鮮人だから87.5%はチョッパリニダ!では、
やはりちょっと心持ちが変わるので、はっきりさせたいのです…。

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証...続きを読む

Aベストアンサー

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで韓国併合政策により在日朝鮮人はもとより、朝鮮半島にいる朝鮮人まですべて大日本帝国臣民扱いで法律上、外国籍ではなかった(両者とも本籍は半島にある)。
昭和20年の終戦を迎え在日の多くは半島に帰国しましたが、日本に残ったり、また朝鮮から戻ってくる人達もおりました。
明治時代から昭和26年までの間に朝鮮より日本へ渡って来た朝鮮人達は昭和27年にそれまであった日本の国籍を失って正式に外国籍となる。そして、在日朝鮮人の日本国への帰化が始まったのも昭和27年。

古来からの日本人家系なら苗字漢字に制限なく明治時代からの苗字漢字を継続できます。
在日朝鮮人の帰化が昭和27年に始まり、名前の漢字制限(上記)は昭和23年に始まってますから、朝鮮籍、韓国籍から日本に帰化した者は旧字体漢字で帰化するチャンスがなかったんです。

簡単な調べ方としては『住民票』での苗字名前漢字が旧字体で表記されてるなら明治時代からの日本人家系。
新字体ならば、
「戦前の家系状況が分かる戸籍みせて」と役所に言ってみること。
戦前の家系状況が記されていて朝鮮人を思わせる記述がなければ日本人。
戦前の家系状況が分かる戸籍を見せてくれない場合や戦前の戸籍が日本以外にある場合は帰化人だと判断できます。

戸籍取得方法は先に回答されてる方法をやるといいでしょう。

ただ、例え純粋な日本人でなかったとしても質問者さんが日本が大好きで在日の方々のように反日感情を露わにされるのが不快に感じるなら、心はちゃんと日本人ですよ。

…私も可能性はあるかもしれないんで経済的に余裕が出来れば戸籍を追ってみたいです。


以上、参考程度に

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで...続きを読む


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