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”差別と言うものは区別から生まれるものであり、ゆえに区別と言うこと自体
もいけないもので、区別と言うのは状況的には最悪のものである。”
はっきりと覚えていないので申し訳ないんですが、意訳するとこんな感じの言
葉が哲学の言葉にあるらしいのですが、その出典を教えていただけませんか?
反論はしないつもりでいますので、できれば独断に満ちた見解なり批判なりで
かまわないので一筆残していってくれると嬉しいです。

A 回答 (5件)

差別は、簡潔にいうと選択の余地がついています。


区別は、違いを認識するものです。
例えば、国産小麦100%!って書いて、何故か外国産と比べて品質が上かの様に消費者は錯覚させられていることがある。実際はフランス産のほうがやすくておいしい!アメリカ産もそこそこおいしい!日本産?別に・・って感じです。高いし、、、。こういった表現による区別は差別とすりかえられているように思います。日本の米でパエリアは作れません。
別に何もかも国産がいいワケじゃないでしょう。だのに国産=上品かのように宣伝するのはおかしい!日本産とか書いて欲しいですね。生産物の善し悪しに自国、他国は関係ないです。単純にもっとおいしいもの食わせろ!って思います。
上か下かの判断は場合によって異なるのに、違いによる区別に一律的な立場で価値をすぐに与えてしまう。個人の選択肢を排除しているように思います。
ねずみ色と灰褐色、これだけじゃ上とか下ってつけようない。白と黒も、邦人も外国人も、高価も安価も、上か下かや好き嫌いなんて、場合によるでしょう?
 ですから、区別がないと差別どころか、机といすが別のものともわからない。差別はさらにそこから場合によって生じるもので、差別=区別ではない。
>差別と言うものは区別から生まれるものであり、ゆえに区別と言うこと自体
もいけないもので、区別と言うのは状況的には最悪のものである。
なにが最悪なんでしょうか?ひよこが黄色いのはタマゴが黄色いせいなのか?
差別がないと選択の仕様が無いです。機械の性能にだって差をつけるでしょう。合理的判断のための手法の一つだと思います。違いだけでは数字も5,4,8,9,60,3,1、バラバラに見えます。差をつけるから1,3,4,5,8,9,60になり、規模がわかる。足の比べて遅い人、世界で一番速い人、オリンピックの「場合」は後者を選択しますよね。差をつけるゲームだから。クマから走って逃げるなら、クマからにげれたらそれでいい。一番も何も無いです。人でなくてもいいです。別に亀が足の速度においてウサギより劣っているわけではないです。温度に優劣も何も無いでしょう。足がある、目が見えない、問題が解ける、
できないより出来たほうがいいワケじゃない。あるほうがいいワケじゃない。
 金で買えるものは少ないけれども、同じものなら高いより安いほうがいいのか?お金は多いほどいい?そんなワケない。少ないのは困るが、、。使った分だけあればいい。たくさん使えばいいワケじゃない。節約したからってだから何?ってかんじです。
その言葉を語った所に、差別、区別のいかな哲学があんたんでしょうね。

 
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確かに、区別というものは差別の温床です。

しかし、区別なしには人間の生活は成り立たないでしょう。実際、われわれがこうして言葉を使っている時でさえ、言語と非言語の区別を行っています。また単語同士の区別なしには文章を作ることはかないません。言葉を抜きに考えても、目の前のライオンと猫の区別がつかないようであったら、たちまちわれわれの祖先はかみ殺されていたでしょう。

従って区別とは本能に根づく人間の認知能力であり、それ自体は否定も肯定もできない「ただあるだけのもの」です。

問題は区別が一人歩きし出すことです。一度ライオンを「恐いもの」とレッテルはりしてしまうと、ライオン全てを、恐いものと人間は判断して行動します。そしてそのうち、その個々のライオンを観察することなしに、ライオン=恐怖と即断し、すべてのライオンを殺害したり、監禁することを当然視することになります。

ここでライオンをユダヤ人や黒人、朝鮮人と置き換えれば、その結末の恐ろしさを考えることができるでしょう。

このレッテル張り(ステレオタイピングといいます)が差別の直接の原因です。つまり、おそらく、出題者さんの引いた言説は「差別はステレオタイピングから産まれる」というものだと思います。
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特定の哲学者の特定の言葉でなくても、本質的に同じ言葉と状況は日々のメディアにしばしば見つけられるのではないでしょうか?


「眼の見えない人のことを日本語ではメクラと言う。メクラという言葉を使うのは差別である。よってメクラという日本語は使わないようにしよう。眼の不自由な人あるいは視力障害者と言おう。しかし、実態があって、それを指す言葉があり、差別する状況が変わらなければ、やがて同じように言い換えた言葉を使うこと自体が差別になる。したがって(?)差別を生むのは実態を指し示すこと(区別)に起因しているので(?)、差別をなくすには区別もしないことが最も良いことである。」この論理の途中までで思考停止して「差別用語」を慎重に避けているのが新聞や雑誌の凡人記者であり、最後まで突詰めて無責任な言説を公にしているのが一部の「哲学者」と呼ばれている人達ではないかと思います。「出典」探しなどという大袈裟な問題でもないように思いますが、質問された方は、やはり有名な哲学者先生の文章の引用が必要なのでしょうか?すみません、役立たずで。でも、もう良い回答が出ているみたいですね。
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孫引きで申し訳ないですが、遥洋子『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』筑摩書房の177ページに、



「<区別>は<差別>とは別なものではなく、最も悪質な差別」
(駒沢喜美・小西綾『魔女の審判』エポナ出版)

という引用があるので一応お知らせしておきます。
ジェンダー・フェミニズム(社会学)関係の文脈です。

私としては、「そんなこと言っても男と女を区別しないわけにいかないじゃんか、実際に違いがあるんだからさー。」という感想を持ちました。
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出典はわかりませんが、一筆残してみます。



区別、というのは「くべつ」以外の読み方もあります。
「けじめ」という読みが。

けじめをつける時の判断基準は人間ですから、不確定なことがあります。
したがって、差別が起こるのではないでしょうか。

区別・・・悪くない
人間・・・時に悪い
区別から踏み外れて起こった差別・・・人間が悪い

簡単に言っちゃうとこんな感じでしょうか。
本当はもっと複雑なんですが、一筆なので、手短に。
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